「ティロ——」
「その名前いるか!?」
「いるわ」
マミは好戦的に笑った。
「フィナーレ!」
砲声。魔女の体が砕け、結界の壁が崩れ始める。
灰色の廊下も、日記の切れ端も、黒い鳥も、すべてが紙吹雪のようにほどけた。
杏子は槍を肩に戻し、息を吐く。
「終わったな」
「ええ」
足元にグリーフシードが転がる。マミが拾い上げ、杏子を見る。
「マミが使えよ」
「佐倉さんも魔力を使ったでしょう」
「今日はマミのほうが使ってた……
先輩なら素直に受け取れよ」
マミは少しだけ目を丸くした。それから、静かに微笑む。
「そう言われると、断りにくいわね」
マミはグリーフシードを昔と同じ仕草で使った。
丁寧で無駄がなくて少しだけ優雅で。
結界が消え、二人は夜の路地に立っていた。
時計を見るとまだ九時前だった。十時までには、余裕で戻れる。
余裕がある。そのことが逆に言い訳を減らした。
「……帰りましょうか」
マミの静かな声はごく自然だった。
杏子はマミを見る。
マミはいつものように微笑んでいる。
何もなかったような顔で魔女を倒し、グリーフシードも回収した。
ただ、帰る場所がどちらかわからない。
杏子の家に泊まるのか、マミ自身の家に帰るのか。
今日くらいはマミも泊まってくれるだろう。
だが、マミは遠慮深い。
魔女と戦って杏子は疲れたろうから、お泊りの話はなかった体にして、帰ってあげよう。
そう思われていたら嫌だった。
「あの、さ。今日は」
杏子は早口になる。
杏子は頭をかいた。
やっぱり言いたいことはすぐに出てこない。
言葉に出して、伝える。
マミを帰したくない。ただそれだけだ。
なのに、その言葉が出ない。
「神崎いねぇからさ」
杏子は言った。
「あの部屋に今、誰もいねぇんだよ。本とか紙とか焦げたクッキーしかねぇ。情緒とか全くねえ」
「あら。でも落ち着く場所だと思ったわ」
言葉を重ねても、肝心なところに届かない。
マミは静かに杏子を見ている。
待っている。神崎とは違う待ち方だ。
急かさないが逃がしすぎもしない。
杏子が言葉にするまで、ちゃんとそこにいる。
それが今は少しだけつらい。
「……あー」
杏子は乱暴に髪をかき上げた。
「だから、そのぅ……クッキーまだ残ってるし」
「そうね」
「紅茶もある。薄いやつ」
「湯呑のね」
「神崎いねぇから……」
「さっき聞いたわ」
「だから」
喉が詰まった。
一緒にこい。泊まっていけ。今日は帰るな。
どれも重い。
自分には帰る場所があって、その場所にマミを誘う。
それは、マミの寂しさに触れることだ。
羨ましいと言ったマミを自分の部屋へ引っ張ることだ。
わがままだ。
でも。それでも。
「……泊まってけよ」
ようやく言えた。声は小さかった。
夜の路地の音に紛れそうなほど。
杏子はすぐに顔を背ける。
「……ほら、魔女退治の後だし、
休める場所があったほうがいいだろ。だから、その」
杏子は息を吸った。
「と、友達っぽいこと、したかっただけだよ!」
言ってから顔が熱くなった。
最悪だ。
言い方が雑で声も大きい。
しかも最後が逆切れみたいになった。
杏子はマミを見られなかった。
マミはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が長く感じた。
「……佐倉さん」
「……なんだよ」
「今の、もう一度言ってもらえる?」
「言うかっ!」
「残念」
マミの声に少しだけ笑いが混ざっていた。
杏子が顔を上げるとマミは口元を押さえていた。
笑いをこらえている。
でも、その目は少し潤んでいるようにも見えた。
「嬉しいわ」
マミは静かに、でもはっきりと言った。
「佐倉さんから誘ってくれるなんて」
杏子は顔を背けた。
マミの笑顔が見られなかった。
嬉しそうだった。本当に嬉しそうだった。
それが、杏子の胸の奥をひどくむずむずさせた。
「……嫌ならいい」
「嫌じゃないわ」
マミの返事は早かった。杏子は少しだけ目を見開く。
「マミ、そういうとき綺麗に嘘つくからな……」
二人は少しだけ見つめ合った。
それから、どちらともなく笑った。
笑いはすぐに収まって、空気はさっきより柔らかくなっていた。
「じゃあ、戻るぞ。神崎の家だけどな」
「佐倉さんの帰る場所でもあるでしょう?」
杏子は槍を消し、ポケットに手を突っ込んだ。
「違わねぇけど……言い方がむずむずする」
マミは嬉しそうに言った。
「じゃ、連れてってほしいわ。佐倉さんの帰る場所へ」
「だからその言い方やめろって」
杏子は文句を言いながら歩き出した。
マミがその隣に並ぶ。
半歩後ろではなく、遠くでもなく。
隣に。
それに気づいて杏子は少しだけ口元を緩めかけたが、すぐに戻す。
マミは何も言わなかった。
*
部屋に戻ると、やはり神崎はいなかった。
当たり前だ。自分で大学に泊まると言っていたのだから。
けれど、玄関を開けた瞬間、杏子は少しだけ妙な気分になった。
いつもなら、神崎がいる。
机に向かっているか、台所で何かを焦がしているか、資料を持ったまま固まっているか。
今日は、いない。
代わりに、マミが後ろにいる。
「お邪魔します」
マミが丁寧に言った。
杏子は靴を脱ぎ、部屋へ入った。
神崎のメモは、まだ机の端にある。
クッキーの缶もそのまま。
湯呑みも洗って伏せてある。
マミは部屋の中を見回した。
「夜だと、また雰囲気が違うのね。
閉店後の古書店。静かで、少し秘密めいている感じ」
「本が積んであるだけだろ。マミって結構ポエマーだよな」
杏子は台所に向かった。マミは少しショックを受けたような顔をしていた。
自覚がないのか。
「紅茶、淹れる。座ってろよ」
「手伝うわ。二人でやったほうが早いでしょう?」
マミはくすっと笑い、台所に立った。
狭い。
神崎一人でさえ持て余している台所に、杏子とマミが並ぶと、かなり窮屈だった。
「狭いな。台所付近にまで本をおくなよ。邪魔だし」
「邪魔でも本は減らせないのではないかしら」
「そう。本は選択肢を増やすために必要だ、とか言う。意味わかんねえ」
杏子は湯を沸かしマミは湯呑を出す。
マミの動きはやはり丁寧だった。
神崎の不器用な丁寧さとは違い、慣れている。
紅茶を淹れる手つきも自然だった。
「……やっぱ上手いな」
「ありがとう」
茶葉はない。
神崎が持っていってしまったからだ。
だから結局ティーバッグを使った。
それでもマミが淹れると少し違う気がした。
「同じ袋なのに何で違うんだよ」
「お湯の温度と時間かしら」
杏子はクッキーの缶を開けた。
比較的焦げていないもの。
皿に並べると、マミはその皿を見て笑った。
「形が少しずつ違うのね」
「型使えって言ってんのに、手で整えようとするからな」
紅茶とクッキーを持って二人はテーブルへ戻った。
向かい合うか隣に座るか。
杏子は一瞬だけ迷った。
マミも同じように少し迷ったように見えた。
結局、杏子はテーブルの角に座った。
マミはその斜め向かいに座る。
近すぎず、遠すぎず。
今の二人には、その距離がちょうどよかった。
「……で」
杏子は紅茶をすすった。
「何すんだよ先輩。
泊まるって言っても、なにやるかわかんねえ後輩に教えてくれ」
「そうね……」
マミは湯呑を両手で持った。
「こういうこと……久しぶりだから」
「こういうこと?」
「友人の家に泊まること」
杏子は黙った。マミも、少しだけ目を伏せる。
「魔法少女になってから、あまりなかったの」
「そうだな。あたしもねぇよ」
杏子は即答した。
「魔女退治で夜に出るし急に予定変わるし。
普通のやつと遊んでる暇ねぇし。
だから、泊まるって言っても何すんのかわかんねぇ」
「そうね。私も」
マミは少し照れたように笑った。
「改めて考えると、何をすればいいのかわからないわ。
佐倉さんは?」
「……んぁー。わかんねえけど。
くだらねぇことでいいだろ。
茶飲んで、クッキー食って、どうでもいい話して、眠くなったら寝る」
「くだらないことを話す……か。うふふ。とても友人同士らしいわね」
マミは嬉しそうに繰り返した。
その顔を見て、杏子は少しだけ目を逸らす。
「じゃあ」
マミは湯呑を置いた。
「ガールズトークをしましょう」
杏子は、露骨に眉をひそめた。
「……は?」
「女の子同士のお泊まりといえば、ガールズトークでしょう?」
「……その知識、どこから仕入れた」
「雑誌よ」
「……神崎もそうだけど、本で増える選択肢ってやばいな。
そもそもガールズトークって何話すんだよ」
杏子はクッキーを一枚取った。
マミは少し考える仕草をする。
その様子が妙に真面目で、杏子は笑ってしまいそうになった。
「まさか、魔女の弱点分析とかじゃねぇだろうな」
「それはいつもしているでしょう?」
「じゃあ紅茶の産地についてとかか」
「それも悪くないけれど」
「いやだよ絶対」
「じゃあ」
マミは少しだけ身を乗り出した。
「恋の話かしら」
杏子はクッキーを噛む手を止めた。
「……」
「佐倉さん?」
「お前、そういうタイプだったか?
恋愛話とか好きなタイプに見えねぇぞ」
「あら。女の子はみんな恋愛話は大好きなのよ」
杏子は半笑いになった。まったく興味がないからだ。
どうせなら、どこの店のスイーツがどうだという話のほうが良いまである。
神崎に命じて一緒に行くなり土産で買ってきて貰うなりできるから。
「じゃあ何だ。マミの男性遍歴でも聞かされんのか?」
マミはきょとんとした。本気で意外そうな顔だった。
「私の?」
「モテそうじゃん。
見た目もいいし、落ち着いてるし、紅茶淹れるし、戦い方も派手だし」
「最後のほうは関係あるのかしら」
杏子からの指摘に突っ込みを入れながらもマミは少し頬を赤くした。
本人としては自負心はありつつも、あまり得意な話題ではなかったらしい。
「わ、私はそういう話は特にないわ」
「告白されたことくらいあるだろ」
「……少しは、ね。でも、そういう話をしたかったわけではなくて」
「じゃあ何だよ」
杏子としてはその話についてはかなり気になったが、マミは自分自身の話には全く興味がないらしく、当然のように言った。
「佐倉さんと神崎さんのことに決まっているでしょう?」
杏子は、クッキーを喉に詰まらせた。
「っ、げほっ、は!?」
「大丈夫?」
杏子は茶で流し込み、マミを睨んだ。
「大丈夫じゃねぇよ!なんでそうなる!」
「だって、気になるんだもの」
マミは少し楽しそうに見えた。
戦いのときとも、説教するときとも違う顔だった。
たぶん、これがマミなりの「友人同士の遊び」なのだろう。
慣れていないくせに、雑誌の知識でそれっぽく振る舞っている。
その感じが、かなりおかしかった。
でも話題が最悪だった。
「あんなにかっこいい男性から大事にされていたら、悪い気はしないでしょう?」
マミが言った。
杏子はひどく複雑な顔になった。
「……かっこいい?神崎が?」
「ええ」
「あー……」
杏子は頭を抱えた。まどかも似たようなことを言っていた。
なぜだ。
神崎の顔が整っているのは認める。
認めるが、それを素直に褒めると、何か重大な誤解が生まれる気がする。
「見た目だけで判断すんな」
「もちろん見た目だけではないわ。
落ち着いていて紳士的で、佐倉さんをとても大切にしている」
「……あのなあ」
「大学の講師でもあるのでしょう? 知的な方なのね」
「一緒に暮らしてるとうっとうしいぞ。がたがたうるさくて」
「それも魅力では?」
「マミ、この話になってからなんかおかしいぞ」
杏子は苦い顔をした。
神崎は杏子の父を好いていた。
杏子にとってはそういった同性同士の恋愛に忌避はない。
だが神崎自身がそれだとは言えない。
言ったら、神崎の事情を勝手に晒すことになる。
父のことにも触れる。何より、マミがどんな顔をするのかわからない。
だから言えない。結果として、杏子はただツンデレじみた反応をするしかない。
「神崎とは、恋愛とかそういうのじゃねぇし」
「私はまだ恋愛とは言っていないわ」
「そういう穿った見方をさっきしてただろ!」
マミは口元を押さえている。
杏子はますます頭を抱えた。
「違うんだよ、本当に……信じてねぇ顔すんな」
「信じているわ」
「嘘だろ」
「……少しだけ、疑っているかもしれないわ」
「正直かよ」
マミは楽しそうだった。その笑みは救いでもあった。
さっきまでの寂しさや嫉妬が、完全に消えたわけではない。
でも、今はマミが年相応に、少し悪戯っぽく笑っている。
その顔を見ていると、杏子は強く怒れなかった。
「佐倉さんは、神崎さんのことをどう思っているの?」
「面倒くさい。気色悪い。重い。
しつこい。心配しすぎ。クッキーすぐ焦がす」
びっくりするくらい言葉がぱっぱと出てきた。
これだけ悪口がすぐに出てくるのだから、恋愛的なものは一切ないと、マミも納得してくれるだろう。
そう考えていたのだが、逆にマミは目をキラキラさせながら身を乗り出してきた。
「それだけまっすぐに否定できるってことは、
相手のことを深く知ってるってことでしょう?
聞きたいわ。神崎さんと佐倉さんの話」
「だからっ!そういう感情はねぇってのっ!」
「恋の話でなくてもいいの」
「じゃあ何で聞くんだよ……」
「大切な人の話を聞くのは、友人同士らしいでしょう?」
杏子は黙った。
友人同士。
その言葉を出されると、弱い。
自分で言った。友人っぽいことがしたかったと。
マミはそれを受け取って、今こうして少し不慣れなガールズトークをしようとしている。
なら、少しくらい乗ってやってもいいのかもしれない。
「……念押ししとくけど」
杏子は言った。
「本当に、そういう感情はねぇからな。
神崎は保護者みたいなもんで……兄貴……いや、それも違ぇな」
杏子はクッキーを割った。
マミは少しだけ表情を柔らかくした。
「……何て言えばいいのか、わかんねぇ」
「それでもいいわ」
杏子は少し笑った。マミも笑った。
それから、杏子は視線を本棚へ向けた。
神崎の本が並んでいる。難しそうな背表紙ばかりだ。
杏子には、半分以上読めない。
「あいつさ。昔から、変だった」
「教会にいた頃?」
杏子はぽつりと言った。
言いながら、記憶をたどった。
「あいつ、親父の説法のあとに菓子配ってたんだよ。自分で作って」
「昔からお菓子作りを?」
「一番はじめは教科書どおり作ってたからうまかったんだけどなあ。
なんか気持ちが大切だとか言い出して、
自分で一から実験しながら作るようになって。そっからは一気に酷くなった。
今はまあ、ましになってきたけどさ」
杏子は少しだけ口元を緩める。
教会の台所。焼き菓子の匂い。
父の説法。信者にクッキーを配る神崎。
今でもすぐに思い出せるくらいには、杏子にとっては原風景だった。
「すげぇ真面目に作ってた。信者に配るためって言ってさ」
「優しいのね」
「ただ優しいっつーか」
杏子は言葉を探した。父によく思われたかった。
それが動機の一つだった。でも、それだけではない。
食べる人のことも見ていた。
子どもの杏子にも、妹にも、信者にも。
神崎の行動はいつも、下心と本心が混ざっていた。
それをどう説明すればいいのかわからない。
「面倒な優しさなんだよ。
自分でも何が本心かわかってねぇみたいな。
誰かのためって言いながら、自分が救われたがってることもあるし。
でも、誰かのためなのも嘘じゃねぇ」
マミは少し考えてから、静かに言った。
「佐倉さんは、神崎さんのことをよく見ているのね」
杏子は答えなかった。マミも、それ以上は追及しなかった。
それがありがたかった。
「昔、勉強教えてもらった。めちゃくちゃ堅い感じで。
子どもに対するやつじゃねえんだもん。
対等な感じで言ってくるし。しかも褒め方も堅いし」
杏子は話を変えるように言った。
マミは少し笑った。
「でも、佐倉さんは嬉しかったのでしょう?」
「……別に」
杏子はクッキーを口に入れた。
ハズレを引いたらしく、とても苦い。
マミは穏やかに笑った。
「神崎さんは、佐倉さんを子ども扱いしなかった。
それは、嬉しいことだったでしょう? 先輩だからわかるわ」
意地でも先輩風を吹かせようとするところに吹き出しそうになった。
落ち着いてから杏子は少しだけ息を吐いた。
「あいつ、変なとこで対等なんだよ。
子どもだからって聞き流さねぇし、でも理由があるなら無理に聞かねぇ」
マミは湯呑に視線を落とした。少しだけ羨ましそうだった。
杏子はそれに気づく。でも、今度はすぐには言わなかった。
羨ましいか、とはもう聞かない。マミはさっき、自分で言った。
羨ましいと。寂しいと。
それ以上、無理に引き出す必要はない。
代わりに、杏子はクッキーの皿を少し押した。
「食えよ。苦いけどな」
「努力の味でしょう?」
「その表現、気にいったのか。マミ、けっこうセンスが独特だよな」
二人はまたクッキーを食べた。夜は少しずつ深くなっている。
時計を見ると、十時にはまだ時間があった。
神崎は帰ってこない。大学にいる。
たぶん今頃、研究室で資料に埋もれている。
杏子は少しだけ携帯を見た。
連絡は来ていない。
「神崎さんから?」
「来てねぇ」
心配しないことを成功したらしい。
連絡は何もない。
それが少し安心で、少し寂しい。
マミが囁くように聞いてきた。少しだけ。うらやましげに。
「信頼されているのね」
「どうだかな」
「佐倉さんは?神崎さんを信頼している?」
杏子は携帯を伏せた。
「……してなきゃ、こんなとこ住んでねぇよ」
言ってから、顔が熱くなる。
マミは何も言わなかった。
ただ、静かに微笑んだ。
「……マミ。眠くなったら寝ろよ。
布団は、まあ、あたしのやつ使えばいい」
マミが湯呑を置いた。
どう見ても眠そうには見えない。
むしろ、友人との恋話をしている自分に酔っているかのように若干目の色あいが怖い。
「で。神崎さんとの話、続きは?
可愛い後輩の話、もっと聞かせてほしいわ」
「まだ聞くのかよ。マミ、意外としつこいな」
杏子は考えた。話せること。
話せないこと。その境界を探す。
「……運動会。昔、親父も母さんも来られなくてさ。
神崎が来た。別に、頼んでねぇのに。
しかも、保護者競技に出たんだよ。借り物競走。めちゃくちゃ速いし」
杏子は視線をテーブルに落とした。
つい口元が緩んでしまったので、への字にする。
マミは黙って聞いている。
杏子はクッキーを指で割ると小さな音がした。
「素敵な思い出ね」
「そう言われると腹立つな。素敵とかじゃねぇから」
「でも、覚えているのでしょう?大切な記憶なのね」
杏子は返事をしなかった。マミも、それ以上は言わない。
ただ、部屋の中に静かな時間が流れる。
昔の運動会や教会の台所。
父の説法に神崎のクッキー。
マミとの夜である今の部屋。
いろいろなものが、少しずつ重なっていく。
杏子は少しだけ怖くなった。
思い出が増えて大切なものが増える。
帰る場所が誰かと共有される。
それは嬉しいことで、でも怖くもあった。
マミは湯呑を持ち直した。
「佐倉さん……今日は、誘ってくれてありがとう」
マミの声は、静かだった。
「私、少し忘れていたのかもしれない。
魔法少女ではない時間の過ごし方」
杏子は何も言わなかったが、杏子自身にも同じ思いがあった。
魔女を探すして結界に入り戦い、それが終われば帰る。
その繰り返しの中で、友人同士で何をするのかなんて忘れていた。
何を話せばいいのか。
どう笑えばいいのか。
どれくらい踏み込めばいいのか。
わからなくなっていた。
「くだらないことでいいんだよ」
杏子は言った。自分に言い聞かせるように。
「紅茶が薄いとか、クッキーが苦いとか。
神崎が変だとかでいい。魔女の気配があるとか、
パトロールとか、そういうんじゃなくて……くだらねぇことで来いよ」
「……よくわからないわ」
マミは目を瞬かせて黙った。
杏子は視線を逸らした。
急に不安になる。
言いすぎたか。
今のは、かなり踏み込んだ。
自分の帰る場所に、マミが来る理由を作ろうとした。
それは、やっぱりわがままかもしれない。
でもマミは、しばらくして静かに笑った。
「よくわからないけれど」
その声は、少し震えていた。
「くだらないことで、またお邪魔したいなって……
厚かましいけど、そう思ってしまうの」
杏子は何も返せなかった。
返すと余計なことを言いそうだった。
だからクッキーを一枚取ってマミのほうに置いた。
「苦いけど、ほら」
「ありがとう」
夜はゆっくりと深くなっていった。
神崎のいない部屋で二人は薄い紅茶を飲み苦いクッキーを食べた。
話は途切れ途切れだった。
マミの紅茶の話や杏子の運動会の話。
神崎のクッキー失敗史に魔女の癖。
鹿目知久とまどかのことを少し。
気づけば神崎が確認をしてくる時間だ
今日は鳴らないはずの携帯が静かに震えた。
杏子はびくっとした。
画面を見るとやはり、神崎からだった。
『成功しているか』
杏子は画面を睨んだ。
「……あいつ。変なタイミングで連絡すんなって言ったのに」
マミが首を傾げたので、黙って携帯の画面を向けると、くすっと笑われた。
「心配……ではないわね」
「屁理屈だろこれ」
杏子は返信を打つ。
『うるさい。成功に近い』
少し迷ってから、もう一文打つ。
『マミ泊まる』
送信。
すぐに既読がついた。返事は少し遅れた。
『そうか。よかった』
杏子はその文を見て、しばらく黙った。
よかった。それだけ。
いつもの長い確認も、注意事項もない。ただ、それだけ。
マミがそっと言った。
「神崎さん、何て?」
「よかった、だってさ」
マミは柔らかく笑った。
「よかったわね。
佐倉さんも私も、お互いに向かって言葉を伝えて……逃げなくて」
杏子は携帯を伏せた。
「……メモ見たのかよ」
「メモ?」
「いや、何でもねぇ」
杏子はクッキーを取る。もう苦みには慣れていた。
マミも同じように一枚取る。
「佐倉さん。続き、聞いてもいい?神崎さんとの思い出」
「いやいや……まだ聞くのかよ。本当に好きだな、そういうの」
「今夜は遅くまで話すわよ」
「マミ……
わかんねえけどガールズトークって夜遅くまで話すことじゃないと思うぞ」
杏子はため息をついた。
でも、拒まなかった。拒めなかった。
「……猫探した話がある。クラスメートの猫。神崎に叱られた……まあ、あれは叱られた話かな」
話をしかけたところで窓の外で風が鳴った。
神崎のいない部屋の灯りがほんの少し揺れる。
杏子は一度だけ窓を見た。
それからマミに向き直る。
「昔、クラスメートの猫がいなくなって——」
そこまで言って言葉を探す。まだ夜は長い。
くだらない話を、かけがえのない人と話す。
そんな夜なのだから。どこまでも長くあってほしい。