ユイナは、地図の上に置いていた指を動かした。エクゼリア。大迷宮。オーグリード。レンダーシア。そこに線を引くように、指先が止まる。
「エクゼリア側の話は、これで一応進められる」
「コゼット女王の返書があるものね」
アンルシアが言うと、ユイナは頷いた。
「うん。通行権、調査権、補給拠点の話は、正式に返せる。次は、こちら側でどこまで準備できるか」
「収納術と、遠征装備?」
「それもある」
ユイナは顔を上げた。
「でも、それだけでは足りない。道を作るには、お金がいる」
アンルシアは、少しだけ眉を寄せた。
「投資家に話をしに行くのね」
「うん」
「ゴーレック様と、リーネさん?」
「その二人は外せない」
ユイナは当然のように言った。
「ゴーレックさんは、ラッカランそのものを作った人。冒険者が集まる場所を作り、ちいさなメダルの仕組みで、討伐や探索の実績を価値に変えている。お金だけじゃなく、人を動かす仕組みを持っている」
「リーネさんは?」
「冒険者が強くなりたいと思う限り、お金が集まる人」
ユイナは少し遠い目をした。
「合成して、消して、また合成する。文句を言いながら、みんな戻っていく」
「……怖い言い方ね」
「怖い人だよ」
「あなたがそれを言うの?」
「私も怖いと思ってる」
アンルシアは、少し呆れた顔になった。
「準備の意味は分かったわ。でも、投資の話まで今から回って、フィネトカへ行くのが遅れない?」
世界を滅ぼさせないための旅と、助かった後の世界に鉄道を通す仕事。どちらも止めないのなら、いま二人ですることと、ほかの者に任せることを分けなければならない。アンルシアは地図を見た。ユイナもその視線を追い、頷いた。
ユイナは静かに言った。
「世界が滅ぶかもしれない時でも、いや、そういう時だからこそ、お金を動かすのは止めない方がいい」
アンルシアは目を上げた。
「……ずるい言い方ね」
「そう?」
「分かるわ。分かるけれど、その言い方は少しずるい」
ユイナは苦笑した。
「ここで全部の契約を片づけるつもりはないよ。話を通して、私たちがフィネトカへ行っている間にも準備を進めてもらう。お金が止まれば仕事が止まるし、人が動けなくなれば、助けられるものも助けられなくなるから」
ユイナは、風待ち商会の奥を見た。シェリルが帳簿をめくっている。ガルドが荷箱を積み直している。ポルテが茶器を抱えたまま、誰かに何かを怒られている。
「世界が危ないから全部止めましょう、じゃ駄目なんだよ。誰が何を作って、何を運んで、どこへ払うか。そこは、世界が続くつもりで決めておきたい。それに私、助かったあとで商売を一からやり直すの、嫌だもん」
「あなたは、それを戦いだと思っているのね」
「うん」
ユイナは頷いた。
「剣と呪文だけが戦いじゃない」
アンルシアは帳簿を抱えたシェリルを見た。こちらの旅が終わるまで、あの人たちが手を止めて待っているわけではない。剣と呪文以外の戦い、と言葉にすれば重いが、ユイナはその中に自分の稼ぎも、皆の仕事も平然と混ぜていた。
ガルドはもう次の荷を持ち上げていた。女神のもとへ向かう二人の旅も、その手を止めずに続く仕事に支えられる。ユイナが商売を戦いに含める意味を、アンルシアは目の前の働きとして受け取った。
「それに」
ユイナは、少し表情を緩めた。
「アンルシアも、あの人たちには会っておいた方がいいと思う」
「私も?」
「うん。面白いよ」
「あなたより面白い人なんて、いないと思うわ」
ユイナは一瞬、言葉に詰まった。
「それはそれで嬉しいけど」
「嬉しいの?」
「少し」
ユイナは照れたように目を逸らし、それからすぐに戻した。
「でも、色々な人に会わないとね」
「色々な人」
「一人で戦うなって、アンルシアが言ったでしょう」
アンルシアは、はっとした。落陽の草原で、自分が言った言葉だ。災厄の王が、一人で抱えた末に災厄そのものになった。だから、ユイナに一人で抱えないでと言った。ユイナは、それを覚えていた。
「アンルシアだって、アルヴァン様のことを覚えているでしょう」
その名に、アンルシアの表情が変わった。アルヴァン。先代のグランゼドーラの勇者。盟友カミルと共に戦い、けれど最後にはカミルを置いて、一人で戦いに向かった人。
「アルヴァン様は、カミル様を想うあまり、彼女を守ろうとして、一人で最後の戦いに向かった」
ユイナの声は静かだった。
「その後の悲劇は、今では誤解が解かれた。でも、誤解を解くのに千年かかった」
アンルシアは唇を引き結んだ。千年。その長さは、想像するだけで重い。
「一人で戦うことは、美しい話に見える時がある」
ユイナは続けた。
「でも、残された人がいる。誤解が残る。言葉が届かなくなる。力があっても、正しくても、一人で行けば、あとに残るものが歪むことがある」
「……ええ」
「だから、私は会いに行く」
ユイナは地図を巻き戻し、リュカナへ渡した。
「ゴーレックさんにも。リーネさんにも。ササラナさんにも、ヴェキオさんにも、トートさんにも。必要な人に会って、必要な利害を繋ぐ。世界を救うために、勝手に巻き込む」
「勝手に?」
「もちろん、契約はするよ」
「そこは大事なのね」
「大事」
ユイナは真顔だった。アンルシアは小さく息を吐いた。
「やっぱり、あなたは王女様というより――」
「アンルシア」
「分かっているわ」
「本当に?」
「言わない」
「ならいいけど」
アンルシアは少しだけ微笑んだ。
「でも、そう見えるもの」
「だから、私はもっと稼ぎたいだけなんだけど」
「それは、もう分かったわ。稼ぎ方の話をしているの」
ユイナは不満そうにした。そこへ、ポルテが茶器を抱えて戻ってくる。
「女王様ー、お茶入ったよー」
「だから!」
ユイナが振り向く。
「誰が広めたの!」
「アンルシア様?」
「アンルシア!」
アンルシアは思わず顔を逸らした。
「半分くらいは、私かもしれないわ」
「認めた!」
ザイードが荷を背負い直す。
「段取りは決まったな」
リュカナが地図筒を肩に掛けた。
「ラッカランでササラナ。次にヴェキオ。最後にゴーレック?」
「うん」
ユイナは頷いた。
「リーネさんには、その後に話をする。実際に頼みたい仕事は弟の件が済んでからになるかもしれないけど、交渉だけは先にしておきたい」
「弟さんの力が必要なのね」
「うん」
その返事のあとだけ、ユイナは少し黙った。アンルシアも、それ以上は聞かなかった。弟がいなければできない仕事があり、彼とでなければやりたくないこともあるのだろう。
まずはフィネトカへ至る手掛かりを追う。その前にラッカランとジュレットで話を通し、エクゼリアへ返事を出す。まだ見えない未来へ、今いる場所から手を伸ばしておく。
ユイナは、剣を抜く前から戦っている。アンルシアはその言葉の意味を、今度は一緒に段取りを考えながら理解し始めていた。