神崎と上条恭介の対話は杏子が去った後も淡々と続いていた。
周囲の大人たちは微笑ましそうに二人を見ている。
花束を持った人や他の出演者を待つ客のざわめきがロビーに薄く広がっていた。
少し離れた場所で美樹さやかはその様子を見ていた。
「……すごいね」
さやかが小さく言った。
隣にいるまどかは首を傾げる。
「上条くん?」
「うん。それもそうだけど」
さやかは神崎のほうを見る。
「あの人めちゃくちゃ聴いてくれてたんだなって」
神崎のことを知っているまどかからすると、相変わらず不思議な人だなという印象だった。
しかし、さやかからすると、自分の好きな音楽に熱中してくれた人……という少し色眼鏡のかかった印象になるらしく、なんの奇異な目線も向けていなかった。
「そうだね。上条君のことほめてくれてるね」
「ああいうふうに言われるの恭介も嬉しいと思う」
さやかの声は少し弾んでいた。
上条恭介の演奏を褒められることが自分のことのように嬉しい。
その感情が隠しようもなく顔に出ている。
まどかはそれを見てやさしく笑った。
「さやかちゃん本当に嬉しそう」
「そりゃ嬉しいよ」
さやかは即答した。
「恭介の演奏にあんなに聞き惚れる人がいるんだもん。
しかもただ『上手かったです』じゃなくてさ。
ちゃんとどこがどう良かったか言ってくれてる。恭介、ああいうの絶対嬉しいよ」
さやかは少しだけ胸を張るように言った。
まるで自分が褒められたようだった。
まどかは神崎を見る。
「あの人ね。前に話した杏子ちゃんって言う子の保護者さんなんだ」
「え?あのイケメンの大人?まどか……いつの間にそんな知り合いを」
「え……いや私の知り合いっていうか」
まどかは少し慌てて手を振った。
「パパと最近友達になった人だよ。その繋がりで杏子ちゃんと友達になったんだよ」
さやかはにやりと笑った。
「へえ。あんなイケメンで大人の知り合いがいるなんて、まどかも隅に置けませんなあ」
「違うよさやかちゃん」
まどかは困ったように笑う。
「神崎さんはパパと仲が良いだけ。パパおうちにいること多いから。
神崎さんみたいにちゃんと話を聞いてくれる人が来ると嬉しいみたいで」
「なるほどねえ」
さやかは腕を組みわざとらしく頷いた。
「つまり、さ。鹿目知久と鹿目まどかと神崎さんの三角関係……」
「さやかちゃん!」
まどかが赤くなる。
「違うよ!」
「冗談冗談」
さやかは笑う。
「でもさ。まどかのお父さんって穏やかだし、
ああいう真面目そうな人とは気が合いそう」
「うん。神崎さんもパパのことすごく丁寧に見てる感じがする……
話をちゃんと受け取ってくれるみたいな」
「あーわかるかも。今の恭介への感想もそんな感じだもんね」
二人は笑い合った。
まどかは神崎を見て、それから上条へ視線を移した。
「神崎さんが話し終えたら、上条くんにお疲れ様って言いに行こうか」
さやかはすぐ頷いた。
「言う。めちゃくちゃ言う。今日の恭介ほんとによかったから」
「あはは。さやかちゃんから褒められたらきっと嬉しいだろうね」
まどかは笑った。
神崎の話はまだ少し続いていた。
「……最後にもう一点だけ」
神崎が言う。
上条は少し頬を赤らめつつ笑って頷いた。
あまり真正面から褒められることがないからかもしれない。
「今後の演奏も聴ける機会があれば嬉しいです。
……ただ。無理はしすぎず」
「え?」
「努力は必要だと思います。
しかし努力があなた自身を削りすぎないことを願います」
上条は少しだけ不思議そうに神崎を見た。
神崎は静かに上条を見つめ続けた。
「あなたは素晴らしい方です。
それは演奏そのものによるものではなく、
あなたが何かに向けて頑張ることが出来るからだということを理解してください」
杏子のことが頭をよぎったのかもしれない。
魔法少女の夜のことかもしれない。
あるいは才能のある少年が時間のすべてを音へ捧げている姿にどこか危うさを見たのかもしれない。
上条はやがて静かに頷いた。
「ありがとうございます」
そこへさやかが飛び込むように近づいてきた。
「恭介!」
上条の表情がふっとやわらかくなる。
「さやか」
「お疲れ様!すごかった!本当にすごかった!」
「ありがとう」
「いやもうあの最後のところとかさ!何て言えばいいかわかんないけどすごかった!」
さやかの言葉は神崎の感想とはまるで違っていた。
専門的ではなく細かい感想などはないけれど、その分まっすぐだった。
上条は笑った。
「さやからしい感想だね」
「……悪かったね語彙力なくて」
「嬉しいよ」
その一言でさやかはぱっと明るい顔になる。
「ほんと?」
「うん。さやかいつも応援してくれるから」
「ならよし」
まどかも少し遅れて近づいた。
「上条くんお疲れ様。すごくきれいだったよ」
「ありがとう鹿目さん」
上条は丁寧に微笑む。
横でさやかが上条に更に自分の言葉を弾丸のごとく伝え続けている。
まどかは神崎にも軽く頭を下げた。
「神崎さんもこんにちは」
「鹿目さん。いらしていたのですね。こんにちは」
「すごく丁寧に感想を言ってましたね」
「少し長くなってしまいました」
「少し……?で、でも上条くん嬉しそうでしたね。」
「それならよかった」
神崎は少しだけ安心したように目を伏せた。
まどかはその表情を見て少しだけ微笑みながら無邪気に続ける。
「あ、そうだ。パパ普段おうちにいることが多いから。
神崎さんみたいにちゃんと話を聞いてくれる人が来てくれると、
きっと嬉しいと思うので……また来てくださいね」
「……そうですか。それはありがたいことです。私は友人がいないので」
神崎もまた心穏やかに過ごすことのできる友人が出来ことや、その友人が自分自身を嫌がっていないことをうれしく感じていた。
それは、初めに感じた音色と違っていたとしても純粋にうれしかった。
さやかは横からにやにやとまどかを見る。
「まどかも、まどかのお父さんもモテるねえ」
「もうさやかちゃんっ!」
「冗談だって」
さやかは笑いながら言う。
「神崎さん!まどかの親友の美樹さやかって言います!」
「美樹さやかさんですね。
鹿目さんにはうちの杏子がお世話になっています」
「はいっ。機会があればわたしも仲良くしたいなあなんて思ってますのでっ!
その際はどうぞよろしくおねがいしますっ!」
「ちょうど喫茶店で紅茶を飲んでいますので、
後ほど行ってあげてください」
「ええ……いきなりですね。いいですけど。
でも紅茶かぁ……美味しそうだけど、
こういうところの紅茶ってなんか色々種類ありそうですよねぇ……」
「ええ。私も勉強のために後ほど出向きます」
「紅茶って勉強するものなんですか?」
「温度と時間と茶葉の量が」
「あ……長くなりそう」
さやかは本能的に察したように一歩引いた。
まどかがくすっと笑いながらも少し辺りを見回す。
「そういえば杏子ちゃんは別の人と来てましたね?」
神崎はロビーの奥を見た。
喫茶店のほうへ向かった二人の背中はもう見えない。
「杏子は巴マミさんという友人と来ています」
神崎は何のためらいもなくそう言った。
まどかとさやかが目を瞬かせる。
「巴さんは杏子と同じ夜を歩いてくれる人です」
「えっと……夜?」
さやかが首を傾げる。
神崎は少しだけ言葉を選ぶ。
「比喩です」
まどかは何となくその言い方の奥に触れすぎないほうがいいものを感じた。
だから深くは聞かなかった。
「すごくきれいな人でしたね。一学年くらい多分上かな」
「とても立派な方です」
神崎はまた真面目に言った。
さやかが小声でまどかに囁く。
「神崎さん褒めるとき大げさじゃない?」
「真面目なんだよ」
まどかも小声で返す。
神崎は聞こえていたようだが特に反応しなかった。
「今日は杏子と巴さんが二人きりで遊びに来る日でした。
私は邪魔者になると思ったのでついていきませんでした」
「え、でも来てますよね?」
さやかが即座に突っ込んだ。
神崎は静かに頷く。
「演奏会は聞いてみたかったので別行動で来ました」
さやかは一瞬固まり、やがて吹き出した。
「正直!あははははっ!いやっ、でもそういうの好きです私」
さやかは笑う。
「邪魔しないように別で来たんだけど、演奏に聞き惚れて。
思わず恭介に感想言ってたってことですよね!」
「そのとおりです。とても素晴らしい演奏でした」
さやかはまた笑った。
神崎の行動の不器用さがツボに入ったらしい。
まどかは神崎を見る。
「杏子ちゃんとマミさん。今は喫茶店ですよね。
後でご一緒しても大丈夫ですか?」
神崎は少しだけ考える。
「杏子は最初は巴さんと二人で紅茶を飲みたいと思いますので。
そのあとなら声をかけてもよいかもしれません」
「じゃあ少し待ってから一緒にお茶していいか聞いてみますね」
「ご配慮いただき申し訳ないです」
ようやく笑い終えたさやかは神崎を見て純粋に質問をした。
「神崎さんあの子の保護者なんですか?」
「近い立場ではあります。そう言うと杏子は否定しますが」
「あ、そうなんですね。まー年頃の女の子だからしゃあないですよ!
多分けっこう怒ったりするんですよね?」
神崎のことを兄かなにかと勘違いしたらしいさやかは努めて明るく言った。
神崎は静かに答えた。
「ええ。杏子は少し不器用なところがありますから。
不器用であっても、あの子は常に人の幸福を願うことの出来る素晴らしい子です」
その言葉は少しだけ重かった。
さやかは笑いかけて少しだけ止まる。
まどかも神崎の横顔を見る。
神崎はロビーの奥に視線を向けていた。
そこに杏子の姿はない。マミの姿もない。
けれど彼はその方向を見ていた。
「杏子ちゃんのことほんとうに大事になされてるんですね」
まどかが静かに言った。
神崎は少しだけ目を伏せる。
「大事にしたいと思っています」
「……杏子ちゃん神崎さんの話をするときすごく困った顔をするけど。
……でも嫌そうじゃないです。
困ったなぁって困り顔で……でも嬉しそうです」
まどかは杏子が神埼のことを大事にしていると伝えたかった。
ただそれを直接言うと後日杏子に怒られそうだなと思って迂遠な物言いをした。
神崎は何かを言おうとしてやめた。
代わりに静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……なんかすごく丁寧だねこの人」
さやかが小声で言う。
「言ったでしょ。真面目な人なの」
まどかも小声で返した。
誰かの才能と頑張りを自分のことのように喜ぶ美樹さやか。
その隣で穏やかに笑う鹿目まどか。
そしてロビーの奥には杏子と巴マミがいる。
いくつもの関係が同じ場所に重なっている。
それぞれの願い。それぞれの孤独。それぞれの帰る場所。
神崎はそれを全部理解しているわけではない。
ただ今この場にある温度だけを少しずつ受け取っていた。
杏子と神崎の仲の良さを知っているまどかは少しだけ首を傾げる。
「でも……神崎さんは一緒に行かないで……寂しくないんですか?」
神崎は少しだけ黙った。
まどかは聞きすぎたかもしれないと思ったように少し肩を縮めた。
けれど神崎はごく普通に答えた。
「寂しいのは事実です。……しかし嬉しいほうが大きい。
杏子が私以外の誰かと日常を持てるならそれは良いことです」
その言葉にまどかは少しだけ目を伏せた。
「日常……ですか。大事ですよね」
「はい。とてもかけがえのないものです。
……なんてことのない日常のために人は頑張ることができます」
まどかはその言葉をしばらく胸の中で転がすように黙った。
さやかは少し照れたように頭をかく。
「神崎さん。けっこう重いですね」
「言葉が重いとはよく言われます。お気を害されたなら申し訳ないです」
「あ、謝らなくていいですよっ。
なんか周りに神崎さんみたいな言葉つかう大人いないから……新鮮です」
ロビーの奥から紅茶の香りがほんの少し漂ってきた。
神崎はそちらを見る。
杏子とマミは今ごろ二人で席についているのだろう。
そこに自分がすぐ行かないことはたぶん正しい。
正しいかどうかはわからないがそうしたいと思った。
「じゃあまどかは杏子って子と友達。神崎さんはまどかのお父さんと友達。
杏子って子はマミさんって人の友達。なんかすごい繋がってきたね」
「そうだね。さやかちゃんも杏子ちゃんと話してみよう?
すっごい良い子だよ」
「うーん話聞いてるとちょっと怖そうだけど……
まどかが言うならまあ」
さやかは少しだけ肩をすくめた。
神崎はそれを聞いていた。
美樹さやか。
上条恭介の演奏を自分のことのように喜ぶ少女。
杏子と同じ、誰かのために自分の感情を持てる子ども。
神崎は出来たら杏子の友達になって欲しいと考えた。
考えるだけだが。
友達というものは子ども同士で考え、模索してなるべきものだ。
大人の自分が口出しすることではない。
自分にできることは対等な目線で話をすることだけだ。
「私は少し外の空気を吸ってから向かいます」
「わかりました……えへへ。神崎さん?
あとで杏子ちゃんに怒られすぎないようにしてくださいね」
「すでに怒られました」
まどかは笑った。
さやかも笑う。
神崎もぼんやりと笑みを浮かべる。
神崎は頭を下げロビーの端へ歩いた。
少しだけ離れた場所で喫茶店の扉が見える。
その向こうに杏子とマミがいる。
まだ入らない。今はまだ二人の時間だ。
神崎はそう自分に言い聞かせる。
けれど耳はつい扉の向こうの気配を探してしまう。
紅茶の香り。小さな笑い声。杏子の少し尖った声。
聞こえたような気がして神崎は少しだけ口元を緩めた。