魔導王の息子は、今日も腹ペコ   作:54s

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唐揚げ

 

「もう一本、お願いします!」

 

 そう言うと、赤ママは木剣を肩に担いだ。

 

「あんた、さっき最後って言ったわよ」

「今のは、もう少しで避けられたから」

「避けられてないわ」

 

 正しい。

 脇腹には、まだじんじんとした痛みが残っている。

 

 それでも構え直すと、赤ママの口元が少し上がった。

 次の瞬間には、足元の土が目の前にあった。

 

「ぶっ」

 

 口に入った土を吐き出す。

 木剣を握った手に力を込め、起き上がる。膝が震えた。腕は重い。胸が忙しく膨らんだり縮んだりしている。

 

 息を吸うと、冷たい空気が喉の奥まで入ってきた。

 

「……へへ」

「何が面白いのよ」

 

 説明は難しかった。

 自分の足で立ち上がれて、息が切れても、しばらく待てば元に戻る。そのことだけで笑ってしまう。

 

「身体を動かすの、好きだから」

「そう。じゃあ、あと十本ね」

 

 五本ほどにしてほしかった。

 

 赤ママは、言った分をきっちりやる人だ。

 十本目が終わる頃には、俺は地面に座り込んでいた。立つつもりで足に力を入れたのに、膝が笑ってしまう。

 

「ほら、手」

 

 差し出された手を掴むと、軽々と引き上げられた。

 

「腕で追いかけすぎなのよ。足も動かしなさい」

「動かしてる」

「最後、止まってたわ」

 

 言われて振り返ると、俺の足跡は途中から同じ場所に重なっていた。

 赤ママの足跡は、その周りに浅く残っている。

 

 腕力だけなら、年上の子供にも負けたことはない。

 けれど、赤ママには木剣をまともに当てることさえできなかった。

 

 悔しい。

 これだけ好きで、毎日やっているのに。

 

「明日、足を見る」

「見るのは相手よ」

「……足も動かす」

 

 赤ママは頷き、俺の背中を軽く叩いた。

 勢いで一歩よろけたところを、肩を掴まれて戻される。

 

 息を整えていると、庭の向こうで兄さんが木剣を振っていた。

 俺より高いところを、剣先が通る。腰の回し方が赤ママに似ていた。

 さっき止まっていた自分の足を、俺はもう一度見下ろした。

 

     *

 

 前の人生では、十一歳で死ぬまで、窓際のベッドが俺の居場所だった。

 十二歳の誕生日には退院できるかもしれない。そんな話をしたこともあったが、その誕生日は来なかった。

 

 季節は、看護師さんが持ってくる折り紙の飾りで知った。夏祭りも雪合戦も、動画で見るものだった。

 調子のいい日に廊下を歩けると、それだけで褒められた。

 

 食事には細かな決まりがあった。

 食べられるものでも、身体の具合で下げられる日があった。

 

 だから、食べたいものをノートに書いた。

 

 ラーメン。焼き肉。カレー。唐揚げ。

 テレビで見た、持ち上げると糸を引くチーズのパン。

 

 ある日、隣のベッドの子が退院した。

 帰る前に、病室で何を食べたいかという話になった。

 

 俺がノートを開くと、その子は少し笑った。

 

 こんなの、帰ったらすぐ食べられるじゃないか、とその子は言った。

 

 悪気はなかったのだと思う。

 その子にとっては本当に、病院を出ればすぐにできることだった。

 

 俺も笑って、そうだよな、と答えた。

 その日は、ノートの次のページを書かなかった。

 

 翌日になると、また書いた。

 テレビに、衣のついた肉を油から持ち上げる場面が映ったからだ。

 

 箸の先から油が落ちていた。

 皿に置かれた肉から、薄く湯気が立った。

 

 あの肉を持ったら、指はどのくらい熱くなるのだろう。

 かじったときの音は、画面で聞くのと同じだろうか。

 

 俺のノートには、その日に初めて「自分で作る」と書いた。

 食べるよりさらに難しそうだったけれど、そのぶん、長く想像していられた。

 

 退院したら、と書いたページは、最後まで一枚も消せなかった。

 

 次に目を開けたとき、俺は赤ん坊になっていた。

 

 白い髪の女の人が、何度も俺の頬を撫でていた。聞き慣れない言葉の中に、やがて名前が混じるようになった。

 

 シルフィ。ルディ。ジーク。

 

 病室で繰り返し読んだ物語と、自分の周囲が重なった。

 

 ジークハルト・サラディン・グレイラット。

 

 鏡の中の緑髪の赤ん坊が、俺だった。

 

 驚いたし、怖くもなった。

 本来ここにいたはずの子供はどうなったのか。抱き上げてくれるこの人たちは、俺が誰なのか知ったらどうするのか。

 

 答えは出なかった。

 

 ただ、お腹がすくと泣いた。乳を飲むと眠くなった。白ママの服を握っていると、安心できた。

 

 歩けるようになった日には、庭の端まで行った。

 

 誰にも止められなかった。

 迎えに来た白ママに抱きついて、俺は声を上げて泣いた。

 

 白ママは何度も、どこか痛いのかと聞いた。

 うまく答えられずに首を振ると、今度は抱き方を変えて、顔を覗き込んできた。

 

 庭の柵が、腕の向こうに見えた。

 さっきまであそこにいた。自分の足で、あそこまで行った。

 

 本に載っていたはずの家を、俺は靴を泥だらけにしながら覚えていった。

 

     *

 

「ジーク。水を飲んでからにしなさい」

 

 稽古を終えた俺が裏庭へ直行しようとすると、縁側から声がした。

 

 白ママが、木のコップと手拭いを持っている。

 頭を拭かれながら水を飲む。冷たくて、うまい。

 

 手拭いが離れても、白ママの指は髪に残った。

 濡れて濃くなった緑の毛先を、何度も梳いている。

 

「何かついてる?」

「ううん。……ママの昔の髪に、よく似てるなって」

 

 白ママは笑った。

 けれど、市場へ出かける前にも、こんなふうに俺の髪を見ることがある。帽子を持ってきて、被せようとして、途中で手を止めることも。

 

「この前、お肉屋さんで困ったこと、なかった?」

「今日は腿にするか胸にするか、すごく迷った」

「そういうのじゃなくて……誰かに、嫌なことを言われたり」

 

 ようやく、何を聞かれているのか分かった。

 

「言われてないよ」

「そっか」

 

 白ママの肩が、少し下がった。

 

 俺は緑の髪を嫌いではない。

 でも、俺が好きだからといって、白ママが昔言われたことまで消えるわけではないのだと思う。

 

「何かあったら、言う」

「うん。魔術ができても、一人で我慢しなくていいんだからね」

 

 白ママは俺の髪をもう一度撫で、それからいつもの声に戻った。

 

「お昼まで、まだ時間があるよ」

「うん。下ごしらえだけ」

「昨日もそう言って、パンを三つ食べてたよね」

「あれはソースの味見」

「パン三つ分の?」

「……今日は気をつけます」

 

 白ママはしゃがみ、俺の膝についた土を払った。

 

「火を使うときは呼ぶこと。約束だよ」

「わかった」

 

「あと、疲れたら休むこと」

「魔力は残ってるよ」

「足がふらふらしてる」

 

 見られていた。

 

 白ママは俺を縁側に座らせ、コップをもう一度持たせた。

 

「座ってても、お肉は逃げないよ」

 

 俺は庭を見る。確かに、肉の入った器はまだそこにあった。

 

 前の人生でも、休みなさいとは何度も言われた。

 そのあとに待っているものは、検査だったり、点滴だったりした。

 

 今、休んだ先には、肉の入った器が待っている。

 そう思ったら、もう少し座っていられた。

 

 現在、五歳。

 家の中では、火元を見張られる年齢だ。

 

 外では時々、魔導王の後継と呼ばれている。

 

 四歳で水と風、二つの聖級魔術を習得したせいだった。

 そのきっかけが、鍋と包丁だったことは、あまり知られていない。

 

 四歳の頃、五歳の誕生日に何が欲しいかと聞かれて、俺は調理器具一式と答えた。

 家の台所から毎回借りるのではなく、自分の道具で、好きな時に練習したかったのだ。

 

「なら、魔術の勉強も頑張ること。途中で料理のほうへ逃げないことですよ」

 

 父さんはそう言い、当時習っていた水と風の魔術書を開いた。

 目標は、二つの聖級魔術を、終わらせるところまで制御できるようになることだった。

 

「二つできたら、小鍋も?」

「一式ですからね」

「網も?」

「入れましょう」

「包丁は、俺の手でちゃんと持てるやつ?」

「そこは一緒に選びます」

 

 魔術は元から好きだ。

 だが、その先に自分だけの調理道具が待っていると分かると、読みかけの魔術書に戻る足まで速くなった。

 

 四歳のうちに、条件は満たした。

 そして五歳の誕生日、鍋、大きさの違う包丁、まな板、ざる、網、柄杓まで揃った包みが、俺の前に並んだ。

 一つずつ持ち上げ、もう一度並べているうちに、祝いの食事が冷めかけた。

 

 今、裏庭にある道具は、その時に買ってもらったものだ。

 父さんの見立てでは、俺の魔力量はすでに父さんの半分ほどあるらしい。

 それを聞いた時より、鍋の蓋がぴったり閉まった時のほうが、ずっとはしゃいだ。

 

 生まれつきのものもあるのだろう。

 加えて俺には、幼いうちの訓練で魔力量が増える、という原作の知識があった。

 

 赤ん坊の頃、指先に水滴を作っては魔力を使い切り、眠った。

 最初にできた一滴は、飲み込んでしまうのが惜しくて、消えるまで眺めていた。

 

 魔術は、思っていたよりずっと面白かった。

 

 水が丸くなり、風に乗り、凍って、日差しを透かす。

 ほんの少しやり方を変えるだけで、昨日できなかったことができる。

 

 夢中になって続けていたら、いつの間にか周囲の大人が難しい顔で話し合うようになった。

 

 聖級魔術を初めて成功させた日も、俺が最初に喜んだのは、最後まで自分でできたことだった。

 

 町から離れた場所で、父さんに見てもらった。

 組み上げた魔術が空へ広がるにつれて、さっきまで見えていた日差しが隠れていく。

 

 雲ができた。

 雨粒が頬に当たった。

 

 知っているはずの雨なのに、びっくりするくらい嬉しかった。

 腕を上げたまま、口を開けて空を見ていたら、父さんに声をかけられた。

 

「ジーク。終わらせるところまでやろう」

「……うん」

 

 散らして、弱めて、空を戻す。

 勢いよく作るより、そちらのほうが難しかった。

 

 終わったあと、父さんは俺の顔をじっと見ていた。

 何かを確かめるように手を握られ、疲れていないか、気分は悪くないかと聞かれた。

 

 俺は平気だった。

 それどころか、もう一度やってみたかった。

 

 俺には毎日使っている魔力でも、その量を聞いた人の顔は変わった。

 

 大学へ青ママを迎えに行ったとき、知らない大人に呼び止められた。

 将来は何を目指すのかと聞かれたので、俺はそのとき考えていたことを答えた。

 

「油の温度がわかる道具を作りたいです」

 

 その人は、青ママの顔を見た。

 青ママは俺の手を握り直し、「今は、いろいろなものに興味がある時期ですから」と答えた。

 

 帰り道、もっと立派なことを言うべきだったかと聞いてみた。

 

「本当に作りたいんでしょう?」

「うん」

「では、そのために勉強しましょう」

 

 俺は頷いた。

 何の勉強が必要かを話しているうちに、あの人の顔はあまり気にならなくなった。

 

 けれど、空から雨を降らせられるようになっても、揚げ物の衣は上手にできなかった。

 

 俺は裏庭の作業台で、昨日の失敗作を睨んだ。

 

 茶色く、薄く、油を吸った何か。

 肉にくっつくはずだった衣である。

 

「今日こそ、ちゃんとくっついてもらうぞ」

 

 今回の目標は、唐揚げだった。

 

     *

 

 自室には魔術書と料理の覚え書きが積まれている。

 ラノア魔法大学では、青ママの付き添いがあるときだけ、研究室の隅を使わせてもらっていた。

 

 この前はそこで、芋をすり潰した汁を、一日かけて沈めた。

 

 底に白い粉が溜まったときは、思わず声が出た。

 青ママは新しい魔術でも完成したのかと駆け寄ってきて、俺の指先を見て、しばらく黙っていた。

 

「つまり、芋の粉を作ったんですか」

「衣が軽くなるかもしれないんだ」

「なるほど。……では、実験に使った器具とは分けてくださいね」

 

 誕生日にもらった料理用の器を、次から持ってくることにした。

 

 最初は上の水を勢いよく捨て、白い粉まで流してしまった。

 翌日は底を見ながら、少しずつ器を傾けた。

 残ったものが乾くのを待つ間も、何度も手が伸びた。

 

「乾いたか、確かめただけ」

「さっきも確かめていましたよ」

 

 青ママに見つかり、俺は手を引っ込める。

 魔術書を一ページ読んでは、また器を見た。

 

 その粉が、今、裏庭の作業台にある。

 ほんの小さな袋なのに、俺にとっては簡単に買えない宝物みたいだった。

 

 知識があるといっても、前世は病院暮らしの十一歳だ。

 動画の料理人みたいに何でも作れるわけではない。病室で覚えた手順はあっても、肉を切った手応えさえ、こっちへ来て初めて知った。

 

 粉を増やせば分厚くなる。減らせば剥がれる。

 強火なら焦げ、怖がって弱めると油を吸う。

 

 食べたことのない料理を、食べたことのないまま再現する。

 これがまた、厄介だった。

 

 肉屋に教わり、今日は胸肉ではなく腿肉にした。

 同じ鳥でも、部位によって火を入れたあとの硬さが違うのだ。

 

 焼いて味を見るための小さな鍋も用意してある。

 塩加減まで一度に変えたら、何が悪かったのかわからなくなる。そう教えてくれたのは、白ママだった。

 

 作業台の隅には、俺の覚え書きが置いてある。

 

 昨日の欄には「粉、とれる」。

 一昨日の欄には「黒い」。

 その前には「中がまだ」。

 

 役に立つ記録かと言われると、自信はない。

 それでも失敗した場所がわかれば、今日はそこに気をつけられる。

 

 おいしいものを作る人は、こんなことをいくつも覚えているのだろう。

 病室の画面では、肉を切った場面の次には、もう食卓に並んでいた。

 

 その間にこんなにやることがあるとは、思わなかった。

 

「ジーク」

 

 肉を切っていると、アルス兄さんが木剣を二本持ってやって来た。

 

「もう稽古、終わった?」

「うん」

「じゃあさ、向こうで――」

 

 俺の手元を見て、言葉が止まった。

 

「あ。料理か」

「うん。今日は粉の割合を変えて、温度を二段階に――」

 

 そこまで言って、口を閉じた。

 

 兄さんは木剣の先で、地面をこすっていた。

 

「そっか。じゃあ、いいや」

 

 兄弟仲は悪くない。

 喧嘩もあまりしない。

 

 ただ、こういうことが増えていた。

 

 姉さんたちと話していても、気がつくと俺だけ説明を続けている。相手が黙ったのを、興味深く聞いてくれているのだと思っていたこともある。

 

 中でも、ルーシー姉さんには、話しかける時に考えすぎてしまう。

 

 俺が聖級魔術を覚えたと知った日、姉さんは「すごいね」と言ってくれた。

 けれどそのあと、父さんが俺の魔術の記録を見ている間、戸口で何か持って待っていた。

 俺が気づいた時には、もういなかった。

 

 次の日、姉さんが読んでいた魔術書の式について、知っていることを説明した。

 手伝えると思ったのだ。

 

「今、自分で考えてるから」

 

 怒鳴られたわけではない。

 それなのに、続きを言えなくなった。

 

 姉さんは、俺が夜更かししていると灯りを消しに来るし、階段に置き忘れた上着も拾ってくれる。

 嫌われているのではないと思う。

 でも、甘えていい弟なのか、放っておいたほうがいい相手なのか、姉さんも決めかねているように見えた。

 

 俺だって、どう頼れば姉さんを困らせないのか分からない。

 前世の十一年には、姉と暮らした経験なんてなかった。

 

「兄さん」

 

 離れかけた背中を呼び止める。

 

「これ、手伝ってくれない?」

「何を?」

「粉をつけるの。一人だと時間がかかるから」

 

 兄さんは台の上を覗き込んだ。

 

「俺にもできる?」

「できる。たぶん俺より上手い」

「お前、料理ばっかりしてるじゃん」

「昨日の見てよ」

 

 油を吸った衣を指差すと、兄さんは眉を寄せた。

 

「何これ」

「失敗」

「それはわかる」

 

 ちょっと笑った。

 

 兄さんは木剣を壁に立てかけた。

 俺は嬉しくなって、粉の入った器を手前へ動かす。

 

「まず、こっちに――」

「手、洗ってくる」

 

 そうだった。

 兄さんの手には、木剣を握っていたときの土がついている。

 

 俺は器を持ったまま、戻ってくるのを待った。

 

 この前、兄さんたちと冒険者ごっこをしたとき、俺は必要もないのに道を作り直した。

 倒れた枝の向こうに回り込めばいいだけなのに、土魔術で足場を平らにしてしまった。

 

 兄さんは「そこ、罠があるところだったのに」と言った。

 俺は謝ったが、そのあとは何となく、見ているだけになった。

 

 助けたつもりだった。

 一緒に遊ぶ方法が、わかっていなかった。

 

 水を払った手を振りながら、兄さんが戻ってきた。

 

「で、俺は何する?」

「この肉に、粉をつけてほしい」

「全部?」

「うん。俺は鍋の準備をする」

 

 説明しすぎないように言うと、兄さんは器を覗いた。

 肉を一つ持ち上げて、表と裏に粉を押しつける。

 

 俺がつい手を出しかけたところで、兄さんが顔を上げた。

 

「これでいい?」

「……うん。それでいい」

 

 本当に、それでよかった。

 

     *

 

 肉は市場で買った鳥の腿肉だ。

 塩と、潰した香味野菜を揉み込んである。

 

 醤油で下味をつける方法もあるけれど、今回は塩味にした。

 まずは、外がかりっとして、中から汁が出る肉が食べたい。

 

「ぎゅっと握ればいい?」

「軽く押すくらいで。肉が見えなくなったら、余分な粉を落として」

「こんな?」

「うん!」

 

 兄さんの大きな手が、白い粉にまみれていく。

 俺は白ママを呼びに走った。

 

 鍋の前に戻り、小さな炎を作る。

 鍋底に沿わせて広げると、油の表面がゆっくり揺れ始めた。

 

 魔力量には困らない。

 困るのは、ちょうどいい加減がわからないことだ。

 

 温度を数字で知る道具もない。

 昨日までに覚えた、粉の浮き方と、油の音を頼りにする。

 

 一つ目の肉を入れた。

 

 じゅわっ。

 

 細かな泡が肉を包む。

 

「あ、昨日よりいい音」

 

 誰に言うでもなく呟いたら、隣から兄さんが鍋を覗いた。

 

「音でわかるの?」

「昨日はもっと静かで、べたべたになった」

「じゃあ、もっと音を大きくしたら?」

「その前の日、それで黒くした」

 

 白ママが笑いを堪える気配がした。

 

 肉を増やすと音が弱まる。

 焦って火を強めかけ、やめる。昨日の俺は、ここで失敗した。

 

 少しずつ。

 鍋を睨みながら、炎の幅だけを広げる。

 

 肉の端に張りついた泡が、次々に生まれては消えていく。

 見ていると、どうしても触りたくなった。

 

「裏返さないの?」

「まだ。昨日は触って、衣が取れた」

「じゃあ、待つんだな」

 

 兄さんはそう言って、俺の手元にあった菜箸を少し遠くへ置いた。

 白ママが、今度こそ声を出して笑った。

 

 魔術なら、手を加えれば目の前のものが動く。

 けれど、肉は俺が焦っても早く揚がったりしない。菜箸を置いて待った。

 

 兄さんが、残った肉を大きさごとに並べている。

 

「何してるの?」

「大きいのと小さいの、一緒だと困るだろ」

 

 俺は並んだ肉を見た。

 全部まとめて入れるつもりだった。

 

「……そうだね」

「こっちが小さいやつ」

 

 指差された場所に、少し曲がった肉が三つ。

 俺は先にそれを入れた。

 

 兄さんのほうが、ちゃんと鍋を見ているところもある。

 そう気づいて、菜箸を持つ手から少し力が抜けた。

 

 最初の肉を引き上げ、休ませた。

 ひとつ切って中を確かめる。火は通っている。けれど、衣はまだ頼りない。

 

 油をもう少し熱くして、短く、もう一度。

 

 今度は、乾いた音がした。

 

「できた?」

 

 いつの間にか、ルーシー姉さんが来ていた。

 その後ろにはララ姉さんもいる。

 

「まだ。今、油を切ってる」

「さっきからいい匂いがするんだもの」

 

 俺は皿の上に、きつね色の肉を並べた。

 

 一番小さいものをつまみ、息を吹きかける。

 指先に熱が伝わってきて、慌てて持ち直した。

 

 噛んだ。

 

 かり、と音がした。

 

 次いで肉がほどけ、熱い汁が舌に広がった。

 塩気。脂。鼻に抜ける香味野菜の匂い。

 

「あつっ」

 

 口を開けたまま、変な息を吐いた。

 白ママが水を差し出してくる。それを受け取るより先に、俺はもう一度、手の中の肉を見た。

 

 テレビの中で、知らない家族が食べていた。

 誰かの弁当に、当たり前みたいに入っていた。

 退院したら食べようと思っていた。

 

「……うまい」

 

 思ったより、小さな声になった。

 

「俺も」

 

 兄さんが手を伸ばす。

 

「あ、熱いよ」

「平気――あっつ!」

 

 同じ顔になった。

 ララ姉さんが俺たちを見比べて、ふっと鼻で笑った。

 

「ジーク、ひとつもらうね」

 

 ルーシー姉さんは、ちゃんと冷ましてから食べた。

 噛んだあと、目が少し丸くなった。

 

「おいしい」

「ほんと?」

「うん。もうひとついい?」

 

 俺は頷いた。

 

 ルーシー姉さんは、自分で取った二つ目を小皿に置いた。

 

「これ、父さんの分にしておくね」

「まだ帰ってこないかもしれないよ」

「帰ってから食べればいいでしょう」

 

 そう言われて、俺は皿を数えた。

 自分が食べることばかり考えていて、誰の分をどのくらい作るかまでは、決めていなかった。

 

 ララ姉さんが、小さな肉に手を伸ばす。

 その前にルーシー姉さんが、皿を少し遠くへずらした。

 

「熱いのから取らないの」

「こっち、小さい」

「小さくても熱いの」

 

 ララ姉さんは少し考え、今度は兄さんの皿から取った。

 

「あ、それ俺の」

「冷めてる」

「そういうことじゃなくて」

 

 兄さんの声が、いつもより近くで聞こえた。

 俺は次の肉を揚げながら、笑った。

 

 別に、何かが全部変わったわけではない。

 姉さんたちは俺の魔術の話を聞きたがらないし、俺は兄さんが好きな遊びの決まりを、ときどき間違える。

 

 でも今日は、俺が次を揚げるまで、みんながここにいる。

 そのことが嬉しくて、皿を置く場所をもう少し広くした。

 

 兄さんが次の肉に粉をまぶす。

 さっきまで俺の立っていた場所に、当たり前みたいに立っている。

 

「次、揚げようぜ」

「うん」

「今度、俺も鍋に入れていい?」

「白ママに聞いて」

「いいけど、ゆっくりね」

 

 白ママが兄さんの後ろに回った。

 

 俺は火を少し弱め、肉が入るのを待った。

 肩が触れそうだったので、半歩、横へずれた。

 

     *

 

「おや。今日は庭で昼食ですか」

 

 最後のひと皿が揚がる頃、父さんが帰ってきた。

 

 ルーデウス・グレイラット。

 俺がこの世界を知るきっかけになった人だ。

 

 前世の記憶があることも、病室でこの世界の物語を読んでいたことも、すでに話してある。

 その秘密を知っているのは、父さん、ナナホシ、オルステッド、ペルギウス様の四人だけだ。

 母さんたちも、アイシャ姉さんも、兄さん姉さんたちも知らない。

 

 覚えていることを書き出して渡したあと、父さんとは何度も話をした。

 日本語を使うのは、事情を知る人しかいない個室だけ。

 家族の前で、俺と父さんだけが分かる言葉を使うこともしない。

 

 それでも、こうして帰ってきた顔を見ると、まず聞きたくなるのは今日の仕事のことだった。

 

「おかえり、父さん」

「ただいま。ずいぶんいい匂いですね」

「ジークが作ったんだよ。俺も手伝った」

 

 兄さんが胸を張った。

 父さんは差し出された皿を受け取り、ひとつ口に入れた。

 

 かり、と音がした。

 

 ゆっくり噛んで、それから俺を見た。

 

「唐揚げか」

「うん。今回は塩味」

「いいな。ちゃんと、かりっとしてる」

 

 俺は皿を見た。

 もっと褒めてほしいと思ったけれど、そう言うのは恥ずかしかった。

 

「父さん、それ、うまいだろ」

 

 代わりに兄さんが聞いてくれた。

 

「ああ。二人とも、ありがとう」

 

 父さんは隣の空いた椅子を引いた。

 

「ジークも座ろう。冷める前に」

 

 俺の分の皿が、その前に置かれた。

 座ってもうひとつ食べると、さっきより少し冷めていた。

 今度は熱さに邪魔されず、肉の味がわかった。

 

 父さんに指摘されて鼻を擦ると、指まで白くなった。

 兄さんにも粉がついていると言おうとしたら、向こうも俺を指差していた。

 

「二人とも、あとで顔を洗っておいで」

 

 白ママが笑った。

 

 どこを直せばもっとおいしくなるか、聞いてみたかった。

 けれど、今日はまだ聞かなくてもいい気がした。

 

 皿の上の肉が減っていく。

 俺はそれを眺めてから、自分の分をもう一口かじった。

 

「次は何を作るんだ?」

 

 父さんが小さな声で聞いた。

 俺は口の中のものを飲み込んでから、答えた。

 

「麺の料理」

 

 言っただけで、また腹が減った。

 

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