箱舟が橋へ入ると、車輪の音が変わった。ラッカランの建物はもう遠い。カジノも、コロシアムの塔も、メダル・オーナーの館も、一つの島影に重なっていた。
アンルシアは窓に目を向けながら、さっきまでいた人たちの声を思い出していた。ササラナは親しげに「ユイナさん」と呼び、ヴェキオは「ユイナちゃん」と笑いかける。ゴーレックとは対等に条件を出し合い、風待ち商会の面々には隊長や王女さま、時には女王様と呼ばれて、本気で文句を言う。ザイードとリュカナも、限定弁当を買いそびれたホーローも、アンルシアの知らないユイナとの時間を持っていた。
盟友、大魔王、商人、職人。どの呼び名も間違っていない。それでも、その一つずつへ自然に振り返るユイナを見ていると、自分の知る彼女が、思っていたより広い場所で生きていることに戸惑った。
寂しいと言い切るには、自分もここにいる。置いていかれたと言うなら、彼女はこうして連れてきてくれた。そのことが分かっているから、胸に引っかかったものを素直に名づけられない。友達が自分の知らない人たちと当たり前に笑う輪の中にいて、自分だけが、輪の外から見ているような時があった。
「アンルシア。もやもやしてる?」
横から覗かれ、アンルシアは窓に映る自分の顔を見てしまった。
「……顔に出ていた?」
「少し」
「あなた、本当にそういうところはよく見るのね」
「見ないと危ないから」
軽く返したくせに、ユイナはまだ弁当を開けなかった。包みの端に置いた指を止め、彼女の方へ向き直る。アンルシアは何か弁解したくなったが、言葉を選ぶ前に、ユイナが口を開いた。
「私のことを盟友として扱えるのは、あなただけだよ」
アンルシアは言葉を失った。そう言ってほしかった、と認めるのも悔しい。そういう意味で悩んでいたのではない、と否定するのも嘘になる。顔が熱くなり、窓へ戻しかけた視線を、なんとかユイナに留めた。
「もう。何で口説き文句みたいに言うのよ」
「そういう顔をしていたからね」
「どういう顔よ」
「私の知らないところで、私の知らない人と仲良くしないで、みたいな顔」
「していないわ」
「少ししてた」
「していない」
「じゃあ、していないことにする」
「それはそれで腹が立つわ」
ユイナは笑ったが、それで話を打ち切らなかった。
「私は、いろんな人と会ってきた。助けられたし、助けたし、取引もしたし、迷惑もかけた。だから呼ばれ方も増えた。でも、勇者の盟友は一人しかいない」
アンルシアは黙って聞いた。慰めるために、他の人とのつながりを小さく言わないところが、ユイナらしかった。
「アンルシアが勇者で、私が盟友。それだけは、他の誰にもできない」
言い終えて、ユイナはようやく包みを開いた。小さなメダルを模した薄焼きパン、丸いカジノチップのようなチーズ、コロシアム串焼きに、金貨に見立てた卵焼き。豪華さも俗っぽさもラッカランらしく、普段ならホーローが黙っていない中身だった。
けれど向かいの賢者は、弁当を見ていなかった。蓋を開けたユイナと、その横でまだ赤くなっているアンルシアを見ていた。
「おぬしたち」
二人は同時に顔を上げた。声を張られたわけではない。ただ、その呼びかけに弁当の続きを返してはいけないと分かった。
「強くなったの」
ユイナは、少しだけ目を瞬かせた。
「急に賢者っぽい」
「急にではない。わしはいつでも賢者じゃよ」
「限定弁当でぐぬぬってしてました」
「それはそれ、これはこれじゃ」
ホーローは咳払いをした。ユイナの軽口に答えながらも、視線は二人から外さない。
「勇者として立つとは、剣を掲げることだけではない。盟友として隣に立つとは、ただ同じ敵を見ることだけでもない」
アンルシアは、背筋を伸ばした。
「人は、ひとつの名だけでは立てぬ」
ホーローは続けた。
「勇者であり、王女であり、友であり、迷う者であり、怒る者でもある。ユイナも同じじゃ。盟友であり、商人であり、職人であり、大魔王であり、エテーネの民であり、時には弁当を横取りする者でもある」
「横取りではありません」
「わしから見れば横取りじゃ」
ユイナが抗議しかけたが、ホーローはそれを手で制した。
「だが、その多くの名の中で、おぬしらだけが互いに呼べる名がある」
アンルシアは息を吸った。
「勇者と、盟友」
「そうじゃ。それは、他の者には奪えぬ。ゴーレックにも、リーネにも、ヴェキオにも、わしにもな」
ユイナは弁当の蓋を持ったまま黙っていた。先に同じことを言った本人まで、賢者の言葉を聞き直している。その横顔を、アンルシアは見た。
もやもやが消えたわけではない。ユイナの知らない顔を見れば、また寂しくなるかもしれなかった。それでも、誰にも見せるなと言いたいわけではないのだと、少しずつ気持ちの輪郭が分かってきた。自分の剣を受け、時には止め、守ろうとしてくれた盟友の顔を、誰かに取り上げられるわけではない。
「……そうね。私も、勇者として立つなら、もっと多くの人を見なければならないのね」
「ほっほ。分かっておるではないか」
ホーローは嬉しそうだった。アンルシアは、その評価を受け取って終わりにせず、ユイナへ向き直った。
「でも」
アンルシアはユイナを見た。
「あなたがどれだけ多くの人と話していても、勇者である私の隣に、盟友として立つのはあなたよ」
ユイナは少しだけ笑った。
「うん」
ホーローは満足そうに頷いた。
「よいよい。実によい。若い者が強くなるのを見るのは、賢者の楽しみじゃ」
「弁当よりも?」
ユイナが聞く。ホーローは一瞬、沈黙した。
「……同じくらいじゃ」
「そこは勝ってください」
「限定弁当は強いのじゃ」
アンルシアは、今度こそ笑った。
箱舟はウェナ諸島へ向かって進んでいた。海を越えて人と物を運ぶ橋が、窓の向こうにまた現れる。ユイナは卵焼きをつまんだまま、長くその橋を目で追った。
「まだ、エテーネ王国まで延ばすことを考えているのね」
アンルシアが言うと、ユイナは隠すつもりもなく頷いた。
「やっぱり、通したいなあ」
先ほど聞いた時より、その声が近くに感じられた。
「道を作ることも、あなたの戦いなのね。でも、ひとりで作らないで」
「分かってる」
ユイナは卵焼きを口へ運んだ。返事はすぐだったが、その目はまだ橋を離れなかった。
ホーローが横から言った。
「今の返事は、少し怪しいのう」
「ホーロー様まで」
「賢者の眼力にかかれば、一目りょーぜんじゃよ♡」
ユイナは弁当を守るように抱えた。
「限定弁当は分けませんよ」
「ぐぬぬ」
アンルシアはまた笑った。笑いながら、ユイナの弁当を覗き込み、金貨に似た卵焼きの残りを見た。こういう時、彼女に言いたいことは、勇者の立場だけから生まれるわけではない。ホーローの言った、友であり、迷う者でもあるという言葉が、遅れて腑に落ちる。
多くの人を見ることと、自分だけの立ち位置を失わないこと。誰かを独り占めしたくなる気持ちと、その人の広さを喜ぶこと。すぐにきれいに両立はできなくてもよかった。ユイナには多くの名があり、自分にとっては盟友だ。その関係まで比べなくていいのだと、今は思えた。
食べ終えたユイナが、弁当の蓋を重ねた。窓に映るその手を見ながら、ふっと笑ったので、アンルシアは首を傾げた。
「何か思い出したの?」
「窓を見ていて、鏡のことを。レンドアの宿にあるんだよ。向こうにいる人と話せる鏡が」
「便利なのね」
「最初は、全然。声が途切れて、何を言っているのか分からなかった」
シーバの鏡を磨いた夜、声がはっきり届くようになってからも、ユイナはしばらく大声で返事をしていた。今までと同じ調子で話しかけると、向こうが小さく笑った。
「そんなに声を張らなくても、聞こえますよ」
「あ。そっか」
「今日も、ずいぶん歩いたんですか」
「歩いたよ。あと、魔力を集めた。あなたと普通に話すためにね」
「ありがとうございます。……疲れていたなら、今日はもう休みますか」
そう聞かれると、かえって話していたくなった。ユイナは寝台の端へ座り、靴を脱いだ。鏡に映るのは、宿の部屋と自分の顔だけ。向こうの相手がどこへ腰を下ろし、何を見ながら返事をしているのか、まだ知らなかった。
「今日はイオの話、していい?」
「ええ。聞かせてください」
「ガチャコッコに使った時、もう少し離れて撃ちたくなったの。目の前で動かれると、杖を振る方に気が行っちゃって」
「それで、振ったんですか」
「振らなかった。魔法で倒すところだったから」
言ったあとで、二人で笑った。ユイナは両足を床から浮かせ、ぶらぶらさせた。今日の自分がどう戦ったかを話すと、向こうにも別の考えがある。なぜそこで距離を詰めたのかと聞かれ、説明しようとして初めて、自分でもよく分かっていなかったと気づくこともあった。
「ユイナさんは、魔法の話になると、ずいぶんたくさん話しますね」
「そっちもでしょう」
「そうでしたか?」
「さっき、私が話す番だったのに」
相手が黙ったので、今度はユイナから笑った。責めているわけではないと、声で伝えなければ分からない。顔が見えないというのは、不便だった。でも、また聞きたい話があるうちは、夜が少し短く感じられた。
「その人は、リュナンというの」
ユイナが言うと、アンルシアは名前を繰り返した。
「今も、その鏡で?」
「今は話していない。もっと立派な魔法使いになるまで、連絡を控えるって。最後には猫島へ行くと教えてくれた」
顔を合わせた時には、驚くことも、慌てることもあった。話し相手はねこまどうだったのだと伝えると、アンルシアの目が丸くなった。ユイナは、まだ何も知らず鏡の前に座っていた頃の自分を思い出して笑った。
「知らないまま、仲良くなったのね」
「うん。呪文の話をしていたら、そうなってた」
「では、また会えたら話すことがたくさんあるわね」
「大魔王になったって、どこから説明したらいいんだろうね」
少し困って、それからユイナは言った。
「でも、先に向こうの話を聞きたい。今度は私が、途中で自分の話を始めないように」
アンルシアは「そこは気をつけないとね」と答えた。ユイナは否定せず、畳んだ包みを袋へ収めた。窓の向こうでは、海の色が近くなっていた。