「もう一本、お願いします!」
そう言うと、赤ママは木剣を肩に担いだ。
「あんた、さっき最後って言ったわよ」
「今のは、もう少しで避けられたから」
「避けられてないわ」
正しい。
脇腹には、まだじんじんとした痛みが残っている。
それでも構え直すと、赤ママの口元が少し上がった。
次の瞬間には、足元の土が目の前にあった。
「ぶっ」
口に入った土を吐き出す。
木剣を握った手に力を込め、起き上がる。膝が震えた。腕は重い。胸が忙しく膨らんだり縮んだりしている。
息を吸うと、冷たい空気が喉の奥まで入ってきた。
「……へへ」
「何が面白いのよ」
説明は難しかった。
自分の足で立ち上がれて、息が切れても、しばらく待てば元に戻る。そのことだけで笑ってしまう。
「身体を動かすの、好きだから」
「そう。じゃあ、あと十本ね」
五本ほどにしてほしかった。
赤ママは、言った分をきっちりやる人だ。
十本目が終わる頃には、俺は地面に座り込んでいた。立つつもりで足に力を入れたのに、膝が笑ってしまう。
「ほら、手」
差し出された手を掴むと、軽々と引き上げられた。
「腕で追いかけすぎなのよ。足も動かしなさい」
「動かしてる」
「最後、止まってたわ」
言われて振り返ると、俺の足跡は途中から同じ場所に重なっていた。
赤ママの足跡は、その周りに浅く残っている。
腕力だけなら、年上の子供にも負けたことはない。
けれど、赤ママには木剣をまともに当てることさえできなかった。
悔しい。
これだけ好きで、毎日やっているのに。
「明日、足を見る」
「見るのは相手よ」
「……足も動かす」
赤ママは頷き、俺の背中を軽く叩いた。
勢いで一歩よろけたところを、肩を掴まれて戻される。
息を整えていると、庭の向こうで兄さんが木剣を振っていた。
俺より高いところを、剣先が通る。腰の回し方が赤ママに似ていた。
さっき止まっていた自分の足を、俺はもう一度見下ろした。
*
前の人生では、十一歳で死ぬまで、窓際のベッドが俺の居場所だった。
十二歳の誕生日には退院できるかもしれない。そんな話をしたこともあったが、その誕生日は来なかった。
季節は、看護師さんが持ってくる折り紙の飾りで知った。夏祭りも雪合戦も、動画で見るものだった。
調子のいい日に廊下を歩けると、それだけで褒められた。
食事には細かな決まりがあった。
食べられるものでも、身体の具合で下げられる日があった。
だから、食べたいものをノートに書いた。
ラーメン。焼き肉。カレー。唐揚げ。
テレビで見た、持ち上げると糸を引くチーズのパン。
ある日、隣のベッドの子が退院した。
帰る前に、病室で何を食べたいかという話になった。
俺がノートを開くと、その子は少し笑った。
こんなの、帰ったらすぐ食べられるじゃないか、とその子は言った。
悪気はなかったのだと思う。
その子にとっては本当に、病院を出ればすぐにできることだった。
俺も笑って、そうだよな、と答えた。
その日は、ノートの次のページを書かなかった。
翌日になると、また書いた。
テレビに、衣のついた肉を油から持ち上げる場面が映ったからだ。
箸の先から油が落ちていた。
皿に置かれた肉から、薄く湯気が立った。
あの肉を持ったら、指はどのくらい熱くなるのだろう。
かじったときの音は、画面で聞くのと同じだろうか。
俺のノートには、その日に初めて「自分で作る」と書いた。
食べるよりさらに難しそうだったけれど、そのぶん、長く想像していられた。
退院したら、と書いたページは、最後まで一枚も消せなかった。
次に目を開けたとき、俺は赤ん坊になっていた。
白い髪の女の人が、何度も俺の頬を撫でていた。聞き慣れない言葉の中に、やがて名前が混じるようになった。
シルフィ。ルディ。ジーク。
病室で繰り返し読んだ物語と、自分の周囲が重なった。
ジークハルト・サラディン・グレイラット。
鏡の中の緑髪の赤ん坊が、俺だった。
驚いたし、怖くもなった。
本来ここにいたはずの子供はどうなったのか。抱き上げてくれるこの人たちは、俺が誰なのか知ったらどうするのか。
答えは出なかった。
ただ、お腹がすくと泣いた。乳を飲むと眠くなった。白ママの服を握っていると、安心できた。
歩けるようになった日には、庭の端まで行った。
誰にも止められなかった。
迎えに来た白ママに抱きついて、俺は声を上げて泣いた。
白ママは何度も、どこか痛いのかと聞いた。
うまく答えられずに首を振ると、今度は抱き方を変えて、顔を覗き込んできた。
庭の柵が、腕の向こうに見えた。
さっきまであそこにいた。自分の足で、あそこまで行った。
本に載っていたはずの家を、俺は靴を泥だらけにしながら覚えていった。
*
「ジーク。水を飲んでからにしなさい」
稽古を終えた俺が裏庭へ直行しようとすると、縁側から声がした。
白ママが、木のコップと手拭いを持っている。
頭を拭かれながら水を飲む。冷たくて、うまい。
手拭いが離れても、白ママの指は髪に残った。
濡れて濃くなった緑の毛先を、何度も梳いている。
「何かついてる?」
「ううん。……ママの昔の髪に、よく似てるなって」
白ママは笑った。
けれど、市場へ出かける前にも、こんなふうに俺の髪を見ることがある。帽子を持ってきて、被せようとして、途中で手を止めることも。
「この前、お肉屋さんで困ったこと、なかった?」
「今日は腿にするか胸にするか、すごく迷った」
「そういうのじゃなくて……誰かに、嫌なことを言われたり」
ようやく、何を聞かれているのか分かった。
「言われてないよ」
「そっか」
白ママの肩が、少し下がった。
俺は緑の髪を嫌いではない。
でも、俺が好きだからといって、白ママが昔言われたことまで消えるわけではないのだと思う。
「何かあったら、言う」
「うん。魔術ができても、一人で我慢しなくていいんだからね」
白ママは俺の髪をもう一度撫で、それからいつもの声に戻った。
「お昼まで、まだ時間があるよ」
「うん。下ごしらえだけ」
「昨日もそう言って、パンを三つ食べてたよね」
「あれはソースの味見」
「パン三つ分の?」
「……今日は気をつけます」
白ママはしゃがみ、俺の膝についた土を払った。
「火を使うときは呼ぶこと。約束だよ」
「わかった」
「あと、疲れたら休むこと」
「魔力は残ってるよ」
「足がふらふらしてる」
見られていた。
白ママは俺を縁側に座らせ、コップをもう一度持たせた。
「座ってても、お肉は逃げないよ」
俺は庭を見る。確かに、肉の入った器はまだそこにあった。
前の人生でも、休みなさいとは何度も言われた。
そのあとに待っているものは、検査だったり、点滴だったりした。
今、休んだ先には、肉の入った器が待っている。
そう思ったら、もう少し座っていられた。
現在、五歳。
家の中では、火元を見張られる年齢だ。
外では時々、魔導王の後継と呼ばれている。
四歳で水と風、二つの聖級魔術を習得したせいだった。
そのきっかけが、鍋と包丁だったことは、あまり知られていない。
四歳の頃、五歳の誕生日に何が欲しいかと聞かれて、俺は調理器具一式と答えた。
家の台所から毎回借りるのではなく、自分の道具で、好きな時に練習したかったのだ。
「なら、魔術の勉強も頑張ること。途中で料理のほうへ逃げないことですよ」
父さんはそう言い、当時習っていた水と風の魔術書を開いた。
目標は、二つの聖級魔術を、終わらせるところまで制御できるようになることだった。
「二つできたら、小鍋も?」
「一式ですからね」
「網も?」
「入れましょう」
「包丁は、俺の手でちゃんと持てるやつ?」
「そこは一緒に選びます」
魔術は元から好きだ。
だが、その先に自分だけの調理道具が待っていると分かると、読みかけの魔術書に戻る足まで速くなった。
四歳のうちに、条件は満たした。
そして五歳の誕生日、鍋、大きさの違う包丁、まな板、ざる、網、柄杓まで揃った包みが、俺の前に並んだ。
一つずつ持ち上げ、もう一度並べているうちに、祝いの食事が冷めかけた。
今、裏庭にある道具は、その時に買ってもらったものだ。
父さんの見立てでは、俺の魔力量はすでに父さんの半分ほどあるらしい。
それを聞いた時より、鍋の蓋がぴったり閉まった時のほうが、ずっとはしゃいだ。
生まれつきのものもあるのだろう。
加えて俺には、幼いうちの訓練で魔力量が増える、という原作の知識があった。
赤ん坊の頃、指先に水滴を作っては魔力を使い切り、眠った。
最初にできた一滴は、飲み込んでしまうのが惜しくて、消えるまで眺めていた。
魔術は、思っていたよりずっと面白かった。
水が丸くなり、風に乗り、凍って、日差しを透かす。
ほんの少しやり方を変えるだけで、昨日できなかったことができる。
夢中になって続けていたら、いつの間にか周囲の大人が難しい顔で話し合うようになった。
聖級魔術を初めて成功させた日も、俺が最初に喜んだのは、最後まで自分でできたことだった。
町から離れた場所で、父さんに見てもらった。
組み上げた魔術が空へ広がるにつれて、さっきまで見えていた日差しが隠れていく。
雲ができた。
雨粒が頬に当たった。
知っているはずの雨なのに、びっくりするくらい嬉しかった。
腕を上げたまま、口を開けて空を見ていたら、父さんに声をかけられた。
「ジーク。終わらせるところまでやろう」
「……うん」
散らして、弱めて、空を戻す。
勢いよく作るより、そちらのほうが難しかった。
終わったあと、父さんは俺の顔をじっと見ていた。
何かを確かめるように手を握られ、疲れていないか、気分は悪くないかと聞かれた。
俺は平気だった。
それどころか、もう一度やってみたかった。
俺には毎日使っている魔力でも、その量を聞いた人の顔は変わった。
大学へ青ママを迎えに行ったとき、知らない大人に呼び止められた。
将来は何を目指すのかと聞かれたので、俺はそのとき考えていたことを答えた。
「油の温度がわかる道具を作りたいです」
その人は、青ママの顔を見た。
青ママは俺の手を握り直し、「今は、いろいろなものに興味がある時期ですから」と答えた。
帰り道、もっと立派なことを言うべきだったかと聞いてみた。
「本当に作りたいんでしょう?」
「うん」
「では、そのために勉強しましょう」
俺は頷いた。
何の勉強が必要かを話しているうちに、あの人の顔はあまり気にならなくなった。
けれど、空から雨を降らせられるようになっても、揚げ物の衣は上手にできなかった。
俺は裏庭の作業台で、昨日の失敗作を睨んだ。
茶色く、薄く、油を吸った何か。
肉にくっつくはずだった衣である。
「今日こそ、ちゃんとくっついてもらうぞ」
今回の目標は、唐揚げだった。
*
自室には魔術書と料理の覚え書きが積まれている。
ラノア魔法大学では、青ママの付き添いがあるときだけ、研究室の隅を使わせてもらっていた。
この前はそこで、芋をすり潰した汁を、一日かけて沈めた。
底に白い粉が溜まったときは、思わず声が出た。
青ママは新しい魔術でも完成したのかと駆け寄ってきて、俺の指先を見て、しばらく黙っていた。
「つまり、芋の粉を作ったんですか」
「衣が軽くなるかもしれないんだ」
「なるほど。……では、実験に使った器具とは分けてくださいね」
誕生日にもらった料理用の器を、次から持ってくることにした。
最初は上の水を勢いよく捨て、白い粉まで流してしまった。
翌日は底を見ながら、少しずつ器を傾けた。
残ったものが乾くのを待つ間も、何度も手が伸びた。
「乾いたか、確かめただけ」
「さっきも確かめていましたよ」
青ママに見つかり、俺は手を引っ込める。
魔術書を一ページ読んでは、また器を見た。
その粉が、今、裏庭の作業台にある。
ほんの小さな袋なのに、俺にとっては簡単に買えない宝物みたいだった。
知識があるといっても、前世は病院暮らしの十一歳だ。
動画の料理人みたいに何でも作れるわけではない。病室で覚えた手順はあっても、肉を切った手応えさえ、こっちへ来て初めて知った。
粉を増やせば分厚くなる。減らせば剥がれる。
強火なら焦げ、怖がって弱めると油を吸う。
食べたことのない料理を、食べたことのないまま再現する。
これがまた、厄介だった。
肉屋に教わり、今日は胸肉ではなく腿肉にした。
同じ鳥でも、部位によって火を入れたあとの硬さが違うのだ。
焼いて味を見るための小さな鍋も用意してある。
塩加減まで一度に変えたら、何が悪かったのかわからなくなる。そう教えてくれたのは、白ママだった。
作業台の隅には、俺の覚え書きが置いてある。
昨日の欄には「粉、とれる」。
一昨日の欄には「黒い」。
その前には「中がまだ」。
役に立つ記録かと言われると、自信はない。
それでも失敗した場所がわかれば、今日はそこに気をつけられる。
おいしいものを作る人は、こんなことをいくつも覚えているのだろう。
病室の画面では、肉を切った場面の次には、もう食卓に並んでいた。
その間にこんなにやることがあるとは、思わなかった。
「ジーク」
肉を切っていると、アルス兄さんが木剣を二本持ってやって来た。
「もう稽古、終わった?」
「うん」
「じゃあさ、向こうで――」
俺の手元を見て、言葉が止まった。
「あ。料理か」
「うん。今日は粉の割合を変えて、温度を二段階に――」
そこまで言って、口を閉じた。
兄さんは木剣の先で、地面をこすっていた。
「そっか。じゃあ、いいや」
兄弟仲は悪くない。
喧嘩もあまりしない。
ただ、こういうことが増えていた。
姉さんたちと話していても、気がつくと俺だけ説明を続けている。相手が黙ったのを、興味深く聞いてくれているのだと思っていたこともある。
中でも、ルーシー姉さんには、話しかける時に考えすぎてしまう。
俺が聖級魔術を覚えたと知った日、姉さんは「すごいね」と言ってくれた。
けれどそのあと、父さんが俺の魔術の記録を見ている間、戸口で何か持って待っていた。
俺が気づいた時には、もういなかった。
次の日、姉さんが読んでいた魔術書の式について、知っていることを説明した。
手伝えると思ったのだ。
「今、自分で考えてるから」
怒鳴られたわけではない。
それなのに、続きを言えなくなった。
姉さんは、俺が夜更かししていると灯りを消しに来るし、階段に置き忘れた上着も拾ってくれる。
嫌われているのではないと思う。
でも、甘えていい弟なのか、放っておいたほうがいい相手なのか、姉さんも決めかねているように見えた。
俺だって、どう頼れば姉さんを困らせないのか分からない。
前世の十一年には、姉と暮らした経験なんてなかった。
「兄さん」
離れかけた背中を呼び止める。
「これ、手伝ってくれない?」
「何を?」
「粉をつけるの。一人だと時間がかかるから」
兄さんは台の上を覗き込んだ。
「俺にもできる?」
「できる。たぶん俺より上手い」
「お前、料理ばっかりしてるじゃん」
「昨日の見てよ」
油を吸った衣を指差すと、兄さんは眉を寄せた。
「何これ」
「失敗」
「それはわかる」
ちょっと笑った。
兄さんは木剣を壁に立てかけた。
俺は嬉しくなって、粉の入った器を手前へ動かす。
「まず、こっちに――」
「手、洗ってくる」
そうだった。
兄さんの手には、木剣を握っていたときの土がついている。
俺は器を持ったまま、戻ってくるのを待った。
この前、兄さんたちと冒険者ごっこをしたとき、俺は必要もないのに道を作り直した。
倒れた枝の向こうに回り込めばいいだけなのに、土魔術で足場を平らにしてしまった。
兄さんは「そこ、罠があるところだったのに」と言った。
俺は謝ったが、そのあとは何となく、見ているだけになった。
助けたつもりだった。
一緒に遊ぶ方法が、わかっていなかった。
水を払った手を振りながら、兄さんが戻ってきた。
「で、俺は何する?」
「この肉に、粉をつけてほしい」
「全部?」
「うん。俺は鍋の準備をする」
説明しすぎないように言うと、兄さんは器を覗いた。
肉を一つ持ち上げて、表と裏に粉を押しつける。
俺がつい手を出しかけたところで、兄さんが顔を上げた。
「これでいい?」
「……うん。それでいい」
本当に、それでよかった。
*
肉は市場で買った鳥の腿肉だ。
塩と、潰した香味野菜を揉み込んである。
醤油で下味をつける方法もあるけれど、今回は塩味にした。
まずは、外がかりっとして、中から汁が出る肉が食べたい。
「ぎゅっと握ればいい?」
「軽く押すくらいで。肉が見えなくなったら、余分な粉を落として」
「こんな?」
「うん!」
兄さんの大きな手が、白い粉にまみれていく。
俺は白ママを呼びに走った。
鍋の前に戻り、小さな炎を作る。
鍋底に沿わせて広げると、油の表面がゆっくり揺れ始めた。
魔力量には困らない。
困るのは、ちょうどいい加減がわからないことだ。
温度を数字で知る道具もない。
昨日までに覚えた、粉の浮き方と、油の音を頼りにする。
一つ目の肉を入れた。
じゅわっ。
細かな泡が肉を包む。
「あ、昨日よりいい音」
誰に言うでもなく呟いたら、隣から兄さんが鍋を覗いた。
「音でわかるの?」
「昨日はもっと静かで、べたべたになった」
「じゃあ、もっと音を大きくしたら?」
「その前の日、それで黒くした」
白ママが笑いを堪える気配がした。
肉を増やすと音が弱まる。
焦って火を強めかけ、やめる。昨日の俺は、ここで失敗した。
少しずつ。
鍋を睨みながら、炎の幅だけを広げる。
肉の端に張りついた泡が、次々に生まれては消えていく。
見ていると、どうしても触りたくなった。
「裏返さないの?」
「まだ。昨日は触って、衣が取れた」
「じゃあ、待つんだな」
兄さんはそう言って、俺の手元にあった菜箸を少し遠くへ置いた。
白ママが、今度こそ声を出して笑った。
魔術なら、手を加えれば目の前のものが動く。
けれど、肉は俺が焦っても早く揚がったりしない。菜箸を置いて待った。
兄さんが、残った肉を大きさごとに並べている。
「何してるの?」
「大きいのと小さいの、一緒だと困るだろ」
俺は並んだ肉を見た。
全部まとめて入れるつもりだった。
「……そうだね」
「こっちが小さいやつ」
指差された場所に、少し曲がった肉が三つ。
俺は先にそれを入れた。
兄さんのほうが、ちゃんと鍋を見ているところもある。
そう気づいて、菜箸を持つ手から少し力が抜けた。
最初の肉を引き上げ、休ませた。
ひとつ切って中を確かめる。火は通っている。けれど、衣はまだ頼りない。
油をもう少し熱くして、短く、もう一度。
今度は、乾いた音がした。
「できた?」
いつの間にか、ルーシー姉さんが来ていた。
その後ろにはララ姉さんもいる。
「まだ。今、油を切ってる」
「さっきからいい匂いがするんだもの」
俺は皿の上に、きつね色の肉を並べた。
一番小さいものをつまみ、息を吹きかける。
指先に熱が伝わってきて、慌てて持ち直した。
噛んだ。
かり、と音がした。
次いで肉がほどけ、熱い汁が舌に広がった。
塩気。脂。鼻に抜ける香味野菜の匂い。
「あつっ」
口を開けたまま、変な息を吐いた。
白ママが水を差し出してくる。それを受け取るより先に、俺はもう一度、手の中の肉を見た。
テレビの中で、知らない家族が食べていた。
誰かの弁当に、当たり前みたいに入っていた。
退院したら食べようと思っていた。
「……うまい」
思ったより、小さな声になった。
「俺も」
兄さんが手を伸ばす。
「あ、熱いよ」
「平気――あっつ!」
同じ顔になった。
ララ姉さんが俺たちを見比べて、ふっと鼻で笑った。
「ジーク、ひとつもらうね」
ルーシー姉さんは、ちゃんと冷ましてから食べた。
噛んだあと、目が少し丸くなった。
「おいしい」
「ほんと?」
「うん。もうひとついい?」
俺は頷いた。
ルーシー姉さんは、自分で取った二つ目を小皿に置いた。
「これ、父さんの分にしておくね」
「まだ帰ってこないかもしれないよ」
「帰ってから食べればいいでしょう」
そう言われて、俺は皿を数えた。
自分が食べることばかり考えていて、誰の分をどのくらい作るかまでは、決めていなかった。
ララ姉さんが、小さな肉に手を伸ばす。
その前にルーシー姉さんが、皿を少し遠くへずらした。
「熱いのから取らないの」
「こっち、小さい」
「小さくても熱いの」
ララ姉さんは少し考え、今度は兄さんの皿から取った。
「あ、それ俺の」
「冷めてる」
「そういうことじゃなくて」
兄さんの声が、いつもより近くで聞こえた。
俺は次の肉を揚げながら、笑った。
別に、何かが全部変わったわけではない。
姉さんたちは俺の魔術の話を聞きたがらないし、俺は兄さんが好きな遊びの決まりを、ときどき間違える。
でも今日は、俺が次を揚げるまで、みんながここにいる。
そのことが嬉しくて、皿を置く場所をもう少し広くした。
兄さんが次の肉に粉をまぶす。
さっきまで俺の立っていた場所に、当たり前みたいに立っている。
「次、揚げようぜ」
「うん」
「今度、俺も鍋に入れていい?」
「白ママに聞いて」
「いいけど、ゆっくりね」
白ママが兄さんの後ろに回った。
俺は火を少し弱め、肉が入るのを待った。
肩が触れそうだったので、半歩、横へずれた。
*
「おや。今日は庭で昼食ですか」
最後のひと皿が揚がる頃、父さんが帰ってきた。
ルーデウス・グレイラット。
俺がこの世界を知るきっかけになった人だ。
前世の記憶があることも、病室でこの世界の物語を読んでいたことも、すでに話してある。
その秘密を知っているのは、父さん、ナナホシ、オルステッド、ペルギウス様の四人だけだ。
母さんたちも、アイシャ姉さんも、兄さん姉さんたちも知らない。
覚えていることを書き出して渡したあと、父さんとは何度も話をした。
日本語を使うのは、事情を知る人しかいない個室だけ。
家族の前で、俺と父さんだけが分かる言葉を使うこともしない。
それでも、こうして帰ってきた顔を見ると、まず聞きたくなるのは今日の仕事のことだった。
「おかえり、父さん」
「ただいま。ずいぶんいい匂いですね」
「ジークが作ったんだよ。俺も手伝った」
兄さんが胸を張った。
父さんは差し出された皿を受け取り、ひとつ口に入れた。
かり、と音がした。
ゆっくり噛んで、それから俺を見た。
「唐揚げか」
「うん。今回は塩味」
「いいな。ちゃんと、かりっとしてる」
俺は皿を見た。
もっと褒めてほしいと思ったけれど、そう言うのは恥ずかしかった。
「父さん、それ、うまいだろ」
代わりに兄さんが聞いてくれた。
「ああ。二人とも、ありがとう」
父さんは隣の空いた椅子を引いた。
「ジークも座ろう。冷める前に」
俺の分の皿が、その前に置かれた。
座ってもうひとつ食べると、さっきより少し冷めていた。
今度は熱さに邪魔されず、肉の味がわかった。
父さんに指摘されて鼻を擦ると、指まで白くなった。
兄さんにも粉がついていると言おうとしたら、向こうも俺を指差していた。
「二人とも、あとで顔を洗っておいで」
白ママが笑った。
どこを直せばもっとおいしくなるか、聞いてみたかった。
けれど、今日はまだ聞かなくてもいい気がした。
皿の上の肉が減っていく。
俺はそれを眺めてから、自分の分をもう一口かじった。
「次は何を作るんだ?」
父さんが小さな声で聞いた。
俺は口の中のものを飲み込んでから、答えた。
「麺の料理」
言っただけで、また腹が減った。