演奏会の話はその日のうちに神崎によって形を持った。
神崎は机の前に座っていた。
大学の資料の横に演奏会のリーフレットデータを印刷したらしい紙が置かれている。
杏子はそれを見て額を押さえた。
「紙のほうが一覧性が高い。保存はデータのほうが良いが」
マミは横で小さく笑っていた。
神崎は紙を一枚持ち上げる。
「土曜日の午後。駅前の小ホール。
弦楽を中心にした若手演奏家の会らしい。これが曲目だ」
「読んでもわかんねぇよ」
「私も詳しくはない」
「じゃあ何でそんな真面目に調べてんだよ」
「君たちが行くかもしれないからだ」
杏子は言葉に詰まった。
自分が行くではなく、君たちが行く。
マミもそれに気づいたようだった。
「神崎さんはいらっしゃらないのですか?」
マミが聞くと神崎は紙を机に置いた。
「今回は二人で行ってきてください」
杏子は顔を上げる。
神崎は少しだけ考えるように視線を紙へ落とした。
「二人の楽しい思い出の中で特に最初のものは二人だけのほうがよいと思う」
杏子は固まりマミも少しだけ目を見開く。
「……あんたさ。重い」
神崎は静かに……しかし当然だとばかりに頷いた。
「君たちが二人で遊びに行く。
魔女でもパトロールでもなく演奏会に行く。
とてもよいことだと思う」
声はいつも通り落ち着いていた。
けれどその奥に少しだけ寂しさがあるようにも聞こえた。
杏子はそれに気づきすぐに視線を逸らした。
「でも神崎さんも一緒のほうが」
マミが控えめに言う。
マミにとって神崎は同じ秘密を持つ者の一人であり。
自分を大人と同様の括りで見てくれた人間だった。
仲間はずれにするのは忍びないと感じていた。
だが神崎は首を振った。
「私も友人として混ざりたい気持ちはあります。
けれども最初は二人で行ってきてください」
神崎はマミを見る。
少なくともマミに対しては友人をみる目だった。
そして杏子に対してはそれとは少し異なる……保護者としての目線だった。
杏子と一緒に楽しんでほしい。
貴方ならそれが出来る。
そんなマミに対する純粋な信頼が浮かんでいた。
マミは少しだけ頬を赤くした。
「せっかくの神崎さんの好意だもの。二人で行きましょうか」
杏子は黙った。
断る理由はいくつも思いつく。
面倒くさい。演奏なんてわからない。神崎も来ればいい。
マミと二人きりで行くのはなんとなく照れくさい。
けれどどれも口にできなかった。
マミが少しだけ恥ずかしそうにしている。
それでも嬉しそうにしている。
その顔を見ると断るのが急に難しくなる。
そもそも自分だって行きたいのだから。
それを口にすることが恥ずかしくて……行きたくないような雰囲気を出しているだけだ。
「……まあ」
杏子は視線を落とした。
「マミが行くなら行く」
マミの表情が明るくなる。
神崎は少しだけ口元を緩めた。
机の上には演奏会の紙が置かれている。
土曜日の午後。
まだ少し先の予定。
それが魔女の気配でもなく神崎の帰宅時間でもなく学校の宿題でもない予定として杏子の生活の中に入ってきた。
*
土曜日は思ったより晴れていた。
杏子は駅前の広場で少しだけ落ち着かない気分で立っていた。
服装は普段より少しだけ整えている。
新品の上着は神崎と一緒に買いに行ったものだ。
神崎に「演奏会なら周囲に合わせるとよい」と言われたからだ。
余計なお世話だと思ったが完全に無視するのも何となく癪で結局買い物に行った。
……買ってもらった上着はたしかに可愛らしいのも胸を落ち着かなくさせた。
その時点で少し負けた気がした。
「佐倉さん」
声がして振り向くとマミが立っていた。
いつもより少しだけ大人びた服装だった。
派手ではない。
けれど淡い色の上着ときちんと整えた髪がホールへ向かうにはちょうどよく見えた。
杏子は一瞬だけ見てすぐに顔を逸らした。
「……おう」
「神崎さんは本当に来ないのね。少し残念?」
「別に」
杏子は即答した。けれどホールの方向を見ながら少しだけ思う。
神崎がいたらたぶん案内を全部確認し席の位置を把握し曲目について事前に調べたことを淡々と話しただろう。
それはそれで面倒くさい。
けれどいないと少し静かすぎる気もする。
「神崎さんがいないのに悪いけれど佐倉さん……
あなたと二人で来られて嬉しいわ」
マミは前を向いたまま言った。杏子は返事に困った。
いつもならそういうことを言うなと返す。
でも今日は演奏会へ二人で行く日だ。
神崎が言うところの二人だけの楽しい思い出の最初かもしれない日だ。
その言い方は重い。重いが完全に否定するほどでもない。
「……まあ。たまにはな」
杏子は否定せずに憮然とした感じで言ったが耳は真っ赤だった。
マミは嬉しそうに笑った。
*
二人はホールへ向かった。
入口には同じポスターが貼ってあった。
チケットを確認し中へ入る。ロビーは思ったより広く人も多かった。
年配の客や親子連れ。制服姿の生徒に花束を持った人。
杏子はその空気に少しだけ眉をひそめる。
「こういう場所初めてだな。あたし。」
「私もあまり多くはないわ」
「マミは慣れてそうだけどな。雰囲気」
杏子の自身に対するイメージ像に思わずマミは小さく笑った。
二人は席へ向かった。
ホールの中は静かだった。舞台には椅子と譜面台が並び中央にピアノがある。
照明は柔らかい。杏子は席に座って少しだけ身じろぎした。
「落ち着かねぇな……戦うほうが楽だ」
マミがツボに入ったかのように笑うのを見て、杏子は顔を逸らした。
周囲では客が小声で話している。
曲目や出演者のこと。
誰かの知り合いらしい少年の名前。
上条恭介。
その名前が何度か聞こえた。
やがて照明が少し落ち演奏会が始まった。
*
上条恭介が舞台に立ったとき杏子は少し驚いた。
若い。
自分たちとほとんど同年代に見えた。
それなのに舞台の上での立ち姿は妙に落ち着いていた。
緊張していないわけではないのだろう。
けれどその緊張を抱えたまま彼はヴァイオリンを構えた。
音が鳴る。
杏子には正直上手いのかどうかはよくわからなかった。
……いや上手いのだろう。
周囲の空気が変わっていたし。
マミも静かに聴いているから。
音がただの音ではなく何かの線のように空間を渡っていくのがわかったから。
でも細かいことはわからない。
速い。雑音がない。
それくらいしか思いつかない。
隣を見るとマミも真剣に聴いていた。
けれど演奏の専門的な感想があるようには見えなかった。
たぶんマミもわからないのだ。
それが少しだけ安心だった。
演奏が終わると拍手が起きた。
杏子も少し遅れて手を叩く。
マミも同じように拍手していた。
上条恭介は丁寧に頭を下げた。
その姿を見て杏子はまた思う。
同じくらいの年齢だ。自分たちと。
でも彼は舞台の上にいる。人前で演奏し称賛されている。
その才能は誰の目にも見える形でそこにある。
魔法少女の戦いは人には見えない。
魔女を倒しても拍手はなく救われた人は自分が救われたことを知らない。
夜を削り学校で眠くってもその理由は誰にも言えない。
上条恭介は演奏のためにすべての時間を費やしているのだろう。
練習して努力して音を磨いて……それを人が称賛する。
それが悪いとは思わない。
けれど何となく面白くなかった。
「佐倉さん?難しい顔をしているけどどうしたの?」
拍手が落ち着いたころマミが小声で聞いた。
杏子は舞台のほうを見たまま言う。
「あいつ同い年くらいだよな」
「上条さんって演奏者ね。たぶん私たちと近い年齢ね」
マミも少しだけ舞台を見る。
「すごいわよね。でもどうしたの?ムスッとして。なにか嫌なところでもあったの?」
図星だった。杏子は椅子にもたれた。
「他の全部犠牲にしてるんだろうなって思っただけだよ……
あれだけできるってことはずっと練習してるってことだろ。
遊ぶ時間とかくだらねぇこととか、そういうの削って」
「……そうかもしれないわね」
「でもそれは称賛される」
杏子は声を落とす。
「あいつは自分のために時間を使ってそれが誰かに褒められる。
でも……あたしたちは人知れず誰かのために時間削っても誰にも知られねぇ」
マミは瞳を閉じて顔を俯けて黙っていた。
汚い感情だと恥じていた。
でも心の奥底で感じていたことだった。
「だから何ってわけじゃねぇよ」
杏子はすぐに続ける。
「上条ってやつが悪いわけじゃない。むしろすげぇんだろうし」
「……素晴らしい演奏だったと思うわ。それは確かよ。」
「でも何となく面白くねぇ」
自分でも子どもっぽいと思った。
でもそう思ってしまったのだから仕方がない。
マミは少しだけ考えるように舞台を見つめた。
「……ほんとは先輩として叱らなくちゃいけないんだけど。
わからなくはないわ」
マミは苦笑いしながら静かに言った。
そして続けた。
「でもね。私たちは魔女を倒すことで誰かを救っている。
上条さんは自分のために演奏しているのかもしれないけれど、
その音を聴いている人はきっと何かを受け取っている
……ならただそれだけでいいと思うの。少しだけ羨ましいけど」
「……綺麗にまとめるな。マミ先輩さまは優等生だな」
「でも本当にそう思ったんだもの」
杏子は少しだけ息を吐いた。
マミの言うことは正しい気がする。
正しいけれど完全には飲み込めない。
人知れず戦うこと。人前で称賛されること。
その違いはやっぱりどこかに残る。
それでもマミが隣でそう言うなら少しだけ置いておける気もした。
演奏会は続いた。
杏子は途中から感想を持つのを諦めた。
音が流れる。
人が聴いてそれに安らぎを持っていて自分の隣にマミがいる。
それで十分だと思うことにした。
*
演奏が終わるとホールは一気にざわめき出した。
拍手と椅子の音。
感想を言い合う声の横でロビーへ向かう人の流れ。
杏子とマミも席を立った。
「どうだった?」
マミが聞く。
「よくわかんねぇ。まあ退屈しのぎにはなったかな。マミは?」
「綺麗だったと思うわ。これを機会にクラシック聞いてみようかしら」
「マミすげえ似合いそうだしな。別にいいけどあんまり押しつけんなよ」
杏子はいたずらチックな笑い方をした。
多分この先輩さまはしばらくしたらクラシックについてちらほらと聞いてほしそうに知識を披露するだろう。
それをまたからかってやろうと思った。
前方の席から明るい声が聞こえた。
「すごかったよね恭介!やっぱり恭介の音だと全然違うんだよ!」
杏子は何となくそちらを見た。
青い髪の少女が興奮した様子で話している。
隣には見覚えのある桃色の髪の少女がいた。
鹿目まどか。
まどかは青い髪の少女の勢いに少し押されながらもにこにこ聞いている。
「さやかちゃん本当に嬉しそうだね」
「そりゃ嬉しいよ!恭介があんなにすごい演奏してたんだもん!」
「うんすごかったね。一番良かったと思うよ」
「でしょ?あの最後のところとかさ……もうこう胸に来るっていうか!」
青い髪の少女が身振りを交えて熱心に話している。
美樹さやかだろうか。
名前だけはまどかとの話で聞いたことがある気がした。
まどかがふとこちらを向きかける。
杏子は反射的に視線を逸らした。
「佐倉さん?」
マミが気づく。
「何でもねぇ」
「……ああ……前に言っていた鹿目さんだったかしら?」
「……よくわかるな」
「声をかけないの?」
「今日はマミと来てるだろ」
杏子は早口で言った。
「まどかと話すとまた説明が増える。あとあの青いのの勢いすごいし」
「青いの…ま、まぁ多分上条さんの知り合いなんでしょうね」
マミは少しだけ青い髪の少女のほうを見る。
美樹さやかはまだ上条恭介の演奏を褒めていた。
まどかは困ったように笑いながらも嬉しそうに聞いている。
杏子はその光景を見て少しだけ口を曲げた。
「すげぇな。あそこまで真っ直ぐ褒められるの」
マミがくすりと笑う。
たしかに杏子はそういった点では不器用なところがある。
だが誰かのために感情を向けられるという点で青髪の少女と似ていると思ったからだ。
杏子はまどかがこちらに気づく前にロビーのほうへ歩き出した。
「この演奏場さ。紅茶がうまい喫茶店があるらしい」
神崎が調べた情報。
演奏会の詳細と一緒にホール併設の喫茶店についても送ってきていたのだ。
紅茶が評判らしいと。
余計な情報だと思ったのに使っている。
マミは嬉しそうに目を細めた。
「行ってみたいわ」
「だろうと思った」
「神崎さんが嫉妬してしまうかもしれないわね。
佐倉さんとそんなところに行ったなんて聞いたら」
軽口を叩きながら二人はロビーへ出た。
だが喫茶店へ向かおうとしたところで人だかりが見えた。
演奏者たちが聴衆に囲まれて話をしているらしい。
花束を受け取る者。
感想を言われて頭を下げる者。
家族らしい人に笑顔を向ける者。
その中に上条恭介もいた。
そして。
「……」
杏子は足を止めた。
見覚えのある背中があった。
黒っぽい上着。少し姿勢のよい立ち方。
手にはプログラム。
神崎だった。
上条恭介の前に立ち真面目な顔で何かを話している。
杏子は目を疑った。
「……は?」
マミも気づいた。
「神崎さん?」
「……何でいるんだよ」
「別行動と言っていたからいるのは当然だけど……」
「っあいつ!絶対に面倒を起こしてる!」
杏子は低い声で叫んだ。
神崎は二人に気づいていない。
上条恭介に向かって淡々と何かを語っている。
距離があるので最初は聞こえなかった。
二人が近づくと少しずつ声が聞こえてくる。
「……第二主題に入る前の音の置き方が非常に印象的でした。
私は専門家ではありませんがあの部分で呼吸が変わったように感じました」
上条恭介は少し戸惑いつつも丁寧に聞いている。
「あ……ありがとうございます」
「また終盤の高音部で音が細くならずむしろ静かに伸びていた」
「えっと、そこはかなり練習したところで」
「そうでしょうね。練習の跡が音に出ていたように思います」
神崎の声は真剣だった。
淡々としているが確かな熱がある。
上条恭介は少し照れたように笑う。
「そこまで聴いてくださって嬉しいです」
「私は聴き惚れていました」
杏子は固まりマミも目を瞬かせた。
神崎は続ける。
「一つの技術が単なる技巧ではなく誰かの時間の積み重ねとして、
届く瞬間があるのだと思いました」
「……ありがとうございます」
上条恭介は本当に嬉しそうだった。
周囲の大人たちも微笑ましそうに見ている。
杏子はゆっくりとマミを見る。
マミも杏子を見る。
「二人で行けって言ったよな……二人の思い出がどうたらこうたらって」
「……ええと。まあ」
「何であんな目立つところで奏者本人に感想語ってんだよ!」
杏子は額を押さえた。神崎はまだ気づかない。
「あなたは今後も演奏を続けるのですか」
「はい。そのつもりです。演奏が……僕のすべてですから」
神崎は少しだけ頷いた。
「少なくとも今日私はあなたの演奏を聴いてよかったと思いました」
上条恭介は少しだけ目を丸くした。
それから真面目に頭を下げた。
「ありがとうございます」
その光景は滑稽なようで少しだけまぶしかった。
神崎はただ本気で感想を伝えている。
演奏に対して。
その少年が積み重ねた時間に対して。
そこには変な下心も過剰な礼儀もあるようでない。
ただ感動したから伝えている。
杏子は少しだけ黙った。
「……悪いやつじゃねぇんだよな」
小さく呟く。マミが隣で微笑む。
「でも何でああも目立つんだよ……あいつは」
「率直な物言いをしてるからそう見えるのだと思うわ。
私は良いところだと思うけど……」
杏子は神崎のほうへ歩き出した。
上条恭介への挨拶を終えた神崎がようやくこちらに気づく。
目が合った。
神崎は一瞬だけ動きを止めた。
杏子はにっこり笑った。
笑ったつもりだった。
たぶんかなり怖い顔になっていた。
「神崎……二人の思い出が……なんだっけか?」
神崎は少しだけ黙った。
そして静かに言った。
「客席は別だった」
「そういう問題じゃねぇ!」
マミが横で肩を震わせる。
杏子は叫ぶ。
「二人で行けとか思い出がどうとかっ!!
めちゃくちゃそれっぽいこと言ってたよな!?
その結果が会場のど真ん中で奏者本人に長文感想かよ!」
神崎は少しだけ困った顔をした。
「邪魔はしていないつもりだった」
「してねぇけど!してねぇけど何か違うんだよ!」
マミは吹き出して笑った。
神崎は激怒した杏子の発言を横目にしながらマミへ向き直る。
「巴さんも楽しめましたか」
「ええ。専門的なことはわかりませんでしたけれど」
「私も詳しくはありません」
「めちゃくちゃ語ってただろうがっ!」
杏子が横から刺す。
「感想だ」
「感想が論文みてぇなんだよ!」
「論文ではない。根拠が足りない」
「やかましいっ!」
神崎は本気で考えている顔だった。
杏子はしばらく りつけた後、落ち着きを取り戻すために深くため息をつく。
「二人で行くことを邪魔しないため席を離した」
「……なんつうかそれは悪かったな。
気を使ってもらって……けど目立ちすぎ」
「正しい感想を相手に伝えただけだ」
「いやいいことだけどさっ!
なんかあんた目立つし!あとなんか恥ずかしいっ!」
「君たちの最初の思い出を邪魔したくなかったから別行動をした」
「どっちみちめちゃくちゃ目立ってんだよ!」
その声に少しだけ周囲の人がこちらを見る。
杏子は慌てて声を落とした。
「……とにかく喫茶店行くぞ」
「喫茶店……伝えていたところだな」
神崎も小さく頷く。
「では私は少し時間を置く」
「…………別に良いぞ。もう。三人でもさ」
「上条さんにもう一点だけあるから二人で行きなさい」
「まだ語る気か!やめろバカッ!
なんか……なんかすげえ恥ずかしいからっ!」
神崎はすでに上条恭介のほうを見ていた。
杏子は頭を抱える。
マミは笑っている。その横で少し離れたところから声が聞こえた。
「あれ?杏子ちゃん?」
まどかだった。
杏子はゆっくり振り向く。
まどかがさやかと一緒に立っている。
さやかは上条恭介のほうを気にしながらもこちらを見ていた。
「……あ」
杏子は小さく言った。
いろいろな糸がまた増えていく気配がした。
マミが隣で小さく言う。
「せっかくだしみんなでお茶をする?」
杏子は少しだけ黙った。
今日一日はマミとの日だと思っていた。
けれど神崎はめちゃくちゃ目立つ形で合流していた。
上条恭介がいて美樹さやかとかいううるさいやつがいて……まどかまでいる。
退屈な日常は思ったよりも面倒な形をしている。
杏子は少しだけ息を吐いた。
「……まず紅茶だ」
「佐倉さん?」
「話はそのあと」
そう言って杏子は歩き出す。マミがその隣に並ぶ。
少し後ろでは神崎が上条恭介にまた何かを語ろうとしている。
まどかの声がこちらを追ってくる。
「杏子ちゃんまたあとでね!」
杏子は振り返らず片手だけ上げた。マミが隣で笑う。
「忙しくなりそうね佐倉さん。でも……楽しそう」
杏子は顔をしかめた。
二人は喫茶店へ向かう。
ホールのざわめきの中で杏子は思った。
演奏会はただの退屈な予定では終わらなかった。
神崎はやっぱり変だった。マミは楽しそうだった。
まどかもいた。
知らない青い髪の少女も上条恭介の音にまっすぐ目を輝かせていた。
そしてその全部が少しずつ自分の生活に入り込んでくる。
それがいいことなのかまだわからない。
けれど今はとりあえず紅茶だ。
神崎が嫉妬するかもしれない評判の紅茶。
それをマミと二人で飲む。
そのくらいのくだらない予定ならたぶん持っていてもいい。
背後では神崎の声がまだ微かに聞こえていた。
「音が単に美しいだけではなく——」
杏子は足を止めずに言った。
「……長い」
マミは堪えきれずに笑った。
その笑い声を聞きながら杏子は喫茶店の扉に手をかけた。
まだ紅茶の味は知らない。
このあと神崎がどう混ざってくるのかもまどかたちとどう顔を合わせるのかもわからない。
ただ今日のことをたぶん忘れないだろうと思った。
その事実が少しだけ恥ずかしくて杏子は何も言わずに扉を開けた。