Demon's Remnant ― 悪魔の残滓 作:虚空小白
——父親の書斎に潜り込んだ少女は、床の上に積み上げられた本の中から一冊の本を手に取った。
魔法史の書物に、少女は目を輝かせる。
後から来た少年は欠伸をひとつ。
ふたりの年齢は六歳。
赤い髪と青い瞳をもつ、双子の兄妹。
兄の名はソル。妹の名はマーニ。姓はアルヘイナ。
マーニが頁をめくる。
ソルは隣に腰を下ろし、マーニに尋ねた。
「マーニ、父さんに黙って本を読んで、そんなに面白いのか?」
マーニは本を読みながら頷いた。
「うん! ソルは興味ないの?」
「難しくてよくわからないからな」
ソルは本を覗き込んだ。
「『四理』と『三象』だけでもややこしい。火と炎なんて同じだろう?」
「同じじゃないよ」
「じゃあ、どう違うんだよ」
しばしの沈黙。
「わからないよ。でも、ソルの言う通り、確かに変だね」
マーニは本の頁をめくった。
「うん。やっぱりそうだよ」
「何が?」
「三象の炎・氷・雷の自然エネルギーのほうが先だと考えるとしっくり来るんだよ」
「じゃあ、四理の火は?」
「……後から作られたもの」
ソルは首を傾げた。
「あと一つは?」
マーニは眉尻を下げた。
「もしかしたら……エレメンティアを滅ぼした魔法かもしれない」
*
——これは、十年前の記憶だ。
この時、マーニは旅に出ることを決意していた。
あの時、俺が変なことを口走らなければ、運命は変わっていたのかもしれない。
俺は旅に同行することを決め、マーニのことを守れるくらい強くなると心に誓った。
それは十六歳になった今でも変わらない。
*
マーニは、気持ちよさそうに眠るソルを見下ろし、いたずらな笑みを浮かべた。
「朝だーっ!」
カーテンを勢いよく開け放つ。
容赦ない日光が室内に雪崩れ込み、ソルはうめき声とともに布団をかぶる。
その様子を見て、マーニは腰に手を当てた。
「ソル。昨日、約束したじゃない」
布団の山から、のんきな欠伸がひとつ返ってきた。
「……そっか。今日は父さんが帰ってくる日だったな」
どさり、と布団がめくれる。
「よっと!」
ソルはがばっと上半身を起こし、マーニに顔を向けた。
「マーニ、おはよう!」
「おはよう」
額の右側に古傷があり、左手に包帯を巻いたソルと、肩まで伸びた髪を青いリボンで纏めたマーニ。
「私が部屋の掃除をするから、ソルは食材の調達」
「おう、すぐ支度する」
ソルは手早く朝の支度を済ませた。
古くなった革の胸当てを身に着け、腰に剣を下げ、継ぎ接ぎのカバンを背負う。
出がけに、マーニが背中へ声を投げた。
「父さんの分も忘れずにね!」
「わかってるって。行ってくる!」
親指を立てて、玄関のドアを閉める。
すれ違う村人と挨拶を交わしながら村を抜けた。
ふたりが生活している村は、孤島村と呼ばれている。
人口は百人あまり。
互いに助け合い、自給自足を続ける彼らの生活は、帝都ヴァルトクローネの援助によって成り立っていた。
ソルの旅装束も、その一つだ。
しばらく歩いていると、木々のざわめきが耳に届く。
ソルは深呼吸をひとつして、足を進めた。
果実、キノコ、野草を潰れないようカバンに詰め、見慣れた木の根元に下ろす。
「あとは肉か」
奥へ向かい、耳を澄ませた。
微かな羽音を頼りに歩いていると——ソルは足を止め、口の端を釣り上げる。
視線の先で、全長数十センチはあろうかという虫が一匹、ふらふらと飛んでいた。
縞模様のない黄色い体には、いくつもの傷がある。琥珀蜂だ。
群れで行動する肉食虫だが、獲物には一斉に襲いかかる。その際、先行した個体が仲間の針に刺され、同士討ちになることがある。
傷を負った個体は群れからはぐれ、仕留めやすい。
ただし、傷を負った個体がいるということは、群れが近くにいる可能性も高い。
ソルは剣を抜き、音を殺して背後に忍び寄り、呼吸をひとつ挟んで剣を振り下ろす。
ぐしゃり。
殻が砕け、羽音が消えた。
ソルは琥珀蜂を踏みつけ、再び剣を振り下ろして針を切断する。
死を確認してから剣を鞘に収める。
琥珀蜂の死骸を拾い上げ、足早に木の根元へ戻った。
群れに見つかれば厄介なことになる。長居は無用だった。
腰を下ろし、慣れた手つきで関節を捻じって羽根を毟り取る。
殻で出汁が取れ、中の肉は臭みが少なく柔らかい。
村では貴重な食糧源——山の甲殻類と呼ばれるゆえんだ。
羽根以外をカバンに詰め、土埃を払って立ち上がった。
*
「——ただいま」
家の中では、野菜の下ごしらえを済ませたマーニが椅子に座り、魔法史の本を読みながらソルの帰りを待っていた。
「おかえり」
ソルは収穫物をテーブルに並べながら、彼女の横顔に視線を送る。
「旅に出たいと言えば、父さんは反対するかもしれない」
マーニは本を閉じた。
静かに、しかしはっきりと頷く。
「私たちはもう子どもじゃないんだよ。父さんだって、きっとわかってくれるはずだよ」
マーニはまっすぐソルを見た。
「ソルのほうこそ、私の旅に同行する約束、忘れていないよね?」
「ああ」
ソルは腕を組んだ。
「俺がお前を守る。そのために、特訓を兼ねて森で狩りを始めた。だから、マーニ——俺たちで父さんを説得しよう」
彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから柔らかく微笑む。
「うん。少しでも父さんの機嫌を取るために、今日は腕によりをかけて、美味しいご飯を作るよ」
「俺も手伝うよ。何をすればいい」
「琥珀蜂の下ごしらえ、お願い」
「おう、任せろ!」
ふたりは狭いキッチンで、肩を並べて料理を始めた。
*
——昼過ぎ、玄関のドアが開いた。
古びた外套を纏った男性が帽子を脱ぐと、四十過ぎの痩せこけた顔が覗く。
旅の疲れが滲んでいた。
それでも、ふたりの顔を見た瞬間——男性は満面の笑みを浮かべた。
ケイン・アルヘイナ。
ふたりの父親で、考古学の研究者だ。
「ソル、マーニ、ただいま」
「父さん、おかえり」
ふたりの声が重なった。
マーニが続ける。
「もう少しでご飯ができるから、着替えてきて」
「もうお腹ぺこぺこだよ」
ケインは鼻をひくつかせ、微笑んだ。
「琥珀蜂のパイと肉団子のスープだね。僕の大好物だ」
「うん、父さんが好きなものを用意したよ」
ふふっと笑い、ケインは自室へ向かう。
その背中が見えなくなった瞬間、ふたりは顔を見合わせた。
ただ、力強く頷き合う。
テーブルに料理を並べ、三人が席についた。
久しぶりに揃った食卓に、温かい湯気が立ち上る。
ケインは料理に手をつける前に、咳払いをした。
「食事の前に」
穏やかな声だった。
それでも、ふたりの背筋がわずかに伸びる。
「ふたりは僕に、話があるんじゃないのかな」
沈黙が落ちた。
マーニはテーブルの上で両手を握り合わせ、ゆっくりとケインを見る。
「父さん……」
一度、息を吸う。
「私たち、始原の故国エレメンティアへ——行きたいの」
ケインの眉が、わずかに動いた。
マーニは続けた。
「歴史に、違和感を覚えたの」
ケインの目つきが変わった。
「続けなさい」
その口調は、父親のものではなかった。
教師が生徒を試す声だった。
「今から数百年前、大賢者オルディアスは火・水・風・地を四理に定義した。その百年後、賢者ヴェルナートは炎・氷・雷を三象に定義した。——私は、この順序が逆だと考えているの」
ケインは顎にそっと手を当てた。
「賢者ヴェルナートの歴史資料は残っている」
「でも、大賢者オルディアスの資料は——残っていない」
静寂が落ちた。
「確かに、大賢者オルディアスについては謎が多い。だが、ふたりだけで旅なんて危険すぎる。許可できない。家で大人しくしていなさい」
ソルが言い返した。
「俺たちは、鳥かごの中で飼われている小鳥じゃない。旅の準備だって済ませてある」
俯き、拳を握り締めた。
「話せばわかってくれると思ったのに、父さんを信じた俺たちが間違っていた!」
マーニの手を取って、立ち上がる。
椅子が鳴った。
「マーニ、行こう!」
「うん」
二人は部屋に荷物を取りに行った。
剣を腰に下げ、カバンを背負う。
ケインの制止を無視して、そのまま家を飛び出した。
——あの時、父さんの言うことを聞いておけばよかった。
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