昼前のラッカラン駅には、行く人と帰る人が入り交じっていた。カジノ帰りの冒険者が壁に背を預ける脇を、コロシアムへ急ぐ者が通る。メダルの交換品を包んだ袋も、ランプ錬金ギルドの印のある包みも見えた。出資の話を終えたユイナも、その流れに加わったと思うと、迷わず売店へ寄った。
「これ、一つください」
「はいよ。勝負師の宝箱弁当、一つね」
アンルシアは、包まれた弁当を見た。
「勝負師の宝箱……?」
「ラッカラン限定」
「限定なのね」
「限定に弱い人がいるから」
ユイナが受け取った弁当は、箱まで妙に凝っていた。小さなメダルを模した焼き印。カジノチップのような丸い飾り。中身はまだ見えないが、明らかに観光客と冒険者の財布を狙っている。その時だった。
「なんと!」
聞き覚えのある声に、ユイナが振り返った。賢者ホーローだった。アンルシアにも、もちろん面識がある。ルシェンダが集めた叡智の冠の一人であり、アストルティアの歴史と異変を見渡す賢者。その人が、売店の札の前で立ち尽くしていた。
「これはいかん。ラッカラン限定弁当が、売り切れておるではないか」
勝負師の宝箱弁当、本日分売り切れ。店員が置いたばかりの札を、ホーローはまじまじと見ている。アンルシアも札を読み、それからユイナの手元を見た。
「……本当に、駅弁を買っていらっしゃるのね」
「ね。言ったでしょう」
「聞いてはいたわ。でも、実際に見ると……叡智の冠の賢者が、限定弁当を前にここまで肩を落とすとは思わなかったわ」
「ホーロー様だから」
「それで済ませていいの?」
「だいたい済むよ」
ホーローの視線が、ゆっくりユイナの手元へ移った。
「おぬし、その手にあるものは何じゃ」
「お昼ごはんです」
「わしの弁当を!」
「私、いつもホーロー様に買われているので」
「ぐぬぬ……」
悔しがるホーローを前に、ユイナは包みを背へ隠すでもなく持っていた。見せているのだ。アンルシアは、それにも驚いた。世界の異変を語る席で知る賢者と、この老人が同じ人であることは分かる。分かるのだが、二人の遠慮のなさについていくには、少し時間が必要だった。
「ホーロー様。このような場所で、何をなさっているのですか」
「弁当を買いに」
「いえ、そうではなく」
「もちろん、光の河の様子も見ておる」
答えながらも、ホーローの目は売店を離れなかった。やがて諦めたように肩を落とし、店員へ向き直る。
「では、いつもの弁当をひとつ」
「はい、ホーロー様。いつものですね」
「いつもの……」
アンルシアが呟く。
ユイナが声を落とした。
「だいたい、どこの駅でも買ってるよ。売店の人も覚えてるくらい」
その言葉を証明するように、ホーローは注文した弁当を手慣れたやり取りで受け取った。それでようやく売店から注意が離れたらしい。改めてアンルシアを見て、眉を上げる。
「おお、勇者姫ではないか。ほっほ、珍しい組み合わせじゃのう」
「ご無沙汰しております、ホーロー様」
アンルシアが頭を下げると、ホーローは満足げに頷いた。
「うむうむ。勇者姫も、弁当の大切さを学びに来たのかの?」
「違います」
ユイナが即答した。
「ホーロー様こそ、こんなところで遊んでいていいんですか。ルシェンダ様にちくりますよ?」
「なんと!」
ホーローは目を見開いた。
「それはいかん。ルシェンダ様に知られると、また小言が長い」
「やっぱり遊んでいたんですね」
「違うぞい。わしもこうして、光の河の様子を見ておるのじゃ」
「弁当を買いながら?」
「観察には腹ごしらえが必要じゃ」
リュカナが小さく笑った。
「説得力はないけれど、否定もしきれない」
ザイードは黙っていたが、顔には少しだけ呆れが見えた。
大地の箱舟が静かに走り出した。窓の外を駅の柱が流れ、やがて海と島影、その先に架かる橋が見えた。アンルシアは、初めてではない景色を、座席へ収まるのも忘れて見つめた。
鉄道を延ばす、と地図の上で語った線に、今は自分の体重が載っている。人と荷を運ぶ道は、景色の中にあるだけでなく、こうして揺れや音を伴って働いていた。
「やっぱり」
ユイナが、小さく呟いた。
「エテーネ王国にも通したいなあ」
アンルシアは振り向いた。
「大地の箱舟を?」
「うん。内海側は難しいけど。技術的にも、政治的にも、採算的にも」
「それでも考えるのね」
「橋が架かっているのを見るとね」
腰を下ろしてからも、アンルシアは時折向かいのホーローを見た。世界の異変を語り、必要な時に現れ、ルシェンダとともに大きな流れを見ている人。その手が今は弁当の紐に苦心している。
「ユイナ。あなたの知っている賢者たちは、みんなこうなの?」
「みんなではないと思う。ルシェンダ様は、駅弁で肩を落としたりはしないし」
「それは分かるわ」
「でも、たぶん別のところで変です」
「否定できないのが困るわ」
ホーローは向かいの席で弁当の包みを開いていた。
「おぬし、また面倒なことを考えておるのう」
「ホーロー様に言われたくありません」
「ほっほ。面倒なことを考えるのが賢者の務めじゃ」
「私は職人です」
「盟友であり、商人であり、職人であり、エテーネの民でもある。忙しい娘じゃのう」
ホーローは卵焼きをつまみながら言った。
ユイナは答えず、膝の上の弁当を持ち直した。アンルシアには、彼女が次に口にする言葉の見当がついた。先ほどまで肩書きを並べて笑っていたのに、その一つをこの人へ伝えるとなると、すぐには出てこないらしい。
「ホーロー様。報告していないことがあります」
「なんじゃ」
箸が止まった。問い返す声も姿勢も大きくは変わらない。それでもホーローの関心が、包みからユイナへ移ったのが分かった。
「私、大魔王になりました」
ホーローはしばらく彼女を見た。驚きの大きさを言葉にする代わりに、低く息をつく。
「……おぬしは、本当に、行く先々で面倒ごとを背負うのう」
「好きでなったわけではありません」
「分かっておる」
即答だった。ユイナは少しだけ目を上げた。ホーローは弁当を脇へ置いた。
「大魔王になったということは、魔界の玉座に座ったということじゃな」
「はい」
「勇者姫」
ホーローはアンルシアを見た。
「おぬしは、それを知っておるのじゃな」
「はい」
アンルシアは頷いた。
「最初は、剣を向けました」
「ほう」
「でも、今はこうして一緒にいます」
「ならば、わしがここで騒ぐことではあるまい」
ホーローは静かに言った。
「ただし、ユイナ」
「はい」
「大魔王とは、肩書きだけではない。人の目も、魔の目も、歴史の目も変わる。おぬしが自分を変えていないつもりでも、周りはそうは見ん」
「分かっています」
「いや」
ホーローは首を横に振った。
「分かっていても、足りぬことがある。だから、言っておく」
弁当を脇へ置いたまま、ホーローはユイナを見ていた。
「一人で背負うでないぞ」
アンルシアは膝の上で手を重ねた。災厄の王を封じるため身を捧げた人々。アルヴァンとカミルの悲劇。そして、いまユイナが会おうとし、道を一緒に作ろうとしている人たち。同じ言葉が重なるというより、忠告の向こうにそれぞれ違う顔が浮かんだ。
「ホーロー様まで、それを言うのですね」
ユイナが小さく言った。
「言うとも。おぬしはすぐに、自分で道を作って、そのまま一人で歩き出そうとする」
「そんなことは」
「ある」
ホーローは断言した。
「勇者姫も、そう思うじゃろう?」
アンルシアは少しだけ微笑んだ。
「はい」
「アンルシア」
「思います」
「二対一はずるい」
ホーローは弁当に手を戻しかけ、ふとユイナの手元を見た。
「ところで、おぬし。その包みは」
「勝負師の宝箱弁当です」
「やはり!」
「分けません」
「なんと!」
アンルシアはつい笑ってしまった。大魔王になったという報告も、賢者の忠告も、消えたわけではない。重さを残したまま、ホーローは限定弁当へ戻り、ユイナは譲らない顔になる。それを許してくれる人なのだと、彼女は思った。
ユイナは弁当を守るように抱え、窓の外を見た。ウェナ諸島へ向かう箱舟の向こうで、海の光が細かく砕けていた。