勇者と大魔王の欲深い明日   作:折無堂

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第5話 草原に残る傷

 獅子門で光のツボに創生のチカラを集めたあと、二人は落陽の草原へ向かった。空気が変わったのは、草原へ入ってすぐだった。風はある。草も揺れている。だが、そこにはどこか、時間が止まったような乾いた気配があった。遠くに見える崖。荒れた地面。かつて何かが壊れ、そのまま残されたような景色。

 

 アンルシアは周囲を見回した。

「ここが、次の場所なのね」

「うん」

 

 ユイナは光のツボを確かめ、それから草原の奥を見た。

 

「落陽の草原」

 その声には、どこか懐かしさが混じっていた。アンルシアは横顔を見る。

 

「来たことがあるの?」

「何度かね」

 

 ユイナは少しだけ間を置いた。

 

「というか、ここ、いつまでも復旧しないんだよね。前に来た時も、あの崖はあのままだった」

 

「復旧?」

「いや、こっちの話」

 

 ユイナはすぐに目を逸らした。アンルシアは眉をひそめる。

 

「今、文句を言わなかった?」

「言ってない」

「言ったわ」

「気のせいです」

「あなた、時々そうやってとぼけるわよね」

 

 ユイナは答えずに歩き出した。アンルシアは少し不満そうにしながらも、その隣に並ぶ。光の河に近づくにつれて、ツボの内側が淡く揺れ始めた。ここにも、創生のチカラの流れがある。だが獅子門で感じた力とは違う。もっと沈んでいて、古い傷の底に残った光のようだった。

 

 アンルシアはその光を見つめた。

 

「ここで、何があったの?」

 

 ユイナはすぐには答えなかった。風が吹いた。その風の中に、遠い戦いの匂いが混じっているような気がした。

 

「災厄の王」

 ユイナは、ぽつりと言った。

 

「災厄の王?」

「アンルシアが勇者として目覚めるより前の話だから、聞く機会もなかったかな」

「……そう」

 

 アンルシアの声が少しだけ硬くなる。ユイナはそれに気づいたが、すぐには触れなかった。

 

「最初は、妙な呼び声に導かれただけだったんだよ」

 

 ユイナは、落陽の草原を見渡した。

 

「世告げの姫たちがいてね。災厄を告げて、王者の武具を集めなければならないと言うの。正直、あの時は何が何だか分からなかった。ロディアという人が、その姫たちの中心にいた」

「それでも行ったの?」

「行ったよ。放っておけなかったし、呼ばれたからには何が起きてるのか、自分で確かめたかった」

 

「世告げの姫?」

「世界に災厄を告げる姫たち。最初は、自分たちが何者なのかも、全部覚えていたわけではなかった。でも、災厄の王を止めるために、最後には自分たちの役目を選び直した」

 

 アンルシアは黙って聞いていた。ユイナの声は、いつもの説明より少しだけ低かった。

 

「災厄の王は、最初からただの怪物だったわけではないんだよね」

「違うの?」

「少なくとも、私はそう見てるよ」

 

 ユイナは光の河を見た。

 

「彼は、本来は高潔な精神の持ち主だった。王として、世界のために立とうとした。誰かを守ろうとした。でも、一人で抱えすぎた」

 

 アンルシアの視線が、ユイナに向く。

 

「一人で……」

「そう」

 ユイナは頷いた。

 

「強い人ほど、自分なら耐えられると思ってしまうことがある。自分が抱えなければならないって。守るために自分を削って、壊れたことにも気づけなくなる。そうして、守りたかったものを傷つける側へ回ってしまう」

 

 アンルシアは、何も言えなかった。その言葉は、災厄の王だけを語っているようには聞こえなかった。

 

「災厄の王は、災厄そのものになった」

 

 ユイナは続けた。

 

「倒そうとしても、倒しきれなかった。世告げの姫たちは、自分たちを犠牲にする形で封印した。その本体を、再び地中へ沈めた」

「……あなたは、それを見たの?」

「見たよ」

「戦ったの?」

「戦った」

「世界を救ったの?」

 

 その問いは、思ったより鋭かった。ユイナはアンルシアを見る。アンルシアの表情は、わずかに不機嫌だった。

 

「私の知らないところで」

「アンルシア」

「分かっているわ。私がまだ目覚めていない頃の話なのでしょう。あなたが悪いわけではない。それは分かっている」

 

 アンルシアは、少しだけ唇を尖らせた。

 

「でも、面白くはないわ」

 

 ユイナは困ったような顔をした。それを見て、アンルシアはさらに少しだけ不機嫌になった。いや、本当は、その顔が見たかっただけかもしれない。

 

「言い訳ではないけど」

 

 ユイナは、ゆっくりと言った。

 

「私自身だって、世界を救おうなんて思っていたわけじゃないよ」

 

 アンルシアが目を瞬かせた。

 

「え?」

「あの場に居合わせて、助けを求める人がいて。放っておけば取り返しがつかないことになる。それが分かったら、見捨てられなかっただけ」

 

 ユイナは光の河を見た。

 

「まあ、頼られて嫌な気はしなかったしね。行けば私にも何かできるって、思いたかった」

 

 その欲まで悪びれずに認めるところが、この人らしかった。世界を救う者として立とうとしたのではない。見捨てられない誰かと、自分が応えたい頼みが先にあって、歩いた先が世界の危機へつながっていた。

 

 アンルシアは、兄のことを思い出した。トーマ兄さま。兄もそうだった。自分よりも他人を前に置く人だった。王子として、兄として、勇者の兄として、いつも誰かを守ろうとしていた。けれど。同じではない。兄は一人で立とうとしていた。

 

 一人で支え、一人で耐え、一人で背負おうとしていた。ユイナも一人で抱えようとする。そういうところはある。だが、この人は、旅の中で何度も誰かと出会い、誰かに助けられ、それを自分の一部にしてきた。

 

 それでもなお、一人で行こうとするから、腹が立つのだ。

 

「あなたは」

 アンルシアは言った。

「本当に、昔からそうなのね」

 

「昔から?」

「私が知る前から」

 

 ユイナは、返答に迷ったようだった。アンルシアはその顔を見て、少しだけ気が済んだ。

 

「……怒ってる?」

「少し」

「ごめんね」

「謝るところではないわ」

「じゃあ、どうすればいいの」

「困っていればいいの」

 

 ユイナは本当に困った顔をした。アンルシアは、それを見て、ほんの少しだけ笑いそうになった。まだ怒っている。まだ許したわけではない。

 

 まだ、大魔王になった盟友をどう受け止めればいいのか、分からない。でも、こうして困らせることはできる。剣を向けるのではなく。怒鳴るのでもなく。昔のように、少しだけ意地悪を言うことはできる。

 

 光のツボが、淡く震えた。ユイナは気を取り直し、ツボを光の河へ近づける。草原の光が、ゆっくりとツボの内側へ吸い込まれていく。アンルシアはその様子を見ながら、静かに言った。

 

「災厄の王は、一人で抱えて、災厄になったのね」

「少なくとも、私にはそう見えた」

 

「世告げの姫たちは、一人ではなく、自分たちで選んで封印した」

「うん。最後には、自分たちで選んだ」

 

「なら」

 アンルシアはユイナを見る。

 

「あなたは、一人で抱えないで」

 

 ユイナの手が止まった。

 

「アンルシア」

 

「災厄の王の話を、あなたがしたのよ」

 アンルシアの声は穏やかだった。

 

「なら、あなたにも当てはまるでしょう」

 

 ユイナはしばらく黙っていた。光のツボの中で、落陽の草原の光が揺れている。

 

「……気をつける」

「それ、気をつけない人の返事ね」

「努力はする。だから、怪しかったら言って」

「今、言ったところでしょう」

 

 アンルシアはそう言って、光の河を見た。

 

 草原は傷を残したままだ。復旧しない、とユイナはぼやいた。とぼけた口調に紛れていたが、あの崖も荒れた地面も、彼女が戦った時から戻りきらずにいるのだろう。

 

 災厄は倒され、封じられても、跡を残す。人も、世界も、すぐには元に戻らない。それでも、光は残っている。ツボの中で揺れる小さな光を見ながら、アンルシアは思った。ユイナが自分の知らないところで救ってきた世界を、自分はこれから少しずつ知っていくのだろう。

 

 それは、少し悔しい。けれど、悪くはない。

 

「行こうか」

 ユイナが言った。

 

「次の特異点へ」

 アンルシアは頷いた。

 

「ええ」

 そして歩き出す前に、少しだけ付け加えた。

 

「でも、あとで災厄の王の話はもっと聞かせて」

「うん。今度は端折らず話す」

「あなたが私の知らないところで何をしていたのか、ちゃんと聞くわ」

 

 ユイナは、また困った顔をした。アンルシアは今度こそ、少し笑った。

 

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