朝食のあと、父さんの書斎へ行った。
扉は閉めた。部屋にいるのは父さんと俺だけだ。
『味噌ラーメンを作ろうと思います』
そう宣言すると、父さんは持ち込んだパンの最後の一切れを持ったまま、頷いた。
『いいですね。父さんは大盛りで』
『まだできてない』
『では、完成した暁には大盛りでお願いします』
真剣だった。
こういうときの父さんは、話が早い。
俺が十一歳で前世を終えたことも、この世界を『無職転生』という物語で知っていたことも、父さんは知っている。
だからといって、廊下や食卓で日本の話を始めたりはしない。こうして二人になれる場所まで待つ。
もちろん、最初からこんな気楽に話せたわけではない。
父さんには何度も確かめられたし、俺も覚えている出来事を書き出した。
けれど、その話をしたあとも、父さんは俺をジークと呼んだ。
食べ過ぎれば白ママに叱られ、稽古で気を抜けば赤ママに転がされた。
今日は、その父さんと昼飯の相談をしている。
『味噌も醤油も使っていい?』
『いいが、作るならアイシャにも聞いておけ。あいつは頼りになるぞ』
『うん。麺をどうにかしたくて』
『俺について書かれた本には、作り方は載ってなかったのか?』
『父さんの人生、料理本じゃないから』
『実用性に欠けるな』
そこで笑ってしまったら、父さんも少し笑った。
『どんなラーメンがいいんだ?』
『大きい器で、湯気がいっぱい出るやつ』
『大半のラーメンが該当するな』
父さんはパンの最後のひと口を食べ、指を拭いた。
俺は覚えている店の写真を説明した。どんぶりの端に肉が乗っていて、真ん中に野菜が積まれていて、麺を持ち上げると縮れている。
『ああ、そういうのか』
『父さん、食べたことある?』
『何度もある』
羨ましい、と言いかけてやめた。
父さんは少し考えてから、紙に麺の形を描いてくれた。
線は雑だったけれど、噛んだ感じやスープに浸かった時の変化まで話してくれた。
それは、俺のノートには書けなかったことだ。
父さんが紙の端に大盛りと書き足したので、俺もその隣に丸をつけた。
食べたことのある人に、また食べたいと思ってもらえるものを作る。
昨日までの目標に、それが加わった。
*
「これは、ずいぶん頑張ったねえ」
アイシャ姉さんは、俺の試作品を持ち上げた。
その横には、五歳の誕生日にもらった包丁とまな板がある。麺を切るのに使うのは初めてで、肉を切る時とは刃の進み方も違った。
厚いところと薄いところがあり、端はひび割れている。
茹でる前から、食べにくそうな麺だった。
「伸ばしても、戻っちゃうんだ」
「生地は休ませた?」
「休ませたけど」
「どのくらい?」
「待てなくなるまで」
「それは時間の単位じゃないね」
姉さんが布を被せ直す。
俺は伸ばし棒を握ったまま、その手を見ていた。
父さんの妹なので、俺には叔母にあたる。
けれど、家ではアイシャ姉さんと呼んでいる。
料理が上手いことは知っていた。
父さんから聞いた料理を再現する手伝いもしている。
それでも、俺が何度も引っ張った生地が、姉さんの手で素直に伸びていくのを見ると、少し悔しかった。
「もっと力を入れたほうがいいと思ってた」
「ジーク君は、力が足りないことのほうが少ないでしょ」
そう言って、姉さんは作業台の端を指した。
俺が押さえたところだけ、木が少しへこんでいる。
昨日、赤ママにも力任せに剣を振るなと言われた。
台所でも言われるとは思わなかった。
「何を作りたいのか、もう少し教えて?」
俺は覚え書きを開いた。
濃い味噌のスープ。
少し黄色くて、噛むと押し返してくる麺。
炒めた野菜と肉。それから、できればバター。
説明するほど、腹が減った。
「ふうん。汁に入れても、すぐ柔らかくならない麺がいいんだ」
「そう!」
「じゃあ、粉と水の量を変えてみようか。今のは、作るたびに違ってるから」
姉さんは俺の乱雑な記録に線を引いた。
粉の重さ。水の量。加えたもの。休ませた時間。茹でた時間。
並べてみると、俺は毎回、違うものを作っていた。
「おいしかったときと、同じように作れる?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「昨日、どの器で水を量ったか、覚えてない」
姉さんは怒らなかった。
その代わり、小さな器を一つ選んで、底に印をつけた。
「しばらくは、これを使おう」
「重さで量らなくていいの?」
「ちゃんと量れるなら、そのほうがいいね。でも、まず同じことをできるようにしようか」
休ませた生地を半分に切る。
姉さんが片方を伸ばし、俺がもう片方を伸ばした。
俺の生地は端ばかり薄くなった。
「どこまで転がすか、決めてから押してみて」
言われたとおりにすると、厚さが少し揃った。
姉さんは自分の分を終えても、俺の伸ばし棒を取り上げなかった。
「もうちょっと、自分でやる」
「うん。じゃあ、お湯を沸かしておくね」
厚さが揃うと、切り口も少し揃った。
その日の紙には、初めて「もう一度、同じに作る」と書いた。
*
そこから十日、麺を作った。
生地を揃えて作れるようになっても、まだ足りないものがあった。
茹でると白く、やわらかい。これはこれでうまいが、父さんは「うどん寄りだな」と言った。
思い出したのは、かん水だった。
前世で見た製麺の動画に、そんな名前が出てきた。
炭酸ナトリウムや炭酸カリウムという難しい名前も見覚えがある。
ただ、十一歳の俺は、画面の文字を覚えただけだ。知っている名前を唱えたところで、瓶の中に材料が湧いてくるわけではない。
そこで父さんに相談し、商人を通じて、食品に使うアルカリ塩を取り寄せてもらった。
少しずつ水に溶かして、麺の仕込み水に加える。
粉と水だけで作ったものと比べるため、最初は小さな生地を二つ用意した。
「卵、入れたっけ?」
横から見ていたアイシャ姉さんが聞いた。
俺は首を振った。
一方の生地だけが、淡く黄色みを帯びていた。
茹でると、匂いまで違った。
塩味が強くなるだけだと思っていたのに、湯気の中に独特の香りがある。
噛むと、歯を少し押し返した。
「これ!」
嬉しくなって、次は多めに入れた。
失敗した。
噛み応えより先に、嫌な苦みと匂いが口に残った。
「強くすれば、おいしくなるわけじゃないんだね」
姉さんに言われ、俺は頷いた。
火も、粉も、かん水も、足せば足すほどよくなるものではないらしい。
姉さんは小さな秤を持ってきてくれた。
俺も、粉と水の欄の隣に、かん水の量を書き足す。
多すぎるものは味見だけでやめ、少量で違いを比べた。
黄色いから成功なのではない。
すすった時の香りと、噛んだ時の弾み方が、スープと合っているか。
そこまで食べて決めるのだと、少しずつ分かってきた。
稽古をして、粉をこねる。
魔術の勉強をして、生地を伸ばす。
青ママに許可をもらって大学の研究室で記録を整理していると、紙の隅まで粉がついているのを見つけられた。
「研究熱心なのは結構ですが、本にはつけないでくださいね」
「はい……」
青ママは記録を見て、「時間が経った麺も食べましたか」と聞いた。
丸をつけたのは、茹でたてを食べたものばかりだった。
食べ終わる頃もおいしいかどうかは、確かめていない。
次の試作では三つの器に分け、食べる時間をずらしてみた。
最初に一番気に入ったものが、最後まで一番おいしいとは限らなかった。
俺はそれが面白くて、冷めた麺を父さんの書斎へ持っていった。
父さんが来客を送り出し、扉を閉めてから、二つの器を机に並べた。
『見て。こっちは、まだ噛んだ感じが残ってる』
『見てと言われても、食べないとわからんぞ』
『食べて』
父さんは二つを食べ比べ、俺と同じ器を指した。
その日は、記録の丸をいつもより大きくした。
かん水の量が決まっても、今度は麺の厚さが揃わなかった。
固すぎる。
柔らかすぎる。
細く切りすぎて、口の中で存在感がなくなる。
失敗作は、その日の昼食になった。
俺はもう、自分が何本の麺を食べたかわからない。
ただ、途中からは一人で全部食べていたわけではなかった。
兄さんが通りかかると、小皿を差し出した。
「どっちが好き?」
「また麺?」
「今日は昨日と違う」
「昨日も言ってた」
それでも食べてくれた。
考え込んでいた兄さんが、一方を指す。
「こっち」
「なんで?」
「よく噛める」
「硬い?」
「硬いんじゃなくて……口の中に、まだある感じ」
俺にはわかった。
わかったので、そのまま書いた。
ルーシー姉さんは、短いもののほうが食べやすいと言った。
「でも、父さんは長いほうがいいって」
「じゃあ、父さんに聞けばいいじゃない」
返事が速かった。
俺は皿を持ったまま、黙ってしまった。
姉さんも少し黙った。
それから、目を合わせずにフォークを持ち直す。
「嫌いって言ったんじゃないよ。長いと、ここがはねるの」
巻き取った麺の端が、器の縁で跳ねた。
確かに、汁が服につきそうだった。
「……そっか。姉さんの分、少し短く切ってみる?」
「今すぐ作り直してって言ってるわけじゃないけど」
姉さんはもう一口食べた。
俺は紙に、短いのも試す、と書いた。
書いている間、姉さんは席を立たなかった。
ララ姉さんは、長いものを一本持ち上げて、途中から切れるまで眺めていた。
作りたいものがはっきりしているつもりだったのに、食べる人が変わると、気になるところも変わる。
全部を直せるほど器用ではない。
だから、まず途中で切れずにすすれることと、最後まで歯ごたえが残ることを選んだ。
何を残すか決めるのも、料理のうちなのだと思った。
ようやく父さんから「これならラーメンに近い」と言ってもらえた頃、別の問題が起きた。
「ジーク。今日は台所、夕飯の仕込みに使うからね」
白ママの言葉に、俺は鍋を持ったまま止まった。
骨を煮出すには時間がかかる。
庭で火を起こすには、冷たい雨が降っていた。
そこでアイシャ姉さんが、いいことを思いついた顔をした。
「詰所の厨房を借りようか」
「傭兵団の?」
「うん。大きい鍋もあるし、食材の仕入れもまとめられる」
「いいの?」
「その代わり、今日の昼食を作ってね。材料代は昼食の予算から出すから」
なんてありがたい話だろう。
俺が頷くと、姉さんは帳面に数字を書いた。
「十五人分」
「……十五?」
家族の人数を思い浮かべていた俺に、姉さんはにっこり笑った。
「大盛りもいるよ」
「それ、十五人分で足りる?」
「だから、量も相談するんだよ」
姉さんは俺を椅子に座らせ、使うものを順番に聞いた。
粉。かん水。肉。骨。野菜。味噌。
俺が言い終わる前に、紙の上に数字が増えていく。
姉さんは肉屋への注文を書き、調理にかかる時間を確かめた。
食べる人は、決まった時刻に仕事へ戻る。俺の麺ができるまで、いくらでも待てるわけではない。
「麺がまだできてなかったら?」
「それは困るね。だから、できるところまで今から準備しよう」
「うん」
「あと、見回りの時間が変わることもあるから、そのときはあたしに聞いて」
俺は十五という数字を、もう一度見た。
鍋を大きくすれば済む話だと思っていた。
姉さんが帳面を閉じる前に、俺は自分の覚え書きにも、昼食を出す時刻を書き込んだ。
*
ルード傭兵団の詰所は、朝から騒がしかった。
濡れた靴が床を鳴らす。
見回りを終えた者と、これから出る者が、戸口で短い言葉を交わしている。
アイシャ姉さんは、戻ってきた団員から荷車の立ち往生を聞き、すぐに別の人を呼んだ。
家では帳面を読む姿しか見ていなかったけれど、その数字の先では、こんなふうに人が動いている。
「ジーク君は、先に厨房へ。荷物はそっちの人が持ってくれるから」
「俺も持てるよ」
「うん。じゃあ、麺をお願い。つぶれないようにね」
骨の桶より、よほど軽い木箱だった。
けれど、俺が十日かけて作ったものが入っている。
両腕で抱え直して歩いた。
すれ違う人が、俺にぶつからないように少し避けてくれた。
「坊ちゃん、また何か実験ですか」
厨房へ骨の入った桶を運んでくれた団員が言った。
鼻の横に古い傷がある、大きな人だった。
「料理」
「そりゃよかった。床が抜けたりはしませんね」
「たぶん」
「そこは言い切ってほしいなあ」
彼は笑って、桶を下ろした。
アイシャ姉さんが出入りの肉屋に話をつけてくれたおかげで、骨も肉も必要な量が揃っていた。
大鍋を洗ってくれた人がいる。野菜を運んでくれた人もいる。
家で一人、材料を抱えて歩いていたときより、ずっと早かった。
「今日は何ニャ?」
リニアさんが入口に現れた。
プルセナさんも後ろから覗いている。
「味噌ラーメン」
「肉は入ってるの?」
「入れるよ」
「なら、あちしの肉は多めなの」
麺については、誰も聞かなかった。
リニアさんが、俺の顔の高さまで屈んだ。
「この前の唐揚げ、聞いたニャ。今日はあたしらにも作ってくれるニャ?」
「う、うん」
「いい子ニャ」
頭を撫でられた。
近くで笑われると、目をどこへ向けたらいいのか分からなくなる。
家族と話す時とは違って、返事をするだけで喉が詰まった。
「顔、赤いの」
プルセナさんまで覗き込んできた。
「暑いから」
「まだ火、ついてないの」
逃げ道がなかった。
前世の十一年を足したところで、女の人と気楽に話す経験が増えるわけではない。
看護師さんには検温してもらっていたが、二人がかりで目を合わせて笑われる訓練などしていない。
「リニア、褒めるともっと赤くなるの」
「魔術はすごいのに、こっちは弱いニャ」
「料理するから、ちょっと離れて!」
言うと、二人は顔を見合わせて笑った。
リニアさんは素直に手を離し、代わりに重い鍋を作業台へ寄せてくれた。
リニアさんは鍋の大きさを見て、尻尾を揺らした。
「これ、いつできるニャ?」
「昼までには」
「じゃあ、北へ出る連中を先に呼ぶニャ。戻ってきた連中は後でいいニャ」
言い終わると、すぐに入口へ戻って誰かを呼んだ。
俺が皿の数を数えている間にも、食べる順番が決まっていく。
プルセナさんは、肉の包みを開けて鼻を近づけた。
「これは先に使ったほうがいいの」
「どうして?」
「脂が多いから、炒めるのに向いてるの」
俺は父さんの説明を思い出し、頷いた。
その横で、もう片方の包みを持ち上げられる。
「こっちは焼いてもいいの」
「今日は全部ラーメンに入れる」
「焼いた肉を載せればいいの」
「……それも、おいしそうだね」
危うく仕事が増えるところだった。
姉さんが戻ってきたので助かったが、覚え書きの隅には、しっかり書いておいた。
骨を下茹でして洗い、大鍋に入れ直す。
水を注ぎ、火をつける。
家の鍋とは、底の広さが違った。
同じ場所に火を当てても、端のほうはなかなか動かない。
俺は一度炎を弱め、鍋底の形に沿って広げ直した。
四つに分けた小さな火を、少しずつ近づける。
火を大きくするだけなら簡単だ。
でも、鍋の縁まで舐めるような炎にしたら、持ち手にも近すぎる。
どこへ、どのくらい。
手のひらを上に向け、指を軽く開いた。
炎が横へ伸びた。
大鍋の中で、止まっていた水が動き始める。
面白くなって、もう少し細かく分けてみたくなった。
そこで、横から柄杓が差し出された。
「ジーク君、火を見るのはそのくらいにして、こっちも」
「あ、うん」
姉さんに言われ、浮いてきた灰汁をすくう。
魔術を使っていると、それだけで楽しくなってしまう。
今日はスープを作る日だ。
俺は火の形を覚え、続きは別の日にすることにした。
沸き上がるまで、炎を少し大きく。
灰汁をすくい、様子を見ながら火を落ち着かせる。
鍋の中で、骨がゆっくり動いている。
俺は踏み台に立ち、柄杓を持って覗き込んだ。
稽古で使った肩が重い。
けれど、立っていられるし、鍋の向こうへ回り込むこともできる。
病室では、食事が届くのを待っていた。
今は、俺が作るのを待っている人がいる。
「ジーク君、顔が近いよ」
アイシャ姉さんに襟を引かれた。
*
最初のひと匙は、味噌汁だった。
出汁は出ている。
味噌もうまい。
なのに、昼前に顔を出した父さんは、匙を見つめて首を傾げた。
「もう少し、脂と香りがあったと思う」
「肉を増やす?」
「増やせば増やすほどうまい、ってものでもないんだが……」
「その話、納得できないの」
肉を切っていたプルセナさんが口を挟んだ。
アイシャ姉さんは、俺の覚え書きを指で叩いた。
「ここ。『野菜を炒める』って書いてあるよ」
「あ」
麺に気を取られていた。
動画では、確かに大きな鍋で炒めていたのだ。
別の鍋に脂を溶かし、刻んだ香味野菜を入れる。
細かくした肉と薄切りの玉葱を加えると、音が変わった。
甘い匂いがしてきたところで、火を弱める。
味噌を混ぜた瞬間、濃い香りが立った。
焦げる前にスープを注ぐ。
湯気が顔を撫でた。
もう一度、匙を入れる。
さっきより、味が長く残った。
飲み込んだあとに、玉葱の甘さが戻ってくる。
小皿に少しずつ取り分け、一方に醤油をほんの少し足してみた。
香りは強くなった。
けれど、味噌の味が少し遠くなった気もする。
どちらがいいか迷っていると、アイシャ姉さんが両方を味見した。
それから、皿を俺の前に戻す。
「ジーク君は、どっちを食べたい?」
「こっち」
「じゃあ、今日はそっちにしよう」
何か正しい答えを教えてくれるのだと思っていたので、少し驚いた。
「でも、もう一つのほうがおいしい人もいるかもしれない」
「いるかもね」
「それでいいの?」
「全員が好きな味にするのは、難しいよ」
姉さんは、味見で減った分のスープを足した。
「まず、作りたい味があるんでしょ」
俺は頷いた。
父さんに説明した、前世で見た写真を思い出し、もう一度、自分で選んだほうを飲んだ。
これを、器いっぱいに食べてみたい。
その気持ちは、さっきよりはっきりしていた。
「父さん」
「うん」
「これ、どう?」
「……いいな」
父さんはもう一度飲んだ。
「うん。こっちだ」
嬉しくなって頷いたところで、麺の鍋が吹きこぼれた。
「あっ!」
火を弱める。
すると今度は、具を炒める鍋が焦げそうになる。
三つの火を操るくらい、簡単なはずだった。
けれど、魔術は鍋が今どうなっているかまで教えてくれない。
「ジーク君。一度、手を止めて」
アイシャ姉さんの声で、俺は顔を上げた。
「麺はお兄ちゃん。器はあたし。ジーク君はスープと具」
「でも、俺が」
「うん。ジーク君の料理だから、手伝ってほしいところを言って」
父さんが麺の鍋の前へ立った。
柄の長い網を持ち上げ、俺を見る。
「茹で時間は?」
「昨日のと同じ太さだから、まずはこれくらいで――」
説明すると、父さんは頷いた。
リニアさんが食べる人を呼び、プルセナさんが具を分ける。
姉さんが器を温める。
俺は自分の鍋を見た。
落ち着いて味を確かめられた。
最初は、父さんの鍋も気になった。
湯が沸いているか。麺がくっついていないか。網を上げるのが早すぎないか。
首を伸ばすたび、父さんと目が合った。
「こちらは任せてもらって大丈夫ですよ」
わざとらしい言い方に、俺は顔を戻した。
助けてもらうことには慣れている。
前の人生では、自分ではできないことのほうが多かった。
だから今は、できることを全部、自分でやってみたくなる。
父さんたちの手が入ると、せっかくの料理まで渡してしまうような気がしていた。
でも、姉さんは味を決めなかった。
父さんも、麺の茹で時間を俺に聞いた。
「次の具、もう少しでできる!」
「はい。こっちも合わせます」
返事が来た。
一人では間に合わなかった二つの鍋が、同じところへ向かって動く。
俺は次の器を見て、盛りつける場所を決めた。
手伝ってもらったほうが、自分のやりたいことを丁寧にできる。
そんなこともあるのだと、ようやく少しわかった。
*
一杯目は、骨を運んでくれた団員さんに出した。
「熱いから、気をつけて」
「そりゃ、ありがたい」
彼は器を両手で包み、汁を飲んだ。
それから、もう一口飲んだ。
感想がない。
不安になって顔を覗くと、フォークで麺を持ち上げていた。
長いまま口へ運び、途中で切れて、汁が顎に跳ねた。
「すみません。食べにくくて」
「いや、こういう食い物なんでしょう」
布で顎を拭いて、また食べた。
「どう、ですか」
待ちきれずに聞くと、団員さんは慌てて口の中のものを飲み込んだ。
「うまいですよ」
「どのへんが?」
「どのへん……?」
困らせたらしい。
彼は器を見てから、もう一度汁を飲んだ。
「冷えたときに食いたくなる味です。あと、肉が入ってるのがいい」
「肉」
「肉は大事です」
厨房の奥で、プルセナさんが深く頷いた。
団員さんは麺をすくい、今度は短く持ち直した。
さっきよりうまく口に入ったので、少し得意そうな顔をする。
「こっちも、腹に溜まりそうでいい。パンを浸すのとは違いますね」
「うん。麺だから」
「料理の名前は、味噌ラーメン」
「ミソラーメンか」
彼は隣の人にも同じ名前を教えた。
くすぐったくなって、俺は次の器を並べるふりをした。
隣ではリニアさんが、器の上で息を吹いている。
「熱いニャ」
「冷ます?」
「それは嫌ニャ」
難しい注文だった。
プルセナさんは、まず肉を食べた。
汁を飲み、それから不思議そうに器を覗いた。
「肉は食べたのに、まだ肉の味がするの」
「スープにも出てるから」
「これなら肉が増えたのと同じなの」
気に入ってもらえたらしい。
次の二人が席につく。
その次が、背後で器を持って待っている。
「坊ちゃん、俺のは多めで」
「肉?」
「全部」
父さんと同じことを言う。
俺は鍋を振る前に、持ち手を握り直した。
力任せに動かすと、中身を天井まで飛ばしかねない。
炎を広げる。鍋を傾ける。
肉と野菜を返し、味噌を混ぜ、スープを注ぐ。
「今の、無詠唱か?」
「この子、聖級が使えるんだぞ」
「へえ……」
視線が集まった。
何か言おうとしたら、父さんが声を上げた。
「ジーク、麺が上がる」
「はい!」
茹で時間のほうが、俺の評判より急ぎだった。
*
全員に行き渡った頃、足の裏がじんじんしていた。
魔力は、まだ十分にある。
なのに椅子へ座ると、勝手に息が漏れた。
「お疲れさま」
アイシャ姉さんが、小さめの器を置いてくれた。
麺は、父さんが最後に茹でてくれたものだった。
表面に、ひとかけらのバターが浮いている。
「それ、ジーク君が欲しがってたから」
溶けてなくなる前に、俺は手を合わせた。
「いただきます」
汁を飲んだ。
味噌の香り。
肉の脂。
炒めた玉葱の甘さに、バターがゆっくり混ざっていく。
麺を持ち上げる。
まだ少し不揃いで、店の写真みたいにはならなかった。
それでも、すすり込むと汁がついてきた。
かん水を加えて生まれた香りが、濃い味噌の間からふっと顔を出す。
噛めば押し返してくる。あの白くやわらかかった麺とは違う。飲み込むと、すぐ次が欲しくなる。
飲んで、すすって、噛む。
忙しくて、顔を上げられなかった。
「どうだ?」
隣で父さんが聞いた。
「……味噌ラーメンって、うまいんだな」
父さんは箸を止めた。
それから、自分の器へ目を落とした。
「そうだな」
しばらく、二人で食べた。
父さんの箸は、俺よりずっと上手に麺を掴んだ。
一度に持ち上げすぎず、汁を跳ねさせずに口へ運ぶ。
真似してみると、いつもより食べやすかった。
「今の、どうやった?」
「普通に食べただけだが」
「もう一回」
父さんは少し笑い、わざとゆっくり麺を持ち上げた。
作り方だけでなく、食べ方も教わることになるとは思わなかった。
先に食べ終わった団員さんが、空の器を運んできた。
「ごちそうさん。次の見回り、頑張れそうです」
「また外?」
「ええ。北の門まで。あっちは風が強くてね」
外套を着込みながら、彼は腹を軽く叩いた。
「今日は、ここが温かいから」
戸が開いた。
入り込んだ冷たい風に、俺は首を縮めた。
彼は今から、その中を歩くのだ。
俺が朝から温めていた鍋の中身を、お腹に入れて。
「また作るね」
彼は手を上げて出ていった。
「じゃあ次は、出る前に食べられる時間にしようね」
アイシャ姉さんが帳面に何か書きつける。
「次も、十五人?」
「おいしかったって聞いた人が来るかもしれないから、少し増えるかな」
「……二十?」
「どうだろうねえ」
俺は残っていた麺を急いですすった。
こねるのは好きだ。
身体を動かすのも、大好きだ。
ただ、二十人分の生地を想像すると、朝の稽古で赤ママに打たれた腕が、少しだけ痛くなった。