獅子門で光のツボに創生のチカラを集めたあと、二人は落陽の草原へ向かった。空気が変わったのは、草原へ入ってすぐだった。風はある。草も揺れている。だが、そこにはどこか、時間が止まったような乾いた気配があった。遠くに見える崖。荒れた地面。かつて何かが壊れ、そのまま残されたような景色。
アンルシアは周囲を見回した。
「ここが、次の場所なのね」
「うん」
ユイナは光のツボを確かめ、それから草原の奥を見た。
「落陽の草原」
その声には、どこか懐かしさが混じっていた。アンルシアは横顔を見る。
「来たことがあるの?」
「何度かね」
ユイナは少しだけ間を置いた。
「というか、ここ、いつまでも復旧しないんだよね。前に来た時も、あの崖はあのままだった」
「復旧?」
「いや、こっちの話」
ユイナはすぐに目を逸らした。アンルシアは眉をひそめる。
「今、文句を言わなかった?」
「言ってない」
「言ったわ」
「気のせいです」
「あなた、時々そうやってとぼけるわよね」
ユイナは答えずに歩き出した。アンルシアは少し不満そうにしながらも、その隣に並ぶ。光の河に近づくにつれて、ツボの内側が淡く揺れ始めた。ここにも、創生のチカラの流れがある。だが獅子門で感じた力とは違う。もっと沈んでいて、古い傷の底に残った光のようだった。
アンルシアはその光を見つめた。
「ここで、何があったの?」
ユイナはすぐには答えなかった。風が吹いた。その風の中に、遠い戦いの匂いが混じっているような気がした。
「災厄の王」
ユイナは、ぽつりと言った。
「災厄の王?」
「アンルシアが勇者として目覚めるより前の話だから、聞く機会もなかったかな」
「……そう」
アンルシアの声が少しだけ硬くなる。ユイナはそれに気づいたが、すぐには触れなかった。
「最初は、妙な呼び声に導かれただけだったんだよ」
ユイナは、落陽の草原を見渡した。
「世告げの姫たちがいてね。災厄を告げて、王者の武具を集めなければならないと言うの。正直、あの時は何が何だか分からなかった。ロディアという人が、その姫たちの中心にいた」
「それでも行ったの?」
「行ったよ。放っておけなかったし、呼ばれたからには何が起きてるのか、自分で確かめたかった」
「世告げの姫?」
「世界に災厄を告げる姫たち。最初は、自分たちが何者なのかも、全部覚えていたわけではなかった。でも、災厄の王を止めるために、最後には自分たちの役目を選び直した」
アンルシアは黙って聞いていた。ユイナの声は、いつもの説明より少しだけ低かった。
「災厄の王は、最初からただの怪物だったわけではないんだよね」
「違うの?」
「少なくとも、私はそう見てるよ」
ユイナは光の河を見た。
「彼は、本来は高潔な精神の持ち主だった。王として、世界のために立とうとした。誰かを守ろうとした。でも、一人で抱えすぎた」
アンルシアの視線が、ユイナに向く。
「一人で……」
「そう」
ユイナは頷いた。
「強い人ほど、自分なら耐えられると思ってしまうことがある。自分が抱えなければならないって。守るために自分を削って、壊れたことにも気づけなくなる。そうして、守りたかったものを傷つける側へ回ってしまう」
アンルシアは、何も言えなかった。その言葉は、災厄の王だけを語っているようには聞こえなかった。
「災厄の王は、災厄そのものになった」
ユイナは続けた。
「倒そうとしても、倒しきれなかった。世告げの姫たちは、自分たちを犠牲にする形で封印した。その本体を、再び地中へ沈めた」
「……あなたは、それを見たの?」
「見たよ」
「戦ったの?」
「戦った」
「世界を救ったの?」
その問いは、思ったより鋭かった。ユイナはアンルシアを見る。アンルシアの表情は、わずかに不機嫌だった。
「私の知らないところで」
「アンルシア」
「分かっているわ。私がまだ目覚めていない頃の話なのでしょう。あなたが悪いわけではない。それは分かっている」
アンルシアは、少しだけ唇を尖らせた。
「でも、面白くはないわ」
ユイナは困ったような顔をした。それを見て、アンルシアはさらに少しだけ不機嫌になった。いや、本当は、その顔が見たかっただけかもしれない。
「言い訳ではないけど」
ユイナは、ゆっくりと言った。
「私自身だって、世界を救おうなんて思っていたわけじゃないよ」
アンルシアが目を瞬かせた。
「え?」
「あの場に居合わせて、助けを求める人がいて。放っておけば取り返しがつかないことになる。それが分かったら、見捨てられなかっただけ」
ユイナは光の河を見た。
「まあ、頼られて嫌な気はしなかったしね。行けば私にも何かできるって、思いたかった」
その欲まで悪びれずに認めるところが、この人らしかった。世界を救う者として立とうとしたのではない。見捨てられない誰かと、自分が応えたい頼みが先にあって、歩いた先が世界の危機へつながっていた。
アンルシアは、兄のことを思い出した。トーマ兄さま。兄もそうだった。自分よりも他人を前に置く人だった。王子として、兄として、勇者の兄として、いつも誰かを守ろうとしていた。けれど。同じではない。兄は一人で立とうとしていた。
一人で支え、一人で耐え、一人で背負おうとしていた。ユイナも一人で抱えようとする。そういうところはある。だが、この人は、旅の中で何度も誰かと出会い、誰かに助けられ、それを自分の一部にしてきた。
それでもなお、一人で行こうとするから、腹が立つのだ。
「あなたは」
アンルシアは言った。
「本当に、昔からそうなのね」
「昔から?」
「私が知る前から」
ユイナは、返答に迷ったようだった。アンルシアはその顔を見て、少しだけ気が済んだ。
「……怒ってる?」
「少し」
「ごめんね」
「謝るところではないわ」
「じゃあ、どうすればいいの」
「困っていればいいの」
ユイナは本当に困った顔をした。アンルシアは、それを見て、ほんの少しだけ笑いそうになった。まだ怒っている。まだ許したわけではない。
まだ、大魔王になった盟友をどう受け止めればいいのか、分からない。でも、こうして困らせることはできる。剣を向けるのではなく。怒鳴るのでもなく。昔のように、少しだけ意地悪を言うことはできる。
光のツボが、淡く震えた。ユイナは気を取り直し、ツボを光の河へ近づける。草原の光が、ゆっくりとツボの内側へ吸い込まれていく。アンルシアはその様子を見ながら、静かに言った。
「災厄の王は、一人で抱えて、災厄になったのね」
「少なくとも、私にはそう見えた」
「世告げの姫たちは、一人ではなく、自分たちで選んで封印した」
「うん。最後には、自分たちで選んだ」
「なら」
アンルシアはユイナを見る。
「あなたは、一人で抱えないで」
ユイナの手が止まった。
「アンルシア」
「災厄の王の話を、あなたがしたのよ」
アンルシアの声は穏やかだった。
「なら、あなたにも当てはまるでしょう」
ユイナはしばらく黙っていた。光のツボの中で、落陽の草原の光が揺れている。
「……気をつける」
「それ、気をつけない人の返事ね」
「努力はする。だから、怪しかったら言って」
「今、言ったところでしょう」
アンルシアはそう言って、光の河を見た。
草原は傷を残したままだ。復旧しない、とユイナはぼやいた。とぼけた口調に紛れていたが、あの崖も荒れた地面も、彼女が戦った時から戻りきらずにいるのだろう。
災厄は倒され、封じられても、跡を残す。人も、世界も、すぐには元に戻らない。それでも、光は残っている。ツボの中で揺れる小さな光を見ながら、アンルシアは思った。ユイナが自分の知らないところで救ってきた世界を、自分はこれから少しずつ知っていくのだろう。
それは、少し悔しい。けれど、悪くはない。
「行こうか」
ユイナが言った。
「次の特異点へ」
アンルシアは頷いた。
「ええ」
そして歩き出す前に、少しだけ付け加えた。
「でも、あとで災厄の王の話はもっと聞かせて」
「うん。今度は端折らず話す」
「あなたが私の知らないところで何をしていたのか、ちゃんと聞くわ」
ユイナは、また困った顔をした。アンルシアは今度こそ、少し笑った。