魔導王の息子は、今日も腹ペコ   作:54s

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味噌ラーメン

 

朝食のあと、父さんの書斎へ行った。

 扉は閉めた。部屋にいるのは父さんと俺だけだ。

 

『味噌ラーメンを作ろうと思います』

 

 そう宣言すると、父さんは持ち込んだパンの最後の一切れを持ったまま、頷いた。

 

『いいですね。父さんは大盛りで』

『まだできてない』

『では、完成した暁には大盛りでお願いします』

 

 真剣だった。

 こういうときの父さんは、話が早い。

 

 俺が十一歳で前世を終えたことも、この世界を『無職転生』という物語で知っていたことも、父さんは知っている。

 だからといって、廊下や食卓で日本の話を始めたりはしない。こうして二人になれる場所まで待つ。

 

 もちろん、最初からこんな気楽に話せたわけではない。

 父さんには何度も確かめられたし、俺も覚えている出来事を書き出した。

 

 けれど、その話をしたあとも、父さんは俺をジークと呼んだ。

 食べ過ぎれば白ママに叱られ、稽古で気を抜けば赤ママに転がされた。

 

 今日は、その父さんと昼飯の相談をしている。

 

『味噌も醤油も使っていい?』

『いいが、作るならアイシャにも聞いておけ。あいつは頼りになるぞ』

『うん。麺をどうにかしたくて』

『俺について書かれた本には、作り方は載ってなかったのか?』

『父さんの人生、料理本じゃないから』

『実用性に欠けるな』

 

 そこで笑ってしまったら、父さんも少し笑った。

 

『どんなラーメンがいいんだ?』

『大きい器で、湯気がいっぱい出るやつ』

『大半のラーメンが該当するな』

 

 父さんはパンの最後のひと口を食べ、指を拭いた。

 俺は覚えている店の写真を説明した。どんぶりの端に肉が乗っていて、真ん中に野菜が積まれていて、麺を持ち上げると縮れている。

 

『ああ、そういうのか』

『父さん、食べたことある?』

『何度もある』

 

 羨ましい、と言いかけてやめた。

 父さんは少し考えてから、紙に麺の形を描いてくれた。

 

 線は雑だったけれど、噛んだ感じやスープに浸かった時の変化まで話してくれた。

 それは、俺のノートには書けなかったことだ。

 父さんが紙の端に大盛りと書き足したので、俺もその隣に丸をつけた。

 

 食べたことのある人に、また食べたいと思ってもらえるものを作る。

 昨日までの目標に、それが加わった。

 

     *

 

「これは、ずいぶん頑張ったねえ」

 

 アイシャ姉さんは、俺の試作品を持ち上げた。

 その横には、五歳の誕生日にもらった包丁とまな板がある。麺を切るのに使うのは初めてで、肉を切る時とは刃の進み方も違った。

 

 厚いところと薄いところがあり、端はひび割れている。

 茹でる前から、食べにくそうな麺だった。

 

「伸ばしても、戻っちゃうんだ」

「生地は休ませた?」

「休ませたけど」

「どのくらい?」

「待てなくなるまで」

「それは時間の単位じゃないね」

 

 姉さんが布を被せ直す。

 俺は伸ばし棒を握ったまま、その手を見ていた。

 

 父さんの妹なので、俺には叔母にあたる。

 けれど、家ではアイシャ姉さんと呼んでいる。

 

 料理が上手いことは知っていた。

 父さんから聞いた料理を再現する手伝いもしている。

 

 それでも、俺が何度も引っ張った生地が、姉さんの手で素直に伸びていくのを見ると、少し悔しかった。

 

「もっと力を入れたほうがいいと思ってた」

「ジーク君は、力が足りないことのほうが少ないでしょ」

 

 そう言って、姉さんは作業台の端を指した。

 俺が押さえたところだけ、木が少しへこんでいる。

 

 昨日、赤ママにも力任せに剣を振るなと言われた。

 台所でも言われるとは思わなかった。

 

「何を作りたいのか、もう少し教えて?」

 

 俺は覚え書きを開いた。

 

 濃い味噌のスープ。

 少し黄色くて、噛むと押し返してくる麺。

 炒めた野菜と肉。それから、できればバター。

 

 説明するほど、腹が減った。

 

「ふうん。汁に入れても、すぐ柔らかくならない麺がいいんだ」

「そう!」

「じゃあ、粉と水の量を変えてみようか。今のは、作るたびに違ってるから」

 

 姉さんは俺の乱雑な記録に線を引いた。

 粉の重さ。水の量。加えたもの。休ませた時間。茹でた時間。

 

 並べてみると、俺は毎回、違うものを作っていた。

 

「おいしかったときと、同じように作れる?」

「……たぶん」

「たぶん?」

「昨日、どの器で水を量ったか、覚えてない」

 

 姉さんは怒らなかった。

 その代わり、小さな器を一つ選んで、底に印をつけた。

 

「しばらくは、これを使おう」

「重さで量らなくていいの?」

「ちゃんと量れるなら、そのほうがいいね。でも、まず同じことをできるようにしようか」

 

 休ませた生地を半分に切る。

 姉さんが片方を伸ばし、俺がもう片方を伸ばした。

 

 俺の生地は端ばかり薄くなった。

 

「どこまで転がすか、決めてから押してみて」

 

 言われたとおりにすると、厚さが少し揃った。

 姉さんは自分の分を終えても、俺の伸ばし棒を取り上げなかった。

 

「もうちょっと、自分でやる」

「うん。じゃあ、お湯を沸かしておくね」

 

 厚さが揃うと、切り口も少し揃った。

 その日の紙には、初めて「もう一度、同じに作る」と書いた。

 

     *

 

 そこから十日、麺を作った。

 

 生地を揃えて作れるようになっても、まだ足りないものがあった。

 茹でると白く、やわらかい。これはこれでうまいが、父さんは「うどん寄りだな」と言った。

 

 思い出したのは、かん水だった。

 

 前世で見た製麺の動画に、そんな名前が出てきた。

 炭酸ナトリウムや炭酸カリウムという難しい名前も見覚えがある。

 ただ、十一歳の俺は、画面の文字を覚えただけだ。知っている名前を唱えたところで、瓶の中に材料が湧いてくるわけではない。

 

 そこで父さんに相談し、商人を通じて、食品に使うアルカリ塩を取り寄せてもらった。

 少しずつ水に溶かして、麺の仕込み水に加える。

 粉と水だけで作ったものと比べるため、最初は小さな生地を二つ用意した。

 

「卵、入れたっけ?」

 

 横から見ていたアイシャ姉さんが聞いた。

 俺は首を振った。

 一方の生地だけが、淡く黄色みを帯びていた。

 

 茹でると、匂いまで違った。

 塩味が強くなるだけだと思っていたのに、湯気の中に独特の香りがある。

 噛むと、歯を少し押し返した。

 

「これ!」

 

 嬉しくなって、次は多めに入れた。

 失敗した。

 噛み応えより先に、嫌な苦みと匂いが口に残った。

 

「強くすれば、おいしくなるわけじゃないんだね」

 

 姉さんに言われ、俺は頷いた。

 火も、粉も、かん水も、足せば足すほどよくなるものではないらしい。

 

 姉さんは小さな秤を持ってきてくれた。

 俺も、粉と水の欄の隣に、かん水の量を書き足す。

 多すぎるものは味見だけでやめ、少量で違いを比べた。

 

 黄色いから成功なのではない。

 すすった時の香りと、噛んだ時の弾み方が、スープと合っているか。

 そこまで食べて決めるのだと、少しずつ分かってきた。

 

 稽古をして、粉をこねる。

 魔術の勉強をして、生地を伸ばす。

 青ママに許可をもらって大学の研究室で記録を整理していると、紙の隅まで粉がついているのを見つけられた。

 

「研究熱心なのは結構ですが、本にはつけないでくださいね」

「はい……」

 

 青ママは記録を見て、「時間が経った麺も食べましたか」と聞いた。

 

 丸をつけたのは、茹でたてを食べたものばかりだった。

 食べ終わる頃もおいしいかどうかは、確かめていない。

 

 次の試作では三つの器に分け、食べる時間をずらしてみた。

 

 最初に一番気に入ったものが、最後まで一番おいしいとは限らなかった。

 俺はそれが面白くて、冷めた麺を父さんの書斎へ持っていった。

 父さんが来客を送り出し、扉を閉めてから、二つの器を机に並べた。

 

『見て。こっちは、まだ噛んだ感じが残ってる』

『見てと言われても、食べないとわからんぞ』

『食べて』

 

 父さんは二つを食べ比べ、俺と同じ器を指した。

 その日は、記録の丸をいつもより大きくした。

 

 かん水の量が決まっても、今度は麺の厚さが揃わなかった。

 

 固すぎる。

 柔らかすぎる。

 細く切りすぎて、口の中で存在感がなくなる。

 

 失敗作は、その日の昼食になった。

 俺はもう、自分が何本の麺を食べたかわからない。

 

 ただ、途中からは一人で全部食べていたわけではなかった。

 

 兄さんが通りかかると、小皿を差し出した。

 

「どっちが好き?」

「また麺?」

「今日は昨日と違う」

「昨日も言ってた」

 

 それでも食べてくれた。

 考え込んでいた兄さんが、一方を指す。

 

「こっち」

「なんで?」

「よく噛める」

「硬い?」

「硬いんじゃなくて……口の中に、まだある感じ」

 

 俺にはわかった。

 わかったので、そのまま書いた。

 

 ルーシー姉さんは、短いもののほうが食べやすいと言った。

 

「でも、父さんは長いほうがいいって」

「じゃあ、父さんに聞けばいいじゃない」

 

 返事が速かった。

 俺は皿を持ったまま、黙ってしまった。

 

 姉さんも少し黙った。

 それから、目を合わせずにフォークを持ち直す。

 

「嫌いって言ったんじゃないよ。長いと、ここがはねるの」

 

 巻き取った麺の端が、器の縁で跳ねた。

 確かに、汁が服につきそうだった。

 

「……そっか。姉さんの分、少し短く切ってみる?」

「今すぐ作り直してって言ってるわけじゃないけど」

 

 姉さんはもう一口食べた。

 俺は紙に、短いのも試す、と書いた。

 書いている間、姉さんは席を立たなかった。

 

 ララ姉さんは、長いものを一本持ち上げて、途中から切れるまで眺めていた。

 

 作りたいものがはっきりしているつもりだったのに、食べる人が変わると、気になるところも変わる。

 

 全部を直せるほど器用ではない。

 だから、まず途中で切れずにすすれることと、最後まで歯ごたえが残ることを選んだ。

 

 何を残すか決めるのも、料理のうちなのだと思った。

 

 ようやく父さんから「これならラーメンに近い」と言ってもらえた頃、別の問題が起きた。

 

「ジーク。今日は台所、夕飯の仕込みに使うからね」

 

 白ママの言葉に、俺は鍋を持ったまま止まった。

 

 骨を煮出すには時間がかかる。

 庭で火を起こすには、冷たい雨が降っていた。

 

 そこでアイシャ姉さんが、いいことを思いついた顔をした。

 

「詰所の厨房を借りようか」

「傭兵団の?」

「うん。大きい鍋もあるし、食材の仕入れもまとめられる」

「いいの?」

「その代わり、今日の昼食を作ってね。材料代は昼食の予算から出すから」

 

 なんてありがたい話だろう。

 俺が頷くと、姉さんは帳面に数字を書いた。

 

「十五人分」

「……十五?」

 

 家族の人数を思い浮かべていた俺に、姉さんはにっこり笑った。

 

「大盛りもいるよ」

 

「それ、十五人分で足りる?」

「だから、量も相談するんだよ」

 

 姉さんは俺を椅子に座らせ、使うものを順番に聞いた。

 粉。かん水。肉。骨。野菜。味噌。

 俺が言い終わる前に、紙の上に数字が増えていく。

 

 姉さんは肉屋への注文を書き、調理にかかる時間を確かめた。

 食べる人は、決まった時刻に仕事へ戻る。俺の麺ができるまで、いくらでも待てるわけではない。

 

「麺がまだできてなかったら?」

「それは困るね。だから、できるところまで今から準備しよう」

「うん」

「あと、見回りの時間が変わることもあるから、そのときはあたしに聞いて」

 

 俺は十五という数字を、もう一度見た。

 鍋を大きくすれば済む話だと思っていた。

 

 姉さんが帳面を閉じる前に、俺は自分の覚え書きにも、昼食を出す時刻を書き込んだ。

 

     *

 

 ルード傭兵団の詰所は、朝から騒がしかった。

 

 濡れた靴が床を鳴らす。

 見回りを終えた者と、これから出る者が、戸口で短い言葉を交わしている。

 

 アイシャ姉さんは、戻ってきた団員から荷車の立ち往生を聞き、すぐに別の人を呼んだ。

 家では帳面を読む姿しか見ていなかったけれど、その数字の先では、こんなふうに人が動いている。

 

「ジーク君は、先に厨房へ。荷物はそっちの人が持ってくれるから」

「俺も持てるよ」

「うん。じゃあ、麺をお願い。つぶれないようにね」

 

 骨の桶より、よほど軽い木箱だった。

 けれど、俺が十日かけて作ったものが入っている。

 

 両腕で抱え直して歩いた。

 すれ違う人が、俺にぶつからないように少し避けてくれた。

 

「坊ちゃん、また何か実験ですか」

 

 厨房へ骨の入った桶を運んでくれた団員が言った。

 鼻の横に古い傷がある、大きな人だった。

 

「料理」

「そりゃよかった。床が抜けたりはしませんね」

「たぶん」

「そこは言い切ってほしいなあ」

 

 彼は笑って、桶を下ろした。

 

 アイシャ姉さんが出入りの肉屋に話をつけてくれたおかげで、骨も肉も必要な量が揃っていた。

 大鍋を洗ってくれた人がいる。野菜を運んでくれた人もいる。

 

 家で一人、材料を抱えて歩いていたときより、ずっと早かった。

 

「今日は何ニャ?」

 

 リニアさんが入口に現れた。

 プルセナさんも後ろから覗いている。

 

「味噌ラーメン」

「肉は入ってるの?」

「入れるよ」

「なら、あちしの肉は多めなの」

 

 麺については、誰も聞かなかった。

 

 リニアさんが、俺の顔の高さまで屈んだ。

 

「この前の唐揚げ、聞いたニャ。今日はあたしらにも作ってくれるニャ?」

「う、うん」

「いい子ニャ」

 

 頭を撫でられた。

 近くで笑われると、目をどこへ向けたらいいのか分からなくなる。

 家族と話す時とは違って、返事をするだけで喉が詰まった。

 

「顔、赤いの」

 

 プルセナさんまで覗き込んできた。

 

「暑いから」

「まだ火、ついてないの」

 

 逃げ道がなかった。

 

 前世の十一年を足したところで、女の人と気楽に話す経験が増えるわけではない。

 看護師さんには検温してもらっていたが、二人がかりで目を合わせて笑われる訓練などしていない。

 

「リニア、褒めるともっと赤くなるの」

「魔術はすごいのに、こっちは弱いニャ」

「料理するから、ちょっと離れて!」

 

 言うと、二人は顔を見合わせて笑った。

 リニアさんは素直に手を離し、代わりに重い鍋を作業台へ寄せてくれた。

 

 リニアさんは鍋の大きさを見て、尻尾を揺らした。

 

「これ、いつできるニャ?」

「昼までには」

「じゃあ、北へ出る連中を先に呼ぶニャ。戻ってきた連中は後でいいニャ」

 

 言い終わると、すぐに入口へ戻って誰かを呼んだ。

 俺が皿の数を数えている間にも、食べる順番が決まっていく。

 

 プルセナさんは、肉の包みを開けて鼻を近づけた。

 

「これは先に使ったほうがいいの」

「どうして?」

「脂が多いから、炒めるのに向いてるの」

 

 俺は父さんの説明を思い出し、頷いた。

 その横で、もう片方の包みを持ち上げられる。

 

「こっちは焼いてもいいの」

「今日は全部ラーメンに入れる」

「焼いた肉を載せればいいの」

「……それも、おいしそうだね」

 

 危うく仕事が増えるところだった。

 姉さんが戻ってきたので助かったが、覚え書きの隅には、しっかり書いておいた。

 

 骨を下茹でして洗い、大鍋に入れ直す。

 水を注ぎ、火をつける。

 

 家の鍋とは、底の広さが違った。

 同じ場所に火を当てても、端のほうはなかなか動かない。

 

 俺は一度炎を弱め、鍋底の形に沿って広げ直した。

 四つに分けた小さな火を、少しずつ近づける。

 

 火を大きくするだけなら簡単だ。

 でも、鍋の縁まで舐めるような炎にしたら、持ち手にも近すぎる。

 

 どこへ、どのくらい。

 手のひらを上に向け、指を軽く開いた。

 

 炎が横へ伸びた。

 大鍋の中で、止まっていた水が動き始める。

 

 面白くなって、もう少し細かく分けてみたくなった。

 そこで、横から柄杓が差し出された。

 

「ジーク君、火を見るのはそのくらいにして、こっちも」

「あ、うん」

 

 姉さんに言われ、浮いてきた灰汁をすくう。

 魔術を使っていると、それだけで楽しくなってしまう。

 

 今日はスープを作る日だ。

 俺は火の形を覚え、続きは別の日にすることにした。

 

 沸き上がるまで、炎を少し大きく。

 灰汁をすくい、様子を見ながら火を落ち着かせる。

 

 鍋の中で、骨がゆっくり動いている。

 俺は踏み台に立ち、柄杓を持って覗き込んだ。

 

 稽古で使った肩が重い。

 けれど、立っていられるし、鍋の向こうへ回り込むこともできる。

 

 病室では、食事が届くのを待っていた。

 今は、俺が作るのを待っている人がいる。

 

「ジーク君、顔が近いよ」

 

 アイシャ姉さんに襟を引かれた。

 

     *

 

 最初のひと匙は、味噌汁だった。

 

 出汁は出ている。

 味噌もうまい。

 なのに、昼前に顔を出した父さんは、匙を見つめて首を傾げた。

 

「もう少し、脂と香りがあったと思う」

「肉を増やす?」

「増やせば増やすほどうまい、ってものでもないんだが……」

「その話、納得できないの」

 

 肉を切っていたプルセナさんが口を挟んだ。

 

 アイシャ姉さんは、俺の覚え書きを指で叩いた。

 

「ここ。『野菜を炒める』って書いてあるよ」

「あ」

 

 麺に気を取られていた。

 動画では、確かに大きな鍋で炒めていたのだ。

 

 別の鍋に脂を溶かし、刻んだ香味野菜を入れる。

 細かくした肉と薄切りの玉葱を加えると、音が変わった。

 

 甘い匂いがしてきたところで、火を弱める。

 味噌を混ぜた瞬間、濃い香りが立った。

 

 焦げる前にスープを注ぐ。

 

 湯気が顔を撫でた。

 もう一度、匙を入れる。

 

 さっきより、味が長く残った。

 飲み込んだあとに、玉葱の甘さが戻ってくる。

 

 小皿に少しずつ取り分け、一方に醤油をほんの少し足してみた。

 

 香りは強くなった。

 けれど、味噌の味が少し遠くなった気もする。

 

 どちらがいいか迷っていると、アイシャ姉さんが両方を味見した。

 それから、皿を俺の前に戻す。

 

「ジーク君は、どっちを食べたい?」

「こっち」

「じゃあ、今日はそっちにしよう」

 

 何か正しい答えを教えてくれるのだと思っていたので、少し驚いた。

 

「でも、もう一つのほうがおいしい人もいるかもしれない」

「いるかもね」

「それでいいの?」

「全員が好きな味にするのは、難しいよ」

 

 姉さんは、味見で減った分のスープを足した。

 

「まず、作りたい味があるんでしょ」

 

 俺は頷いた。

 父さんに説明した、前世で見た写真を思い出し、もう一度、自分で選んだほうを飲んだ。

 

 これを、器いっぱいに食べてみたい。

 その気持ちは、さっきよりはっきりしていた。

 

「父さん」

「うん」

「これ、どう?」

「……いいな」

 

 父さんはもう一度飲んだ。

 

「うん。こっちだ」

 

 嬉しくなって頷いたところで、麺の鍋が吹きこぼれた。

 

「あっ!」

 

 火を弱める。

 すると今度は、具を炒める鍋が焦げそうになる。

 

 三つの火を操るくらい、簡単なはずだった。

 けれど、魔術は鍋が今どうなっているかまで教えてくれない。

 

「ジーク君。一度、手を止めて」

 

 アイシャ姉さんの声で、俺は顔を上げた。

 

「麺はお兄ちゃん。器はあたし。ジーク君はスープと具」

「でも、俺が」

「うん。ジーク君の料理だから、手伝ってほしいところを言って」

 

 父さんが麺の鍋の前へ立った。

 柄の長い網を持ち上げ、俺を見る。

 

「茹で時間は?」

「昨日のと同じ太さだから、まずはこれくらいで――」

 

 説明すると、父さんは頷いた。

 

 リニアさんが食べる人を呼び、プルセナさんが具を分ける。

 姉さんが器を温める。

 

 俺は自分の鍋を見た。

 落ち着いて味を確かめられた。

 

 最初は、父さんの鍋も気になった。

 湯が沸いているか。麺がくっついていないか。網を上げるのが早すぎないか。

 

 首を伸ばすたび、父さんと目が合った。

 

「こちらは任せてもらって大丈夫ですよ」

 

 わざとらしい言い方に、俺は顔を戻した。

 

 助けてもらうことには慣れている。

 前の人生では、自分ではできないことのほうが多かった。

 

 だから今は、できることを全部、自分でやってみたくなる。

 父さんたちの手が入ると、せっかくの料理まで渡してしまうような気がしていた。

 

 でも、姉さんは味を決めなかった。

 父さんも、麺の茹で時間を俺に聞いた。

 

「次の具、もう少しでできる!」

「はい。こっちも合わせます」

 

 返事が来た。

 

 一人では間に合わなかった二つの鍋が、同じところへ向かって動く。

 俺は次の器を見て、盛りつける場所を決めた。

 

 手伝ってもらったほうが、自分のやりたいことを丁寧にできる。

 そんなこともあるのだと、ようやく少しわかった。

 

     *

 

 一杯目は、骨を運んでくれた団員さんに出した。

 

「熱いから、気をつけて」

「そりゃ、ありがたい」

 

 彼は器を両手で包み、汁を飲んだ。

 それから、もう一口飲んだ。

 

 感想がない。

 

 不安になって顔を覗くと、フォークで麺を持ち上げていた。

 長いまま口へ運び、途中で切れて、汁が顎に跳ねた。

 

「すみません。食べにくくて」

「いや、こういう食い物なんでしょう」

 

 布で顎を拭いて、また食べた。

 

「どう、ですか」

 

 待ちきれずに聞くと、団員さんは慌てて口の中のものを飲み込んだ。

 

「うまいですよ」

「どのへんが?」

「どのへん……?」

 

 困らせたらしい。

 彼は器を見てから、もう一度汁を飲んだ。

 

「冷えたときに食いたくなる味です。あと、肉が入ってるのがいい」

「肉」

「肉は大事です」

 

 厨房の奥で、プルセナさんが深く頷いた。

 

 団員さんは麺をすくい、今度は短く持ち直した。

 さっきよりうまく口に入ったので、少し得意そうな顔をする。

 

「こっちも、腹に溜まりそうでいい。パンを浸すのとは違いますね」

「うん。麺だから」

「料理の名前は、味噌ラーメン」

「ミソラーメンか」

 

 彼は隣の人にも同じ名前を教えた。

 くすぐったくなって、俺は次の器を並べるふりをした。

 

 隣ではリニアさんが、器の上で息を吹いている。

 

「熱いニャ」

「冷ます?」

「それは嫌ニャ」

 

 難しい注文だった。

 

 プルセナさんは、まず肉を食べた。

 汁を飲み、それから不思議そうに器を覗いた。

 

「肉は食べたのに、まだ肉の味がするの」

「スープにも出てるから」

「これなら肉が増えたのと同じなの」

 

 気に入ってもらえたらしい。

 

 次の二人が席につく。

 その次が、背後で器を持って待っている。

 

「坊ちゃん、俺のは多めで」

「肉?」

「全部」

 

 父さんと同じことを言う。

 

 俺は鍋を振る前に、持ち手を握り直した。

 力任せに動かすと、中身を天井まで飛ばしかねない。

 

 炎を広げる。鍋を傾ける。

 肉と野菜を返し、味噌を混ぜ、スープを注ぐ。

 

「今の、無詠唱か?」

「この子、聖級が使えるんだぞ」

「へえ……」

 

 視線が集まった。

 何か言おうとしたら、父さんが声を上げた。

 

「ジーク、麺が上がる」

「はい!」

 

 茹で時間のほうが、俺の評判より急ぎだった。

 

     *

 

 全員に行き渡った頃、足の裏がじんじんしていた。

 

 魔力は、まだ十分にある。

 なのに椅子へ座ると、勝手に息が漏れた。

 

「お疲れさま」

 

 アイシャ姉さんが、小さめの器を置いてくれた。

 麺は、父さんが最後に茹でてくれたものだった。

 

 表面に、ひとかけらのバターが浮いている。

 

「それ、ジーク君が欲しがってたから」

 

 溶けてなくなる前に、俺は手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 汁を飲んだ。

 

 味噌の香り。

 肉の脂。

 炒めた玉葱の甘さに、バターがゆっくり混ざっていく。

 

 麺を持ち上げる。

 まだ少し不揃いで、店の写真みたいにはならなかった。

 

 それでも、すすり込むと汁がついてきた。

 かん水を加えて生まれた香りが、濃い味噌の間からふっと顔を出す。

 噛めば押し返してくる。あの白くやわらかかった麺とは違う。飲み込むと、すぐ次が欲しくなる。

 

 飲んで、すすって、噛む。

 忙しくて、顔を上げられなかった。

 

「どうだ?」

 

 隣で父さんが聞いた。

 

「……味噌ラーメンって、うまいんだな」

 

 父さんは箸を止めた。

 それから、自分の器へ目を落とした。

 

「そうだな」

 

 しばらく、二人で食べた。

 

 父さんの箸は、俺よりずっと上手に麺を掴んだ。

 一度に持ち上げすぎず、汁を跳ねさせずに口へ運ぶ。

 

 真似してみると、いつもより食べやすかった。

 

「今の、どうやった?」

「普通に食べただけだが」

「もう一回」

 

 父さんは少し笑い、わざとゆっくり麺を持ち上げた。

 作り方だけでなく、食べ方も教わることになるとは思わなかった。

 

 先に食べ終わった団員さんが、空の器を運んできた。

 

「ごちそうさん。次の見回り、頑張れそうです」

「また外?」

「ええ。北の門まで。あっちは風が強くてね」

 

 外套を着込みながら、彼は腹を軽く叩いた。

 

「今日は、ここが温かいから」

 

 戸が開いた。

 入り込んだ冷たい風に、俺は首を縮めた。

 

 彼は今から、その中を歩くのだ。

 俺が朝から温めていた鍋の中身を、お腹に入れて。

 

「また作るね」

 

 彼は手を上げて出ていった。

 

「じゃあ次は、出る前に食べられる時間にしようね」

 

 アイシャ姉さんが帳面に何か書きつける。

 

「次も、十五人?」

「おいしかったって聞いた人が来るかもしれないから、少し増えるかな」

「……二十?」

「どうだろうねえ」

 

 俺は残っていた麺を急いですすった。

 

 こねるのは好きだ。

 身体を動かすのも、大好きだ。

 

 ただ、二十人分の生地を想像すると、朝の稽古で赤ママに打たれた腕が、少しだけ痛くなった。

 

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