ユイナが地図を広げても、リーネは奥の部屋へ案内しなかった。カウンター越しに、エクゼリアの返答、大迷宮の調査、収納術と遠征装備、ゴーレックとの話を聞いている。近くの客たちは初めこそ合成の結果について話していたが、素材や冒険者の募集へ話が及ぶ頃には、声を落としていた。
「悪くない話だね」
リーネが言った。それだけで、聞いていないふりをしていた何人かが顔を上げる。冒険者の財布を泣かせ、同時にその欲がどこへ向かうかを見続けている人の言葉には、重みがあった。
「では」
ユイナが続けかけると、リーネは片手を上げた。
「ただし、それだけじゃ出資はしないよ」
アンルシアは彼女を見た。冒険者を巻き込む仕組みにも、素材の流れにも、アクセサリーに使えるかもしれないという話にも、楽しそうに反応していたはずだ。その興味を消したわけではないまま、リーネは自分の出す金を一歩手前に留めていた。
「理由を聞いても?」
ユイナが問う。
「道ができれば、人も物も動く。冒険者も動く。素材も来る。そこまでは分かる」
リーネの指がカウンターを軽く叩いた。
「でもね、そういう話なら、あたしじゃなくても金を出す奴はいるよ。ゴーレックも乗るだろう。素材商も、職人ギルドも、港や駅を持つ連中も、条件次第で金を出す」
「でしょうね。ゴーレックさんとは、今その話をしてきました」
「なら、あたしが本気で出す理由が欲しい」
その目がユイナの首元へ向いた。さっき合成した幻界王の首かざりは、弱体系耐性を百パーセント以上へ届かせた成功品だ。だが、持ち主の顔はまだ満足しきっていない。リーネは、合成を終えた時からそれを見ていた。
「あんたも分かっているだろう」
「……はい」
「アクセサリーは、まだ先へ行ける」
店内の冒険者たちのざわめきが、少し変わった。
「先?」
「今でも十分じゃないのか?」
「いや、先ってなんだ」
「リーネが言うと怖いな」
冒険者たちの反応を聞きながらも、リーネはユイナから目を外さなかった。
「ひとつのアクセサリーに、ひとつの完成形。今はそういう扱いだね。竜玉ならHP、首かざりなら弱体耐性やほかの効果。冒険者はその時々で一番いいものを選んで、いらないものを消し、欲しいものを残す」
「今の合成では、そうなります」
「でも、消さずに済むなら?」
ユイナの手が止まった。アンルシアはリーネの指先から首飾りへ視線を移したが、まだ意味を掴めない。
「たとえば、同じ首かざりに複数の完成形を持たせる。弱体耐性を持ちながら、別の効果も持つ。状況に応じて働くものもあるだろうし、ひとつの中で複数の効果を重ねて保持する形もある」
リーネは、どの効果を諦めるかを聞いているのではなかった。ユイナが首飾りを見る目も、さっきまでの不満から変わり始めた。
冒険者たちが、今度こそ騒ぎ始めた。
「おい、それできるのか?」
「できたら装備枠が変わるぞ」
「竜玉と首かざりと指輪とベルトを……いや、無理だろ」
「無理だから言ってるんだろ」
ユイナは息を吐いた。
「リーネさん一人では、届かない領域ですね」
「そうだよ。合成で効果を選び、残し、強めることはできる。でも、複数の完成形を同じ器へ矛盾なく収めるとなると、今のやり方では話が違う」
「効果同士が干渉する」
「残るものと消えるものが出る。無理に重ねれば壊れるか、使い物にならない歪なものになる。そこを越えなきゃ、欲しいものを全部持つ話にはならない」
今ある手法の限界を、リーネは惜しむ様子もなく並べた。それが分かっているから、この先へ行く相手を選ぶのだろう。
「時渡りの力だけでも無理です」
「だろうね。でも、あんたの弟なら?」
アンルシアの表情が変わった。ユイナはすぐには答えず、カウンターに置いた手を見た。
魔仙卿として生きている弟。錬金術において、並ぶ者がいないと言ってよい、あの子。助けなければならないし、何より自分が助けたい。その名前を仕事の条件の中で聞くことは、家族のことを尋ねられるのとは違っていた。けれど、弟の技術を誰かが求めていることも、ユイナには分かった。
「やはり、弟を助ける必要があるわけだね」
声に出すと、アンルシアがこちらを見た。
「ユイナ。ただ、助けたいだけではだめなの?」
責める口調ではなかった。だからユイナも、すぐに軽口で返さなかった。商売や技術や出資条件が、弟の救出へ重なる。そのことにアンルシアが戸惑う理由は分かる。
「あの子は私の弟だから、助けたい。助けるべきだと思ってる。そこは変わらないよ」
「なら……」
「でも、それだけでもない」
アンルシアは続きの言葉を止めた。店内の声も低くなっていたが、誰もこの話を終わらせてくれはしない。ユイナは自分から先を言った。
「私には、あの子の姉としての立場がある。でも、商売人としては、あの子の力が必要。そういうこと」
アンルシアは息を呑んだ。冷たく聞こえる言葉を選んでいるのに、ユイナの目は冷たくない。それが、かえってすぐには飲み込めなかった。
「それを、分けないのね」
「別のものだとは思ってる。でも、同じ私の中にあるから、分けられない。助けたい気持ちだけを綺麗な理由にして、あの子の技術が欲しい方を隠すのは、私は嫌」
ユイナはカウンターの上の首かざりへ目を向けた。弟の力があれば届くかもしれない、と言われて、その先を見たくなったのは本当だった。その欲までなかった顔で、姉としてだけ答える気にはなれない。
リーネが、少しだけ目を細めた。
「正直だね」
「リーネさん相手に、綺麗事だけで話しても無駄でしょう」
「分かってるじゃないか」
アンルシアは、なおためらっていた。
「でも、助けられた後に、その力を求められるのは……」
「無理にはさせない。そこは絶対にしない。あの子が嫌だと言えば、やらせないよ」
ユイナは今度はすぐに答えた。
「商売人として必要でも?」
「必要でも。必要だからこそ、無理に使えない。嫌がっている人の力を組み込んだ仕組みは、長く持たない」
優しい理由だけには言い直さなかった。アンルシアはそれを聞き、簡単に安心したと言うこともできずにいた。相手を必要とすることと、相手の返事を待つこと。その二つを、同じ話の中へ残そうとしているのだとは分かった。
リーネは小さく笑った。姉弟の事情へ慰めを差し入れる代わりに、自分の条件を明らかにする。
「そこまで言うなら、条件はこうだ。鉄道計画そのものには、まだ本格出資しない。調査と準備には乗るよ。冒険者への噂流し、素材の初期鑑定、アクセサリー用途の見立て。そこまでは協力する」
「十分です。先に動かせるところを動かしたいので」
「本格的に金を出すのは、弟を助けた後。そして、あたしの合成術、あんたの時渡り、弟の錬金術で、複数効果を持つ同一アクセサリーの統合に手が届くと分かった時だ」
ユイナは頷いた。救い出すことと、技術として成立させること。どちらかだけで出資条件を満たしたとは言えない。
「分かりました。同じ品の完成形を束ねられるなら、その先も見えます」
「もちろん失敗するかもしれない。成功しても、すぐ商売にできるとは限らないし、危険が残れば客には出せない」
「試して、確かめる必要がありますね」
「それでも、あたしは見たい」
リーネの笑みには、出す金を計る商人と、まだない品を作りたい職人の欲が同時にあった。客が毎日、完成品のさらに先を欲しがるのを見てきた。その先へ進みたがっているのは、彼女自身でもある。
「冒険者の欲が、どこまで行けるのか」
ユイナは、静かに頷いた。
「私も、見たいです」
「でしょうね」
リーネは楽しそうに言った。
「あんたも結局、こっち側だよ」
アンルシアは二人を見た。姉として弟を助けたい気持ちも、商売人としてその力が必要だという判断も、冒険者として新しい強さを欲しがる気持ちも、ユイナの中ではどれも嘘ではない。どれかが強すぎる日には、残りを押してしまわないのか。その怖さがまだあった。
「ユイナ。弟さんを助けたいと思っていることを、疑っているわけではないのよ」
「うん」
「でも、少し怖いとも思った。だから、その欲しいと思う気持ちも、隠さないでほしいの」
ユイナは目を伏せた。見せたら安心してもらえる、という話ではないらしい。それでも、隠してくれと言われたわけではなかった。
「分かった」
「そして、弟さんが嫌だと言ったら、やらせない。それは約束して」
「約束する」
ユイナが顔を上げたので、アンルシアもその目を見て頷いた。彼の返事は、ここにいる誰も代わりにはできない。
「勇者姫様は厳しいね」
リーネが肩をすくめた。
「必要なことです」
「そうだね。そういう人が隣にいるなら、ユイナも危ない橋を渡る前に、少しは足元を見るかもしれない」
「リーネさん?」
「褒めてるよ」
ユイナは疑わしそうに見返した。リーネが先ほどまでの話を軽く扱っているわけではないことは、二人とも分かっていた。
リーネは笑った。
「さて、まずは調査と噂流しだね。新素材が出たら、あたしに見せる。アクセサリーに使えそうなものは、勝手に流すんじゃないよ」
「分かっています。私は黙っていますけど……この人たちの口までは止められないかな」
ユイナが店内を見ると、客の一人があからさまに目を逸らした。聞いていなかった顔をするには遅い。リーネは笑った。
「そんなこと、分かってるよ。でも、言っておく意味はあるでしょ?」
「そうですね」
知られて困るなら、ここでは話さない。その意図をユイナも受け取り、広げた資料の端を揃えた。
その瞬間、店内の冒険者たちが、それまで我慢していたものを放り出すように話し始めた。
「おい、聞いたか。新素材だってよ」
「アクセサリーに使えるかもしれないって話だろ」
「それより、複数効果の統合って何だよ。できたらやばいだろ」
「何と何を合わせる?」
「金のロザリオと竜のうろこだろ。死なないし、軽減できる」
「いや、忠誠のチョーカーを忘れるな。火力がないと始まらねえ」
「お前ら前衛はすぐそれだ」
「じゃあ何だよ」
少し離れたところにいた魔法使い風の男が、杖を抱えたまま声を上げた。
「智謀の首かざりを忘れるな」
「あれはあんま使わねえだろ」
「使う!」
「いや、使う場面はあるけどよ」
「あるなら忘れるな!」
別の冒険者が笑いながら言う。
「それより俺は戦神のベルトだな。あれをどうにかできるなら、全部変わるぞ」
ユイナの指が止まった。リーネも笑みを保ったまま、目だけを細める。二人の間に言葉はなかった。客たちは自分たちの話に夢中で、手元のその一瞬を見ていない。
「戦神かあ」
「属性と武器が噛み合えば強いからな」
「でも引くのが大変なんだよ」
「だから統合だろ。片手剣炎と両手剣雷と杖炎と……」
「そんな都合よくいくかよ」
「夢くらい見させろ」
「戦神をまとめられたら、マジで世界変わるぞ」
アンルシアはユイナを見た。資料を揃える手はもう動いていて、リーネもいつもの笑顔に戻っている。けれど今、二人は確かに同じものを思い描いた。戦神のベルト。アンルシアにはまだ一つの装備の名でしかなかったそれが、交渉の続きを握っているらしい。
「ユイナ」
「何?」
「今、少し反応したわね」
ユイナは一瞬だけ黙った。リーネが楽しそうに笑う。
「勇者姫様はよく見てるね」
「やっぱり」
「まあね」
ユイナは小さく息を吐いた。
「戦神のベルトは、私もリーネさんも考えていたところだから」
「そんなに特別なの?」
「特別というか、厄介」
リーネが言った。
「あれは普通のアクセサリーとは少し違う。効果の種類が多い。武器、属性、種族、攻撃、呪文。冒険者の欲が、かなり露骨に出る」
「欲が」
「そうさ。あれこそ、欲しい効果といらない効果の差が残酷なくらい出る」
ユイナは頷いた。
「しかも、完璧な一本を作ろうとすると、きりがない」
「だから、みんな夢を見る」
リーネは店内を見た。冒険者たちはまだ好き勝手に話している。
「炎ベルトに氷も乗せたい」
「片手剣と槍を一本にできねえかな」
「いや、種族特効だろ」
「全部だ全部」
「馬鹿か」
「馬鹿でも欲しいだろ」
アンルシアは好き勝手な希望の飛び交う店内を見た。守れるなら攻めたい。攻められるならもっと早く勝ちたい。その終わらない欲が、リーネの説明よりも生々しく、客ごとに違う声で聞こえてくる。
「……これを聞かせるために、ここで話していたのね」
「半分はね。もう半分は、あたしが聞きたかったのさ」
リーネはカウンターへ指を置いたまま答えた。
「こっちが勝手にすごいと思うものと、冒険者が本当に欲しがるものは違うことがある。こういう場所で勝手に喋らせると、本音が出るだろ?」
「会議室で聞いても、出てこない話ですね」
ユイナが言う間にも、客の議論は別の組み合わせへ進んでいた。誰も、戦神の名に二人が反応したことには気づいていない。自分の欲しいものの話をしているだけだ。それを聞く側では、技術をどこへ進め、何を商売にするかが、少しずつ形を持ち始めている。
「少し怖いわね。人の欲が、そのまま道具や技術になるところ」
アンルシアが小さく言うと、ユイナは否定しなかった。
「うん。でも、悪いことばかりじゃないよ」
「分かっているわ。強くなりたい、助けたい、勝ちたい、稼ぎたい。そういうもので、人が動くのね」
言い終えて、アンルシアは袋の中の竜玉を思った。強くなりたいという点なら、自分も店の客たちと違わない。どの欲をきれいなものとして分ければよいのか、初めほど簡単には言えなくなっていた。
「いいねえ。勇者姫様、分かってきたじゃないか」
「褒められているのかしら」
「褒めてるよ」
リーネは笑ったが、答えを急がせる様子はなかった。
ユイナは、まだ盛り上がっている客たちを見た。
「とりあえず、戦神は候補ですね」
「そうだね。ただ、あれに手を出すなら、普通の合成よりずっと厄介だよ」
「分かっています。完璧な一本が欲しいんですから」
ユイナは苦労を承知しても、欲しい方を引っ込めなかった。リーネの声は軽いまま、目だけが真剣になる。
「弟を助けてからだね」
「ええ。その時に、本人と話します」
アンルシアの胸には、まだ重さが残った。弟を助けたいという願いへ、仕事や投資の条件までつながることには慣れない。ユイナは、それを隠さない。隠さないからこそ怖い。けれど、隠さないからこそ、隣で止められる。間違っていると思ったら、今度も黙ってはいない。そう決めると、彼女を信じることと怖がることは、もう互いを打ち消さなかった。
冒険者たちは、まだ夢のような話をしていた。
「全部まとめられたら最強だろ」
「だから無理だって」
「でも、リーネが言ったんだぞ」
「いや、言ってねえ。ユイナが持ち込んだ」
「どっちでもいい。できたら買う」
「金が足りねえよ」
「じゃあ稼ぐしかねえな」
噂はもう動き始めていた。リーネは客同士のやり取りを聞きながら笑い、ユイナも、ときどき自分の欲しいものを聞きつけたような顔になる。
アンルシアは二人を見た。道はまだできていない。線路もなく、正式な契約はこれからだ。それでも、新しい装備が欲しい者、素材を探したい者、買うために稼ごうとする者が、既に次の仕事を思い描いている。ユイナの言う「道がつながる」は、線路の完成だけを指してはいなかった。
「それと、弟を助けたら、連れてきな」
リーネが言うと、ユイナの表情が緩んだ。
「はい」
「その時は、きっちり取るよ」
「何をですか」
「技術料に決まってるだろ」
「こっちも協力するのに?」
「それ込みさ」
ユイナは一瞬、本気で値切る顔をした。それから、諦めたわけではなさそうに笑った。
「リーネさんらしいですね」
「取れるところからは取るだけさ」
アンルシアもつい笑ってしまった。弟の救出へ商売と技術と欲が絡む、重い話だったことは変わらない。それでも最後には、合成に泣き、笑い、また挑む客たちのいる、リーネの店の空気へ戻っていく。
袋の上から竜玉に触れた。強くなりたいという欲を、自分も持っている。どこへ向けるかを誤りたくないし、ユイナにも誤ってほしくない。彼女は分かっていて、それでも時々、欲しいものへ踏み出す足が速すぎる。
だから隣に立つ。勇者として。そして、盟友に「それでいいの」と尋ね、返事を聞く者として。ユイナの広い道を狭めるためではなく、自分もそこを一緒に歩くために、アンルシアは店を出る支度をした。