朝の光はもう部屋の奥まで届いていた。
本棚の背表紙が細い光を受けて少しだけ明るくなる。
紙の匂いは変わらない。
くだらない笑い話。
明日には忘れてしまうようなそれ。
マミは小さく笑った。杏子も少しだけ笑いそうになった。
そのときだった。玄関のほうで鍵の開く音がした。
杏子の手が止まり、マミも顔を上げた。
かちゃりと音がしてドアが開く。
「……ただいま」
低く静かな声。
神崎だった。
杏子は湯呑を握ったまま固まった。
「は?」
思わず声が出る。
神崎は玄関に立っていた。
鞄を肩にかけ少しだけ眠そうな顔をしている。
髪はやや乱れていたが表情はいつも通り落ち着いていた。
ただ目元には疲れがある。
「戻った」
「見りゃわかる!」
杏子は湯呑を机に叩きつけるように置いてから突っ込んだ。
「戻ってくるの早すぎだろ!」
「作業が終了したからな」
神崎は靴を脱ぎながら少しだけ首を傾げた。
杏子は慌てて部屋の中を見回した。
別にやましいことはない。マミと朝食を食べていただけだ。
それだけだ。けれど何となく気恥ずかしい。
マミが泊まったことや二人で朝を過ごしたこと。
くだらないことでまた来いと言ったこと。
それらを神崎に見られるのが妙に恥ずかしい。
神崎は部屋の中を一度見た。
タッパーの空き容器に二つの湯呑。少し減ったクッキー。
そしてマミ。
マミは丁寧に頭を下げた。
「おはようございます神崎さん」
「おはようございます巴さん」
神崎も同じように頭を下げる。
そのやり取りが妙にかしこまっているようで杏子はさらに落ち着かなくなった。
「な、なんか恥ずかしいからやめろ!」
マミが少し笑いを含んだ声で言う。
「神崎さんのお家なのだから、
戻ってくること自体は不思議ではないでしょう?」
「そうだけど!そうじゃなくて!」
「何が違うの?」
「タイミング!」
杏子は神崎を睨む。
「あんた昨日の言い方だとマミとは会わないみたいな言い方してたろ!」
「君と巴さんの仲が治るまではな」
「っ!屁理屈言うなよ!治ってなかったらどうすんだよ!」
神崎は少しだけ考えた。
「君は巴さんと仲良くしたいと言っていた」
杏子の動きが止まる。
嫌な予感がした。
「……おい」
「君は本質的にはとても優しい子だ。
巴さんと仲良くしたいと考えていたのだから、
泊めることができたなら仲直りは当然できると認識していた」
「バカ!やめろ言うな!!」
杏子の声が部屋に響いた。
マミは口元を押さえている。
笑いをこらえているのがかなりわかりやすかった。
「マミも笑うな!」
「ごめんなさい。
でもそんなに私と仲良くしたかったんだって嬉しくて」
神崎は真面目な顔のままだ。
「違ったか」
「違わねぇけど違う!」
「難しいな」
「難しくねぇ!つうかマミがいるのにそういうこと言うなし!」
「君が巴さんと仲良くしたいと言ったことは恥ずかしいことではない」
「っ!やめろっ!そんなことあんたに相談した記憶ねえしっ!」
杏子は叫んだ。
神崎は鞄を置き上着を脱ぐ。
その動作があまりに普通で杏子は余計に腹が立つ。
「あんたなっ! もっとこう気まずそうにしろよっ!」
「仲良くなったところはきちんと見たい。保護者なら当然だ」
「……っやかましい!……っああもうっ!」
杏子は両手で顔を覆いかけて途中でやめた。
それをやったら負けな気がした。
神崎は静かにマミのほうへ向き直った。
「巴さん。昨日から杏子のそばにいてくださってありがとうございます」
神崎は深く頭を下げた。
マミも姿勢を正す。
「そんな……私は」
神崎は顔を上げる。
部屋の空気が一瞬で静かになる。
マミはただ黙って続きを聞こうとしていた。
「魔法少女としての戦い方を教えてくれたこと。
杏子が危ういときに止めてくれたこと。一緒に夜を歩いてくれたこと」
「……神崎さん」
「私は結界の中に入ることができません」
神崎の声は静かだった。
「入れば足手まといになると以前お聞かせいただきました。
だから杏子が危険な場所へ行くとき私は見送ることしかできない」
杏子は口を挟もうとしてできなかった。
神崎の声が真面目すぎた。滑稽さがない。変な比喩もない。
ただ痛みを抱えたまま言葉を置いている。
「その杏子の隣にあなたがいてくれた
……杏子は素直には言わないかもしれませんが」
神崎は言葉をさらりと続けた。
「あなたのことを尊敬して信頼しています」
「だああっ!やめろ!!何言ってんだあんた!」
杏子は慌てて神崎の前に出た。
「事実だ」
「事実でも言うな!恥ずかしいから!」
また言ってしまった。
杏子は自分で自分を殴りたくなった。
マミは顔を少し赤くしていた。
視線を落とし湯呑を所在なさげに触っている。
けれど嫌そうではない。
むしろまんざらでもなさそうだった。
「巴さん」
神崎は怒り狂う杏子を放置して、言葉を続ける。
自分にできる精いっぱいのことを。
「これからも杏子が望むなら杏子の友人でいていただけるとありがたい」
「……もちろん。私も佐倉さんと友達でいつづけたいです」
マミは言葉を探す。
杏子はマミを見る。マミはまだ少し照れている。
けれどはっきりとそう言った。
「佐倉さんは私にとっても大切な友人です」
杏子は息を止めた。神崎は静かに頷く。
「そうですか」
「……はい」
「よかった」
「よかったじゃねぇよ!」
杏子は耐えきれずに叫んだ。
「何これ!何であたしの前で恥ずかしいことしてんだよ!」
マミは小さく笑った。
神崎は少しだけ首を傾げた。
「お互いの好意を伝えること自体は悪いことではない」
「黙れ!」
「巴さんは君の友人だ。とても素晴らしいな。大事にしなさい」
杏子は言葉を詰まらせながらも拳を握る。
神崎が真面目にこちらを見る。
「そういうの全部口に出すな!」
「口に出さなければ伝わらないことがある」
「わかってるけど恥ずかしいからやめろっつうの!」
マミは笑っていた。少し目元もやわらかい。
嬉しかったのだろう。神崎に礼を言われたこと。
杏子が信頼していると言われたこと。
友人でいてほしいと頼まれたこと。
それをきちんと受け取っている。
杏子はそれが嬉しくて、恥ずかしくてどうしていいかわからなかった。
「神崎さん。少し聞いてもいいですか」
「もちろんです」
「私と神崎さんはまだあまり話したことがありません
……なのにどうしてそこまで私を信じられるんですか?」
杏子は少しだけ顔を上げた。
それは昨日からどこかで残っていた問いだった。
神崎はマミを信じている。杏子が信じているから。
それは何度も聞いた。
けれどマミ本人から問われるとまた少し違って聞こえた。
神崎はすぐには答えなかった。少しだけ考えるように視線を落とす。
そして言った。
「杏子があなたを信じているからです」
あまりにもまっすぐな答えだった。マミは一瞬目を丸くした。
それからふっと笑った。
堪えきれなかったような少し嬉しそうな笑い。
「それだけですか?」
「それだけではありません」
神崎は静かに続ける。
「初めてお会いしたとき、
あなたは私に子どもとしてではなく対等に扱ってほしいと話しました」
「……はい」
「それは簡単に言えることではないと思いました」
マミは黙って聞いている。
「あなたは自分の責任で戦っている。
杏子と同じ魔法少女として杏子の隣に立っている」
「……」
「そのあなたを杏子が信じているなら私は信じます」
杏子は顔が熱くなるのを感じた。
否定したかった。
信じてねぇよと言えばよかった。
尊敬もしてねぇと言えばよかった。
いつものように神崎の言葉を全部蹴飛ばせばよかった。
でもできなかった。それは嘘になる。
杏子はマミを信じている。それはもう否定できない。
だから杏子は何も言えずただ視線を逸らした。
マミがこちらを見る。
「佐倉さん」
「……何だよ」
「今否定しないのね」
「うるせぇ」
声が小さくなった。
マミは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て杏子はさらに顔を背けるとますますマミは嬉しそうに笑う。
神崎も少しだけ口元を緩めている。
「お前ら揃いも揃って笑うな!」
「笑っていたか」
杏子はそこではっと何かを思い出したように神崎を睨んだ。
「っていうか神崎!おまえっ!
子ども同士の関係には口出ししないんじゃなかったのかよ!」
神崎は黙った。
マミも少しだけ目を瞬かせる。
杏子は勢いづいた。
「昨日、自分がいると大人の押しつけになるとか、
二人の仲は二人でどうにかするべきだとか、
めちゃくちゃそれっぽいこと言ってただろ!」
「そのとおりだ。そう発言した」
杏子は神崎の前に立ち指を突きつける。
「あんた都合いいときだけ理屈っぽいことふるまってるだけじゃねえかよ!」
マミがこらえきれずに笑った。
神崎は少しだけ考えた。
「私は二人の関係に過度に介入するべきではないと今でも考えている。
特に一番はじめの段階においては」
「だろ?!」
「しかし。君は自分ではじめの一歩を踏み出した」
杏子は言葉を止めた。神崎は真面目な顔で続ける。
「巴さんをこの家に呼んだ。泊まってほしいと伝えた。
仲直りをできた……ならばその後の一歩を少し支えることも大人の役割だと思った」
神崎は杏子を見た。
部屋の中が静かになる。杏子は一瞬何も言えなくなった。
神崎の言葉はまた妙にまっすぐだった。
腹立たしいほど。
「……支えるって……どういうことだよ。人前で恥ずかしいこと言うことかよ」
「違う……君が大切に思っている人に君が大切に思っていることを伝えることだ」
「……だからぁ!そういう恥ずかしいこと言うのやだって言ってんだろ!」
杏子は頭を抱えた。
神崎は結局いつも通りだった。
おせっかいのくせにおせっかいする場所を間違えているような。
だが確かにきちんと言わないといけないような。
そういうことを空気を読まずに発言する男だった。
「ほんとあんたさ!そういうとこ!」
「どこだ」
「全部口に出さなくてもいいだろ!」
マミは口元を押さえながらそれでも真面目に神崎を見た。
「神崎さん……私は今の言葉少し嬉しかったです」
杏子は言葉に詰まる。マミの声は穏やかだった。
けれどそこには少しだけ勇気があった。
昨日の夜から今朝にかけてマミも少しずつ自分の言葉を出している。
寂しい。羨ましい。くだらないことで来る。泊まってよかった。嬉しい。
それを見ていると杏子だけがいつまでも逃げているわけにもいかない気がしてくる。
それがまた悔しい。
「もういいよ……勝手にしろ。」
杏子は小さく言った。神崎は頷く。
「君が何も言わなければ私は私の考えで行動する」
「ばかっ!そこは言われなくとも遠慮しろ!」
朝の部屋に少しだけ笑いが戻った。
杏子は嫌な顔をする。
マミはおかしそうに口元を抑えてくすくすと笑う。
神崎はいつもどおり平静な顔つきをしている。
「杏子。改めて。君が元気になってくれて……私は嬉しい」
杏子はまた言葉を失った。神崎のその言葉はあまりにも静かだった。
押しつけではない。説教でもない。ただ自分の感情を言っているだけ。
それが余計に困る。
「……ああもうっ。どいつもこいつも言葉にしすぎだろっ。
もうやだこの空間」
「嫌か」
困ったように神崎が聞く。
神崎が悲しそうにしたのを見て反射的に本音が出てしまった。
「嫌じゃねぇから困ってんだよ!」
言った瞬間部屋が静かになった。杏子は自分の口を押さえたくなった。
遅い。もう言った。マミが静かに杏子を見る。
神崎も見る。
「……見るな」
杏子は低く言った。マミはやわらかく笑った。
「嫌じゃないのね」
杏子は返事をしなかった。できなかった。
神崎は静かに椅子を引いた。
「言うべきことは言った。では私は寝る」
「……そうしろ」
「その前に」
「まだ何かあんのかよ」
「巴さん。これからもくだらないことで来てください」
杏子の肩が跳ねた。マミも目を開く。
神崎は真面目な顔で言った。
「紅茶のことでもクッキーのことでも野菜が多いことでも」
「あんたどこまで聞いて」
「杏子の返信と状況から推測した」
「推測力を無駄遣いすんな!」
「この家にくだらないことは不足していない」
「それはそうだけど!」
「君にはくだらないことで来てくれる人が必要だと思う」
神崎は続けた。
「そして巴さんにもそういう場所が必要なら」
マミが少しだけ息を止める。神崎はそこで少し言葉を選んだ。
「ここを使ってください」
部屋の空気がまた静かになった。
杏子は神崎を見ていたし、マミも見ていた。
神崎の言葉は簡単だったが決して軽くはなかった。
「……神崎さん。ありがとうございます」
静かに頭を下げると、神崎もまた頭を下げる。
二人で頭を下げ合っている。
杏子はその光景を見てどうしていいかわからなくなった。
「……だからさ。重いんだよ二人とも」
杏子は小さく言った。
杏子の帰る場所をマミにも開く。
神崎はそれを当然のように言った。
「ごめんなさい。でも嬉しいから」
「……マミ。今のはまあ」
言葉を探す。
「神崎が勝手に言ったことだけど……来たけりゃ来いよ」
朝の光はもう完全に部屋の中に入っていた。
昨日の夜にはなかった光景だった。
マミがいて。神崎が戻ってきて。杏子が怒って。
それでも誰も出ていかない。
それが少しだけ不思議だった。
神崎は椅子から立ち上がる。
「では本当に少し寝る。
巴さん。杏子をよろしくお願いします」
「よろしく頼むな!」
「はい。可愛い後輩ですから」
「マミも受けるな!」
神崎は頷き部屋の隅に置かれた布団のほうへ向かった。
数分もしないうちに寝息が聞こえ始めた。
杏子は少しだけ呆れた顔をする。
「本当に寝やがった」
「よほど疲れていたのね」
二人は小声になっていた。
自然と神崎を起こさないようにしている。
それに気づいて杏子は少しだけ苦い顔をした。
さっきまで騒がしかった部屋が急に静かになった。
「佐倉さん……神崎さん本当に優しい人ね」
「……面倒なやつだけど」
小声で言うマミに対して杏子はそこで言葉を切った。
マミは黙って言葉を待っている。
神崎はそのままただ黙って眠っている。
「……まあ悪いやつじゃねぇよ」
結局いつもの言葉に落ち着いた。
マミは微笑み、それを見て杏子の胸の奥が少しだけ温かくなる。
神崎のクッキーみたいに。
マミとの距離みたいに。
この部屋に増えていく、くだらない日常みたいに。
少しずつ。でもその先に何があるのかはまだわからない。
マミは神崎の眠るほうを少し見てそれから杏子を見た。
「佐倉さん。私、神崎さんとも友人になれるかしら」
杏子は少しだけ黙った。神崎は眠っている。
魔法少女の事情を知るものは少ない。
ましてや大人は。
だからこそマミは数少ない同じ秘密を持つ者として、神崎とももっと話したいと考えていたのだろう。
答えるのは杏子ではないのかもしれない。
でも言いたいことはあった。
「なれるだろ。こいつマミのこと信じてるし」
「佐倉さんが信じているから?」
「……そうだよ」
杏子が視線を逸らすと、マミは小さく笑った。
その笑い声を聞いて布団の中の神崎が少しだけ寝返りを打つ。
二人は同時に黙った。
しばらくして神崎の寝息がまた落ち着く。
杏子とマミは顔を見合わせた。
そしてどちらともなくまた小さく笑った。
その笑いは朝の光の中に溶けた。
杏子は窓の外を見る。風が少し強くなり洗濯物が揺れる。
くだらないことで誰かが来る場所。
それはたぶんもう少しだけ広げてもいいのかもしれない。