「おばけキャンドルでよかったんですよね、あの石」
「久しぶりに会って、最初に言うことがそれか」
「会うたびに言おうと思って」
「元気なようで何よりだ」
「そうやって済ませる」
ヘルガは少し笑い、包みを抱え直した。その拍子にひとつ落ちかけたので、ユイナは手を出した。受け止めた包みからは、甘い焼き菓子の匂いがした。
「アルノー君に?」
「ああ。今日は一緒に食べようと思ってな」
「じゃあ、お引き止めしちゃ悪いですね」
返そうとした手が、一度止まった。以前ならこの人は、息子のそばへ帰るよりも先に、どこかで起きている災いを調べに行ったかもしれない。ヘルガはユイナの顔を見て、包みを受け取ると中から一つ取り出した。
「お前の分くらいはある。少し歩くか」
並んで町を歩いた。どれほど呪文を覚えたかも、どんな魔物を倒したかも聞かれなかった。仲間に僧侶を頼まれることが多いと言うと、ヘルガは当然とも意外とも言わず、続きを待った。
「私は魔法使いが好きなんですけどね」
「それは前にも聞いた」
「でも、回復役が足りないって言われると、断りにくいんです」
「皆に頼まれるのが嫌か」
「嫌ではないです。……うまくやれるか、怖い時はあります」
それを口にすると、手にした菓子がひどく大きく感じた。戦う前の仲間には言いにくい。敵の動きが分かっていても、誰を先に癒やすかを選ぶ手が遅れることはある。逆に、急ぎすぎて先へ出てしまうことも。
「最初に泉へ手を出した時のことは、覚えているな」
「覚えてます。香木しか見ていなかった」
汚れに気づかないまま触れかけて、ヘルガに止められた。今なら見えるものが、当時は見えていなかった。それを師が言い当てる声まで、ユイナは覚えていた。
「今のお前が何を見られるようになったか、私は毎日は見てやれん。お前が確かめるのだ。そばで戦う仲間にも聞け」
「また課題ですか」
「もう私の弟子ではないのだろう」
ユイナは菓子の端を割った。卒業を告げられたことは嬉しかったのに、こういう時だけ、まだ先生が正しい答えを持っていてくれたらと思う。
「ヘルガ様は、怖くなくなりましたか」
相手の足が、少しだけ遅くなった。
「私にまで、立派な顔をさせるな」
叱る声ではなかった。ヘルガは抱えている包みへ目を落とした。
「帰ったら、これを一緒に食べる。そうできる日は、そうすることにした」
「……はい」
曲がり角で別れるまで、ユイナはサブナックへの文句をもう一度だけ言った。ヘルガは今度は言い返さず、笑って聞いていた。
商会の奥で、ラグナが今夜の参加者を数えている。その声に、ユイナは顔を上げた。
「ちゃんと、怖いと思いながらやるようになったよ」
アンルシアは頷いた。上手だから頼まれるのだと思って見ていた人にも、別の人へ聞き返したいことがある。その話をもう少し聞いていたかったが、ユイナは先にラグナへ声を掛けた。
「今夜の行き先、先に教えて。装備と道具は確認するから」
「はいはい。捕まってくれるんだね」
「確認するだけ」
「そこから断れたこと、あった?」
ユイナが返事に詰まり、アンルシアは笑った。
「ユイナ」
「何?」
「王女さま呼びが嫌な理由、聞いてもいい?」
ユイナの表情が、少しだけ渋くなった。
「……聞く?」
「嫌ならいいわ」
「嫌だけど、たぶん話した方がいい」
ポルテが近くで聞き耳を立てていたので、ユイナは軽くその額を小突いた。
「いたっ」
「仕事」
「はーい、王女さま」
「ポルテ」
「ユイナさん!」
ポルテは慌てて走っていった。
ユイナは小さく息を吐く。
「戦禍のタネを拾ったことがある」
「戦禍のタネ?」
アンルシアは聞き返した。
「キュロノスを倒した後に残ったもの。見た目は小さな種みたいなものだけど、触れると、胸の奥にある黒い感情を引きずり出される」
「黒い感情……」
「怒りとか、支配欲とか、見下しとか、そういうもの。普段なら考えないようにしているものが、急に言葉になる」
ユイナは視線を少し落とした。
「その時、思ったんだよ。メレアーデは甘い。あの人では、エテーネを強くできない。なら、私が王になればいい。私ならもっと強く、もっと正しく、もっと効率よくできるって」
アンルシアの表情が引き締まった。
「あなたが?」
「うん。私が」
ユイナは苦笑した。
「ひどいでしょう」
「……ひどいというより」
アンルシアは少しだけ言葉を探した。
「危ういわ」
「うん。だから封印した」
「封印したあとで、みんなには王女さまだと明かしたのね。……どうして?」
「分からない」
「分からないの?」
「たぶん、少しだけ浮かれていたんだと思う。危ないものを封じたつもりで、逆に、自分はもう大丈夫だと思ったのかもしれない」
「それで、チームの人たちの前で?」
「うん。私、実は王女様だったんだよね、みたいなことを言った」
アンルシアは、少しだけ目を閉じた。
「それは……黒歴史ね」
「黒歴史なんだよ」
ユイナは本気で嫌そうだった。
「みんなは、得意げに自慢した私を面白がってるだけ。でも私には、あの時の黒い感情までくっついてくる。だから嫌なんだよ」
アンルシアは黙った。王女さまという呼び名は、血筋を知って得意になった友人への、ただの冗談にも聞こえる。仲間たちには、そうなのだろう。
けれどユイナは、自分なら王になれると思ったことを覚えている。なってしまえるかもしれないと、望んだことまで。それを知った上で近づかないと決めた黒い選択肢が、軽い呼び声のたびに胸へ戻ってくる。
笑い話にされる居心地の悪さを、アンルシアは少しだけ理解した。それでもここへ帰り、皆と仕事を続けることまで含めて、ユイナは引き受けているのだった。
「それでも、みんなを怒らないのね」
「本気で止める時は止めるよ。でも、悪意で呼んでいるわけじゃないから」
ユイナは倉庫の中を見た。
「それに、ここはそういう場所だから」
「そういう場所?」
「肩書きが勝手に増えて、呼び方が勝手に増えて、仕事が勝手に増える場所」
「ひどい場所ね」
「うん」
「でも、あなたらしいわ」
ユイナは少しだけ困った顔をした。その顔を見て、アンルシアはなぜか安心した。ここにいる者たちは、ユイナの臣下ではない。王女を囲む廷臣でも、大魔王に従う軍勢でもない。仕事をする者たち。報酬を受ける者たち。
自分の装備を自分でなんとかし、足りないものを相談し、必要ならユイナを僧侶として捕まえる者たち。そして、ユイナが拓いた道を、それぞれ勝手について来たり、外れたり、また戻ったりする者たち。
「盟友は、あなた一人なのよね」
「うん」
「でも、あなた一人だけが歩いてきたわけではないのね」
ユイナは、少しだけ黙った。
「勝手について来たり、別の方へ行ったり、たまに勝手に帰ってきたりする人たちだよ。私より詳しい場所だって、いっぱいある」
「それでも、道はあるわ」
アンルシアは静かに言った。
「あなたが拓いた道が」
ユイナは答えなかった。その時、奥からポルテの声が飛んだ。
「王女さまー! 勇者さまに出すお茶、どれー?」
「だからやめて!」
「高いやつ?」
「普通のでいい!」
「王女さまなのに?」
「ユイナさん!」
アンルシアは、思わず笑った。フィネトカへ至る道は、まだ遠い。女神も、闇の根源も、大魔瘴期も、何一つ軽くなってはいない。けれどアンルシアは、少しだけ分かった気がした。
ユイナの戦いは、剣と呪文だけでできているのではない。こういう場所で、こういう人たちと、こういう呼ばれ方をされながら、仕事と信用と見栄と黒歴史を抱えて進んできたのだ。
それは、勇者の物語とは違うかもしれないが、たしかに世界を支える物語だった。