ワルプルギスの夜という存在がいる。
すべての魔法少女を超える存在。
すべての災厄と呼ばれるに足る存在。
魔法少女の中で誰が話すともなく知られていた存在。
絶望を与える存在。
*
魔法少女である佐倉杏子には帰る家がある。
彼女が帰る家であるマンションの一室。
その一室の中、杏子は人工の光で目を覚ました。
夜のマンションは静かだった。
蛍光灯が、ジジと鳴る。
部屋の中、一人で物思いに耽ける。
一人住まいならば、そのまま思考の海に身を投げだしただろう。
しかし、それを打ち破る扉の錠が開く音がした。
「……ただいま」
男、神崎恒一は、鍵を閉めながら声をかける。
鴉のような黒い髪色。
目の色は黒でありながら、どこかガラスのように透明な印象を受ける。
きっちりとしたスーツ姿が几帳面をそのまま体現しているかのようだった。
神崎の落ち着いた低い声はゆっくりと同居人の佐倉杏子に告げられた。
ここに住んでいるのは。
佐倉杏子と、神崎。
その二人だった。
「……遅かったな」
ぶっきらぼうな声。
杏子はソファーに寝転がりながらも声をかけた。
「夕飯、なに?」
神崎は杏子のだらけた格好に特に何も言わず、淡々と答える。
「今用意する。栄養バランスも考えてある。温野菜系だ。温めれば——」
「そういうのはいいっていつも言ってるだろ」
食い気味に遮られる。
杏子はあまり野菜類は好きではなかった。
「だめだ。きちんと考えてあるのだから、きちんと食べなさい」
沈黙が落ちる。
杏子は一瞬だけ目を伏せた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……あーわかったよ」
それ以上は言わない。
言えば、また淡々と会話という名前のお説教をされるとわかっているから。
神崎の視線は、ふと壁に向く。
そこには小さな写真が飾られていた。
優しげに微笑む男。
佐倉杏子の父と家族……そしてまだ大学生だった頃の神崎。
(今日も―――あなたの娘である杏子は、元気です。先生)
心の中で、そう語りかける。
「……なあ」
不意に、杏子が平坦に声を出す。
なんでもないことのように話は投げかけられた。
「あんたさ」
その視線は神崎を見ずに窓辺に向けられていた。
興味なさそうに。単なるくだらない言葉のやり取りだというように。
「いつまで、あたしのこと、ここに置いとくつもり?」
その問いは、何度も聞かれている。
だが、答えはいつも同じだ。
「君が大人になるまで。その後は君が望む限りだ」
「……なんで」
「約束したからだ……君の父君……先生と」
杏子は、舌打ちした。
先ほどの物思いはまさにこれ。
たまに過去のことを思い出して自虐的になるとき。
杏子はいつもこの質問をしていた。
そして神崎はいつも同じ回答をしていた。
「……とうさ……親父は、そんなこと言わねぇし」
「言った」
神崎は穏やかに言い切る。
言葉が重い。不自然なほどに。
だから杏子は一瞬何も言えなくなる。
「君を守れ、と」
それは言葉だけを捉えたうえでは事実ではない。
だが、彼の中では間違いのない真実だった。
「……重いやつ。そもそも親父は生きてるし。あたし、追い出されてるし……どうとも思ってないだろ。今更」
杏子はぼそぼそと呟く。
耳が赤くなっていた。
神崎が杏子のことをそういった色恋の類で見ていないことは十分にわかっていた。
そもそも神崎は20代半ばに差し掛かる。
こういう質問を杏子がしてくる時。
神崎は、杏子のことを必要だと必ず言う。
杏子は自分の心が弱っているときに、この質問をすることを自覚はしていなかった。
一方で神崎は認識していたが、指摘はしなかった。
ただ、ぼんやり微笑むだけだった。
「君に対しての感情は重くて当然だ」
否定しない。できない。
(私は君の父君……先生を、愛しているのだから)
神崎は心の中で呟く。
神崎は黙って上着を掛けると、そのまま鍋に火をつけた。
杏子からは抗議の声が聞こえたが、食べなさいと一声で終わらせた。
この家の何気ない日常だった。
*
夜が深くなる。
夕食時、神崎が用意していた野菜の多い夕食に対して杏子は文句をこねていた。
もっとも、なんだかんだとすべて食しきっていたが。
間食に関しても多少の考慮をすべきかもしれないと神崎は考えていた。
杏子が寝静まったあと、神崎は一人、台所に立っていた。
水の音だけが響く。その中で、彼はぽつりと呟く。
「思いは言葉にしないと伝わらない……ならば、その思い自体が間違っていたとき」
どうすればよかったのだろうか。
問いかける相手は、今は目の前にいない。
『愛することは常に正しいんだよ神崎くん。例え相手が誰であったとしても』
背後から、声がした気がした。
振り返る。そこには、誰もいない。
だが——確かに神崎の中に今も “いる” 。
『君は、正しいよ。神崎くん。私の教義をわかってくれて嬉しい』
その声は、あの頃と同じだった。
優しく、穏やかで、救うような声。
神崎は、穏やかに笑った。
「……ありがとうございます」
迷いはなかった。
疑いもない。
「私は、この思いの結果を……続けます」
それは誓いだった。
愛の。あるいは—————呪いの。
*
朝。
コンビニ袋のガサガサという音で目が覚める。
昨日、杏子が購入したメロンパン入りの袋を机からどかしていたようだ。
「……うるせぇな」
杏子は、布団から顔だけ出して睨んだ。
台所に立っているのは、同居をしている男。
神崎は今日もきっちりしたシャツと整えた髪で朝食の用意をしていた。
「おはよう、杏子」
「朝からかちかちしてんなぁ」
「朝食はどうする?」
「食うけど。野菜は嫌だ……メロンパン食いてえし」
「栄養的に————」
「うるせぇ」
バッサリ切られる。
神崎は一瞬、思考をしてまとめると小さく頷いた。
「そうか。買ってしまったものは仕方ないな」
既に購入されてしまったメロンパンを食べるなとは言えない。
そういったことまで含めての結論だろう。
それに、昨日の夕食時にさんざん言って聞かせたのでしばらくは多少の間食は許されるだろう。
しばらく沈黙。
杏子は起きてメロンパンをかじりながら、ちらっと神崎を見る。
「なあ。あんたさ」
メロンパンをもぐもぐしながら言う。
「昨日も言ったけどさ。その“保護者ごっこ”楽しい? あたし、そのごっこ遊びにいつまで付き合えばいいのさ」
露悪的な言い方だった。
誰かを養うためには金銭と時間が必要であり、杏子と神崎は法律上は赤の他人だ。
それを踏まえれば、ごっこ遊びだと言われても仕方がない。
神崎は、少しだけ考えた。
杏子の言い方に腹を立てることはなかった。
むしろ心配だった。
杏子に何かあったのだろうか。
露悪的な言い方をしているが、要は昨日と同じ問答である。
この子は他人のために自分を悪く見せるところがある。
……なにか不安になるようなことがあったのだろうか。
神崎は、真顔で答える。
「君が死ぬまで私は君の保護者だ」
「重すぎだろあんた……なあ、もう一個聞いていいか」
少しだけ間を置いて。
「あたしのとう……親父のこととかでさ。どうすんの? なんなの? まだ親父、生きてんのに。あたしをこのまま置いとくって、お互い面倒じゃない? あたしも縛られたくないしさ」
杏子は半笑いで神崎に問う。
馬鹿にするような、試すような目つき。
そして、不安を小さく感じている色がある。
神崎は、一切迷わなかった。
「先生のことは今も愛している」
メロンパンが喉に詰まった。
「ッッッ!?!?!?」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃねぇよ!! 知ってるけど、そういう質問してないだろ!!」
盛大にむせる杏子。
テーブルを叩きながら咳き込む。
「は!? ちょ、は!? なに!? そもそもそういうシーンじゃなかったろ!!
あたしとの生活の話だったろ今!?」
神崎は、真剣な顔で続ける。
「聞かれたから答えた。それに思いは言葉にしないと伝わらないと常日頃から君には伝えているだろう」
「いや、今それを伝える必要はねえしっ!? そもそもそこは聞いてねぇよ!!」
杏子は額を押さえる。
「なんでもそこに繋げるなしっ! この恋愛脳がっ!! 乙女かっ!!」
神崎は、どこまでも真面目に回答した。
「そのとおりだ。私は、あの人に恋をしていた」
「やめろやめろやめろ!! 朝から聞きたくねぇ!!」
「そして、その結果として」
「続けるな!!」
「君を見つけて……君を大事に思うようになった」
杏子は一瞬固まる。
やがて静かに、深く息を吐く。
顔が赤くなるのを止められない。
「…………っうぜえなあ! そういうこと言うなって言ってんだろ! ばかっ!」
「思いは言葉にしないと誤解が生じる。だから私の思いを君に伝えた。いつも言っているだろう」
悪態を吐く杏子に対して、神崎はいつものように持論を述べていた。
昨日から続くこの話。
杏子が物思いに耽っていた理由。
それは単純な話だった。
学費でお金がかかるから、なるたけ公立に進んでほしい。
そう親から言われた。
クラスメートのそんな何気ない話。
杏子はそれを聞いて改めて実感しただけだ。
自身が神崎の迷惑になっているということを。
だから、世話になっているにもかかわらず言ってしまった。
厭味ったらしく言うことで、神崎が自分を見捨てればいいと考えた。
だが、結果は見ればわかるとおりだった。
神崎は杏子の意見を聞いた上で、知らんと断じた。
……だいたい。なんだ見つけたって。
見つけてほしいなんて言った記憶はない。
親父のことを好きなのに、なぜ杏子を見つけた云々という話につながるというのか。
頭まで痛くなってきた気がする。
いろんな意味で。
「あたしを見つけたっての、よくわかんないけどさ。そんなのあんたには関係ないっしょ」
神崎は、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「……私のことを。君が認めてくれたからだ」
神崎は真っすぐに、杏子を見る。
杏子は神崎の視線は真っすぐだから好きで……真っすぐ過ぎて得意ではなかった。
「私は、あの人を愛していた」
杏子は勘弁してくれとばかりに重いため息をついた。
「そしてそれを君は認めてくれた」
静かだった。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに。
杏子は、目を逸らす。
「……知らねぇよ、そんなの」
ぶっきらぼうに言う。
「あんたが親父のこと好きになって、あたしがそれを知って……ただそれだけだったろ」
「おおむねその通りだ」
神崎の瞳は透明なまま杏子を見ていて、その答えは即座に返された。
「じゃあ——」
杏子は、少しだけ言葉を探す。
杏子のことを、大切に思う理由にならない。
なら……神崎に無理をしてもらいたくなかった。
「……あたし、関係ねぇだろ」
神崎は、真顔で答えた。
「関係ある。嫌悪なく君が私個人を認めてくれたからだ」
杏子は、また舌打ちする。
だがその顔は、少しだけ困ったようでもあった。
「……ほんっと重いやつだな」
小さく呟く。
だが、完全には否定しない。
少しの沈黙のあと。
「あのさ。別にあんたのことなんてどうでもいいけどさ」
杏子は、ぽつりと言った。
それは、ほんの一瞬だけの弱音だった。
「あんたも親父のことなんかあんまりひきずらないで、いやになったらあたしのこと……追い出していいぞ」
神崎は、少しだけ目を細めた。
微笑ましいものをみるように穏やかな顔をしている。
「さっきも言ったけど、縛られんの嫌だしさ。お互いメリットしかないわけじゃん?」
杏子は神崎のために逃げ道を用意した。
神崎は自分のことを見捨てないだろうことは理解していた。
けれども、神崎自身にきちんと選ばせたかった。
杏子がここにいても良いと。
「それは」
神崎は静かに、だが、確定事項のように告げた。
「食事の野菜を多めにして良いと受け取っていいか?」
「違ぇよ!! なんでそうなるんだよ!! 脈絡なさすぎだろっ!!」
「今後も君がこの家で過ごしてくれるのだから、私の教育方針に沿ってくれるということだろう」
「…………ち、ちげえし! 金稼げるようになったらすぐ出ていくし!」
「ならば、それまでの間はきちんと私の言うことを聞いてくれ」
神崎は、どこか満足そうに頷いた。
杏子は一瞬言葉を失った。
やがて少し顔を赤くしつつ、菓子パンの袋を捨てた。
神崎の言葉を否定はしなかった。
*
朝食後、少女がソファで寝ているのを持ち抱え、ベッドまで持っていく。
自分自身にとっては、好意を持っていた男性の娘である。
誰よりも優しい子なのに不器用な立ち振る舞いが多いことは、少女が教会にいたころから知っていた。
自分の恋はすでに終わってしまっていたが……その過程を見て、幸せを願ってくれた少女。
誰だって、自分の中に大事なものをいろいろな形で持っている。
自分のそれは、一度儚く散ったが。
それでも残ったものだってあるし、見つけたものもある。
「……守りたいものを最後まで守り通せばいい」
*
休日。
神崎は外に出ていた。
「……牛乳が切れていたとは不覚だった」
彼の足取りは、どこか落ち着かなかった。
杏子が魔法少女として活動していることを神崎は知っていた。
そして、その活動のために夜遅くなっていたことも。
(夜間の外出は好ましくない)
夜は家にいるべきだ。
たとえ魔法少女としての活動といわれても杏子は神崎にとって“守るべき子ども”である。
「帰ったらきちんと話そう」
そう呟いた瞬間。
角を曲がった先で、人とぶつかった。
神崎は尻もちをついた。
「っと、すみません!」
怒りよりも先に、ぶつかった神崎に対する謝罪と心配そうだが穏やかな声。
神崎は尻餅をついた体勢を整えるのも忘れて顔を上げる。
そこにいたのは——
優しそうな男性だった。
穏やかな目と柔らかな笑み。
どこか“安心させる”雰囲気。
「大丈夫ですか?」
手を差し出されるその瞬間。
神崎の思考が、止まった。
(……似ている)
誰に、とは考えなくてもわかる。
あの人に。
あの教会で、神崎の世界を変えた杏子の父に。
「……大丈夫です」
神崎は、ゆっくりと手を取る。
その温もりに一瞬だけ息が詰まる。
「よかった。申し訳なかったです」
男性は柔らかく笑った。
それだけで——胸の奥が、妙にざわつく。
(……これは)
理屈ではなかった。
説明もできない。
ただ確かに“それ”は起きていた。
「……あの」
気づけば、声をかけていた。
男性が振り返る。
数秒、言葉が出ない。
だが神崎は言った。
「……お名前を、伺ってもいいですか」
「え?」
一瞬きょとんとした顔をされる。
だがすぐに笑って返事をしてくれた。
「ええと。鹿目知久と申します?」
鹿目知久。
その名前を聞いた瞬間。
神崎の中で “残響” があった。
「……神崎といいます」
静かに名乗る。
「神崎さんですか。いやほんとうに申しわけなかったです。
今日はいい天気ですからお出かけですか?」
何気ない一言。だが、それが妙に胸に刺さる。
(ああ……まただ)
心の中で呟く。
「……はい」
言葉を大事にする神崎らしくなく、声が少しだけ掠れる。
知久は不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
神崎は、ほんのわずかに微笑む。
「……少し、懐かしくて」
「そうでしたか……?」
それ以上は言わないし……言えない。
知久は完全に疑問符に埋め尽くされていたが、神崎が特に害意のない事を認識しているからか、穏やかに返事を返していた。
沈黙が流れる。
だが不思議と居心地は悪くなかった。
「では、失礼しますね」
鹿目知久が軽く会釈する。
神崎は一瞬だけ迷う。
だが——言う。
「また、お会いできますか」
「え? ああ、そうですね。この辺りに住んでるので、また会うかもしれませんね」
「……そうですか」
さすがに知久も驚いた顔をしたが、普通に返事をしてくる。
何度かの会話のやり取りの後。
神崎は連絡先を聞き出した。
鹿目知久はかなり不思議そうにしていたが拒絶なく笑みを浮かべた。
天然の属性があるのかもしれない。
鹿目知久が去っていく。
その背中を、神崎はじっと見つめていた。
(あの人とは、違う……だが)
わかってる。
完全に別人だ。
心の中で言葉が続く。
(なんだろうか……この気持ちは)
優しさ。温もり。人を安心させる声。
そして——
「……似ていた、か?」
ぽつりと呟く。
その瞬間。
背後から声が飛んできた。
「は?」
振り返るとそこには菓子パンをくわえたまま固まっている赤毛の少女がいた。
佐倉杏子だった。
郵便物を出しに行きたいというのでスーパーまでは別行動をしていたのだが、神崎が遅かったので探しに来ていたらしい。
「……なにしてんだよあんた」
神崎は、いつものように落ち着いて答える。
「新たな出会いがあったかもしれない」
「……はぁ?! 」
杏子は目を限界まで開きながらパンを吹き出した。
しばらく考え、結果としてやはり杏子は頭を抱えた。
「さっきの人!? 今の数秒で!?」
「あくまでも可能性だ。なにかそういった感情がふと現れた」
「数秒でそこまで感じるほうがおかしいだろ! この色ボケっ!」
頭を抱えながら杏子は盛大にため息をついた。
やがて、ひとしきり自身の中で感情を整理させると神崎をじとっと睨む。
「そもそも連絡先なんか聞いてどうすんだよ。あんた」
「また、話してみたいと考えている」
「マジで言ってんのか?! やめとけって!!」
「自身の感情を確かめるためだ。問題ない」
「問題しかねぇよ!!」
神崎は、静かに言った。
「君の父君と近しいものを感じたかもしれない」
一瞬杏子は詰まる。
別に杏子自身が神崎の恋愛に口を出す権利はないからだ。
だが、なにかすごく嫌だった。
だから理屈で詰め寄った。
「……それはいいけどさっ! そ、そういうのって出会って数秒で感じるものじゃないだろ!! も、もっとお互いに長い時間をかけてさ!」
杏子はもう一度頭を抱えて、やがて疲れた声で神崎に語りかけた。
「いやまあ……ほんとにな? 悪いとは言わないんだけどさ。出会って数秒の人だからな? 勘違いとかでそういう言葉とか……かけるのはやめろよ」
少しの沈黙。
神崎は、ゆっくりと首を振った。
「おそらくそういう感情ではないとは思うのだが。友人になってほしい気持ちもあったから、声をかけた」
「……どっちにしたって、出会って数秒でそこまで感じるとかありえないだろ」
「そのとおりだ。だから私自身も驚いている」
「ならやめとけよっ」
「だが、誰かに対しての自分の思いはきちんと言葉にするべきだ」
「良いことっぽく言うな!!」
杏子は天を仰いだ。
「……マジで面倒くせぇなコイツ」
神崎はいつも自身の気持ちを率直に伝える人間だった。
その中で唯一、告げなかったのが、杏子の父親に対しての恋慕の思いだった。
すでに結婚していたからだろうと杏子は睨んでいた。
神崎は自身の思いが相手を傷つけてしまうときだけは、言葉を伝えない。
つまり、先ほどの鹿目知久の場合、思いを告げても問題がない、とも言える。
……あるいは、ほんとうに単に友人を作りたいという思いだけなのかもしれないが。
「ほら……とりあえずなんでもいいから行こうぜ。今日は辛いもん食いたい」
面倒そうに、杏子は話す。
だが、その顔は。ほんの少しだけ、笑っていた。
神崎の思いを大切にする習性は、杏子を救ってくれるシーンも多かったから。
しかし、それを認めると、自分が神崎に心を許しているように見える。
杏子はため息をつきながらも神崎の隣を歩んでいく。
師を仰ぐこと幾数年。
自分自身の感情がわからない時が多々ある。
自分は確かに師に対しては憧憬と恋慕を持っていた。
しかし、たやすく誰かに対してこういった思いを持つ人間ではないとも考えている。
だから、鹿目知久に対してほぼほぼそういった感情はないはずなのに。
出会って数秒で、心を不自然に動かされている。
……だがまあ、目の前の少女がいるのだから構わないか。
「あんたはあたしがいないと何すっかわかんないんだから、勝手にどっか行くなよ」
自分の目の前にいる少女はそう言いながらも、どこか浮足立つような趣だった。
自分のような粗忽者であっても世話焼きをしたり、一緒に出掛けることをうれしがってくれているのだろう。
であれば、それは自分自身にとっても幸福なことである。
「ああ。君がいないと私は非常に困る」
「……そういうこと真顔で言うなし。あー腹減ったなあ」
「この近くにキッチン&バータイプの店がある。ファミリー向けとも書いてあることは、すでに調べた。そこは君の好きな肉類が多いようだ」
「まじかっ。あんたそういうおしゃれな店見つけるの得意だよな。早く行こうぜっ」
彼女には無邪気な笑顔が似合っている。
日常の何気ない幸福を常に纏っていてほしい。