「では、今お使いの道具ぶくろを見せてもらってもいいですか。どう使うかは、人によって違いますから」
トートに言われ、アンルシアは腰の袋を外した。布も革も上等で、王女の持ち物にふさわしく仕立てられている。丁寧に中を開いたトートは、縫い目を見てから首を傾げた。
「きれいです。でも、きれいすぎます」
「……きれいすぎる?」
「はい。あまり使われていない形です」
褒め言葉を受け取るつもりだったアンルシアは、返事に詰まった。トートは責めず、内側を指でなぞっている。
「勇者姫さまは、必要なものを誰かが用意してくれることが多かったんですよね。でも、戦っている時は、自分で取れた方がいいです」
「そうね」
その通りだった。アンルシアは袋を手元へ引き戻したくなる気持ちを抑え、トートが開いてくれた内側を覗いた。
トートは小さな仕切り布を取り出した。
「まず、よく使うものを決めましょう。世界樹のしずく、魔法の聖水、毒消し草、包帯。これは手前です。触っただけで分かるように、紐の結び目を変えます」
アンルシアは、真剣に聞いていた。
「剣と盾だけではなく、道具の場所も覚えるのね」
「はい。道具を探している時間は、戦場では長すぎます」
ザイードが「正しい」と頷いたので、トートは次に彼の袋を受け取った。こちらはアンルシアのものと対照的だった。丈夫な革が擦れ、口には傷があり、重い物を押し込んだ跡が残っている。使い込まれた分だけ、荷物の重さと扱いの荒さが形になっていた。
「かなり使っていますね。底を補強した方がいいです。あと、濡れるものと食料が近いです」
「遠征用だ。まずいか」
「まずいです」
今度は迷いのない答えだった。トートは小さな革片を取り出し、袋の底へ当てて寸法を確かめる。
「今ある素材で、底に一枚足せます。水が染みない内袋も作れます。完全ではありませんが、大迷宮をもう一度通るくらいなら、かなり違うと思います」
「頼む」
即答されて、トートは顔を上げた。ザイードは直すために必要な分だけ中身を出し始めている。トートも嬉しそうに頷き、革片を机の脇に置いた。
リュカナの袋は軽かった。罠解除の針や小刃、細い縄、目印用の布片が、数を絞って入れてある。ただ、細かな道具の収まり方は雑だった。
「身軽にしたいんですね。でも、これだと暗い場所で間違えます」
「やっぱり?」
リュカナは苦笑した。トートは針と小刃を離して置き、紐を二本選ぶ。
「結び目を変えましょう。片手で開くなら、口の留め具も替えた方がいいです。今ある金具を少し削れば、できます」
「いいね。ササラナの空間より、こっちは手に近い」
「手に?」
「触って分かる。走りながら分かる。そういう技術」
トートは自分の指を見て、照れたように笑った。
「はい。たぶん、それが大事です」
トートは、持っていた素材を一つずつ確認した。革片。撥水用の油。小さな金具。太さの違う紐。余った布。ユイナが道具ぶくろから出した染料と糸。
「全部、ここにあるもので足ります」
「足りる?」
アンルシアが驚く。
「はい。新しく作るのではなく、今の袋を使いやすくします。持ち主の手に合わせた方がいいので」
ユイナが頷いた。
「トートさんは、そういうところが上手いんだよ」
「ユイナさんのおかげで、素材も足りました」
「針と糸は持ち歩いてるからね。職人だもん」
「そこは便利ですね」
「便利扱いしないでよ」
アンルシアは小さく笑った。トートは、まずアンルシアの袋に仕切りを縫い付けた。結び目の形を変え、聖水の瓶が倒れないよう小さな輪を付ける。
包帯は湿気を避けるため、薄い油布で包んだ。ザイードの袋には、底革を一枚足した。濡れたロープ用の内袋を別に作り、食料を入れる場所から遠ざける。毒物用には、二重の小袋を縫い付けた。リュカナの袋には、片手で開く留め具を付けた。紐の結び目を三種類に分け、触ればどこに罠解除道具があるか分かるようにする。
大きな魔力が動く気配はない。針が布を抜け、金具を削る音が井戸の壁へ小さく響く。その間にアンルシアの袋の中では、瓶の居場所が決まり、包帯が湿気から離されていった。戦う準備という言葉が、手を動かす速さで進んでいる。
「では、目を閉じてみてください。世界樹のしずくを取ってください」
トートが言った。アンルシアは袋を見てから目を閉じた。剣の稽古なら迷わない指が、袋の口では一度止まる。丸い結び目は聖水、二重なら毒消し。そして、小さな布の輪のある場所。
教わった形に触れた。瓶を倒さないよう指をかけ、抜き取ってから目を開ける。手の中には、世界樹のしずくがあった。
「できました」
トートが笑った。アンルシアは小瓶を見つめた。剣を振るうより、はるかに小さな動きだ。まだ探す間があったし、覚えたばかりの順を頭でたどってもいる。それでも、目を閉じたまま必要な物に手が届いた。戦場で誰かが倒れた時、今の一瞬をもっと短くしたいと思った。
「ありがとう、トートさん」
「いえ。お役に立てたなら、うれしいです」
アンルシアは、もう一度頭を下げた。勇者姫に頭を下げられ、トートは慌てたように手を振った。
「そ、そんな。ぼくは、かばんを直しただけです」
「そのかばんで、誰かを助けられるかもしれないわ」
トートは言葉を失い、それから、少しだけ誇らしそうに笑った。
ユイナは瓶を戻そうとする手元を見ていた。
「道具ぶくろも戦闘技術になるって、こういうこと」
「ええ。今度は戻す場所も、見ないで分かるようにしたいわ」
アンルシアは結び目を確かめ、小瓶を元へ収めた。
ザイードが補強された袋を肩にかける。
「これで大迷宮へ戻れる」
リュカナも片手で袋を開け、閉じた。
「速い。これは使える」
二人の言葉を聞いて、トートはまた笑った。井戸の上から降りてきた風が、机に残った細い糸を揺らす。アンルシアは腰へ戻した袋に手を添えた。軽さも大きさも、それほど変わっていない。その内側には、剣や盾だけでは間に合わない瞬間のための道具があり、道具を守る少年の仕事が入っている。
今度は自分が、それを使えるようになる番だった。
井戸を出ると、アンルシアは陽射しに目を細めた。リュカナは新しい留め具をもう一度指で押し、町外れを見た。
「少し走ってみる。座って開けられるのと、動きながら使えるのは違うから」
「俺も行く」
ザイードが続いた。ユイナは二人に頷いてから、アンルシアへ顔を向けた。
「その間に、もう一か所。寄ってもいい?」
「今度は、どなたに何をお願いするの?」
聞いてから、ユイナの顔が少し違うことに気づいた。予定を繰り上げる時の、すぐに説明が始まりそうな顔ではない。
「お願いは、今日はないんだ。ただ、会いたくて」
白い壁に沿って歩いた先で、ユイナはさいほうギルドの前に止まった。扉は開いていた。布を広げる音と、素材を数える声が聞こえる。奥まで覗けば誰がいるか分かりそうなのに、彼女はまず戸口で挨拶をした。
「こんにちは」
「ああ、ユイナ。来ていたんだね」
作業台から顔を上げたウェディの青年が、糸を切って針を置いた。驚いて立ち上がりもしなければ、大きな声で周囲に知らせもしない。脇の椅子に載っていた布を畳み、座れる場所を作った。
「久しぶり。こっち、空いているよ」
「お邪魔していいですか」
「今さらそんなところで止まられると、ボクの方が困るな」
マスター・ユービア。ユイナが最初の針をもらった人だと、アンルシアにもすぐ分かった。名を紹介されて挨拶すると、ユービアは少し緊張して礼を返したが、ユイナへ向き直る頃には、また穏やかな顔になっていた。
「で、今日は何を縫ってきたの?」
「何も」
「それは珍しい」
「顔を見に来ただけだと、駄目ですか」
「いいや。嬉しいよ」
あっさり言われ、ユイナは目を落とした。椅子へ浅く腰を掛けた膝の上で、両手を重ねている。ゴーレックの前では迷わず広げた資料も、ここでは袋から出てこなかった。
ユービアは近くの職人から呼ばれ、少しだけ席を外した。アンルシアが台の上の布を見ていると、ユイナが懐かしそうに目を細める。
「くすしのローブ上だね」
「分かるの?」
「最初の頃に、何度も見たから」
戻ってきたユービアが、その言葉を聞いて笑った。
「一人前の試験で持ってきた分を、覚えてる?」
「覚えてます」
「あの時、ボクが受け取ってからも、じっと見ていたね」
「確認してたんです。ちゃんと渡したかどうか」
「うん。でも、ボクが向きを変えるたびに、キミも同じ方へ傾いていた」
「そんなことまで覚えてなくていいです」
アンルシアはユイナの横顔を見た。何か言い返したいのに、否定できるところを探しているらしい。今のローブ一式に二億ゴールドを払う人が、昔は一着を手放してからも、相手の手を目で追っていた。
「難しい課題だったの?」
「星一つ以上でよかったんだよ。でも、その頃は、一つつくかどうかが大事だった」
ユイナは台の縁へ指を置いた。
「一か所、もう少し整えたくて。そこばかり見ていたら、ほかへ回す集中力がなくなりそうになった」
「完成してからも、そこを気にしていたね」
「してました」
今度は素直に認めた。布のどこを見て、どこで手を止めたのか。その場所はもう目の前にないのに、指先には残っているようだった。
あの日のユービアは、差し出されたローブをすぐに脇へ置かなかった。広げて表を見て、裏を確かめ、ユイナが最後まで惜しんでいた部分にも触れた。それから一人前だと認めてくれた。
試験を受ける前は、早く次の物を作りたかった。作れる服が増えれば稼げるし、自分の装備にもなる。けれど、いざ認められると、帰りの階段を降りるまで、どういう顔をすればいいのか分からなかった。やっと職人になれたのだと思うたび、口元が勝手に緩んだ。
「それで、帰ったあと、もう一着縫ったんです」
ユービアが少し目を開いた。
「そうだったの?」
「言ってませんでしたっけ」
「聞いていないと思う」
ユイナは気まずそうに笑った。
「一着だけ、たまたま出来たのかなって思ったら、気になって。それで、もう一着」
「今のユイナでも、そういうことをするわ」
アンルシアが言うと、ユイナは困った顔でこちらを見た。
「そこは黙っていてくれても」
「昔からなのねと思っただけよ」
ユービアは笑ったが、そのあとのことを聞きたそうに待った。ユイナは一度鼻の頭を掻いてから答えた。
「二着目も、ちゃんと出来ました。嬉しくて、翌日持って来ようかと思った。でも、また試験を受けに来たみたいで恥ずかしかったから、やめた」
「持ってくればよかったのに」
「今ならそう思います」
ユービアは少し残念そうにした。名のある職人が昔を懐かしんでいる、というだけなら、ああそうだったねと笑って終わったかもしれない。けれど、この人には聞きそびれた二着目の話があり、ユイナにも言いそびれた喜びがあった。
作業台の向こうから、若い職人が布を抱えてきた。見てほしいという声に、ユービアはすぐ手を空ける。相手は客がいることに気づき、ユイナの顔を見て一歩止まった。
「待たなくていいよ。先に見てもらって」
ユイナが椅子を引いた。ユービアは布を受け取り、片側だけでなく全体を見るように、机へ広げてみせた。どこまで直したいか、残りの集中力でどこへ手を入れるか。若い職人が迷っている間も、代わりに針を取ることはなかった。
ユイナも黙っていた。口を挟めば、すぐに答えを出せるのかもしれない。それでも、若い職人が自分で一か所を指すまで待っている。アンルシアは、試験のローブを手放せなかったユイナを、今度は少し想像できた。
職人が戻っていくと、ユービアはユイナの袖を見た。
「いい仕立てだね。最近の仕事?」
「仕立てまでは、自分で。錬金は、別の人の仕事です」
「少し見てもいい?」
ユイナは袖を差し出した。布の張りや、動いた時の余裕を確かめる指を、また目で追っている。ユービアはやがて袖から手を離し、頷いた。
「うん。きれいだ」
「……ありがとうございます」
返事が少し遅れた。値段を褒められた時の得意げな声とは違っていたので、アンルシアは、二億の話を持ち出すのをやめた。
「今でも、もっと上手くできると思うんです」
「思うだろうね」
「縫っている途中は、かなり。終わってからも」
「ボクもそうだよ」
ユービアは自分の作業台を見た。よく整えられた布と、その横に伏せたままの針。教える人にもまだ、縫い終わっていない仕事がある。それを見ると、ユイナの肩が少し下がった。
「それと、ヴェキオさんによろしくって言われました」
「会ってきたんだね」
「ランプ錬金をメインにしないかって。また」
「キミは、何て?」
「裁縫がメインですって」
ユービアは嬉しそうにした。その顔を見ると、ユイナも、ここまで言いに来たかったのかもしれないと思った。
「あと、一つ、話しておくことがあります」
今度は視線を逃がさず、ユイナは大魔王になったことを伝えた。ユービアはすぐには返事をしなかった。隣のアンルシアを見て、それからユイナへ戻る。
「……驚いたよ。それは」
「そうですよね」
「どうしてそうなったのか、聞いてもいいのかな」
全部をここで話せるわけではなかった。それでもユイナは、魔界で会った人たちのこと、玉座を引き受けたこと、いまアンルシアと旅をしていることを、短く話した。ユービアは分からないところで聞き返した。魔界へ行けば誰でもそうなるのか、という問いにだけは、ユイナも慌てて首を振った。
「いろいろ、ありすぎたんです」
「そうみたいだね」
笑おうとして、ユービアは少しだけやめた。
「また、ここへ来る時間はある?」
「あります。今日も来ました」
「うん。来てくれたね」
そこまで話すと、ユイナは息をつけた。マスターの椅子も、布を量る音も、入ってきた時と同じ場所にあった。
「お父さん、お元気ですか」
今度はユイナから尋ねた。ユービアの顔が柔らかくなる。
「元気だよ。ボクの方が、ちゃんと食べているかって聞かれる」
「食べてますか」
「キミまで言う?」
ユイナは笑った。頼まれてフェンサーマントを届けた頃には、ユービアが実の父とこんな話をする日を、思い描けなかった。父をめぐって迷っていた姿を知っているから、今は元気だと聞けるだけで嬉しかった。
「今度会ったら、よろしくお伝えください」
「伝えるよ。キミが、また来たって」
立ち上がる頃、ユイナの目は、入ってきた戸口の近くの作業台へ向いた。ユービアに場所を空けてもらわなくても、もう自分で布と道具を揃えられる。それでも、ここで針を持っていた時間は、別の工房の仕事では埋まらなかった。
「今度は、何か縫って持ってきます」
「見せたいものができたら、ね」
ユービアは針を取り上げる前に、もう一度ユイナを見た。
「何もなくても、寄っていいんだよ」
「……はい」
戸口まで来てから、アンルシアは少し後ろを振り返った。ユービアは既に布へ目を戻している。ユイナも一度だけ振り返り、それを見てから外へ出た。
「二着目、持ってくればよかったって、今も思ってる?」
海風の届く階段で聞くと、ユイナは照れたように笑った。
「うん。でも、今日話せたから」
アンルシアは頷き、彼女が階段を降りるのを待った。