ウェナ諸島へ入ると、窓いっぱいに青い水が広がった。白い陽射しの下で、遠くの橋が島と島を細い線のようにつないでいる。アンルシアは、ユイナがその一本ずつを見ているのに気づいた。エテーネ王国へもという願いは、冗談で言ってみただけでは終わらないらしい。
「橋や線路があると、便利になるだけでは済まないのね」
「人が動いて、物が動いて、仕事が生まれるからね」
「そして稼げる」
「そこも大事」
真顔のユイナの向かいで、ホーローは食べ終えた弁当の包みを畳んでいた。腹は満ちても、買いそびれた勝負師の宝箱弁当への未練は別らしく、時折ユイナの箱に目をやる。
やがて箱舟はジュレットの駅へ滑り込んだ。白い石造りの駅に降りると、潮の匂いと海鳥の声が迎えた。ラッカランの熱気とは違う、見通しのよい明るさだった。
「では、わしはここで降りるぞい」
ホーローが立ち上がった。
「ホーロー様もジュレットに用があるのですか?」
アンルシアが尋ねる。
「うむ。重大な用じゃ」
「光の河の観測ですか?」
ユイナが言うと、ホーローは胸を張った。
「限定弁当じゃ」
「そっちでしたか」
「ここの弁当はなかなか良いのじゃ。今度こそ買いそびれぬ」
ホーローは、妙に足取り軽く売店へ向かっていった。しばらくして、彼は得意げな顔で戻ってきた。手には、青い包みの弁当がある。
「見よ、ユイナ。今度は買えたぞい」
「よかったですね、ホーロー様」
「実はわしは、こっちの方がお気に入りなんじゃよ」
「そうですか」
ユイナは包みを見た。
「でもそれ、最近ガタラでも売っていますよ」
「なに!」
ホーローの得意げな顔が固まった。ユイナはわざと同情するように眉を寄せる。
「それはまずいですね」
「いやあ、まずくはないのじゃが」
味の話へ逃げようとして、やはり気になったらしい。ホーローは青い包みを持ったまま売店へ引き返した。
「おぬし。あの娘が言ったことは本当なのか」
「え、ええ。本当です。そちらのお弁当は、最近ガタラ駅でも取り扱いが始まりまして」
「なんと……」
ホーローは包みを見下ろした。お気に入りの味を得た事実は変わらないはずなのに、さっきまでと同じ顔では受け取れなくなっている。
「では、今のジュレット限定はどれじゃ」
「こちらです」
店員は、少し言いにくそうに別の包みを出した。それは、妙にぬめっとした緑色の包みだった。海藻を模した飾りが巻かれ、貝殻のような留め具が付いている。札にはこう書かれていた。海底のびっくり珍味弁当。
アンルシアは少しだけ顔を引きつらせた。リュカナは興味深そうに見た。ザイードは無言だった。ホーローは、露骨に嫌そうな顔をした。
「……これは、なかなか攻めておるのう」
「ジュレット限定です」
店員が申し訳なさそうに言う。
「中身は?」
「海藻の酢漬け、深海魚の干物、ぬめり貝の甘辛煮、あと、青いゼリーです」
「青いゼリー」
アンルシアが小さく繰り返した。ホーローはしばらく黙った。そして、重々しく頷いた。
「限定ならば、仕方あるまい」
「買うんですか」
ユイナが言う。
「限定なのじゃぞ」
「よかったですね、ホーロー様」
「うむ……よかったのじゃ。たぶん」
ホーローは、最初の弁当と海底のびっくり珍味弁当を両方抱え、少しだけ遠い目をしていた。
「ホーロー様」
アンルシアが慎重に言った。
「本当にそれでよろしいのですか」
「勇者姫よ」
「はい」
「賢者とは、時に未知へ踏み出す者なのじゃ」
「弁当の話ですよね」
「未知は未知じゃ」
ユイナは笑いをこらえていた。ホーローはそれに気づき、少し不満そうに鼻を鳴らした。
「おぬしらはトートのところへ行くのであろう」
「はい」
「ならば、わしはこの未知と向き合うとしよう。光の河の観測もあるしの」
「弁当を食べながら?」
「観測には腹ごしらえが必要じゃと言うたであろう」
ホーローは二つの弁当を抱え、観測へ向かう道へ去っていった。アンルシアはその背を見送りながら、息を吐いた。
「叡智の冠の賢者なのよね」
「うん。さっき、ちゃんと賢者の話もしてたでしょう」
「本当に、いろいろな人がいるわね」
「だから面白いんだよ」
ユイナはジュレットの町へ歩き出した。白い石畳の先には、水辺へ続く階段が見える。海風に布が揺れ、魚を運ぶ者の声が行き交っていた。町全体が海へ向かって開かれているようで、アンルシアもようやく肩の力を抜いた。
「ラッカランより落ち着くわ」
「カジノがないから?」
「それもあるわね」
ユイナは笑った。
「でも、ここで会う人もすごいよ」
「ササラナさんとは違うの?」
「違う」
ユイナは即答した。
「ササラナさんは、装備と空間の人。どう置くか、どう取り出すか、どう持ち替えるかを見る人」
「では、トートさんは?」
「道具を生かす人」
「道具を?」
「うん。どうぐぶくろは、ただ大きければいいわけじゃないから」
ユイナが案内したのは、町の一角にある井戸だった。アンルシアは入口で立ち止まった。
「……井戸? ここに、かばんを作る人がいるの?」
「いるよ」
「なぜ井戸に?」
「私も最初はそう思った」
それ以上の説明がないまま、リュカナが井戸を覗き込む。
「湿気、暗さ、狭さ。袋の管理を見るには悪くない。道具は環境で壊れるから」
「リュカナまで納得するの?」
ザイードも縁に手を置き、水場に近いなら湿気への対策を見るには合理的だと言った。二人がそれぞれ勝手な納得をしているうちに、ユイナは降り始めている。アンルシアは反論を諦め、裾に気をつけて後を追った。
井戸の中は、外から想像するより広かった。革の匂いの中に、乾かされた布、細い革紐、小さな金具、仕切り板が揃えてある。壁に掛かったいくつものかばんは、形も留め具も少しずつ違っていた。その奥で、小さな少年が道具袋の口を縫っている。顔を上げる前に、まず針を安全な場所へ置いたのが、アンルシアの目に留まった。
「あ、ユイナさん」
少年は顔を上げ、ぱっと表情を明るくした。
「お久しぶりです。どうぐぶくろの調子はどうですか?」
「とてもいいよ。今日は、少し見てもらいたい人たちがいて」
「はい。えっと……」
トートはアンルシアたちを見て、目を丸くした。
「勇者姫さま……?」
「アンルシアで構いません」
「い、いえ、そんな。よろしくお願いします」
トートは慌てて頭を下げた。
「ユイナ。この子が?」
「トートさん。どうぐぶくろを見てくれる人」
「子どもなのね」
言ってからアンルシアは、自分の声に驚きが出すぎたと思った。何か言い直すより先に、トートが答えた。
「はい。まだ勉強中です。でも、どうぐぶくろのことなら、少しはお役に立てると思います」
怒った様子はなかった。柔らかな口調のまま、来客の袋を置けるよう机の端を空けてくれる。その手つきが真剣で、アンルシアは次の言葉を選び直した。
「ササラナさんには会ってきました」
ユイナが言うと、トートは頷いた。
「装備ぶくろですね。ササラナさんの技術はすごいです。装備の形とか、重さとか、取り出しやすさとか、あと……ちょっと不思議な広げ方も」
「空間を曲げていたわ」
アンルシアが言うと、トートは少し困ったように笑った。
「ぼくには、まだあそこまではできません。でも、どうぐぶくろは、少し違うんです」
「違う?」
「はい。装備は大きくて、形がはっきりしています。剣、盾、鎧、杖。どう入れて、どう取り出すかが大事です」
トートは机の上に、小瓶、包帯、薬草、聖水、ロープ、火打ち石、針、干し魚を並べた。
「でも、道具はもっと細かいんです。割れたり、漏れたり、湿ったり、匂いが移ったりします。薬草と濡れたロープを一緒に入れると、薬草がだめになります。魔物の素材と食べ物を近づけると、あとで食べられなくなることもあります」
ザイードの目が少し鋭くなった。
「遠征では、それが死因になる」
「はい」
トートは真面目に頷いた。
「だから、ただたくさん入ればいいわけじゃないんです。中で混ざらないこと。壊れないこと。必要な時に、すぐ分かること。それが大事です」
ザイードは一歩前に出た。
「血のついた包帯と食料は分けられるか」
「分けた方がいいです。というより、分けないとだめです。血の匂いが移ると魔物を呼ぶことがありますし、食料も傷みます」
「濡れたロープは?」
「乾いた布とは別にします。湿気を逃がすところを作ります」
「毒物は」
「二重に包みます。外側の袋と内側の袋を別の素材にした方がいいです」
ザイードは静かに頷いた。
「要る」
リュカナは机の上の小さな仕切りを手に取った。
「片手で開けられる?」
「練習すればできます。最初は、紐の結び目を変えるといいです。触っただけで、どこに何があるか分かります」
「暗い場所で使える」
「はい」
「走りながらは?」
「えっと……少し危ないです。でも、走る前に取り出す順番を決めておけば、できると思います」
リュカナは少し笑った。
「いいね。考え方が実戦向きだ」
トートは照れたように頬をかいた。
「ありがとうございます」
ユイナは並べられた道具を見ながら、自分の袋を机へ置いた。
「トートさんのおかげで、私もバザーを行ったり来たりする回数が減ったからね」
「ぼくの?」
「職人をしていると、素材をたくさん持つんだよ。布、糸、針、染料、皮、鉱石、触媒。足りないたびにバザーへ行って、戻って、また足りなくなって。あれ、かなり時間を取られる」
ユイナが口を開けると、トートは自分の仕切りがどう使われているかを覗いた。そこに収まった素材の量を見てから、顔を上げる。
「でも、ぼくは袋を少し広げただけです」
「その少しが大きいの。一度に持てる素材が増えるだけで、作れる数も、試せる回数も変わる。失敗したらすぐ次に行ける。職人にとっては、本当に助かる技術なんだよ」
トートの頬が赤くなった。自分の針で縫った場所とユイナを見比べ、嬉しそうに口を開く。
「冒険者さんの役に立てたらいいなとは思っていました。でも、職人さんにもそんなに役に立っているとは、あまり考えていませんでした」
「すごく役に立ってるよ」
「ありがとうございます」
頭を下げた拍子に、少年の髪が揺れた。年若いことは変わらない。その手の仕事がユイナの製作を支え、冒険者の遠征を支え、今度は大迷宮の交易に求められている。アンルシアは、最初に「子ども」と口にした時、自分が何を見落としかけていたのか考えた。
「戦闘だけではないのね」
「職人にとっても、道具袋は戦力だよ。素材が少ないと作業が止まって、集中も切れる。相場が動く時は、それだけで損をするから」
ユイナは袋から糸を一巻き出し、また戻した。
「新装備が出た時なんかは特に。買って、縫って、売って、また買う。その時に袋が小さければ、私の方が遅くなる」
ゴーレックが語った一日数億という話を、アンルシアは思い出した。あの稼ぎの速度を、こういう手近な工夫も支えているらしい。ザイードは自分の袋へ目を落とした。
「遠征でも同じだ。一度に持てる予備が増えれば、戻る回数が減る」
「戻るたびに、危険区間も通り直すからね。結果として死ににくくなる」
リュカナが言うと、トートは目を丸くした。
「そんなふうにも使えるんですね」
「使える。だから、あなたの技術は欲しい」
飾らない言い方に、トートは緊張したように背筋を伸ばした。喜ぶだけではなく、何を頼まれるのか聞こうとしている。
「はい。できることなら、お手伝いします」
ユイナは柔らかく笑った。
「ササラナさんは、装備を動かす人」
それから、トートを見た。
「トートさんは、道具を生かす人」
「そ、そんな大げさなものでは」
「大げさじゃないよ」
ユイナは首を振った。
「剣も盾も大事。でも、毒消し草や聖水や包帯がなかったら助からない人もいる。だから、道具ぶくろも戦闘技術になる」
アンルシアは机の小瓶に目を落とした。世界樹のしずくや魔法の聖水、毒消し草に包帯。どれも剣ほど目立ちはしないが、傷ついた時、魔力が尽きた時、手元に欲しい物ばかりだった。
「私は、道具ぶくろを少し軽く見ていたかもしれないわ。大きくなるだけだと思っていた」
トートは彼女の腰の袋を見た。それから、言えることを確かめるように答えた。
「道具ぶくろは、道具を守るものです。道具を守ると、人を助けられます」
アンルシアはすぐには返事をしなかった。自分なら、道具を探さず取り出せるだろうか。ササラナの話を聞いた時には剣と盾を思い浮かべた。いまは、その同じ手が小瓶に届くまでの時間を考えている。
ユイナはフィネトカへ向かう前に、この二人へ会わせたかったのだ。勇者として戦うために、盾を持ち、道具を備え、その仕事をする人を知る。教訓として言われるより、自分の準備の足りないところを見せられた方が、よく分かった。
井戸の上から海風と町の声が降りてくる。アンルシアはトートへ頭を下げた。
「お願いします。私にも、教えてください」
トートは目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「はい。できるだけ、分かりやすく説明します」