玉座の間は、冷えていた。魔界の空気のせいばかりではない。そこに立つ者たちが、互いの呼吸を測っていた。
大魔王の玉座を背に、仮面をつけた小柄な影が立っている。豪奢で、威圧的で、人の身には馴染まないような装束だった。アンルシアは剣の柄を握り締めた。
大魔王。兄トーマの仇の名を継ぎ、アストルティアに災厄をもたらす魔界の頂点。それが目の前にいる。
ただ、近づくにつれ、どうしても目につくことがあった。背が低い。マデサゴーラの歪んだ巨躯とも、仰ぎ見るほどの威圧とも違う。仮面と衣装に覆われていても、体格の違いは隠しようがなかった。
その違和感を、アンルシアは怒りの熱で押し流した。
「あなたが……大魔王の継承者」
アンルシアの声は震えていなかった。震えそうになるものを、勇者として押し殺していた。仮面の大魔王は答えない。
玉座の横では、ひとつめピエロのカーロウが小さく縮こまっていた。戦う力などない魔物だった。場違いなところへ置かれたように目をきょろきょろと動かし、逃げる隙を探している。
その反対側には、ヴァレリアがいた。白銀の髪と冷たい眼差しを持つ魔王は、動かずともルシェンダの進路を塞いでいる。アンルシアを援護すれば、あの女が動く。杖を握る手に力を込め、ルシェンダは踏み出しかけた足を留めた。
動けないなら、見るしかない。呼吸を読み、間合いを測るうち、仮面の大魔王に妙なものを感じた。
魔瘴がない。
大魔王の座に立つ者だというのに、周囲に漂うはずの瘴気がほとんど感じられない。魔の気配は確かにある。魔界と無縁ではない。しかし、これは魔瘴が薄いのではない。質が違う。
「アンルシア姫」
ルシェンダは低く呼んだ。
「お気をつけて。あの者、少々妙ですぞ」
「妙?」
アンルシアは剣を抜いた。
「大魔王の玉座にいる。それだけで十分です」
言葉が終わるより早く、アンルシアは踏み込んだ。勇者の剣が光を帯びる。仮面の大魔王は逃げず、手にした剣をわずかに傾けた。
大魔王が剣を持つこと自体はおかしくない。それでもアンルシアは眉をひそめた。禍々しさも荒々しさもない、異様に静かな構えだった。こちらの初撃を受けるため、最初からそこへ置かれていたかのような剣。
刃がぶつかり、金属音が鳴る。押し込んだはずの力が、相手の足元へ逃げた。正面から受けきったのではない。ほんのわずかに流されたのだ。
知っているような受け方だった。その思いが浮かんだことに、アンルシアは苛立った。ありえない。目の前にいるのは大魔王であり、勇者はそれを討たなければならない。
「はあっ!」
アンルシアは連撃に移った。仮面の大魔王は、剣で受ける。時に半歩下がり、時に斜めへずれる。アンルシアの刃は深く届かない。だが、大魔王の刃もまた、アンルシアを傷つけようとはしなかった。その甘さが、さらにアンルシアを苛立たせた。
「なぜ本気で来ないのです!」
仮面の下から、答えはない。代わりに、アンルシアの剣が弾かれる。ほんのわずかな間合いが空いた。アンルシアは左手を掲げる。天井の暗がりが白く裂けた。
「ギガデイン!」
雷が落ちた。狙いは仮面の大魔王と、その近くにいたカーロウ。悲鳴が響くのと同時に、大魔王の手から剣が消えた。
いや、消えたように見えた。次の瞬間には杖が握られ、ほとんど息を吐くより短い詠唱が走っていた。カーロウの前に光の膜が生じる。
「マホカンタ……!」
ルシェンダが思わず声を漏らした。カーロウへ向かった雷だけが反射される。大魔王自身には防壁がない。ただ半歩ずれて、落雷の軌道から身体を外していた。
雷光が玉座の間を白く染めた。床にへたり込むカーロウと、焦げ跡の上に立つ大魔王。その二人を見比べて、アンルシアは息を呑んだ。
守った。自分ではなく、あの魔物だけを。
それをどう受け止めればよいか考えるより早く、仮面の下から声がした。
「私を差し置いて、弱そうな方をやるのが勇者の作法なのかしら?」
女の声だった。アンルシアの胸が、ほんの一瞬だけ軋んだ。聞き覚えがあるような、ないような。仮面越しで、声色も低く抑えられている。断定できるものは何もない。だからアンルシアは、その不安を怒りに変えた。
「魔物を庇って、勇者を嗤うのですか!」
「庇われるような位置にいる者を斬るよりは、ましでしょう」
「黙りなさい!」
アンルシアが再び踏み込む。仮面の大魔王は、今度は剣ではなく杖を構えた。杖先に火が灯る。赤い火球。だが、その圧が尋常ではない。空気が歪み、床石の縁が乾き、熱に弾ける。
「メラゾーマ」
詠唱は短かった。放たれた火球は凄まじい。だが、軌道はあまりにも素直だった。アンルシアは横へ飛ぶ。火球は彼女のすぐ横を通り過ぎ、柱の一部を焼き砕いた。熱風が髪を揺らす。
「そんなもの、当たらないわ」
アンルシアは着地し、剣を構え直した。
「大魔王なら、三ついっぺんに撃つくらいやったらどうなの?」
仮面の大魔王は、ほんのわずか首を傾けた。
「あいにく、そこまで器用ではないの」
次の瞬間、杖先の光が黒く変わった。熱ではない。冷たい闇が集まる。玉座の間の影が、そこへ吸い込まれるように揺れた。
「ドルマドン」
闇の塊が走る。アンルシアの目が鋭くなる。
「やっぱり、闇の呪文を使うのね!」
その声には、怒りとともに納得が混じっていた。大魔王なら闇を使う。魔の力を振るう。そうであれば、討つべき敵として迷わず剣を向けられる。
ドルマ系なら賢者も扱うのだが、とルシェンダは言いかけ、黙った。今の闇は術としてはドルマドンだった。しかし、その質は魔瘴とも、魔族の怨嗟とも違う。人が理解し、組み上げ、制御した術式の整い方をしていた。
完全に人の側の力でもない。そこへ、わずかに魔界の色が混じっている。大魔王の座に触れた者の影とでも呼ぶべきものが。魔そのものに呑まれた気配とは、やはり違った。
「どうした、オーガの賢者よ」
ヴァレリアの声がした。ルシェンダはそちらを見ない。
「なにか気になることでもあったのか?」
ヴァレリアは、笑っていた。ルシェンダが何かを読み取ったことに気づいている。そのうえで、あえて問いかけている。ルシェンダは静かに答えた。
「戦場で余所見を誘うとは、魔王らしい振る舞いですな」
「つまらぬ女だ」
ヴァレリアは鼻で笑った。だが、視線はすぐに中央へ戻った。
アンルシアはドルマドンを斬り払うように避け、勇者の光をまとって前へ出た。闇の余波が床を削り、踏み場を狭めていく。避けた先には、もう剣を持ち直した大魔王がいた。それさえ計算のうちだったのだろう。
剣から杖へ、火から闇へ。守った直後には攻撃の線を外れている。切り替えが速すぎる。いくつもの技術が一人の中に沈み、必要な瞬間だけ表へ出てくる。職業という枠に縛られた戦い方ではないと、ルシェンダは見て取った。
それでも、アンルシアが押し始めていた。彼女は殺すつもりで来ている。仮面の大魔王には、そのつもりがない。
剣は受けるため、呪文は動きを制限するため、反撃は足を止めるために使われていた。焼くことも、斬ることもできる瞬間があったはずなのに、その手を選ばない。戦いが長引くほど、その甘さが足を引いていた。
「よく戦っている」
ヴァレリアが低く言った。それは賞賛に近かった。だが、すぐに続く。
「だが、甘い」
ルシェンダは中央を見たまま、静かに言った。
「よろしいのですかな。あのままでは、そちらの大魔王が押し切られますぞ」
ヴァレリアは少しも動かなかった。
「ならば、それまでだ」
「助けぬと?」
「玉座に座った者が、勇者の剣ひとつ受けきれぬなら、魔界を背負う資格などない」
冷たく、迷いのない声だった。ルシェンダは横目でヴァレリアを見る。この女は本気だ。味方だから助ける、などという発想がない。大魔王であろうと、勇者であろうと、戦場で隙を見せれば死ぬ。それが当然だと考えている。
アンルシアの剣が、大魔王の肩をかすめた。布が裂ける。相手は一歩退き、すぐに体勢を戻した。
アンルシアは息を荒くしていた。攻めている。押している。なのに、届ききらない。相手には、こちらを傷つける気があるのかさえ分からなかった。
「なぜ……!」
剣を振り下ろし、返す。
「なぜ、私を侮るのです!」
答えはなかった。その沈黙に耐えられず、次の一撃を探した時、視界の端にカーロウが映った。柱の陰で腰を抜かしたままの、小さな魔物。
先ほどの呪文は弾かれた。ならば、剣ならば。
ほんの一瞬だけ、アンルシアは勇者ではなくなった。
踏み込みの向きを変える。仮面の大魔王が、初めて動きを止めた。
「だめ!」
それは叫びだった。挑発でも、演技でも、大魔王としての言葉でもない。その声を聞いた瞬間、アンルシアの心臓が跳ねた。
知っている。だが、剣はもう止まらない。
大魔王がカーロウの前へ飛び込み、身体をひねって剣筋に割って入った。刃は肉を裂かず、仮面を掠めた。硬い音とともに亀裂が走る。片手で顔を押さえ、数歩退いたその背中を、カーロウが震えながら見上げた。
「大魔王さま……」
小さな呼び声が、アンルシアの胸に刺さった。大魔王は仮面を支えようとしていたが、亀裂は止まらなかった。破片が落ち、頬が、顎が、唇が見えていく。最後の留め具が弾け、割れた仮面が床へ落ちた。
アンルシアは動けなかった。
そこにいたのは、大魔王ではなかった。いや、大魔王の衣をまとい、玉座の前に立ち、魔界の者たちにそう呼ばれている。それは変わらない。
けれど、その顔を知っていた。何度も見た。共に戦い、隣に立ち、自分が勇者であるために、何度も支えられた顔だった。
「……え」
剣先が下がる。
「どうして」
息が震える。
「どうして、あなたなの」
ユイナは、すぐには答えなかった。アンルシアの声を聞いたまま、まだ下がりきらない剣先を見ていた。
答える代わりに、後ろのカーロウへ声をかけた。
「カーロウ、下がって」
その言葉が、アンルシアをさらに揺らした。自分ではなく、カーロウ。自分が斬ろうとした相手を、まだ守っている。
「あなたは……」
アンルシアの声は細くなった。
「あなたは、大魔王なの?」
ユイナは答えようとした。その瞬間、ヴァレリアが動いた。白銀の影が消える。アンルシアは気づかない。気づけない。動揺で、剣も心も乱れている。ルシェンダが反応する。
「姫!」
だが遅い。ヴァレリアの一撃が、アンルシアの死角へ走る。その前に、ユイナが入った。大魔王の衣が翻る。だが、そこに生じた光は魔瘴ではなかった。勇者を守る、盟友の光。
盟友ガード。ヴァレリアの攻撃が弾かれる。アンルシアは目を見開いた。自分が斬りかかった相手に、守られた。大魔王の玉座に立っていたはずの、盟友に。ヴァレリアは攻撃を止め、静かにユイナを見た。
「防ぐか」
ユイナはアンルシアの前に立ったまま、答えた。
「防ぎます」
「甘いな」
ヴァレリアは目を細める。
「だが、今のは悪くない」
それは、彼女なりの評価だった。
アンルシアはまだ動けなかった。剣を握る手が震える。今度こそ柄を放さなければと思うのに、指が言うことをきかない。
「どうして……」
同じ言葉しか出てこなかった。
「どうして、私を守るの。あなたは、大魔王なのでしょう」
ユイナは足元の仮面の欠片を見てから、アンルシアへ顔を向けた。間に立った身体はどかなかった。
「勇者を、斬らせるわけにはいきません」
アンルシアの瞳が揺れた。その言葉は、ただ命を守る言葉ではなかった。カーロウへ向けた刃まで見ていた盟友が、なお、勇者としてのアンルシアを守ろうとしていた。