ザイードとリュカナは、まだジュレットの町外れにいた。トートに直してもらった道具ぶくろを、実際に使ってみるためだった。濡れたロープ、食料、包帯、毒物。走りながら取り出せるか。片手で開けられるか。斥候と盾役では、必要とするものも試し方も違う。ギルドを出たユイナは、アンルシアと並んで海沿いの道を歩いた。ジュレットの海風は、ラッカランの空気よりずっと軽い。潮の匂いと、波の音。遠くでウェディの子どもたちが走っている。
「ユイナさん!」
階段の上から呼ばれた。ユイナが顔を上げるのと、小柄なウェディの少女が手を振るのが同時だった。片腕の籠が傾く。中の包みを押さえようとして、少女は慌てて両手を使った。
「ソーミャ。走らなくていいから」
「走ってないよ」
「今、走りそうだった」
ユイナが階段を数段上がると、脇から別の手が伸び、籠を持ち上げた。
「落とす前に、持たせとけ」
ヒューザだった。剣を背負ったまま、籠の中を一瞥する。ソーミャが礼を言うと、邪魔だっただけだと短く返した。
「久しぶり。あんたも来てたんだ」
ユイナが笑うと、ヒューザは肩をすくめた。
「お前こそ。ジュレットで何をしてる」
「トートさんとユービアさんに会いに来たの」
「そうか。じゃあ、ソーミャはついでか」
「会えたらいいなとは思ってたよ」
「本当?」
「本当。ジュニアのことも気になってた」
その名で、ソーミャの顔がぱっと明るくなった。ユイナは身を屈め、籠より先に少女の話を聞いた。この前見た時の様子を、ソーミャは両手まで使って話す。大きくなったという言葉に、ユイナは昔、腕の中で動いた小さな重みを思い出した。
「抱えるの、怖がってたよね」
ソーミャに言われ、ユイナの顔が止まった。
「私が?」
「うん。落とさないようにって、固まってた」
「小さかったから。剣を持つのとは違うんだよ」
「当たり前だろ」
ヒューザがすかさず言った。ユイナは睨みかけたが、ソーミャまで笑っているのを見ると、仕方なく口を尖らせた。
「抱き方を直してくれたのは、ソーミャだったね」
「おなかのところも支えてあげてって言ったの。覚えてる?」
「覚えてるよ。私より、ずっと慣れてた」
ソーミャは少し誇らしそうにした。アンルシアは二人の手を見た。少女が空中で作る輪の中には、もう子猫はいない。それでもユイナは、あの時はこのくらいだったと、その輪を少し狭めることができた。
「ユイナ。その子猫を、一緒に育てたの?」
「ソーミャが育ててたの。私とヒューザは、猫島へ返す時に一緒に行った」
紹介され、ソーミャはようやくアンルシアへ目を向けた。勇者姫と聞いた途端に背筋を伸ばしたので、アンルシアもつられて姿勢を正す。
「アンルシアです。ユイナと、一緒に旅をしています」
「勇者姫さまが?」
「ええ。今日は、いろいろ教わりました」
「ユイナさんに?」
ソーミャが隣を見上げる。ユイナは、子猫の話の直後では少し威厳を作りにくそうだった。
「教えることも、あるんだよ」
「よかったじゃねえか」
「ヒューザ、さっきから」
「褒めてる」
「信用できない」
ソーミャが笑った。風が強くなり、ヒューザの持つ籠の包みがひらついたので、少女は結び目を直した。もうその手を借りなくても、自分でしっかり結べた。
「今日は、おうちに寄っていける?」
ユイナは少し迷った。ソーミャはその顔を見て、「忙しい?」と聞く。先に諦めた声にはしたくないらしく、目は逸らさなかった。
「長くは、いられないんだ。人も待ってる」
「じゃあ、お水だけ。階段を上がるだけだもの」
今度はアンルシアがユイナを見た。必要な相手に会うと、彼女は言った。こうして呼んでくれる相手と、少し座る時間まで省かなければならない旅だとは思いたくなかった。
「私も、いただいていい?」
「うん!」
ソーミャが答えた。ユイナは二人を見てから、笑って頷いた。
部屋へ上がると、ヒューザは籠を置き、戸口の近くへ腰を下ろした。ソーミャが水を用意している間、ユイナは部屋の一隅へ目をやった。昔、子猫のことを打ち明けられた場所だった。話を聞いた時の小さな声と、自分の返事を待つ顔が、部屋の広さごと戻ってきた。
「また、猫のこと考えてる?」
水を渡しながら、ソーミャが聞いた。
「うん。あの時、話してくれてよかったなと思って」
「怖かったよ。怒られるかなって」
「怒る前に、私も困った」
「知ってる。困った顔してたもん」
ユイナは笑い、それから水を飲んだ。海を渡った日に比べれば、窓から聞こえる波はずっと遠かった。あの時の話を途中でやめても、誰かが結末を説明しなくていい。ソーミャが次に話したのは、最近見かける町の猫のことだった。ヒューザは興味がなさそうな顔で、餌をやるなよと一言だけ口を挟んだ。
出る時、ソーミャは階段の上まで見送ってくれた。
「今度は、もう少し早く来てね」
「うん。今度は、ここにも寄るつもりで来る」
ユイナが答えると、ヒューザが戸口から顔を出した。
「聞いたぞ」
「分かってるよ」
いつものように言い返してから、ユイナはもう一度ソーミャに手を振った。アンルシアも隣で手を振り、二人で海沿いの道へ戻った。
アンルシアは歩きながら、道具袋の結び目に触れていた。何が入っているかはもう見なくても分かる。だが、そこからユイナの持ち替えまでには、まだ距離があった。
「装備ぶくろにも、どうぐぶくろにも技術があることは分かったわ。命を助けることも、職人の仕事を支えることも。でも、戦闘中に武器を持ち替えるところまでは、まだうまくつながらないの」
ユイナが足を止めたので、アンルシアも向き直った。
「ルシェンダ様が、どこからともなく道具を取り出すのも、同じなの?」
「近いと思う。ルシェンダ様の場合は、たぶんかなり洗練されてるけど」
「やっぱり……」
アンルシアは、師が手を動かす時の様子を思い浮かべようとした。いつも必要な物は、気がつくともう手にある。取り出す瞬間を見ていなかったのだ。
その顔を見て、ユイナは小さく笑った。
「試してみる?」
「今?」
「うん。たぶんアンルシアなら、すぐできると思うよ」
「そんな簡単に言うけれど」
「簡単ではないけど、アンルシアはできる側だと思う」
ユイナは自分の収納から、一本の槍を取り出した。アンルシアの背丈より長い、黒い槍だった。暗い柄の先に鈍い光が宿り、鳴神のつるぎの雷のような鋭さとは違う、重く深い印象がある。魔界の鉱石を思わせるその色に、アンルシアは思わず眉を寄せた。
「……ねえ」
「分かってる」
ユイナは即答した。
「でも、今の職人業界は魔界の素材で沸き立っているから」
「そういう問題?」
「かなりそういう問題」
ユイナは槍を差し出す。
「クアドラピアー。今扱える槍としては、かなり良いもの」
アンルシアは受け取った。ずしりと腕へ重さが載る。柄を握り直すと、魔界の素材の硬さと、力を受け止める粘りが手へ返ってきた。
「鳴神のつるぎは、まだ分かったわ。でも、これはもっと……魔のものを感じる」
「魔瘴は入っていないよ」
「それは分かるけれど」
分かっていることと、心が何も感じないことは違った。アンルシアは穂先から柄へ視線を走らせ、息を吐いた。
「これが、今一番いい槍というわけね」
「そう。良いものを使ってほしいから」
「まあ、仕方ないわね。あなた、大魔王だものね」
「今は冒険者の顔だったんだけど」
「職人ではなく?」
「冒険者」
「大魔王でもあるわ」
「それもあった」
「ややこしいわね」
「自分でもそう思う」
アンルシアは黒い槍を両手で構えた。剣ならもう踏み込んでいる距離の、さらに向こうへ穂先が届く。重心も、力を載せる場所も違う。腕の力で扱おうとせず、足の位置を変えると、長い柄が身体に従い始めた。
「で、何をすればいいの?」
「まずは普通に持ち替える。剣を納めて槍を持つ。槍を置いて剣を持つ。最初はそれだけ」
「それだけでいいの?」
「基本的な動作を速くして、その先に収納術の考えを組み合わせる」
言いながら、ユイナは手の動きだけでその『先』までやってしまった。アンルシアは見るべき場所を見失い、彼女の顔を見た。
「……あなた、先生には向いていないかもね」
「うん。自分でもそれは思う。でも、やってみれば分かると思う」
アンルシアは苦笑し、鳴神のつるぎを抜いた。ユイナが今の自分のために打ち直してくれた剣を、まず鞘へ納める。槍を持ち、いったん壁に預け、剣を抜く。もう一度納めて、槍を取った。
初めは、ただ一つずつ持ち替えただけだった。繰り返すうちに、剣を納める場所と槍へ伸ばす手の角度が、別々の動きではなくなる。身体の向きを変える前に、次の重心を決めておく。どちらかを手放してから考えていては遅い。手を離す前に、次の武器を持つ自分の姿勢が始まっていなければならなかった。
アンルシアは手を止めた。袋の中を探すのではなく、手が覚えた場所へ取りに行く。ササラナとトートが、それぞれ違うやり方で見せたことを、今の動きへ重ねてみる。
「分かったかも」
「もう?」
ユイナの驚いた声に、アンルシアは笑った。
「ちょっと見ていて」
黒い槍を両手で持つ。先に剣の位置を決め、身体の向きを変えた瞬間、槍の重さが腕から抜けた。投げたのでも、壁へ預けたのでもない。さっき作った収納先へ収まり、代わりに剣の柄が手の中にあった。
「え」
ユイナの声を聞きながら、アンルシアは剣を右から左へ渡した。その動きの途中で剣も消える。次の呼吸では、両手が黒い槍を握っていた。穂先が海風を切る。槍を軽く放ると、落ちる前にそれが収納へ消え、左腕へミニュアデスの盾、右手へ鳴神のつるぎが現れた。
剣と盾を持つ構えから、槍の間合いへ。それから、剣だけの身軽さへ。重さを受ける場所が変わるたび、足も、それに遅れず動く。アンルシアは何度か確かめ、最後に剣を納めた。
「こういうこと?」
ユイナはしばらく黙っていた。自分が教えた通りにできたことを喜ぶより先に、目の前の速さに置いていかれた顔だった。
「そんなにあっさりできちゃうと、ちょっと自信なくしちゃうな。私、これ一年くらいかかったんだよ」
アンルシアは槍を見てから、ユイナを見た。さっきまで自分が知らない彼女の多さに戸惑っていたのに、今は彼女の方が、こちらを信じられないように見ている。
「一年で思いつくあなたも、あなたじゃない?」
「そうかな」
「そうよ。私は、あなたが作った道を歩いただけ。最初から、どう考えればいいか教えてもらったもの」
「教え方は下手だったと思うけど」
「下手だったわ」
「そこは否定して」
「でも、分かった」
言い切ると、ユイナは悔しそうな顔のまま、ようやく笑った。
アンルシアは左腕の盾に触れた。
「ただ隠しているわけではないのね。収納先を作って、取り出す場所を決めて、身体の動きと結びつけておく」
「うん。手の中に来る前から、次に何を持つか決めておく。探したら遅いから」
「最初から、そこにあるように扱うのね」
「戦闘中は、袋の中を見てる暇なんてないでしょう」
アンルシアは目を閉じて瓶を取った時を思い出した。手探りの仕切りと、周囲の空間の中に決めた武器の位置。規模は違っても、手を出してから迷わないための準備は同じだった。
アンルシアは、もう一度剣を抜いた。
「面白いわ」
「でしょう」
「でも、少し怖い」
「うん」
ユイナの顔が真面目になった。
「取り違えると危ない。特に槍や大剣みたいな長いものは、出す場所を間違えると自分や味方を傷つける。盾も、出す角度を間違えると視界を塞ぐ」
「だから基礎が必要なのね」
アンルシアは息を整えた。剣、盾、槍、それぞれの重さと位置が身体の周りに輪郭を持っている。出せるようになったことと、味方のいる場所で迷わず使えることは、同じではない。ササラナの空間、トートの仕切り、ユイナが一年かけた持ち替えを、今度は自分の戦い方につなげなければならない。
「これ、練習すればかなり使えるわ。剣だけでなく、盾も槍も、必要な時に必要な形で出せる」
「アンルシアなら、かなり使えると思う」
そう言われて、彼女は黒い槍をもう一度構えた。勇者としての自分の武器は剣だ。その気持ちは変わらない。けれど、槍を持つと剣では見えなかった距離が見えた。相手が踏み込む前に届く場所。反対に、懐へ入られれば不利になる近さ。剣なら一歩で詰める距離が、槍では近すぎる。盾なら守れる角度も、両手に長柄を持てば空く。
「槍を使うため、だけではないのね。剣の間合いを知るために、槍を持つ」
ユイナは、今度は隠さず嬉しそうに頷いた。
「そう。剣だけ持っていると、剣の距離が当然になる。違う武器を持つと、自分がどれだけ剣に頼っているかも分かる。持ち替えられれば、相手の距離もずらせるしね」
槍を主武器に変える必要はない。ただ、剣だけを知っているままより、今の方が剣を正しく使える気がした。アンルシアは槍の穂先を見てから、腰にあるはずの剣の位置を、見ずに確かめた。
「この槍を使う時は、少し説明が必要ね」
「やっぱり?」
「勇者が魔界素材の黒い槍を振り回していたら、だいぶ誤解されるわ」
「大丈夫。私が作ったって言えば」
「それはそれで誤解されるわ」
「大魔王製勇者装備」
「やめて」
ユイナが笑い、アンルシアも笑った。抵抗がまったくなくなったわけではないが、槍を収納する手はもう迷わなかった。鳴神のつるぎ、ミニュアデスの盾、クアドラピアー。守る角度と届く距離が違うものを、自分の判断で持つ。そのために教わった技術なのだ。
アンルシアは自分から剣と盾を構えた。
「もう一度やってみるわ」
「うん」
ユイナも立つ位置を変え、今度は武器の出る角度を見るつもりらしかった。
「でも、あんまりすぐ上達しないでね」
「無理だと思うわ」
「なぜ」
「私は勇者だから」
「ずるい」
「大魔王にずるいと言われたくないわ」
二人は、海風の中で笑った。