数日後の夜、結界の崩れる音は紙を裂く音に似ていた。
最後に残った使い魔が赤い槍に貫かれて霧のように散る。
マミのリボンがほどけ銃の形を失って、夜風に溶けるように消えた。
杏子は槍を肩に担ぎ息を吐く。
「終わりか」
「ええ」
マミは周囲を確認してから静かに頷いた。
路地裏に戻った夜は何事もなかったように冷えていた。
少し離れた通りから車の音が聞こえ、どこかの家の窓に明かりが点いている。
魔女の結界の中であれほど歪んでいた世界は、外に出ればただの町に戻る。
それがいつも少しだけ気持ち悪かった。
「グリーフシード。あたし全然濁らねえし」
「なら今回は私が使うわね」
マミが拾い上げる。
「佐倉さん今日もあまり魔力を使ってなかったのね」
「まあな」
「学校で寝てしまった分、動きはよかったかしら」
杏子は顔をしかめた。
先輩はすぐに後輩に指導をしたがる。
「そこ掘り返すな」
「先日自分で言っていたじゃない」
「言ったけどさ」
結界の気配が消えた路地を抜け、二人は大通りへ出た。
夜は深すぎない。神崎との約束の時間まではまだ余裕がある。
杏子は無意識に携帯を確認した。時刻を見る。十時にはまだ遠い。
マミがそれに気づいて少しだけ笑う。
「今日は大丈夫そうね。時間」
「……まあな」
「神崎さんに怒られずに済むわ」
杏子は舌打ちした。
けれどその足は自然と神崎の家へ向かっていた。
マミもそれに並ぶ。
数日前までは魔女を倒したあとそのまま別れることが普通だった。
マミはマミの帰り道へ。
杏子は杏子の帰る場所へ。
今は少し違う。
帰り道が途中まで同じになっている。
「佐倉さん。成績は大丈夫?」
「大丈夫だろ……多分」
「多分なの?」
マミの声がまた少しだけ先輩じみた。
杏子は顔をしかめる。
「マミまで神崎みたいなこと言うな」
「神崎さんは保護者だもの……
どんなふうに聞いてくるのかしら?」
「宿題は終わったかとか授業は聞いたか……
睡眠時間は足りているか」
言ってから杏子は自分で少し嫌な顔をした。
一瞬否定するのを忘れるほど神崎が保護者であることをもう認めている。
マミも気づいていたのにそこをからかわなかった。
ただやわらかく笑っただけだった。
「でも本当に成績は大丈夫なの?」
「神崎が聞いてもいないのに教えてくるからな」
杏子はポケットに手を突っ込み少しだけ視線を逸らす。
マミは興味深そうに杏子に問いかける。
「神崎さんの講義……受けてみたいわ」
神崎に勉強を教わる。わからないところを聞く。
学校で寝てしまうことを注意される。
そういうなんでもないやり取り。
マミはそれを少し羨ましがっている。
杏子にはもうわかった。
「聞けばいいだろ。神崎に。勉強でも何でも」
「神崎さんにもお仕事があるでしょう」
「あいつ頼まれたらたぶん喜んで時間作るぞ」
マミはどこか嬉しそうに黙って笑った。
二人は並んで歩く。
街灯が一定の間隔で道を照らして、影が伸びて縮む。
夜は冷えていたが魔女の結界ほどではなかった。
しばらく黙って歩いたあとマミが言った。
「佐倉さん。聞いてもいい?」
「内容による。点数は教えねえ」
「家族のこと」
杏子の足がほんの少しだけ遅くなった。
マミもそれに合わせて歩幅を落とす。
「この前少し聞いたけれど。その後どうしているのかなって」
杏子はポケットの中で指を握った。
家族。
その言葉は今でも少し硬い。
魔女よりもグリーフシードよりも……父の顔を思い出すほうが苦しいときがある。
「この前話したことがほとんど全部だよ」
杏子はぼんやりと言った。
「親父には勘当みたいな扱い受けてる。母さんと妹にも会ってねぇ」
言葉にすると夜の空気が少しだけ重くなった。
マミは何も言わない。それがありがたかった。
「あとは神崎がたまに親父のところに行ってる」
「佐倉さんの様子を伝えに?」
「たぶんな」
杏子は少しだけ口元を歪める。
「元気ですとか。学校に行っていますとか。
野菜ばかりを食べさせていますとか」
「最後も言っているのかしら」
「親父も困るだろうな。娘の近況が野菜中心とか」
少しだけ冗談めかして言った。
けれど笑いは長く続かなかった。
「親父が神崎の言葉だけは少し聞くからそれで済んでる」
杏子は夜道の先を見た。
「だからまだ完全に切れてない」
その表現が正しいのかどうか自分でもわからない。
糸は細く……ほどけかけている。
でも神崎がその途中に立ってどうにか持っている。
「神崎がいなかったら……
まあ多分本当に勘当されてたと思う」
杏子の淡々とした言葉に対してマミは黙っていた。
「いやもう勘当みたいなもんだけどさ。
でも完全に終わってはいない……多分」
その多分が苦しかった。
自分の願いは家族のために使った。
父や母に妹。
そして教会のために。
それに後悔はなかったはずだ。
少なくとも願った瞬間は。
「願いは叶って親父の話は届いた。
でもそのせいで親父は壊れかけた」
「……」
「何なんだよそれ」
杏子は夜道に視線を落とす。
アスファルトの上に二人の影が並んでいる。
「何のために願うのが正解だったんだろうな」
言ってから杏子は少しだけ自嘲した。
「いや正解なんかねぇか」
「佐倉さん……私は」
マミは言いかけて少しだけ黙った。
街灯の下でその表情は静かだった。
「前に私の願いの話をしたでしょう」
事故。
助かりたいと強く願ったこと。
その結果マミだけが生き残って家族は死んでしまったこと。
杏子はその話を以前聞いている。
マミはそのときとても落ち着いて話した。
まるでもう整理のついた過去のように。
けれど今隣を歩くマミの顔はそのときよりも少しだけ弱かった。
「あのとき、私だけではなく家族も助かってほしいって、
願っていればと考えることがあるの」
マミの声色は静かででも後悔の色が滲み出ていた。
杏子はそんな気弱なことをいうとは思わなくて思わずマミを見た。
「私は助かりたかった。あの瞬間それだけでいっぱいだった。
でもあとになって思うの。もしあのときもう少し違う願い方ができていたらって」
「そんなの」
杏子は言いかけて止まる。
そんなの無理だ。
事故の瞬間に死にかけているときに家族のことまで考えろなんて無理だ。
そう言おうとした。けれどそれはマミもわかっている。
わかっていて考えてしまうのだ。
願いとはそういうものなのかもしれない。
「以前はこういうことをあまり話せなかった……
話しても仕方がないと思っていたし弱音みたいで」
マミは少しだけ杏子を見る。
その目は少し照れていた。
「友達だから」
杏子は息を止めた。
マミと少しだけ見つめあい互いに同時に目をそらした。
お互いのことを見れないが多分お互いに頬は赤くなっている。
「少しだけ弱音を吐いてしまったわ。
ダメな先輩ね。ごめんなさい」
「……友達なら謝んなくていいだろ」
杏子は小さく言って少しだけ顔を背ける。
言ってからまた恥ずかしくなった。
マミは一瞬黙ったあと静かに微笑んだ。
二人はゆっくり歩いた。夜の道はまだ続いている。
神崎の家まではもう少しある。
杏子はマミの言葉を考えていた。
助かりたいと願った。家族も助かってほしいと願えばよかった。
その後悔。
杏子は家族のために願った。でもその願いが家族を壊しかけた。
「人の願いってさ」
杏子はぽつりと言った。
「馬鹿みてぇだよな。叶えるために契約したのに。
叶ったとしても叶わなかったときと同じくらいつらくなるんだもん」
「願いの先に何があるかまではわからないもの。
わからないままそれでも願ってしまう。だから願いはきれいなんだと思うわ」
お互いに言ったところで何も変わらないのは理解している。
これは少し重いだけの愚痴だ。
少しだけほかの人たちよりも重いけど。
ただ共有できる友達が隣にいる。
杏子は信じるように笑った。
マミも前を向いて笑った。
「こういうときに隣で同じ気持ちでいてくれる友達がいるのって凄く嬉しいわ」
杏子の足が少しだけ止まりかけた。
マミはこんなに直球で話してくるタイプだったろうか。
辛くても抑え込むタイプだったような気がする。
けどどこかの馬鹿を見て。
馬鹿でもいいから伝えたい気持ちを伝えるようにしたのかもしれない。
「……まああたしもだけど」
夜の音が急に大きく聞こえた。
遠くの車。風で揺れる看板。自分の靴音。マミの足音。
隣にいる。
熱い。
夜なのに顔だけが妙に熱い。
ただいつもの歩幅で隣を歩いている。
それが少しありがたかった。
このままだとまた変なことを言いそうになる。
杏子は視線を逃がした。
その先に電柱の横の掲示板が見えた。
町内の知らせや古いチラシが重なって貼られている。
その中に一枚だけ少し鮮やかなポスターがあった。
演奏会。
大きくそう書かれている。
小さなホールの名前と日付。
弦楽四重奏と読める文字。
知らない作曲家の名前が並んでいる。
杏子はそれを指さした。
「……あれ」
「え?」
「演奏会だってさ」
マミもポスターを見る。
「たまにはこういうの行くのもいいんじゃねぇの」
杏子はできるだけ何でもないように言った。
話題をそらしたかった。
願いの話から。隣にいると嬉しいという言葉から。
自分の顔が熱くなっていることから。
ただそれだけだった。
マミはポスターを見つめる。
「演奏会ね」
「興味あるか?マミそういうの似合いそうだしな。
紅茶飲みながらクラシック聴いてそう」
「……今度してみようかしら。佐倉さんは興味あるの?」
「……別に。魔女より退屈そうだなとは思う」
「それは比較先が良くないわね……」
「……退屈な日常も大事だろ」
マミは一瞬目を丸くした。
それから静かに笑う。
「そうね。行ってみたいわ。佐倉さんと」
マミはポスターに視線を戻した。
杏子は返事に詰まった。またそういうことを自然に言う。
「……神崎も連れてくか。
あいつこういうの好きかもしれねぇし」
杏子は咄嗟に言った。
マミは少しだけ楽しそうにした。
「三人で行くの?」
「いや別に……行くって決めたわけじゃねぇし」
杏子は慌てて言葉を濁して顔を背けた。
マミは杏子の照れ隠しをただ穏やかに笑って受け止める。
そのとき携帯が震えた。
神崎からだった。
『帰りは何時ごろになりそうだ』
杏子は画面を見て少しだけ息を吐く。
「神崎さん?」
「ああ」
マミが聞いてくるのに返事をしながら杏子は返信を打つ。
『今帰ってる。マミと一緒。十時前には着く』
少し迷ってからもう一文足した。
『演奏会があるらしい』
送信。すぐに既読がついた。
返事は少し遅れた。
『詳細を確認したい』
杏子は額を押さえた。
「……始まった」
「何て?」
「詳細を確認したいだってさ」
マミがくすっと笑う。
「神崎さんらしいわね」
「チケット代とか曲目とか全部調べ始めるぞ」
マミはポスターをもう一度見る。
「退屈な日常を増やすのも悪くないかもしれないわ」
杏子は返事をしなかった。
代わりにポスターの日時をもう一度見た。
まだ先だ。
行くかどうかもわからない。
その日まで何かあるかもしれない。
魔女が出たり、父のことがまた胸を刺すかもしれない。
それでも……。
演奏会なんて、ちょっとした日常を少し先に置いてみてもいいかもしれない。
「……神崎が長々調べる前に」
杏子は言った。
「帰るぞ。あとさっきの話は終わりな」
「願いの話?」
「……隣にいると嬉しいとかそういうのも。
言いすぎるとなんか……目減りしそう」
自分とのことを大事にしてくれている。
それが涙が出そうになるくらいうれしくて。
でも先輩だから我慢して。
結果的に沈黙した。
二人はポスターの前を離れた。
夜道を神崎の家へ向かって歩く。
杏子の携帯がまた震えた。
『演奏会は土曜日の午後らしい』
もう調べている。
杏子は画面を見て深くため息をついた。
「……早ぇよ。あいつもう調べてる」
杏子は返信せず携帯をしまった。
マミは隣で小さく笑っている。
その笑いを聞きながら杏子は思った。
願いの正解はまだわからない。
魔法少女としての正しさも日常の守り方もまだわからない。
でも次の土曜日の午後に演奏会があることだけは今わかった。
それが何かの答えになるわけではない。
それでも少し先にある退屈な日常として胸の奥に置いておくことはできた。
神崎の家の明かりが遠くに見え始める。
そこへ向かう道はもう何度も歩いたはずなのに今日は少しだけ違って見えた。
マミの弱音も杏子の問いも答えは出ていない。
けれどその途中に演奏会のポスターが一枚挟まった。
それがなぜか酷くくだらなくて。
少しだけ救いのようにも思えた。