そう思った時、入口の方で小さなざわめきが起きた。風待ち商会の者たちが、自然に道を空ける。先ほどまで勇者姫を囲もうとしていたプクリポたちも、今度は何も言わずに荷箱の脇へ下がった。アンルシアは振り返った。
入口に、二人の竜族が立っていた。一人は男。背に大きな盾を負い、鎧には白い粉塵と乾いた泥がこびりついている。鱗の隙間に細かな砂が入り込み、長い道を抜けてきたことが一目で分かった。もう一人は女だった。外套の裾が裂け、腰には短い刃と縄、地図筒。片方の肩には、何度も折り畳まれた革袋が掛かっている。疲れているはずなのに、目だけは妙に冴えていた。
ユイナが顔を上げる。
「ザイード。リュカナ」
男の竜族が、短く頷いた。
「戻った、隊長」
「隊長でもない」
「現場で指示を出す者は隊長だ」
「毎回それ」
女の竜族、リュカナが少しだけ笑った。
「今回は、隊長の親書の返事もある。呼び方くらいは我慢して」
「それは関係ある?」
「ある。たぶん」
ユイナは諦めたように息を吐いた。アンルシアは二人を見た。
「竜族……?」
ザイードがそこでようやくアンルシアに視線を向ける。
「勇者姫か」
あまりにも淡々とした声だった。アンルシアは少し戸惑う。
「驚かないのね」
「隊長の周囲では、珍しくない」
「勇者が?」
「大魔王もいる」
アンルシアは言葉に詰まった。リュカナが肩をすくめる。
「私たちは、込み入った話より道を開ける方が得意だから。勇者姫に会うより、抜けてきた迷宮の話を先にしたいわ」
「道を……」
「エクゼリアへ抜ける道よ」
ユイナの目が、その言葉で少し鋭くなった。
「報告を聞かせて」
風待ち商会の空気が変わった。
シェリルは開いていた帳簿を閉じ、調査の控えを取り出した。ポルテは茶を置ける場所を探し、ガルドは入口の荷を壁際へ寄せる。雑談の終わりを誰かが命じたわけではなかった。帰ってきた二人の報告を聞くため、それぞれが自分の仕事を変えていた。
ザイードは背負っていた盾を下ろし、丸めた地図を机の上へ広げた。入口の方で荷を預けていた二人も、濡れた外套を脱いで机へ来る。赤い小石を連ねた首飾りのオーガと、地図筒を両腕で抱えたエルフの女だった。
「オーグリード側の旧道入口から、大迷宮へ入った。『赤礫団』『灯渡り』『苔石の靴』と合同。苔石の靴は中層で撤退。他の二組はエクゼリア側まで同行した」
「戻ったなら、先に声を掛けてよ、ベリサ」
ユイナが言うと、赤礫団の女戦士は首飾りを指で払った。
「先に濡れ物を預けろって、お前のところの倉庫番に止められた。正しいと思うよ。勇者姫の前で水を垂らしたくない」
アンルシアへ会釈してから、ベリサは机の端へ小袋を置いた。中には鱗と、割れた牙が入っていた。
「ゴルムが拾ってきた。遠征代の足しにはなるか?」
「ゴルム、あの重い盾を直しながら、これまで拾ってたの?」
「どうぐ使いだからね。フェノが治療をして、ピトが魔物を引きつけてる間も、落ちた留め金を探してた。治療の邪魔だって叱られても、聞きやしない」
ドワーフのどうぐ使いに、人間の僧侶とプクリポの旅芸人が振り回される。話を聞くユイナは、よく知る顔を思い浮かべるように笑った。文句を言う声にも、無事に戻った者への気安さがあった。彼女は鱗を一枚裏返した。
「これは買える。牙は二つ、内側まで割れてる。査定はシェリルとね」
「英雄様に高く買ってもらおうと思ったのに」
「英雄の財布も同じだから」
ベリサは笑った。初めての取引ではないらしかった。
エルフの女は、その横で乾いた布を敷いてから地図を広げた。灯渡りのイゼル、とユイナが紹介する。彼女のローブの袖口には、ユイナが自分の仕立てだと分かる、小さな縫い直しがあった。
「袖、まだ引っかかる?」
「いいえ。ただ、次は斥候のサージの分も頼みたい。ウェディでも、あの冷たい水に腰まで浸かるのは嫌だそうよ」
「通路が水没してたの?」
「水路を越えた先で、床が抜けた。ドーザが盾ごと支えてくれなかったら、サージは下まで落ちてたわ。あの人の腕力と、メリアの回復がなかったら、私たちも引き返してた」
オーガのパラディンが踏ん張った場所に、細い線が足された。人間の僧侶が立てた灯りの位置も残っている。冒険者四人の名前が、道の曲がり方と結びついた。
「この地図、ほかの班にも渡してほしい」
イゼルは紙をユイナへ押した。だが、手は離さなかった。
「ただし、写す時に灯渡りの名を消さないで。次の調査も頼むなら、地図の代金は討伐の報酬と別よ。測っている間、魔法使いの私が一人、攻撃から抜けるんだから」
「分かった。買った地図を、次の班へ渡せる条件で。間違いを直した人の名前も残す」
そこで初めて、イゼルの指が紙から離れた。
「西側通路は崩落。人が一人ずつ抜けるのが限界」
リュカナが地図の一点を押さえた。
「木の支えを入れたけど、長くはもたない。上からの圧が強い。鉄材が要る」
「東側は?」
「通れる。けれど、通れるだけ」
ベリサが横から答えた。
「階段を上がったのに、同じ傷の柱へ戻った。二度目は違う道へ進んだつもりで、足元に穴があった。戦っている時より、戦い終わって急いだ時が危ない」
「苔石の靴は、その穴で?」
ユイナが尋ねると、リュカナは頷いた。
「オルドが先を確かめて、キオルが荷を受け取った時に縁が崩れた。ルッカが縄を結んで引き上げたけれど、スイの腕が折れた。本人は治せると言ったわ。でも、僧侶が自分の痛みをこらえている隊を、奥には連れていけない」
ドワーフのレンジャー、人間の戦士、プクリポのどうぐ使い、エルフの僧侶。シェリルが帰還の印をつけた四人の欄へ、ユイナは視線を落とした。
「戻る分の報酬は?」
「渡しました。オルドさんは入口の荷受けを続けたいと。深く潜らなくても引き受けられる仕事があるなら、その条件を聞きたいそうです」
「じゃあ、私から話す。踏破した人だけに払う仕事にはしない」
アンルシアは、地図の穴へ置かれた指を見た。撤退した一組という言葉の中に、痛む腕があり、帰る判断があり、次に稼ぐ場所を探す者がいた。
「水場は二か所。一つは使える。もう一つは巣に近すぎる」
ザイードが報告を続けた。リュカナは使える水場のそばに小さな丸をつけた。
「ここなら風も通る。最初の補給拠点を置ける。もう一か所、高い岩棚も見つけたけれど、そちらには水を運ぶ必要があるわ」
ユイナは丸の間の距離を見てから、引き返すために残す食料を尋ねた。ベリサが数を答え、イゼルが一日分増やした。道を間違えず、魔物にも止められなかった場合の最短日数では、人を送れない。机に集まった者たちは、その一日分の重さを知っていた。
「親書は?」
ザイードが封筒を取り出した。
「届けた。コゼット女王からの返書だ」
「女王?」
アンルシアが聞き返した。リュカナが頷く。
「エクゼリア王国の女王。若いけど、言葉ははっきりしていた。こちらの意図も、かなり理解している」
ユイナは封書を受け取り、封蝋を確かめた。
「コゼットが、女王に」
声に感慨が混じった。アンルシアもその名を反芻する。
「コゼット……。さっき話していたロディア様と、何か関係があるの?」
「妹だよ。ロディアは世告げの姫たちの中心にいた人で、災厄の王を封じるために、他の姫たちと一緒に身を捧げた。だから、王位は妹のコゼットに移ったんだと思う」
「姉が世界のために身を捧げ、妹が王位を継いだのね」
「うん」
アンルシアの表情が曇った。ユイナはその先を急がず、封書の端を指で撫でた。ロディアの不在が、ここでは女王の名と印になって届いている。
封を切ると、女王としての正式な返書が現れた。紙も文面も驚くほど整っている。エクゼリアは、忘れられた小国のままで終わるつもりはない。その意思は、儀礼的な挨拶に続く具体的な条件に表れていた。
通行権と大迷宮の安全調査、盆地側に置く仮設補給拠点。それぞれについて国側が認められる範囲を示し、将来の交易路整備にも触れている。
「条件付きで前向き、か」
シェリルが横から紙を覗いた。
「通行権、調査権、それに盆地側の拠点。かなり大きな譲歩ですね。こちらの負担も、返書できちんと示さないと」
「エクゼリアも道が欲しいんだよ」
ユイナは地図を見た。
「外へ開けば、人も物も入る。危険は増えるけど、選択肢も増える。忘れられた小国のままではいられないって、コゼットも考えてるんだろうね」
そこで、目が止まった。正式な返書の末尾、儀礼的な結びのさらに下に、小さな追記があった。
ユイナさんが来てくださるものと思っていました。
女王の言葉というより、コゼット個人の声だった。ユイナが黙り込むと、アンルシアが覗き込んだ。
「どうしたの?」
「……怒ってる」
「誰が?」
「コゼット。女王としての文面はちゃんとしてるんだけど、最後に私信みたいな追記がある。ユイナさんが来てくれるものと思っていました、って」
アンルシアは目を瞬かせた。
「それは……」
「ぷんすこしてる」
「ぷんすこ」
「かなり丁寧にぷんすこしてる」
「実際、少し不満そうだった」
リュカナが口を挟んだ。
「リュカナ」
「顔には出していなかったわ。でも、返書を渡す時に一拍置いた」
ザイードも頷いた。
「女王としては礼を尽くしていた。だが、個人としては隊長に来てほしかったのだろう」
ユイナは額に手を当てた。
「うわあ」
「行ってあげればよかったのでは?」
アンルシアは少し笑いそうになったが、ユイナがもう一度追記を読んだので、言葉を足すのをやめた。
「行きたかったよ。大魔瘴期とか闇の根源とか女神とか、こっちにもいろいろある。でも、そういう事情を抜きにしたら、私が行くべきだったのも分かるんだよね」
「ええ。それは、分かるわ」
ロディアは身を捧げ、コゼットは国を継いだ。いま、その国を外へ開く話をユイナが持ちかけている。コゼットが本人に会いたいと望み、来なかったことを少し怒る権利くらいはある。
「返事を書く。正式な返答と、私信を分けて」
「謝るの?」
「謝る。あと、必ず行くと書く」
アンルシアは目を細めた。
「本当に行けるの?」
「行く」
今度は即答だった。ユイナは返書を折ろうとしかけ、その前にシェリルへ条件の箇所を示した。
「闇の根源の件を片づけてからになる。それは先に伝える。交易の話をするなら、女王本人に会わないといけないし、コゼットには、私から直接話したいこともある」
「そうね。待ってもらうなら、約束は曖昧にしない方がいいわ」
ユイナは頷き、返書を丁寧に畳んだ。それから地図へ視線を戻す。ロディアが災厄を封じ、コゼットが継いだ国へ道を通す。その話を、恩だけで終わらせるつもりはなかった。
アンルシアは、静かに言った。
「あなたは、その道を作ろうとしているのね」
「うん」
ユイナは当然のように頷いた。