ユシュカが椅子の背にもたれ、アスバルが息を吐いたところで、ユイナは表情を戻した。軽口に逃げていられる時間は短い。
アンルシアはまだこちらを見ていた。大魔王の衣をまとった盟友を、勇者として、王女として、友としてどう受け止めるか、決めかねた目だった。ユイナはその視線から逸れずに言った。
「ここからは、もう少し具体的な話をします」
その声で、場の空気が変わった。ルシェンダが目を細める。
「具体的、とは?」
「魔界に何が起きているのか。なぜ、魔界の王がアストルティアを欲しがり続けたのか。なぜ、私が大魔王の座に就く必要があったのか」
アンルシアの手が、膝の上で固く握られた。ユイナは言葉を選ばなかった。
「魔界には、大魔瘴期が迫っています」
ユシュカの表情が、わずかに消えた。アスバルは目を伏せた。カーロウは、びくりと肩を震わせる。ヴァレリアだけは動かなかったが、否定もしなかった。アンルシアは聞き返した。
「大魔瘴期……?」
「魔瘴が増える時期、というだけではありません」
ユイナは卓の上に手を置いた。
「土地が腐ります。水が濁ります。空気が重くなります。そこに住む者の身体も、心も、少しずつ削られていく。魔界そのものが、魔瘴に呑まれていく段階です」
誰も、すぐには言葉を挟まなかった。
「魔界の民は、それを昔から恐れていました。ですが、止める方法がなかった。魔瘴は魔界にあるものだから、魔界の民はそれと共に生きるしかない。そう考えるしかなかった」
ルシェンダの眉が動いた。
「大魔瘴期……」
彼女は、記憶の底を探るように呟いた。
「古い記録で、その名を見たことがありますな」
アンルシアが振り返る。
「ルシェンダ様?」
「私も実物を知るわけではありませぬ。ただ、魔瘴が一定の臨界を越えた時、魔界という閉じた場だけでは収まりきらなくなる、という記述があったはずです」
ユイナは頷いた。
「はい。だからこれは、魔界だけの問題ではありません」
「アストルティアにも及ぶ、と?」
「いずれは」
アンルシアの顔が強張った。ユイナは、その反応を見ながら続ける。
「ジャゴヌバがいる限り、魔瘴は止まりません。大魔瘴期が進めば、魔界は限界を迎えます。けれど、闇の根源が完全に復活すれば、それは魔界だけでは終わりません。アストルティアも滅びます」
重い言葉だった。だが、ユイナの声は淡々としていた。怯えさせるためではなく、隠しても意味がないから言っている声だった。エステラが静かに口を開いた。
「ナドラガンドにも、似た記録があります」
全員の視線が彼女へ向いた。エステラは少しだけ目を伏せた。
「神の加護から切り離された地。閉ざされ、歪み、そこに住む民の祈りまで変わってしまう世界。大魔瘴期という名ではありませんでした。魔界の話を聞いていると、私はナドラガンドの古い記録を思い出します」
アンルシアは息を呑んだ。ナドラガンド。竜族の世界。かつて閉ざされ、歪められ、長く苦しんできた地。エステラは続けた。
「私たち竜族も、見捨てられた土地で長く生きてきました。もちろん、魔界と同じだと言うつもりはありません。ですが……」
彼女はユイナを見た。
「魔界の民の怨みを、ただ愚かだとは言えません」
シンイは黙っていた。アンルシアも黙っていた。ルシェンダは、静かにユイナへ視線を戻す。
「つまり、魔界の民は、アストルティアを恨んでいる」
「ええ。すべての民が同じ思いではありませんが」
「女神ルティアナに見捨てられた、と」
「そう感じている者は多いです」
ユイナは逃げなかった。
「アストルティアには光がある。女神の加護がある。空がある。清い水がある。魔界には、それがない。魔瘴に蝕まれた土地で生き、なおアストルティアからは魔の者として恐れられる」
「だから攻めてよい、ということですか?」
シンイの声だった。静かだが、鋭かった。
「魔界には事情があった。見捨てられた怨みがあった。だから、冥王も、大魔王も、理解しろと?」
ユイナはすぐに首を横に振った。
「違います」
「では、何を求めているのです」
「理由を見誤らないでほしいのです」
シンイが黙る。ユイナは、彼から目を逸らさなかった。
「シンイさんが冥王を許す必要はありません。アンルシアがマデサゴーラを許す必要もありません。私も、あのおっさんがしたことを許すつもりはありません」
ユシュカが少しだけ口元を動かしたが、今度は茶化さなかった。
「冥王を倒しても終わりませんでした。マデサゴーラを倒しても終わりませんでした。名前のある敵を倒すたびに、世界は少し救われました。でも、同じ方向からまた次の災いが来た」
ユイナの手が、卓の上で静かに握られる。
「なら、私たちは敵の名前だけではなく、その敵がどこから来るのかを見なければならない。魔界。魔瘴。闇の根源。女神から見捨てられたという怨み。アストルティアへの渇き。そういうものが積み重なって、大魔王がアストルティアへ向かう理由になる」
アンルシアは唇を噛んだ。
「それで、兄さまが殺されたことが変わるの?」
「変わらないよ」
ユイナは即答した。
「変わらないから、許せとは言えない。ただ、次の誰かを殺させないためには、そこで止まってはいけないんだよ」
沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、ただ重いだけではなかった。誰もが、言葉を飲み込み、それぞれの中で咀嚼している沈黙だった。やがて、ユシュカが小さく息を吐いた。
「口だけでも大魔王になれそうだな」
ユイナは少しだけ目を細める。
「褒めてる?」
「半分くらいはな」
「残り半分は?」
「面白がってる」
「だと思った」
アスバルが横からため息をついた。
「いや、僕もうまいとは思ったけど、その言い方はどうなのかな?」
「うまいと思ったならいいだろ」
「よくないよ。今、一応かなり大事な話をしているんだけど」
「だからだ。重すぎると話が進まねえ」
ユシュカは肩をすくめた。ルシェンダは額に手を当て、深く息を吐いた。
「全く……姫の盟友は、とんだ人になりましたね」
アンルシアはユイナを見た。大魔王の衣をまとった盟友。自分に何も言わず、玉座に座っていた者。それでも、カーロウを守り、自分を守り、今は魔界とアストルティアの間で言葉を選んでいる者。怒りはまだあった。悲しみも消えていない。
けれど、アンルシアは少しだけ胸を張った。
「ルシェンダ様」
「何ですかな」
「彼女は、いつでもとんだ人ですよ」
ユイナが困ったようにアンルシアを見る。
「アンルシア」
「違う?」
「……それは、否定しにくい」
ユシュカが今度こそ笑った。アスバルも、ほんの少しだけ口元を緩めた。シンイはまだ笑わなかったが、ユイナを見る目から、わずかに棘が抜けていた。だが、会議はまだ終わっていない。ユイナは、もう一度空気を引き締めた。
「大魔瘴期を止めるには、闇の根源に辿り着く必要があります」
「どうやって?」
アンルシアが問う。
「魔界側にも、すべての答えがあるわけではありません」
ユイナはユシュカ、アスバル、ヴァレリアを順に見た。
「けれど、道を知る可能性がある者はいます」
アンルシアが、すぐに気づいた。
「魔仙卿……?」
「はい」
その名が出た瞬間、場の空気がまた変わった。シンイが目を細める。エステラが静かに息を呑む。ルシェンダはわずかに姿勢を正した。ユイナは、言葉を飲み込むように一度だけ目を伏せた。
「魔仙卿は、私の弟です。名前はユイロといいます」
アンルシアはその言葉を知っていたはずなのに、改めて聞くと胸が痛んだ。弟。大魔王でも、魔界の導き手でも、時を越えた存在でもなく。ユイナにとっては、弟。
「彼は、五百年を生きました」
ユイナの声は、初めて少しだけ揺れた。
「私が知らない時間を、私よりずっと長く」
誰も茶化さなかった。
「彼がなぜ魔仙卿になったのか。何を見て、何を選んだのか。闇の根源に辿り着くためにも、大魔瘴期を止めるためにも、そして……」
ユイナはそこで一度、言葉を切った。
「私が、弟を取り戻すためにも。それを知らなければなりません」
ヴァレリアが鼻で笑う。
「大魔王が弟を助けに行く、か」
「不満ですか」
「不満ではない」
ヴァレリアは壁に背を預けたまま言った。
「大魔王が弟ひとり取り戻せぬなら、魔界など背負えん」
冷たい言い方だった。だが、ユイナは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない」
「分かっています」
ユシュカが笑う。
「素直じゃねえな、あんたも」
「黙れ」
ヴァレリアは短く返した。
アスバルがユイナを見る。
「魔仙卿が見てきたものをたどれれば、手掛かりになる、ということだね」
「うん。記録でも、本人の記憶でも。届く方法を探したい」
「それは、危険だと思う」
「楽な道ではなさそうだね」
「それでも行くんだね」
「行くよ」
即答だった。アンルシアはその声を聞いて、胸の奥が軋むのを感じた。まただ。この人はまた、死に近い場所へ行こうとしている。大魔王として。盟友として。姉として。エステラが静かに言った。
「あなたは、また死者の側へ近づいているのですね」
ユイナは少し困ったように笑った。
「今度こそ、生きて連れ帰るつもりだよ」
「あなたの場合、その言葉だけでは安心できません」
「……すみません」
ルシェンダがぽつりと言う。
「しかし、弟御の記憶をたどるとなれば、エテーネ、時渡り、世界樹、女神、魔界……いくつもの線が繋がることになりますな」
「はい」
「これは、大魔王の弟を助ける話ではありませんな」
ユイナはルシェンダを見る。ルシェンダは静かに続けた。
「エテーネの民を、時の迷子を、そして魔界を導いてきた者を取り戻しに行く話です」
ユイナは少しだけ黙った。それから、短く言った。
「私の弟です」
ルシェンダは目を細めた。
「ええ。まずは、そこなのでしょうな」
アンルシアはその言葉に、ようやく少しだけ理解した。ユイナは大魔王として魔界を背負っている。アストルティアの民として世界を救おうとしている。盟友として勇者を守った。それでも、弟のことになると、最初に出てくる言葉はそれだった。
私の弟です。アンルシアは静かに息を吸った。
「私も行くわ」
ユイナが顔を上げる。
「アンルシア」
「勇者として、闇の根源へ至る道を見届ける必要があります。グランゼドーラの王女として、アストルティアに及ぶ危機を無視できません」
そこで一度、言葉を切る。
「それに」
アンルシアは、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「盟友の弟なら、私にとっても無関係ではないもの」
ユイナは、すぐには返せなかった。ユシュカが椅子の背で笑う。
「話がまとまってきたな」
「まとまったと言うには、まだ足りませぬ」
ルシェンダが言った。
「ですが、向かう先は見えました」
シンイが静かに頷く。
「僕も行くよ」
ユイナがシンイを見る。
「シンイさん」
「君の言葉を、まだ全部飲み込めたわけじゃない」
シンイは正直に言った。
「でも、君の弟が何を見てきたのかは、知る必要があると思う。冥王の時から続いているものがあるなら、僕もそこから目を逸らしたくない」
ユイナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
エステラも頷く。
「私も参ります。ナドラガンドの記録と魔界の大魔瘴期が、無関係とは思えません」
ヴァレリアは腕を組んだまま言った。
「行くなら早くしろ。魔瘴は待たん」
アスバルが静かに付け加える。
「準備は必要だよ。記憶をたどるなら、魔力の安定もいる。魔仙卿が残したものを探す必要もある」
「それはこちらで調べる」
ユシュカが言った。
「魔界側の手掛かりは俺たちで集める。大魔王様は、倒れないように飯でも食ってろ」
「それ、大魔王への命令?」
「助言だ。死に過ぎって言われたばっかりだろ」
ユイナは何も言い返せなかった。アンルシアが、ほんの少しだけ笑った。まだ小さな笑みだった。会議が始まってから初めての、彼女自身の笑みだった。
「本当に、少し死に過ぎよ」
「だから、好きで死んでるんじゃないってば」
「知っているわ」
アンルシアはそう言ってから、真っ直ぐにユイナを見た。
「だから今度は、生きて戻るの。あなたも、弟さんも」
ユイナは一度だけ目を伏せた。それから頷いた。
「うん。二人で戻る」
その返事は、大魔王のものではなかった。勇者の盟友としてのものでも、アストルティアの民としてのものでもなかった。
ただ、弟を取り戻しに行く姉の返事だった。