祈りの残響 ー佐倉杏子の幸福の定義ー   作:キルケル

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第11話 日常を壊したいわけじゃないの

朝、杏子が目を覚ましたとき部屋にはすでに湯気があった。

 

最初に気づいたのは音だった。

 

小さく湯の沸く音。湯呑が触れ合うかすかな陶器の音。

紙の匂いに混ざって、紅茶の香りが薄く広がっている。

 

神崎の音ではない。神崎の朝はもっと硬い。

紙をめくる音がして椅子がきしんで何かを焦がす前兆のような沈黙がある。

 

今朝の音はもう少し柔らかかった。杏子は布団の中で目を開けた。

 

視界の端に金色の髪が見える。

マミが台所に立っていた。

 

昨日の夜、神崎のいない部屋に泊まった。

薄い紅茶を飲んで苦いクッキーを食べてどうでもいいようでどうでもよくない話をして、そのまま眠った。

 

朝になってもマミがいる。それが少し不思議だった。

 

「……おはよ」

 

杏子が布団の中から言うとマミが振り返った。

 

「おはよう佐倉さん。

 今お茶を淹れているから、ちょっと待ってちょうだいね?」

 

マミは穏やかに笑った。杏子は布団から体を起こした。

 

「どうせなら朝飯の準備もしといてくれよ」

 

冗談のつもりだった。マミは少しだけ目を丸くしそれから真面目に答えた。

 

「よそさまの家の冷蔵庫を勝手に開けるのは、

 プライバシーの侵害だと思って」

 

杏子は一瞬黙った。それから吹き出した。

 

「この家にそんな大層なプライバシーがあるように見えるか?」

「あるでしょう? 本棚の中とか」

「本棚はむしろ思想がむき出しだろ」

 

杏子は立ち上がり冷蔵庫へ向かった。

 

「いいよ開けても。あたしも住んでんだぞ」

 

冷蔵庫を開ける。

 

中は思ったより整っていた。

神崎の几帳面さがこんなところにも出ている。

 

杏子は奥からタッパーをいくつか取り出した。

透明な蓋越しに緑が見える。

 

ほうれん草のおひたし。

きんぴらや、小松菜人参を用いた和え物。

 

テーブルに並べるとマミが少し驚いた顔をした。

 

「……野菜が多いのね」

「だよなあ。あたし間違ってないよなあ」

 

杏子は顔をしかめる。

 

「神崎がうるせぇんだよ。野菜をきちんと摂りなさいって」

「神崎さんが作っているの?」

「だいたいな。たまに惣菜も混ざってるけど」

「意外ね。なんとなく洋食のイメージがあったから」

 

杏子はタッパーの蓋を開けながら言った。

 

「あいつ紅茶好きだしパンとかスープとかそういうのも出すけどな。

 野菜は和食メイン」

「そうなのね」

「紅茶飲みながらおひたし食うんだぞ。意味わかんねぇだろ」

 

マミは湯呑に紅茶を注ぎながら少し困ったように笑った。

 

「私、紅茶を淹れてしまったけれど……

 本来なら日本茶のほうがよかったかしら」

「……ない。この家には紅茶はあるけど日本茶はない」

「湯呑はあるのに?」

 

杏子は堂々と言った。

 

「紅茶の雰囲気を楽しみながら和の心を感じ入るのがこの家の風習だ」

 

マミは数秒杏子を見た。

それから堂々とした杏子に対してくすくすと笑った。

 

「変わった風習ね……佐倉さんもかなり馴染んでいるように見えるけれど」

「まあ……うまければそれでいいし」

 

杏子は箸を取ると、マミも少し遅れて座る。

朝の光がカーテンの隙間から入っていた。

昨日の夜には古書店みたいだった部屋が朝になると少しだけ普通の生活の場に見える。

ただし本の山は相変わらずだった。

 

マミはほうれん草のおひたしを一口食べた。

 

「おいしい」

「神崎に言ったら喜ぶぞ」

 

杏子は小松菜を口に運んだ。

 

「別に好き嫌いする気はねぇよ。

 出されたもんは食うべきだと思ってるし。

 でもいくらなんでも野菜多すぎんだよ」

「うーん。たしかにそうかもしれないわね。でも健康的よ」

「健康的すぎるのも問題だろ。

 食事に説教が混ざってるだろこれ」

 

マミは笑った。朝食というには少し変な取り合わせだった。

紅茶におひたしと和え物にパン。

 

けれど二人で食べると妙におかしくて悪くなかった。

しばらく食べてからマミが言った。

 

「佐倉さんは学校は?」

「日曜なんだから休みに決まってんだろ」

 

マミは箸を置いた。

そういうことではないと言いたげに。

 

今日ではなく日々日常の話をマミはしたいのだと杏子はそれで気づいた。

 

「魔法少女をしていると学校との両立は大変でしょう?

 佐倉さんはちゃんと行っているの?」

「神崎がうるせぇからいってるよ……

 親父にバレてここに住むようになった始めの方はまあ少しだけさぼったけどさ」

 

杏子は苦笑した。

マミは黙った。その沈黙に責める響きはない。

 

ただ聞いている。

杏子はタッパーの蓋をいじりながら続けた。

 

「行く意味わかんなくなったんだよ。

 魔法少女になって……願いを親父に否定されて。

 もう普通の日常に戻れるわけねぇだろって思った。」

 

声は思ったより平らだった。でも胸の奥は少しだけ重くなる。

湯呑を見ると紅茶の水面が揺れている。

 

「学校行って授業受けて……

 そういうのが全部別の世界のことみたいに見えた。

 あたしはもうそういうところに戻るやつじゃねぇって」

 

言いながら自分の中に当時の空気が戻ってくるのがわかった。

神崎の部屋に来たばかりの頃。まだこの場所を家とは思えなかった頃。

父の顔が頭から離れず夜だけが動ける時間だった頃。

学校の鞄を見るだけで腹が立った。

日常という言葉がひどく白々しく思えた。

 

「それを神崎が……なんつうか。懇願してきた。学校に行けとかじゃなくて」

 

杏子は少しだけ言葉を探す。

マミが少し目を見開いた。

杏子はあの日の神崎を思い出す。

 

朝。テーブルに手を置いて少しだけ疲れた顔をした神崎。

大学の資料を横に置き杏子を真正面から見ていた。

 

『杏子。学校に行ってほしい』

『嫌だ』

『……』

『なんだよ。別にいいだろ。学校なんか』

『お願いだ』

 

お願い。その言葉が嫌だった。

神崎のお願いは重い。静かで逃げ場がない。

 

『学校へ行くこと。食事をすること。眠ること。

 くだらないことで腹を立てること……そういう日常を捨てないでほしい』

『くだらないって何だよ』

『例えばクッキーが焦げていること』

『それはくだらなくねぇ。重大だ』

 

杏子はそう言った。神崎は笑わなかった。

 

『君には何気ない日々を大事にしてほしい』

『あたしが学校行ってる間に魔女が出たらどうすんだよ。

 まあ……正直惰性でやってるだけだけどさ』

 

杏子は吐き捨てるように言った。

 

『あたしが授業なんか受けてる間に誰かが死ぬかもしれねぇんだぞ』

 

自分が捨てようとしていた平和。

それでも惰性で続けてギリギリ保てている平和。

神崎だってそれにおんぶにだっこだ。なら文句は言わせない。

 

『それでもいい』

 

神崎の声は静かで残酷だった。

 

誰かが犠牲になる。

それを神崎が肯定したように聞こえて杏子は腹が立った。

 

『よくねぇだろ』

『誰かの死よりも君自身のことのほうが大事だ』

 

杏子はしばらく言葉を失った。

 

意地と惰性で続けているだけの魔法少女としての活動。

 

それをあっさりと否定された。しかも自分なんかのために。

 

『……あんたさ。本気で言ってんのか。その誰かが親父でも?』

 

神崎は少しだけ目を伏せた。

けれど答えは変わらなかった。

 

『そうだ』

『あんた自身でも?』

『そうだ』

『……おかしいだろ』

 

神崎は杏子を見た。

 

『私は君の帰りを待つ人間だ』

 

その言葉が妙に重かった。当時の杏子には受け取りきれなかった。

 

『君が魔法少女を続けることは尊いことだと思う。

 人を救うことも魔女と戦うことも簡単に否定できるものではない』

『なら』

『だがそれを君の主眼にしないでほしい』

 

神崎は息を吐いた。

酷なことを言っている。

 

それでも杏子にはきちんと伝えておきたかった。

 

君はとても優しい子だから無意識に自分を責めてしまっているのだと。

 

『君がやりたいことと君がやらなければならないと思ってしまうことを、

 一緒にしないでほしい』

『……』

『戦いたいなら戦えばいい。救いたいなら救えばいい。

 だが救えなかったもののために君の日常が色あせる理由にはならない』

 

杏子は唖然としながらも怒っていた。

神崎は残酷なことを言っている。

 

誰かが死んでも杏子の学校生活のほうが大事だと言っている。

魔女を見過ごすかもしれない杏子自身の日常を守れと言っている。

 

そんなのは正しくない。そう思った。

 

でも神崎は退かなかった。

 

『お願いだ』

 

もう一度そう言った。

 

『君に学校へ行ってほしい』

『……そんなに行ってほしいんかよ』

『ああ』

『何で』

『君が魔法少女である前に佐倉杏子だからだ』

『……』

『それを忘れないでほしい』

 

杏子はその場で答えなかった。

行くとは言わなかった。でも次の日制服を引っ張り出した。

 

神崎は何も言わなかった。ただ朝食に野菜を増やした。

健康的であるためにと言っていた。本当に普通の子どもであるかのように。

 

それが腹立たしかった。

 

 

 

*

 

 

 

「それで今も学校に行っているのね」

 

マミが静かに言った。杏子は箸を置いた。

 

「まあな」

「神崎さんに言われたから?」

「最初はな」

 

杏子は少しだけ窓のほうを見る。

朝の光が部屋の紙の山を照らしている。

 

「今はまあ……行くもんだと思ってる。

 別に学校が好きってわけじゃねぇけど……

 でもそういうのがあると少しだけ頭が戻る」

「戻る?」

「魔女とか親父とか願いとかそういうのばっか考えなくて済む」

 

マミは何も言わなかった。杏子は続ける。

 

「結果的に魔法少女は続けてる。でも前とは違う」

 

杏子は少しだけ言いづらそうにした。

 

「自分がやりたい範囲でやってる」

 

マミの目が少しだけ揺れて言葉を選ぶように少し間を置く。

 

「魔女がいても行かないことがあるということ?」

「……いまのところはないけど。

 徹夜で魔女探しとかはもうやらない。

 学校がある日とか神崎との約束がある日とかまだ実際にはないけど……

 全部はやらねぇ」

 

杏子は正直に言った。

 

紅茶の湯気はもう薄い。野菜のタッパーはほとんど空になっている。

 

マミは湯呑に視線を落とした。

 

「佐倉さんにとって魔法少女であることは」

「趣味みたいなもんだよ」

 

杏子は言った。マミに対してだから余計に辛かった。

 

でもきちんと言わなければならないと思った。

 

だから露悪的な伝え方をした。

無理に笑おうとしたけれどできなかった。

 

「人聞き悪いのはわかってる。

 でも……あいつが悲しむ顔見たくねぇんだよ」

 

それは思ったより素直な言葉だった。杏子は少し顔を背ける。

 

「十時過ぎても帰らねぇとあいつすげぇ顔するから」

「怒るの?」

「怒るっつうか。悲しそうにしてるっつうか……

 けどそれより先に安心した顔をする。それがきつい」

 

最初にあるのはいつも、帰ってきたことへの安堵だ。

それを見ると杏子は次も帰らなければならないと思う。

 

戦いよりも。魔女よりも。グリーフシードよりも。

帰ることが大事になる。

 

「だからあたしは自分がやりたい範囲でしか魔法少女やってねぇ」

 

杏子は言った。

マミはじっと杏子を見ていた。その表情は穏やかだった。

けれど目の奥にあるものは揺れている。

 

「……悪い」

 

巴マミは夜半になっても魔女を探す。気配があれば出る。

 

誰かを救うために戦う。

それを自分の役目としている。

 

杏子の言葉はその生き方を否定するものに聞こえるかもしれない。

杏子はそれがわかっていた。わかっているのに言ってしまった。

 

「マミと違ってあたしは正義の味方じゃねぇ。

 あたしは魔法少女を趣味の一つくらいでしかやっていけない……

 もちろん誰かを助けたい気持ちがないわけじゃねぇよ」

 

言葉は冷たかった。

自分で言っていて胸の奥がざらつく。

 

「魔女を見つけたら倒したいと思う。

 見逃したら寝覚め悪い。でも……全部は無理だ。

 全部やろうとしたらたぶんあたしが先に駄目になる。

 そうなったら神崎がまた変な顔する」

 

マミは黙っている。

杏子は口元を歪めた。マミに対してだから余計に言いづらかった。

けど言葉にしないと伝えられないから話した。

 

「あいつのそんな顔見たくねぇ」

 

マミは湯呑を置いた。

その動きはとても静かだった。

 

「佐倉さんは……それでつらくはないの?」

 

マミの声も静かだった。

 

「見過ごしたかもしれねぇやつのこと考えないわけじゃねぇ

 ……つらいよ」

 

杏子は即答した。マミの表情が少し動く。

 

「でも考えたらきりがねぇ」

 

杏子はタッパーの蓋を閉める。ぱちんという音が小さく響いた。

 

「神崎が言ったんだよ。

 やりたいこととやらなきゃいけないと思い込むことを一緒にすんなって

 ……あいつの言うこと全部正しいとは思ってねぇ。

 でもあいつはあたしに生きててほしいだけなんだろうなってのはわかる」

 

マミは目を伏せた。その横顔は少し硬かった。

 

「佐倉さん。私は……」

 

マミは言いかけて止まる。言葉を選んでいる。

杏子は待った。

今度は杏子が待つ番だった。

 

「私は魔女を放っておくことが怖いの。

 放っておいたら私が私でなくなる気がする」

 

湯呑の縁に指を添えながらマミは静かに言った。

杏子は何も言えなかった。その言葉は重かった。

 

「魔法少女として戦うことは私にとって日常になっているのだと思う。

 だから佐倉さんが言う『日常』と私の日常は少し違うのかもしれない」

 

マミの声は穏やかだった。けれどその奥に小さな痛みがあった。

 

「佐倉さんには帰る場所があって、学校があって、神崎さんがいて。

 私は魔女を探す夜が自分の居場所になっているのかもしれない」

 

杏子は唇を噛んだ。マミは笑っていなかった。

 

綺麗に隠そうともしていなかった。

 

それが余計につらかった。

 

「でもね。佐倉さんの選び方を間違っているとは思わないわ」

 

マミは顔を上げ笑みを浮かべながら、ささやくようにそれでもしっかりと話した。

 

その言葉に杏子は胸を突かれた。

 

今度の笑みは隠すためではない。

弱さを見せたままどうにか笑おうとする顔だった。

 

「十時まででも一緒に歩けるのよね」

「……ああ」

「それだけで私は嬉しいの」

 

杏子は何も言えなかった。十時まで。

その制限がさっきより少し違って聞こえる。

 

神崎の約束。杏子の日常。マミの寂しさ。

全部がその時間の中に入っている。

 

「私は羨ましいとは思ってしまっている……寂しいとも思う」

 

マミは紅茶を一口飲んだ。

杏子は息を止めた。二人の間で小さな沈黙が下りる

やがてマミは静かにカップを置いた。

 

「でも佐倉さんの日常を壊したいわけじゃないの」

 

部屋の中が少しだけ静かになった。

 

本棚の影。朝の光。神崎のいない気配。二人分の食器。

杏子はその全部を見ているような気がした。

 

「ならマミの日常にあたしも入れろ」

 

マミが顔を上げる。

杏子は意識して視線を合わせて言った。

 

「魔女とかパトロールとかじゃなくていい。

 紅茶がどうとか野菜が多すぎるとか神崎のクッキーがまた炭になったとか

 ……そうしたらマミの日常も少しはこっちに増えるだろ」

 

言ってから杏子は顔が熱くなった。

 

何を言っているんだ。自分でも少し意味がわからない。

でも言いたいことはそういうことだった。

 

魔女を探す夜だけがマミの日常なら。

 

そこにくだらない理由で来る朝や昼が混ざればいい。

紅茶の味。野菜の多さ。神崎の変なメモ。

 

そういうものがマミの日常に少しでも入ればいい。

 

マミはしばらく杏子を見ていた。

そしてゆっくり微笑んだ。

 

「佐倉さん……とても優しい提案ね」

「……野菜が多すぎるから消費要員がほしいだけだ」

 

マミは少しだけ目を丸くした。それから声を出して笑った。

 

「そういうことにしておくわ」

「そういうことなんだよ」

 

マミはまだ笑っていた。

 

その笑いは朝の部屋に自然に馴染んだ。

 

杏子は少しだけ安心する。完全に解決したわけではない。

むしろ何も解決していないのかもしれない。

 

笑いながらも杏子の胸の奥にはさっきの言葉が残っていた。

 

私は魔女を放っておくことが怖いの。

放っておいたら私が私でなくなる気がする。

 

マミのその言葉は軽く流せるものではなかった。

 

杏子は自分のやりたい範囲で戦う。マミは戦うことが日常になっている。

その違いはきっとまたどこかで二人の間に立つ。

 

でも今は。

 

今は野菜を片づけて少し薄い紅茶を飲む朝がある。

魔法少女ではない時間がここにある。

 

「……また……絶対にまた来いよ」

 

小さく言う。

 

「……くだらねぇことで」

「……ええ」

 

と静かな声が返ってきた。

その声を聞いて杏子は少しだけ息を吐いた。

 

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