喫茶店の中はホールのざわめきから少しだけ切り離されていた。
完全に静かなわけではない。
カップの触れ合う音や椅子を引く音。
演奏会を終えた客たちの少し高揚した声。
けれどロビーの真ん中よりは落ち着いていた。
窓際の席に案内され杏子とマミは向かい合って座った。
テーブルの上には紅茶のメニューが置かれている。
知らない名前ばかりが並んでいた。
杏子はそれを見てすぐにメニューを閉じた。
「わかんねぇ。なんだよ紅茶って何でこんな名前長いんだよ」
「産地や種類があるから仕方のないことよ。
でもそれらを見極めながら自分好みの味やブレンドを楽しむことで」
「やかましい。紅茶でいいだろ紅茶で。マミ先輩さまは講釈が長い」
マミは自分の講釈を遮られて少しムッとしたが先輩扱いされて嬉しいのか小さく笑った。
それからメニューを手に取って少し考える。
「私はこれにしようかしら。王道系が一番いいと思うわ」
「ああ聞いたことあるな。あたしも同じのでいい。
違いとかわかんねぇし」
マミが店員に注文する。
その声がこういう場所に自然に馴染んでいるように聞こえて杏子は少しだけ落ち着かない。
「マミこういうとこ似合うな。紅茶とか演奏会とか」
「それは褒めているの?」
「どうだろな。まあ似合ってんだから突き詰めてけ」
微笑むマミに杏子は顔を逸らす。
外のロビーではまだ人が行き来している。
神崎の姿は見えない。
たぶんまだ上条恭介に何かを語っているのだろう。
そう思うだけで杏子は額を押さえたくなった。
「……神崎さぁ何であそこまで言うんだろうなぁ。はずいっての」
「上条さんに?」
「そうそう。なんつーか……もうほんとにはずい。見てられねえ」
杏子は椅子にもたれた。
「別行動なのはまあどうでもいいけどさ。目立ってて結局別行動の意味ないし」
「うふふ。演奏をきちんと聴きたかったのよ。
それに神崎さん私たちのために席を離していたのでしょう?」
「……まあそうだけどさぁ」
「少し不器用だけれど優しい気遣いだと思う」
杏子は口を曲げた。
ああいうことをやるならば、始めから自分と一緒についてきてもらったほうが暴走を防げるのだからまだ良いだろうと杏子は考えていた。
「不器用すぎるだろ。つうか優しいやつは最初から来ないんじゃねぇの」
「でも来たかったのよ……
それとも佐倉さんは神崎さんが来ていて嫌だった?」
杏子はすぐには答えなかった。
驚いたし、それなら一緒に来いよと腹も立ったし、なにか恥ずかしかった。
けれど嫌だったかと言われると違う。
神崎が上条恭介に真剣に感想を伝えている姿は妙に神崎らしかった。
そしてそれを見て上条が嬉しそうにしていたことも悪いことではなかった。
「……別に。ただ嫌じゃねぇけど変だろ」
「えーっと。まあ……変だったかもしれないけれど。
でも悪くはないわ」
「マミ。神崎に甘くなってきてねぇか」
紅茶が運ばれてきた。
透明なポットと白いカップ。
湯気がふわりと立つ。
杏子はカップを手に取り慎重に口をつけた。
熱い。
味は神崎の淹れるものよりずっと濃く香りも強い。
「……濃いな。けど美味い。神埼にも見習わせたい」
「おいしいわね。セカンドフラッシュだから匂いもなかなか良いわ」
「やかましい。お前らなんで横文字そんな好きなんだ。ここ日本だぞ」
マミは笑った。その笑いは演奏会の前よりも少しだけ軽い。
杏子はそれを見ると少し安心する。
「上条恭介さん」
マミがカップを置いて言った。
「今日いちばん目立っていたわね。
演奏のことは私はそこまで詳しくないけれど。
でもあの人が大きな努力をしてきたことはわかった」
「神崎も言ってたな。時間の厚みとか何とか」
杏子は紅茶をもう一口飲む。
「同い年くらいでさ。
あれだけできるってのはやっぱ他のこと犠牲にしてんだろうな。
……マミはさ。そういうのどう思う?」
「そうね……何かを選ぶと選べなかったものが残るのだと思う。
……上条さんは演奏を選んだ。
私たちは魔法少女として戦うことを選んだ。そんなところかしら」
「選ばされたやつもいるんだろうけどな」
マミの願いを知っている杏子は少し沈んだ声でマミをいたわるように話す。
杏子の思いやりを嬉しく思いながらもマミは力強く、ただあるがままに頷く。
「それでも今の私たちは魔法少女だから」
その声は穏やかだった。
「どうしても魔法少女であることの優先順位は高くなる。
学校や普通の友人関係よりも」
杏子は少しだけ目を伏せた。
学校の優先順位が低くなること。
神崎を心配させてしまうこと。
家族との状況。
そしてマミと夜を歩けること。
どれも魔法少女でなければなかった。
「だけどね。その分、魔法少女である者同士でしかつながれない絆もあると思うの」
マミはカップの湯気を見つめながら続けた。
杏子はマミを見る。
「絆……ね。急に綺麗な言葉使うな。はずいだろ」
マミは笑う。
少し気障な言い方をしたと自分でも思ったらしい。
「でもそう思ったの。佐倉さんと私が一緒に戦って。
夜一緒に駆けること……普通ではないけれど私たちには私たちのつながりがある」
杏子はすぐに否定しなかった。
絆。
大げさな言葉だと思う。
けれどマミと並んで魔女を倒すときの感覚はたしかに他では得られないものだった。
言葉より早く通じるもの。危険の中でしかわからないもの。
同じ秘密を持つ者同士の距離。それがあることはもう否定できない。
「……まあ。そういうのもあるかもな。
お互いに魔法少女じゃなかったら遠いから会ってなかったろうし」
マミの表情が明るくなる。
杏子は顔を憮然とさせながら頷いた。
耳が赤くなっているが。
「……そんな嬉しいかよ」
「ええ。佐倉さんと同じ気持ちでいること。嬉しくて」
「……そらようござんした」
杏子は顔を背ける。マミは笑った。
紅茶の香りがテーブルの上で揺れている。
少しだけ沈黙したあとマミが言った。
「そういえば鹿目さんのことだけれど」
杏子はカップを持つ手を止めた。
「まどか?」
「ええ。どういう経緯で知り合ったの?」
「前に少し話したろ。神崎がまどかの親父さん……鹿目さんと知り合って。
神崎がその家に行くっていうからあたしが監視でついていった。
……一人で行かせたら何言うかわかんねぇだろ?」
「……神崎さんには申し訳ないけれど。それは少しわかるわ」
「で、そこでまどかと会った……まどかはまあ」
杏子は言葉を探す。まどかをひと言で言うのはなかなか難しい。
優しいやつだし気遣いのあるやつだと思う。
ただ明らかに付き合いの悪そうな杏子や不審者一歩手前の神崎を見ても笑顔で迎え入れる姿を見た上で評価するならば。
「変なやつ」
「佐倉さんがそう言うと良い意味に聞こえるわ」
「良い意味じゃねぇしっ……いや勿論。悪い意味でもねぇけど」
マミは嬉しそうに笑った。
杏子が相変わらず不器用であることに微笑ましさを覚えたのだろう。
杏子は気まずげに紅茶を飲む。
熱さはもう少し落ち着いている。
「でも神崎さんが鹿目さんのお父様と仲良くする理由は少し不思議ね。
関わりが全くないと思うのだけれど……どうしてそんなに親しくなったのかしら」
マミの疑問は自然だったし当然の疑問だ。
神崎が知久に近づいた理由。
それは杏子には痛いほどわかっている。
父に似た穏やかさと包み込むような人柄。
神崎が見てしまった父の面影。
結果的に神崎はそれを幻想だったと考え直し、鹿目知久とは友誼を結ぶこととなったのだが。
だがその原初については言えるはずがない。
杏子はカップを置いた。
「……神崎はさ。人の話を聞くのが好きなんだよ。
鹿目さんは穏やかだし話しやすいし。
ああいう大人と話すと神崎は落ち着くんじゃねぇの。
あたしには分からないけどさ」
「それは会い続ける理由になっても、
出会った根本にはなってないと思うけれど。
……佐倉さん珍しく少し曖昧ね」
マミはの視線は追及するそれではない。
けれど何か言えないことがあるのだと気づいている目だった。
杏子は少しだけ舌打ちしたい気分になる。
マミは鋭い。優しいが鈍くはない。
「ま、いいだろ……まどかも鹿目さんも普通に暮らしてる。
そういうやつらが平穏に過ごせてるのはあたしたちが頑張ってるからだ。
それでいいだろ。細かいことはいいんだよ。平和なんだから」
杏子は少し強引に話をずらした。
マミはしばらく杏子を見ていた。それから柔らかく笑った。
「佐倉さんのそういうところ私は好きよ」
「……うるせえよ」
神崎を庇っているのがバレているのかもしれない。
厄介な先輩だ。
……まあ頼りになるけれども。
そのとき喫茶店の入口のほうで声がした。
「あ、いた」
杏子は振り向く。
まどかが立っていた。その隣には美樹さやかもいる。
まどかは少し遠慮がちに手を振った。
「杏子ちゃん……えっと巴……マミさん?
今大丈夫?良ければ一緒にお茶したいなって」
杏子は少しだけマミを見る。
マミは静かに頷いた。
「……まあ。席空いてるし」
「えへへ。ありがとう。マミさんもお邪魔します」
まどかが嬉しそうに笑う。
さやかは少しだけ緊張したように手を上げた。
「ども。美樹さやかです。まどかの親友で恭介の幼馴染」
「ああ」
杏子は短く返す。
「佐倉杏子」
「知ってる。まどかから聞いた」
「何聞いたんだよ」
「えっとぉ……怖そうだけどいい子」
「おい。まどか。こいつに何言ったんだ」
杏子がまどかを見る。
さやかがからかい半分に言ったことを理解したのだろう。
敢えてまどかを少し責めるように言ってみた。
まどかは慌てて手を振った。
「ええっ!?怖そうなんて言ってないよ!」
「……おいこら。そこの青いの」
さやかが笑った。
「ごめんごめん。でもさっきの感じだと話せそうでよかった。
よろしくね。杏子?」
「上からだな」
「うわほんとにちょっと怖い」
「もうさやかちゃん。ダメだよ?」
まどかが困ったように笑う。マミが穏やかに頭を下げた。
「巴マミよ。よろしくね?」
「美樹さやかです。マミさんって呼ばせてもらいますね!
よろしくお願いします」
「うふふ。元気な子は好きよ。よろしくね」
さやかはマミを見ると少しだけ目を輝かせた。
「さっきも思いましたけどマミさん。すごいキレイですね」
「えっと……ありがとう?と言えばいいのかしら」
マミは少し照れたように微笑む。
率直に言われることは神崎のおかげで慣れていてもやはり少し恥ずかしい。
「杏子と並ぶとすごい組み合わせですね。
なんか強そう。雰囲気が」
「どんな雰囲気だよ」
思わず笑ってしまう杏子に対してさやかも笑いながらまどかと一緒に席についた。
六人掛けのテーブル。
二人で使うにはかなり広かった。
それが四人になって少しだけ狭くなる。
さっきまで杏子とマミだけの空間だったところにまどかとさやかが入ってくる。
杏子は少しだけ落ち着かない。
でも嫌ではなかった。
「さっきの神崎さんって人。すごかったですね」
さやかがさっそく言った。
杏子が警戒する。
あの後何かやらかしたのか。
「恭介にめちゃくちゃ真面目に感想言ってくれて。
私、嬉しかった。恭介の演奏にあんなにちゃんと聞き惚れてくれる人がいるんだなって」
杏子は少し気まずそうに視線を逸らす。
あんな不器用なやつの言うことを真に受けてなにやら感慨に浸っている相手に対してどう声をかければいいのか。
杏子はわからなかった。
さやかからすると上条の演奏にとてつもない感動をしたからあんな感想を言っているように見えたのだろうが……神崎の場合はあれが平常運転である。
「……まあうん。良かったな。おめでと」
さやかは素直に頷いた。
その顔は本当に嬉しそうだった。
杏子は少しだけ胸の奥が妙な感じになる。
上条恭介が褒められたことを自分のことのように喜ぶ。
さっきロビーでも見たその表情はやはり真っ直ぐだった。
マミがにこやかに言う。
「神崎さんはとても真面目な人だから。
きっときちんと聴いたうえでの感想だったのだと思うわ」
「ですよね!私もクラシックは詳しいですけど神崎さんもかなり詳しい人ですよね」
杏子はカップを持つ手を止めた。
神崎はあまりクラシックには詳しくないとは思うがそこは特に気にしていない。
そちらよりも意外なのは。
「お前クラシック詳しいのか?」
「あ、意外?でも私恭介の演奏ずっと聴いてるから結構くわしいよ!
……で、どうだった?恭介の演奏」
まっすぐに聞かれて杏子は少し困った。
マミと目が合う。
マミも少しだけ困ったように微笑むながらも先に口を開いた。
「正直に言うと技術的なことはよくわからなかったわ。
でもとても綺麗だったと思う」
さやかは少し嬉しそうにする。
そういった文化的な趣味がありそうなマミから幼馴染の演奏を褒められて嬉しかったのだろう。
「杏子は?」
「あたしも細かいことはわかんねぇ。
ただ……他の全部捨てて努力したやつなんだろうなってのはわかった」
さやかの表情がぱっと変わった。
「そうっ!!」
勢いがすごかった。杏子は少し引く。
「お、おう」
「恭介ほんとそうなんだよっ!演奏のことになると他のこと全然見えなくなるっていうかっ!練習のためなら時間も体力も全部使うしこっちが差し入れ持って行ってもありがとうって言った次の瞬間にはもう譜面見てたり」
「そ、そうなのね」
「私がいること忘れてるんじゃないかってくらい」
笑いながら言った。
けれどその笑いにはほんの少しだけ寂しさが混じっていた。
杏子とマミは同時にそれに気づいた。
まどかも気づいているようだったが困ったように微笑んで何も言わない。
「でもそれくらいじゃなきゃあんな演奏できないんだろうなって。
だから恭介がすごいって言われるのは嬉しいんです」
「……そうかよ」
杏子は短く答える。
さやかの笑みに幼馴染に対する色だけではない何かがあることに気づいたがそれを発言していいかどうかがわからなかった。
だからただ単に頷くだけにしておいた。
「まあ幼馴染の私じゃ練習の邪魔にもなんないだろうし」
「よくわかんねえけどなんでだ?」
「だって私が横にいても全然集中切らさないし」
さやかは少し茶化すようにマミとまどか杏子を見た。
「でもマミさんとかまどかとか杏子みたいな美人がそばにいたら……
恭介もさすがに練習に集中できないかもなー」
「何言ってんだお前」
杏子が顔をしかめる。
「マミさんは言うまでもなく美人だしまどかは可愛いし」
「さやかちゃん」
まどかが赤くなる。
「自分は入れねぇのかよ」
杏子が言うとさやかは笑って肩をすくめた。
「私は幼馴染枠だから」
「何だよそれ」
「便利なようで不便な枠」
その言い方は明るかった……明るすぎるくらいだった。
マミは静かにさやかを見ている。杏子も何となくわかった。
美樹さやかは上条恭介を好きなのだろう。
たぶん。いやかなりわかりやすい。
まどかも知っている顔をしている。
マミも察している。杏子ですらわかる。
それなのにさやか本人は笑い飛ばそうとしている。
その感じが少しだけ痛かった。
「美樹さん」
声がした。全員が振り向く。
神崎が立っていた。いつの間に来たのか。
店員から相席になる可能性があるとは聞いていたが神崎とは。
杏子はなんとなく嫌な予感を覚えていた。
「何で来てんだよ神崎……おまえ。まあ良いけどさ」
「店員から他の席との都合上、相席となると伝えられた。すまない」
「いや。それは別に良いけどさ。変なこと言おうとすんなよ」
「変かどうかはわかりかねるが訂正すべき個所があった」
神崎はさやかを見る。
さやかは瞳に疑問符を浮かべている。
杏子の保護者だから同席すること自体はまあ良しとしてもいいが。
自分の発言に気にかかることでもあったのだろうか。
杏子の嫌な予感はさらに大きくなった。
「美樹さん。あなた自身もとても美しいと思います」
沈黙。
さやかが固まった。まどかも目を丸くする。
マミも少し驚いたように神崎を見る。
杏子は額を押さえた。
「……あんたさあ」
「事実を羅列しただけだ」
「やかましいっ!急なんだよ!」
さやかは耳を赤くしながらもようやく声を出した。
「え、あ、私……ですか?え、いや冗談でしょ?」
「こういった思いを伝える上で嘘は言いません。
あなたが上条さんの演奏を喜ぶ姿はとても美しかった」
さやかの顔が更に赤くなる。
杏子は更に頭を抱えた。
突然現れてかき回したうえで何をやってるんだこいつは。
「他者の努力の成果を自分のことのように喜ぶその姿はとても美しいです」
「え、ちょ……待ってくださいっ?!」
さやかは完全に狼狽している。
大人の男性に、しかも神崎のような真顔で美しいと言ってくる相手との会話に慣れていないのだろう。
「神崎!止まれ」
「着席しているから止まっているだろう」
「口を止めろ!」
「思いを伝えるためには言葉が必要で」
「黙れ!さやかが真っ赤だろ!今何言ったって伝わんねえだろ!」
さやかは両手で頬を押さえた。
先程の恭介に対する言葉と同じでただただ真っ直ぐな言葉だった。
あの時は真摯な人なんだなと思っただけだった。
でもこの真摯さを自分に向けられる……となんというか違う。
恭介が珍しく照れていた理由も今のさやかにはよくわかった。
しかも何故かわからないがこの人からの言葉はほかの人の言葉よりも「重さ」がある。
さやかは自分の感情を制御できずに顔を抑えて呻いた。
「さ、さやかちゃん、大丈夫?」
「……うぅぅぅ。いや、あの……大丈夫だけど大丈夫じゃないというか」
「美樹さん」
「はい!?」
神崎はさらに何かを言おうとした。
杏子は椅子から半分立ち上がる。
マミもこれは危ないと察したように少し身を乗り出した。
「神崎さん……今はそのくらいで」
「承知しました」
神崎はあっさり止まった。
杏子は少しだけ安堵する。
だが神崎はまだ何かを考えている顔をしていた。
その顔を杏子は見逃さなかった。
「……あんた今度は何考えてる。あっ、家でっ!家で聞くっ!」
「美樹さん。貴方の上条さんに対する思いは」
「うわああああっ!ばかっ!
ここでなにも言うなって言ってんだろ!!この大ばかっ!」
杏子はほぼ反射で叫んだ。
喫茶店内の何人かがこちらを見る。
杏子はすぐに声を落とす。
「……言うな。とにかく絶対言うな」
神崎は少しだけ首を傾げた。
神崎にとっては多少の恥ずかしさがあったとしても相手を傷つけない限りは思いは伝えるべきものだと認識していた。
だから如何に付き合いの長い杏子からのアドバイスがあっても続けてしまった。
だが杏子に続いてマミにまで言われたことで、なにやら事情があると認識した。
それでも押し付けがましいとは認識しながらも……これだけは伝えたかった。
「伝えたほうがよいこともある」
「今じゃねぇしっ、あんたが言うことじゃねぇ!」
神崎は納得したように黙った。
杏子がそこまで否定するのだから確かなのだろう。
家に帰ってから聞かせてもらおうと神崎は黙った。
さやかは真っ赤な顔のまま口をぱくぱくさせている。
「な、何の話ですかね!?
何でもない!私と恭介!幼馴染!竹馬っ!」
「さ、さやかちゃん片言になってるし意味が分からないよ……」
まどかが困ったように声をかける。
杏子は神崎を睨み続ける。
「あんた子ども同士の関係には口出ししねぇんじゃなかったのかよ」
「伝えたほうが良い時もある。
特別な思いで告げることが相手を害さない場合は」
「やめろこの馬鹿っ!」
マミが口元を押さえている。
笑ってはいけないと思っているが少し笑ってしまっていた。
二人がかりで止められたためか。
神崎は素直に。やはり真面目な形相でさやかへ頭を下げた。
「美樹さん。失礼しました。
ですが、私がお伝えしたことは事実なのでご寛容願います」
「あ、いえ、その。あはは……
美しいとかそんな、あの、言われ慣れてないんで」
「本当のことですから皆言わないのでしょう」
「っだからそれが!」
さやかはまた赤くなる。
杏子は諦観気味に神崎の袖を掴んだ。
「座れ。いいから座れ。とにかく座れ。
余計なこと言う前に紅茶でも飲んでろ」
「……わかった」
神崎は杏子の言うことをそのまま受け取り、乱暴に渡されたカップで紅茶を味わう。
結果としてテーブルはますます狭くなった。
杏子は小声で言う。
「余計な助言禁止。恋愛関係全部」
「経験上相手を害してしまうとき以外や、
言葉にしてはいけないとき以外言葉にするべきだと考えているのだが」
「禁止。絶対禁止。とにかく禁止……あとで家帰ったら聞いてやるから」
「もとからそのつもりだ。君の言うことは信頼している」
神崎は少しだけ目を伏せた。
その横顔に杏子は一瞬だけ息を止める。
神崎の経験。
父への想い。言えないままそばにいることを選んだこと。
それが今も神崎の中に残っていること。
神崎はさやかにアドバイスをしたかったのだろう。
伝えたほうがいい。言わなければ届かない。それは決して恥ずかしいことではない。
神崎自身言えないまま抱えざるを得なかったから。
それはただの余計なお世話ではない。
でも今ここで言わせるわけにはいかなかった。
さやかはまだ混乱している。まどかが小声で慰めている。
「さやかちゃん大丈夫?」
「……大丈夫。いや大丈夫じゃないかも。
こんな真正面から大人の人に美しいとか言われたの初めてかもしんない」
「……ふふっ。さやかちゃんいつもよりもすっごく可愛いよ」
「……まどかぁ!からかうなぁ!」
杏子はそのやり取りを見て少しだけ息を吐いた。
テーブルの上の紅茶は少し冷め始めている。
神崎がカップを見た。
「これはおそらくセカンドフラッシュだな」
「ぶっ!マミと同じこといってんじゃねえよ!
横文字大好きかっ!」
マミが目を輝かせながら同意し講釈をしようとする。
「神崎さんもお分かりになりますよね。
茶葉の甘みと匂いがファーストフラッシュと異なりますもの!」
「ええ。同じ産地であっても、
摘む時期でこうも違うのはやはり面白いものです」
「あああっ!やかましいっ!2人でやれ!そういうのは!
うまけりゃそれでいいだろうがっ!
あたしはケーキに合えばそれでいいんだよっ!」
杏子がうっとうしげに2人を追い払うかのように手を振るう。
残念げにマミも神崎も杏子を見てくるので、杏子は一瞬怯むが口をへの字に曲げて自身の意見を曲げない。
ようやく落ち着いたさやかがまだ少し赤い顔のまま言った。
「何か三人とも変な仲の良さですね……
いや良い意味でみんな変っていうか」
「良い意味で変って何だよ」
「何か……言いたいこと言ってるのに、
ちゃんと止めるところは止めてる感じ」
さやかの言葉に杏子は少しだけ黙った。
仲が良いと言われるのはなんだかこそばゆかったからだ。
「まあ……この馬鹿は大人のくせに止めねぇとめんどくせえからな。
何度かやりとりしてるとこうなるんだよ」
「神崎さんは少しだけ言葉が真っすぐなところがあるから」
「思いを伝えようとしているだけですが。
ご不快にならないようになるたけ気を付けましょう」
結局普段通り自分自身の思いをはっきりと伝えている神崎にマミもまどかも笑った。
さやかはまだ顔が赤いがさっきよりは落ち着いていた。
そのとき店員が近づいてきた。
「お客様。奥の席が空きましたのでもしよろしければ」
神崎は目を見開くと店員に丁寧に頭を下げた。
「では私は別席に移ろう。本来ここは君と巴さんの時間だった。
鹿目さんと美樹さんが加わったのも君が許したからだ。杏子」
神崎はそう言って立ち上がろうとした。
杏子は椅子の背にもたれながら神崎を睨んだ。
「相席だったからしゃあないとはいえさ。
散々掻き回しといて出てくのも無責任なんじゃねえの?」
店員が他に席がないので相席と言っていたのは聞いた。
だからこれは杏子の当てこすりだ。神崎は少しだけ視線を落とした。
「紅茶が美味しい店だと事前に調べたのでどうしても入店したかった。
君たちのグループと相席になってしまったのは完全に想定外だ。申し訳ない」
神崎は喫茶店の奥を見た。
たしかに店内は演奏会帰りの客で混んでいた。
「杏子。また後でな」
「あーはいはい」
神崎はまどかとさやか、マミのほうへ向き直った。
「杏子はほんとうに良い子ですが少し不器用なところがあります。
どうかよろしくお願いします」
マミは穏やかに微笑んだ。
「もちろんです。神崎さん……今度紅茶の新しいの持っていきますね」
「ばっ!?やめろマミ!これ以上茶葉臭くさせんな!!つうか保護者か!」
まどかは怒り狂う杏子を意図的に無視しながらいたずら気に頷く。
「えへへ。私も杏子ちゃんと一緒にいますよっ。
神崎さん。お父さん待ってますからまた来てくださいね」
「まどかぁ!お前まで!」
さやかは少し戸惑いつつも面白がるように手を上げた。
「えーっとまだ知り合ったばっかですけど了解です」
「お前っ!せっかくフォローしてやったのに!」
神崎はもう一度頭を下げ、店員に案内されて奥の席へ移動した。
離れた席だった。
杏子たちの席からは見えるが会話には混ざれない距離。
神崎はそこで一人改めて紅茶を注文している。
さやかは笑った。
「はあ。濃い人だった……で、杏子くぅん!
神崎さんって君とはどういう関係なんだい?」
名探偵ごっこと言わんばかりに下から舐めるようにさやかが見つめてくる。
殴りたいと杏子は思ったが質問の内容は答えづらいものだった。
神崎との関係を説明しようとするとどうしても父のことに触れる。
教会のこと。願いのこと。勘当同然のこと。神崎が父をどう思っていたか。
どこまで言っていいのか瞬時には判断できない。
杏子は紅茶のカップを持ち適当に答えた。
「近所のやばいおじさん。あたし、それの監視係」
「き、杏子ちゃん。それは流石にひどいよっ。
神崎さんすっごくいい人なのに」
「じゃあやばい兄ちゃん」
「年齢が下がっただけだよ。それじゃ……」
さやかはその会話を聞いて吹き出した。
そして杏子の様子から少し言いづらいことなのだろうと察知した。
でも……杏子も神崎さんも。すごく仲がよさそう。
ならそれを知っていれば良いか。
さやかはそう思った。
マミが少し笑いながら補足する。
「神崎さんは佐倉さんのお父様のところにいた方なの。
部下というか手伝いをしていた方というか。
だいたいそうよね佐倉さん」
「……まあな」
父の教えを聞いて教会を手伝い、菓子を作り……信者としてそこにいた。
部下と言えば違うが完全な嘘でもない。
さやかは興味深そうに杏子を見る。
「へえ。いつ頃からの付き合いなの?」
「幼稚園の頃にはもういた」
「そんな前から?じゃあかなり長いじゃん」
まどかが少し嬉しそうに言った。
「杏子ちゃんと神崎さんって幼馴染みたいなものなんだね」
「幼馴染ではねぇだろ。年も違うし。まあ付き合いだけは長いけどさ」
杏子は苦笑する。神崎と幼馴染というのはかなり嫌だ。
そもそも幼馴染というキャラではないと杏子は思った。
「んーでもまあ小さいころから付き合ってたら幼馴染でいいんじゃない?
私と恭介も小さい頃からの付き合いだし」
さやかが少し所在なさげに言うのをマミが見た。
先ほどの件で上条恭介の話題を出すのに気遅れしているのだろう。
「美樹さんも上条さんとは幼い頃から?」
「そうですね。小さい頃から知ってます。
でも良いことばっかじゃないですよ。お互いの黒歴史も知ってるしね」
さやかは少し肩をすくめた。
杏子が少しだけ興味を持った顔になる。
「お前にも黒歴史とかあんのか」
「あるよ!人に言えない恥ずかしいことくらい誰にだってあるでしょ」
「どんな?面白そうだから聞かせろよ」
「言うわけないじゃん!ぜーったい言わないしっ」
さやかはカップを持ちながら即答した。
香りを一通り楽しむと話し出す。
「黒歴史って自分では思い出したくもないことがなるものなんだよ。
それを相手が覚えてるから怖いわけ。
恭介も普段は紳士ぶってるけど昔の私の変な失敗とか覚えてるかもしれないし」
さやかは言葉とは裏腹に懐かしい思い出を楽しむように笑った。
それから同意を求めるように杏子を見る。
「神崎さんは杏子より年上でしょ?
だったら杏子凄いお世話になったんじゃない?
……小さい頃の黒歴史全部見られてるんじゃない?」
杏子は一瞬黙った。
幼い頃。神崎に冷たく当たっていたこと。
勉強を見てもらってできたときに少し嬉しかったこと。
運動会で来てくれたことをあとから何度も思い出したこと。
父を取られるのではないかと勝手に不機嫌になっていたこと。
黒歴史と言えば……まあかなりある。
けれど杏子は鼻で笑った。
「神崎は黒歴史だらけだから逆に問題なし。
あいつの前ならあたしの黒歴史なんかノーカンだよ」
「言い切ったなぁ!じゃあお二人の黒歴史おしえてよっ!」
「あたしはともかくあいつのは言えねぇやつが多すぎるからノーコメント」
「佐倉さんは神崎さんのことをいつも守っているものね」
「違ぇよ。神崎がやらかす被害を広げないようにしてるだけ」
「でも神崎さんはすごく良い人だよ。うちのお父さんとも仲良くしてくれるし」
「まどかは人を良く見すぎ。
ていうか杏子とか絶対やばい黒歴史持ってるんじゃないの?
神崎さんは絶対に黙ってるだろうけど」
さやかは奥の席の神崎を見た。
紅茶を飲みながらメモ帳になにやら記載をしていた。
おそらく茶葉をどの程度蒸らしたらどのくらいの味になるかを忘れないように記帳しているのだろう。
「でもちょっと変わってるけどさ。
杏子みたいな子でも懐いちゃっててあんなにイケメンなのに、
黒歴史だらけっていうのも想像つかないなあ」
「懐いてねえよ。ペットかなんかかあたしは。
つうか顔で判断すんな」
「いやでも整ってるじゃん。普通に」
「……顔つきが不気味に整ってるのはまあ認めるけどさ。
けど他で帳消しだよ」
「他の何でそんなに帳消しなのさ。いい人じゃん」
「言葉が重い。行動が変。紅茶の感想が長い。クッキーが焦げる。
勝手に演奏会に来る。人前で美しいとか言う」
「ぐ、具体的すぎる。すいません神崎さん。フォローできないです。
……で、でも最後のやつはちょっと嬉しかったけど?」
さやかは少し照れたように湯気のなくなってきたカップを見ながらぼそりとつぶやいた。
「……あんな真顔で言われたら悪い気はしないというか。
良くも悪くもすごく言葉の重い人だなって思ったかな。正直」
杏子は目を細めた。
まどかがくすっと笑う。
「たしかに神崎さんの言葉。重く感じるときがあるよね。
でも相手の心を思って言ってくれてると思うよ」
「少し不器用で言葉が重いけれど。
……きちんと人を見ようとしている人だと思うわ」
マミも同調する。
杏子は紅茶を飲んだ。
もうかなり冷めていた。
味はまだ神崎の淹れるものよりしっかりしている。
「……悪いやつじゃねぇよ」
杏子は思わず出てしまったかのように。溜息のように言葉が出ていた。
するりと出た杏子の本音に、まどかもマミもさやかも顔を見合わせてにやにやと笑った。
「何だよ……お前ら」
「杏子ちゃんらしいなって」
「佐倉さんらしいわ」
「杏子。ツンデレはちょっと古いぞぉ。時代は……なんだろね」
「ホントに何だよお前ら……」
その後もしばらく四人は話をした。
演奏会や上条恭介のこと。
そして、紅茶のこと。
神崎がどれくらい変なのかという妙に盛り上がる話題。
杏子は時々うんざりした顔をしマミはにこやかに補足し、まどかは柔らかく笑い、さやかはよく喋った。
そんな話をしているうちに喫茶店の客は少しずつ減っていった。
演奏会の余韻も少しずつ薄れていく。
ロビーのざわめきも遠くなり窓の外の光も少しだけ傾き始めていた。
「そろそろ出ようか」
まどかが言った。
「そうだね。恭介もたぶんそろそろ帰る準備してるだろうし」
さやかも頷く。
杏子はカップを置いた。
「マミどうする?」
「私達もそろそろ行きましょうか」
「じゃあ行くか」
四人は席を立った。
レジへ向かうと店員が少し困ったように微笑んだ。
「お会計は先ほど別のお客様がお済ませになりました」
杏子は固まった。
「奥のお席にいらした男性のお客様が」
マミがすぐに神崎の席を見る。
そこにはもう神崎はいなかった。
プログラムもカップも片づけられている。
いつの間にか消えていた。
杏子の携帯が震えた。
画面を見ると神崎からだった。
『邪魔をして申し訳なかったのでお詫びとして支払っておいた。
友人とゆっくり帰りなさい』
杏子は無言になった。まどかが覗き込む。
「神崎さん?」
「……あいつ親かよ。ほんとに」
杏子は画面を見せた。
マミ、まどか、さやかが同時にそれを読む。
さやかが最初に笑った。
「変わってるけどやっぱいい人じゃん」
「神崎さんらしいわ」
「お詫びの仕方が丁寧だね」
さやかは納得した風に深々と頷く。
マミは年上の友人に対する目線で柔らかく微笑む。
まどかは父より年下で自分よりも上の人がいないからか、どこか物珍しそうにしていた。
杏子は何も言えなかった。
勝手に来たうえに。
勝手に感想を言ってから、おせっかいしかけて。
自分で席を移ってから何故か支払いを済ませている。
腹立たしい。とても腹立たしい。
けれど完全には怒れない。
神崎が邪魔をしたと思っていたことも。
それをきちんと詫びようとしたことも。
自分たちの時間を大切にしようとしていたことも。
全部わかってしまうから。
「……余計なことしやがって」
杏子の小さな声はあまり強くなかった。
にやにやしているさやかをはたこうとすると悲鳴を上げながら逃げて行った。
まどかはそれを見て朗らかに笑う。
マミは笑いながら杏子のとるべき行動を促す。
杏子は携帯を握りしめた。
返信を打とうとして止まる。
何と返せばいいのか。
礼を言うのは癪だ。
怒るのも少し違う。
余計なことをするなと送ればたぶん神崎は謝る。
それも面倒だ。
結局、杏子は短く打った。
『今日は野菜はなしで。肉食べたい』
送信。すぐに既読がついた。
返事は少し遅れて来た。
『肉も増やそう。だが君の健康のためにも野菜も取りなさい』
杏子は画面を見てまた黙った。
そういうところだぞ。
「佐倉さん。ちゃんとお礼言わないとだめよ。私も、もちろんいうけれども」
「……ああ。帰ったら言うよ」
杏子は少しだけ視線を逸らす。
マミは何も言わずにただ柔らかく微笑んだ。
さやかが伸びをしながら楽しそうに嬉々として話す。
「いやー今日は濃かった。
演奏会もだけど、なんか今日はほんとに濃かったわぁ」
まどかとマミがさやかの物言いに顔を見合わせて笑う。
「でも楽しかったですよねマミさん」
「そうね。演奏会の後のほうが濃かったかもしれないけど」
楽しかった。
そう言うのは簡単で難しい。
演奏会はよくわからなかったし、神崎は面倒だった。
さやかは騒がしかったし、まどかは相変わらず柔らかい。
マミは隣でよく笑っていた。
それを楽しかったと呼んでいいのかまだわからない。
……でも悪くはなかった。
「……まあ。退屈はしなかったな」
まどかは嬉しそうに笑い、さやかは目を輝かせながら横から言う。
「じゃあまたどっか一緒に行こうよ!
演奏会じゃなくてもさ。まどかもマミさんも是非っ!」
杏子は少しだけ驚いた。
マミとの「退屈な日常ごっこ」がいつの間にかさらに広がろうとしている。
はじめは自分がマミの「日常」を自分のほうに寄せようとしていただけなのに自分自身の日常まで増やされようとしていた。
「急に話広げんな」
「いいじゃん。いいじゃん。変な仲良しグループってことで!
ね、まどか!」
「うん。杏子ちゃんは学区が違うから少し遠いけどまた集まろう?」
マミは静かに杏子を見る。
日常を嫌がっているようには見えない。
ただ、その日常に杏子が入っていないのは多分……マミは嫌だろう。
答えは決まり切っているが……杏子は顔を背けた。
「……気が向いたらな」
まどかが嬉しそうに笑い、さやかも笑う。
「よし脈あり。杏子は王道ツンデレキャラだね。
ま、さやかちゃんのウルトラテクですぐに落としちゃったけどね」
さやかが言い終わるかどうかのタイミングで杏子はパンフレットでさやかの頭を軽くはたいた。
まどかもマミもそれを見て笑った。
音はもう止んで。
紅茶も飲み終えた。
それでも別の何かがまだ続いている。
たぶんそれは帰ってからも続く。
神崎への説教として。
まどかやさやかとの次のくだらない予定として。
杏子はそのことを少しだけ面倒に思った。
そして少しだけ。
本当に少しだけ悪くないとも思った。
「……帰るか」
杏子が言う。
「ええ」
マミが頷く。
まどかとさやかも振り返る。
ロビーの外には夕方の光が差していた。
演奏会の熱が残る建物から出ると外の空気は思ったより冷たかった。
杏子はポケットに手を突っ込み神崎への説教の内容を考えようとした。
けれど最初に浮かんだのは怒る言葉ではなかった。
紅茶濃かったぞ。
そんなどうでもいい報告だった。
それが少し悔しくて杏子は誰にも見えないように小さく顔をしかめた。