会議になった、というほど自然な流れではなかった。アンルシアは剣を下ろしきれず、ルシェンダも杖を握ったまま動かない。ヴァレリアは退屈そうに立ち、カーロウは柱の陰で震えていた。ユイナは割れた仮面を拾おうともしなかった。
ただ、もう戦える空気ではなかった。大魔王として斬りかかった相手が盟友の顔をしていた。その盟友にカーロウを守られ、自分まで守られた。アンルシアの怒りも問いも、剣を振る理由も、一度ずつ形を失っていた。
最初に動いたのはカーロウだった。震える声で部下らしい魔物たちを呼び、玉座の間の中央へ長卓と椅子を運ばせた。魔物たちはアンルシアとルシェンダを見て怯え、アストルティア側は彼らが茶器を並べるたびに顔を強張らせた。場の雰囲気は最悪だった。
別の場所で戦っていた者たちも、ようやく集まった。魔界側にはユイナ、ユシュカ、ヴァレリア、アスバル、カーロウ。対する席にはアンルシア、ルシェンダ、シンイ、エステラがついた。
シンイはユイナの顔を見るなり何かを言いかけ、やめた。エステラは唇を結んで目を伏せる。ユシュカも肩をすくめるだけで、すぐには軽口を叩かなかった。ヴァレリアだけが椅子を使わず、壁際に立っていた。
「……それで」
最初に口を開いたのは、ルシェンダだった。
「この状況を、どなたが説明してくださるのですかな」
誰もすぐには答えなかった。アンルシアはユイナを見ていた。大魔王の衣をまとった、エルフの女。自分の盟友。つい先ほどまで、自分が斬ろうとしていた相手。ユイナは、割れた仮面の残骸から視線を上げた。
「私が話します」
声は落ち着いていた。さっきまでの、仮面越しの抑えた声ではない。アンルシアの知っている声だった。けれど、そこにはどこか知らない響きもあった。大魔王として、場を受ける声。
「話す前に、ひとつだけ確認しておきたいことがあります」
ルシェンダが眉を動かす。
「何でしょう」
「私は、大魔王の座に就きました」
アンルシアの肩がわずかに揺れた。ユイナは続けた。
「ですが、今から話すことは、魔界の王としてだけではありません。アストルティアの民としても、話します」
ルシェンダの目が細くなった。
「それを、大魔王の口から聞くことになるとは思いませなんだな」
「今は、アストルティアの民として言っています」
「分かっております」
ルシェンダは静かに息を吐いた。
「ですが、その言い方はずるい」
ユイナは、少しも動じなかった。
「事実ですから」
ユシュカが小さく笑った。
「口が回るな。さっきまで剣で押されていたやつとは思えねえ」
「剣では、アンルシアに勝てないからね」
アンルシアが顔を上げる。
「では、言葉なら勝てると?」
ユイナは一瞬、困ったように目を伏せた。
「勝ちたいわけじゃない。……分かってほしいんだよ」
その言葉に、アンルシアは黙った。分かってほしい。それを言うなら、なぜ最初から言わなかったのか。なぜ仮面を被ったのか。なぜ大魔王の玉座に座っていたのか。問いたいことは多すぎた。だが、ユイナは先に続けた。
「魔界には、アストルティアから見えていない事情があります」
「事情」
シンイが、低く繰り返した。その声には、鋭さよりも重さがあった。
「その事情があれば、冥王がしたことも、大魔王がしたことも、変わるのかな」
場が固まった。シンイはユイナを見ていた。責めているのではない。少なくとも、単純な怒りではなかった。けれど、その目は静かに痛かった。
「僕は、冥王に殺された。君も、そこで一度死んだ」
アンルシアが息を呑む。ユイナは、ゆっくり頷いた。
「うん。忘れていないよ」
「冥王は、大魔王の協力者だった」
「分かってる。なかったことにはしない」
「その大魔王の座に、君がいる」
シンイの手が、卓の上でゆっくり握られた。
「僕は、それをどう受け止めればいいのか、まだ分からない」
ユイナはすぐには答えなかった。卓の縁に置いた指を、一度だけ曲げた。シンイの目から逃げれば、これから何を話しても言い訳になる。
「冥王を正当化するつもりはありません」
声を整えてから言った。ここにはシンイだけでなく、魔界の王たちもいる。
「マデサゴーラを正当化するつもりもありません。彼らがアストルティアにしたことは、消えません」
シンイは黙ったままだった。ユイナは返事を急かさなかった。
「でも、それで終わりではありません。あれらは、もっと大きなものへ至る流れの一部でした」
「闇の根源、か」
ユシュカが言った。ユイナは頷く。
「ジャゴヌバ。すべての根にあるものです」
ルシェンダが目を細める。
「闇の根源がいる限り、魔瘴は止まらぬ、と?」
「はい」
ユイナは息を整えた。卓の向こうにいる者たちの顔を見て、一人ずつに届く速さで続けた。
「魔瘴は、魔族が好きで撒いている毒ではありません。魔界そのものを蝕む症状です。魔界は、長い時間をかけて闇の根源に食われ続けています」
エステラが顔を上げる。
「症状……」
「魔界の民は、それを浴びて生きています。避けられない。逃げられない。だから、魔瘴を当たり前のものとして扱うしかなかった」
ユイナはアンルシアを見た。
「でも、それは当たり前ではありません。魔界が滅びれば、それで終わりでもありません。ジャゴヌバが完全に復活すれば、魔界だけでなく、アストルティアも滅びます」
アンルシアは唇を結んだ。ルシェンダが低く言う。
「それを、大魔王が言うのですな」
「魔界を滅ぼしたくありませんから」
「そして、アストルティアの民としても言う」
「私の帰る場所も、滅ぼさせたくありません」
「本当にずるい」
ルシェンダは、今度は少しだけ苦笑した。
「しかし、事実だと言われれば、こちらも聞かざるを得ませぬ」
「事実ですから」
「二度言わずとも分かります」
空気がわずかに動いた。それでも軽くはならない。エステラは、じっとユイナを見ていた。
「あなたは」
その声は静かだった。
「また、死に近い場所へ行っていたのですね」
ユイナの表情が、ほんのわずかに揺れた。
「エステラ」
「私は、あなたが死んだところを見ています」
エステラは目を伏せる。
「あれは、ザオリクで戻せるような死ではありませんでした。肉体が倒れたのではない。魂そのものが失われたように見えました」
アンルシアは膝の上で手を握りしめた。知らない話ではなかった。忘れられるはずもなかった。何度も、何度も、蘇生の光を重ねた。それでも届かなかった。身体はそこにあるのに、呼び戻すべきものがどこにもなかった。
シンイが言った言葉も、覚えている。魂のぬくもりが、消えている。
「……私も、見ていたわ」
アンルシアの声は震えていた。
「何度も、戻そうとした。でも、戻らなかった」
シンイが目を伏せる。
「魂のぬくもりが消えていた。あの時、僕はそう感じた」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。エステラは続けた。
「それでも、あなたは戻ってきた。そして今度は、魔界で血の盟約に救われたと聞きました」
視線がユシュカへ向く。ユシュカは少し肩をすくめた。
「死にかけてたからな。見捨てる趣味はねえ」
「それが、ドルマドンの違和感か」
ルシェンダが呟いた。ユイナとユシュカがそちらを見る。
「戦闘中、あなたの闇の呪文に妙なものを感じました。魔瘴ではない。魔に堕ちた者の気配でもない。だが、純粋な人の術でもない」
ルシェンダの目が、ユシュカへ向く。
「魔界の王の血に、命を繋がれた痕跡。そう見れば、腑に落ちますな」
ユシュカは苦笑した。
「賢者ってのは、嫌なところまで見るな」
「見えるものを見ぬふりはできませんのでな」
ヴァレリアが壁際から口を開いた。
「死んだ。戻った。血で繋がれた。大魔王になった」
全員の視線が向く。ヴァレリアは表情を変えない。
「ならば、今ここにいる者として扱えばよい」
冷たい言葉だった。だが、それはユイナを過去の死に閉じ込めない言葉でもあった。エステラは少しだけ目を伏せた。
「あなたらしい言い方ですね、ヴァレリア」
「事実だ」
「こちらも事実ですか」
「事実だ」
ヴァレリアはユイナを見た。
「玉座に座ったなら、死んだ過去で同情を買うな。生きている今で示せ」
「分かっています」
ユイナは頷いた。
「私は、大魔王になったことを謝るつもりはありません」
アンルシアの顔が強張る。ユイナは、その反応を受け止めたまま続ける。
「アンルシアに黙っていたこと。剣を向けさせたこと。カーロウを巻き込ませかけたこと。それについては、謝らなければならないと思っています」
カーロウがびくりと肩を震わせる。
「ですが、大魔王になったことそのものは謝りません」
「……どうして」
アンルシアの声は、怒りよりも痛みに近かった。
「必要だったからです」
ユイナは答えた。
「魔界をまとめる座が必要でした。闇の根源と戦うために、魔界の力を束ねる者が必要だった。ユシュカも、ヴァレリアも、アスバルも、それぞれに強い。でも、それだけでは足りなかった」
アスバルが静かに目を伏せる。ユシュカは何も言わない。ヴァレリアも否定しない。
「初めから大魔王になろうと思って旅をしていたわけではありません。でも、なった以上は、私のやり方でこの座を使います」
その言葉で、アンルシアはふと息を止めた。ユイナの顔を見た。盟友の顔だった。だが、そこにある表情は、旅の途中で見たものとは違っていた。逃げる顔ではない。弁解する顔でもない。誰かに許しを乞う顔でもない。
重いものを引き受けて、それでも言葉で場を動かそうとする顔。アンルシアは、その顔を知っていた。自分の父が、そういう顔をすることがあった。アリオス王。スタンプを集める、少し妙な父。それでもグランゼドーラの王として、人の前に立つ時は、別の顔をする。個人の感情を置き、王として言葉を選ぶ顔。
アンルシアは箱入りの王女だったかもしれない。けれど、何も知らずに育ったわけではない。王が言葉で人を動かすところを、見てきた。
「……本当に」
アンルシアは、ぽつりと言った。
「本当に、大魔王なのね」
場が静まる。ユイナは一瞬、責められたのだと思ったように目を伏せた。だが、アンルシアは首を横に振る。
「違うわ。責めているのではないの」
アンルシアは剣を持たない手を、膝の上で握った。
「今のあなたは、玉座に座った者の言葉を使っている。お父様も、時々そういう顔をするもの」
「アリオス王が?」
「ええ」
アンルシアは、小さく息を吐く。
「国を背負う時の顔よ」
ユイナは、何も言えなかった。アンルシアは続ける。
「あなたは、私に説明しているだけではないのね。アストルティアに、魔界を敵だけではないものとして見せようとしている。魔界の人たちには、あなたがアストルティアを捨てていないと示そうとしている」
ルシェンダが、わずかに目を細めた。アンルシアはユイナを見つめた。
「その両方を、同時にやっている」
ユイナは静かに答えた。
「片方だけを選んで、もう片方を捨てる気はありません」
「だから、本当に大魔王なのね」
その声は、先ほどよりも落ち着いていた。怒りが消えたわけではない。悲しみがなくなったわけでもない。だが、目の前の相手を、ただの裏切り者や敵として見ることはできなくなっていた。アンルシアは深く息を吸った。
「なら、私も勇者として聞くわ」
ユイナが顔を上げる。
「あなたを想う友としてだけではなく、グランゼドーラの王女として」
ルシェンダが静かに頷いた。
「よろしいでしょう。話は、そこからですな」
ユシュカがようやく椅子の背にもたれた。
「ようやく会議らしくなってきたな」
「最初から会議だったとは思えないけどね」
アスバルが小さく言う。カーロウはまだ震えていたが、少しだけ肩の力を抜いた。その時、ルシェンダがユイナを見て、ふと真面目な顔で言った。
「しかし……あなたは少々、死に過ぎですな」
ユイナはわずかに眉を下げた。
「好きで死んでいるわけではありません」
ユシュカが苦笑する。
「だろうな。好きで死ぬやつは、あそこまでしぶとく戻ってこねえよ」
笑ってよいのか分からない沈黙になった。アンルシアも笑えなかったが、詰めていた息を少し吐くことはできた。
まだ許したわけではない。何も解決していないし、すべてに納得したわけでもない。それでも、剣を卓の脇へ置くことはできた。
剣を交える時間は終わった。これからは、言葉で戦う時間だった。