ラッカランの駅へ降りた瞬間、アンルシアは足を止めた。グランゼドーラの城下町とも、風待ち商会の雑然とした倉庫とも、魔界の荒れた都市とも違う。磨かれた石畳には華やかな看板の色が映り、歓声さえ、客を迎えるために整えられているようだった。
何もなかった小島をゴーレックが買い取り、カジノやコロシアム、メダル・オーナーの館を築いたという。娯楽島ラッカラン。金が集まるから人が来るのか、人が勝負を求めるから金が集まるのか。駅から流れ出す人波を見ていると、どちらが先なのか分からなくなる。
カジノへ向かう者、コロシアムを目指す者、小さなメダルを握りしめて館へ入る冒険者。ランプ錬金ギルドへ急ぐ職人の脇を、笑い声を上げた一団が通り抜けた。同じ通りを、誰とも目を合わせず早足で過ぎる者もいる。明るい島だ。だからこそ、明るさの届かない顔が目につく。アンルシアは知らず周囲を見回していた。
「……ここに来たこと、お父様に知られたら怒られそう」
ユイナが振り返った。
「仕事だよ? ササラナさんに会うだけだよ?」
「分かっているわ。それも分かっているのだけれど」
アンルシアはカジノの方角を見た。入口へ吸い込まれる人の数に、説明を求める父の顔が重なる。
「王女が娯楽島に来た、というだけで、どう説明しても面倒な気がするわ」
「真面目」
リュカナは感心したように言った。ザイードも「本当に真面目だな」と頷く。その声に皮肉がなかったので、ユイナはかえって二人を睨んだ。
「二人とも、アンルシアを褒める時、だいたい私を下げてない?」
「隊長は説明を後からつける」
「ユイナは必要ならカジノの奥でも商談する」
「否定しにくい」
笑いかけたアンルシアは、ザイードの視線がまだカジノに向いていることに気づいた。
「ザイードは、こういう場所が苦手なの?」
「好まない。欲を煽る場所だ」
理由を尋ねかけた彼女より先に、ザイードが続けた。
「勝つ者がいるなら、負ける者もいる。楽しみで済む者もいる。済まない者もいる。神殿では、そういう者も見た」
軽蔑の声ではなかった。華やかな入口を見ていながら、その向こうで笑えなくなった者のことを考えている。リュカナは同じ入口へ目をやり、肩をすくめた。
「私は嫌いじゃない。人が集まる場所には情報が集まる。金が動く場所には道ができる」
「道?」
「攻略の道。商売の道。逃げ道も」
リュカナは周囲を見た。
「ここは華やかだけど、ただ遊ぶ場所じゃない。冒険者を集め、競わせ、金を動かし、必要な者を必要な場所へ通す島だ」
ユイナは頷いた。
「ゴーレックさんの島だからね」
「世界一の金持ちなのでしょう?」
アンルシアが問う。
「たぶん」
「たぶん?」
「本当に一番かどうかは知らないけど、少なくともそれに近い。小島を買って、娯楽と冒険者経済の拠点にした人だよ」
ユイナはメダル・オーナーの館の方を見た。
「しかも、ただカジノを作っただけじゃない。小さなメダルを集める仕組みも、冒険者が何度も訪れる理由も作っている」
「それで、ササラナさんも?」
「うん」
ユイナの声が少し変わった。
「あの人を、ただのお手伝いとして置いているように見えるのが、すごい」
アンルシアは眉を寄せた。
「ただのお手伝いではないの?」
「会えば分かる」
* * *
メダル・オーナーの館は、島にふさわしく豪奢でありながら、カジノほど騒がしくはなかった。展示された調度の間を冒険者たちが行き交っても、廊下は整えられ、屋敷としての品が失われていない。高価な物を並べただけでは、こうはならないだろう。
二階にいたササラナは、ユイナを見るなり表情を明るくした。
「あっ、ユイナさん! お久しぶりです。装備ぶくろの調子はどうですか?」
「とても良いです。持ち替えの時も、職人道具を出す時も助かっています」
「よかったです!」
その喜び方が、アンルシアには意外だった。華やかな島やゴーレックの財力から想像した人物とは違う。服装も仕草も控えめで、ただ荷物の整理を好む人に見える。ユイナはその人に、当然のように自分の装備袋を見せていた。
ユイナは一歩横へずれた。
「今日は、三人に収納術を見てもらいたくて」
「三人?」
「アンルシア。ザイード。リュカナ」
ササラナはアンルシアを見て、一瞬だけ固まった。
「勇者姫さま……?」
「アンルシアで構いません」
「い、いえ、そんな。ええと、よろしくお願いします」
ササラナは深々と頭を下げた。ユイナは少し笑う。
「アンルシアは基礎から。ザイードとリュカナは大迷宮の遠征用です」
「大迷宮?」
「オーグリードからエクゼリアへ抜ける長い道。装備、道具、食料、地図、予備武器、全部持つと重い」
ササラナの目が、少しだけ真剣になった。
「なるほど。長期遠征ですね」
ユイナは頷いた。
「ザイードは重装備と予備盾。リュカナは罠解除道具と斥候用の小物。アンルシアは戦闘中の持ち替えまで見据えて」
「分かりました。長期遠征と、戦闘中の持ち替えですね。では、最初は普通の整理術から」
ササラナは嬉しそうに両手を合わせ、机に小さな袋と道具を並べた。「普通の?」とアンルシアが聞き返すと、細長い道具を袋の壁に沿わせてみせる。
「はい。荷物の向きと形を揃えるんです。丸いものは丸いもの同士。壊れやすいものには仕切りを入れて、よく使うものは入口に近く。重いものは下へ入れます。でも、ただ下へ置くと、持つ人の動きが鈍るので、重さを少し逃がします」
「重さを逃がす?」
ザイードが袋を持ち上げた。ササラナはその手元を見ながら、底に入れた物の位置を直す。
「袋の中で重心を作ります。身体の動きに合わせて、揺れを少なくするんです」
ザイードは袋を左右に振り、腰へ寄せて確かめた。頷いてから口にした「実用的だ」は、先ほどまでの見学者の声ではなかった。
「濡れた装備は入れられるか」
「入れられます。ただし、乾いた物とは層を分けてください」
「血のついた盾は?」
「食料と近づけないでください。匂いも移ります」
「刃物は?」
「向きを固定します。慣れないうちは、袋の中で暴れます」
「落下した場合は」
「中身は持ち主より少し遅れて揺れます。重い物は下に寄りますから、配置を考えた方がいいです」
ザイードは頷いた。
「実用に足る」
ササラナは嬉しそうに笑った。次にリュカナが身を乗り出す。
「走りながら取り出せる?」
「練習すれば」
「崖を登りながらは?」
「片手で口を開けられるようにすれば」
「罠解除道具を順番に出すには?」
「最初から順番を決めておくといいです。袋の中を探すのではなく、手が覚えている場所へ取りに行く感じです」
リュカナはユイナを見た。
「ユイナの武器替えと同じか」
「同じ」
ユイナは頷いた。
「袋の中を探しているわけじゃない。取り出す場所と順番を、先に決めている」
「戦闘前に配置を作る」
「そう」
「なるほど。これは要る」
アンルシアも手を伸ばしかけ、まだ説明の途中だと思い直して引いた。最初は荷物整理の話だったはずだ。いまザイードたちが確かめているのは、重心がどう動くか、どの順で手を伸ばすか、目で探さず必要な物へ届くかということだった。剣の稽古でなら分かる問いが、小さな袋の上に並んでいる。ササラナは、そのことを特別とも思わず話していた。
「それで、ここから、少しだけ内側を広げます」
ササラナが袋の口へ手を入れた。アンルシアは今度こそ身を乗り出す。
「広げる?」
「袋の中には、畳まれている余白があります。それを、こう、少し起こすんです」
指が縁をなぞった。布は同じ形のままなのに、内側だけが奥へ伸びる。暗くなったのではない。底は見えている。ただ、そこまでの距離が、外側から測った袋の深さと合わなくなっていた。
「……今、何を?」
「余白を作りました」
「空間を曲げてる」
横からユイナが言ったので、アンルシアは袋からササラナへ顔を上げた。ササラナは大げさなことをしたつもりがないらしく、かえって困ったように笑った。
「ほんの少しです。大きく曲げると危ないので」
「ほんの少しで済む話ではないわ。危なくなければいい、という問題でも……」
言いながら、アンルシアはもう一度底を覗いた。やはり、遠い。ユイナはその横顔を楽しむように肩をすくめた。
「ササラナさんは、こういう人です」
「あなた、これを全部継承しているの?」
「全部ではないけど、かなり」
ササラナが即座に首を横に振った。
「いえ、ユイナさんはすごいですよ。私が教えたことを、武器の持ち替えや職人道具の管理にまで応用してしまったんですから」
「それはユイナが変なのでは?」
リュカナが、アンルシアに同意を求めるように言った。返事を待たず、ザイードが袋を持ち直す。
「変ではない。必要だから工夫した。それだけだ」
「そう。変じゃないよ」
味方を得たユイナは、少し胸を張った。ササラナは三人を見比べ、それから真面目な顔で袋の口を開いた。
「使い方が違っても、基礎は同じです。収納術は、ただ物を多く持つためのものではありません。どこにあるか。どう取り出すか。どう傷つけないか。持つ人の動きと、袋の内側の動きを、どう合わせるか。それを整える術なんです」
アンルシアは黙って聞いた。ササラナが指を引くと、広がった袋の口がわずかに揺れる。
「戦闘中に使うなら、特に心が乱れると危ないです。焦ると、袋の中も乱れます。出したいものと違うものを掴むこともあります」
剣を取りたい時に道具を掴む。盾が要る瞬間に、盾の居場所を失う。アンルシアは自分の手を見た。便利な術だと驚いているだけでは、実戦で使えない。持ち主の心も、準備も、動きも、この小さな入口へつながっている。
「だから基礎が要る」
ユイナの言葉に、今度はすぐ頷けた。
「ええ。分かったわ。まず、配置を覚えないといけないのね」
ササラナに言われた順で、アンルシアは道具を並べ直した。廊下では、カジノの戦果を話しているらしい冒険者の声がする。欲と名誉と勝負の集まる島で、その声とは無縁そうなササラナが、袋の内側を広げている。派手な魔法でも、人目を引く興行でもない。それなのに、この技術が一度の遠征で持てる物を変えれば、戻らずに済む者や、助かる者が出る。いずれは交易路さえ変えるかもしれない。
「ゴーレック様は」
アンルシアは小さく言った。
「よく、この方を見つけましたね」
ユイナは少しだけ笑った。
「そうでしょう」
「ただのお手伝いではないわ」
「うん。たぶん、ゴーレックさんもそう思ってる」
「では、なぜお手伝いとして?」
「そう見せている方が、動きやすいから」
ユイナはササラナを見る。
「世界一の金持ちは、価値が値段になる前に拾うんだよ」
ザイードが静かに頷いた。
「島主の審美眼か」
「人を見る目、かな」
リュカナは袋の口を覗き込みながら言った。
「この技術があれば、大迷宮の輸送は変わる」
「鉄道が通るまでの間はね」
ユイナは頷いた。
「凄腕の冒険者が荷を運ぶ。収納術で密度を上げる。危険区画を越え、補給拠点を作る。鉄道はその後」
リュカナはもう、机の道具を大迷宮へ持ち込む荷に見立てている。ザイードは重さを確かめながら、それとは違う順序で置き直した。ユイナが二人をここへ連れてきた意味が、アンルシアにはようやく手元の形で見えた。鉄道の前には、人が荷を運んで道を確かめなければならない。その人たちを支えるのは、剣と呪文だけではないのだ。
袋の余白や仕切りまで見込んで人を連れてくるユイナも、その手を持つササラナを島に置いているゴーレックも、肩書きだけでは捉えきれなかった。
「アストルティアは」
アンルシアはぽつりと言った。
「思っていたより、ずっと複雑ね」
「うん」
ユイナは頷いた。
「だから面白い」
「あなたはそう言うと思ったわ」
アンルシアは息を吐き、並べた道具を自分でもう一度確かめた。父に知られたら、やはり怒られるかもしれない。それでも今なら、何を学びに来たのか、自分の言葉で説明できる。勇者として必要なものが、娯楽島ラッカランにあった。そのことは、ここで自分が手を動かした事実と一緒に持ち帰ろうと思った。