演奏会から数日後。
杏子は教室の席で一枚の通知を見つめていた。
学校の連絡アプリに届いた通知だった。
授業参観のお知らせ。
画面の文字は妙に無機質だった。
日時と対象学年。
参観可能な授業に保護者の受付方法と注意事項。
どれもごく普通の学校の連絡だった。
普通すぎて杏子は少しだけ笑った。
「……無理だろ」
小さく呟く。
父に伝えることはできない。
そんなことは考えるまでもなかった。
父が来る姿を想像しようとして途中でやめる。
教室の後ろに立つ父。
説法のときとは違う場所で自分の授業を見ている父。
その目が自分をどう見るのか。
考えたくなかった。
母や妹のことも一瞬だけ頭をよぎった。
けれどすぐに消した。
もうそういう家族の行事に自分が普通に参加できる場所にはいない。
そう思ったほうが楽だった。
杏子は画面を指で操作した。
通知を開いて、もう一度日付を確認してから削除した。
アプリの一覧から参観日のお知らせが消える。
それだけのことだった。
何も起きないし、誰も気づかない。
杏子はスマホを机の中にしまい窓の外を見た。
校庭では他クラスが体育の準備をしていた。
ボールが転がり誰かが笑う。
日常。
神崎が大事にしろと言ったもの。
その中に授業参観というものも含まれるのだろうか。
杏子は少しだけ眉をひそめた。
神崎には言わない。
言えば来る。
たぶん来る……絶対来る。
そしてやたら真面目な顔で後ろに立つ。
授業を見て何かを頷く。
終わったあと余計な感想を言う。
想像しただけで顔が熱くなる。
「……絶対言わねぇ」
杏子は小さく言って机に頬杖をついた。
その日の授業は少しだけ長く感じた。
*
隠し通せたと思っていた。
少なくとも杏子はそう思っていた。
けれど数日後の夜。
神崎は夕食のあといつものように食器を片づけながら何でもない顔で言った。
「杏子。学校の連絡アプリに出ていた授業参観だが私が行くことにする」
杏子は箸を落としかけた。
「な、なんで見てんだよ!保護者じゃねぇだろ!見んなよそういうの!」
「重要な連絡があるかもしれないからな。それに授業参観は重要だ」
「重要じゃねぇっ!」
神崎は食器を伏せて手を拭いた。
それから杏子のほうへ向き直る。
「行く」
「来んな!絶対来んな!」
即答だった。
「学校での君をきちんと確認したい」
その言い方はいつものように真面目だった。
杏子は少しだけ言葉に詰まる。
神崎もまた少し困った顔をした。
「私は君の学校での姿をほとんど知らない。
だが君が日常を過ごしている場所だ」
「……だから何だよ」
杏子は不貞腐れたように続きを促すと神崎は頷いて続けた。
「私は君に日常を大事にしてほしいと言った。
ならばその日常を私がまったく知らないままでいるのは違うと思った」
魔法少女以外での日常を神崎は気にしている。
それに対しては杏子も口では絶対に言わないが、なるたけ神崎の言うとおりにしてあげたいと考えていた。
だが。
「あのな神崎。あたしくらいの年ならさ。
自分の保護者が学校に来るの嫌がるのが普通なんだよ」
「それは認識できている」
「わ、わかってんなら来んなよ!」
「大人のすることを嫌がるのは子どもの特権であり義務だと思う」
「義務!?いや、嫌がることはやるなよっ!」
「しかし行く」
「会話になってねぇ!」
神崎は真面目な顔で頷いた。
「規定事項だ。受付方法は確認した。服装も学校にふさわしいものを」
「勝手に決めんな!確認すんな!来る前提で話すな!」
「杏子」
神崎の声が少しだけ低くなる。
怒っているわけではない。
だがふざけていない声だった。
「許してほしい」
杏子は言葉を失った。神崎は頭を下げなかった。
ただまっすぐ杏子を見ていた。
「君が嫌がるのはわかる。恥ずかしいのも迷惑なのもわかる」
「……わかってんなら」
「それでも見たいのだ。君がどんな顔で授業を受けているのか。
どんな日常に立っているのか」
神崎は静かに言う。
杏子は神崎の言葉の重みで声を出せなかった。
「私は知っておきたい」
杏子は視線を逸らした。
腹が立つ……すごく腹が立つ。
勝手に連絡を見て勝手に来ると決めて。
嫌がることも義務だとか意味のわからないことを言って。
でもその奥にあるものが見えてしまう。
心配。確認。帰る場所を作ろうとする重い優しさ。
それが見えるから強く押し返しきれない。
「……変なことすんなよ」
杏子は小さく言った。
神崎の目が少しだけ動く。
「行っていいのか」
「来んなって言っても来るんだろ」
杏子は顔を背けた。
「授業終わった後に先生に話しかけるな。絶対だぞ。
破ったらしばらく口聞かねえからな」
「必要がなければ」
「必要ないから絶対に話しかけるな。
あとクラスメートに余計なこと言うなよっ」
「努力する」
「ばかっ!成功しろよ!」
「成功したい」
「絶対に成功しろっつうの!」
神崎は少しだけ口元を緩めた。
「杏子。ありがとう」
杏子は自分の皿を乱暴に流しへ運んだ。
顔が熱い。
授業参観に神崎が来る。
父や母でもなく……神崎が。
その事実がどうしようもなく恥ずかしくて。
少しだけ嬉しい。
そう思ってしまった自分がさらに恥ずかしかった。
*
当日。
杏子は朝から落ち着かなかった。
学校に着いてからも普段より何度も時計を見てしまう。
授業参観は午後の授業だった。
だから午前中は普通に過ごせばいい。
そう思っても頭のどこかで神崎のことを考えてしまう。
本当に来るのか。どんな格好で来るのか。
また変に真面目な顔をしているのか。
教室の友人たちは参観の話で少し浮ついていた。
「今日お母さん来るんだよね」
「うちは来ないって言ってたけどたぶん来る。
嫌だなぁ。苦手な教科の時間だし」
「佐倉さんちは?」
不意に聞かれて杏子は顔を上げた。
話しかけてきたのは同じクラスの女子だった。
何故か良く話しかけてくる。
仲が悪いわけではないが何故頻繁に話しかけてくるのか杏子にはよくわからなかった。
「……来るかもな」
杏子は曖昧に答えた。
「お母さん?お父さん?」
「違う……保護者みたいなやつ」
言ってから自分で嫌な顔をした。
女子は少しだけ首を傾げたがそれ以上は聞かなかった。
「そっか。見られるのちょっと緊張するよね。
佐倉さん授業中は当てられた時、
結構ちゃんとしてるから大丈夫そうだけど」
「……まあな。つーか当てられた時だけは……ってどういう意味だよ」
「だって授業中けっこう寝てるときあるんだもん。
けど当てられたら意外と解けるよね。凄いと思う」
女子は笑った。
杏子も少しだけ口元を動かした。
こういう会話は嫌いではない。
嫌いではないがうまく続かない。
自分の中には……いつでも魔女のことや夜の戦いが挟まっている。
それを隠しながら普通に笑うのは少し疲れる。
だから杏子はいつも一線を引く。
踏み込みすぎない。踏み込ませない。
そのほうが楽だった。
午後の授業が始まる少し前。
教室の後ろの扉が開き始めた。
保護者たちが少しずつ入ってくる。
杏子は見ないようにしようとした。
見ないようにして……好奇心に負けて結局見た。
神崎がいた。
教室の後ろ。
黒っぽいフォーマルな上着を着て静かに立っている。
髪は整えられていて鞄を片手に持っている。
他の保護者たちに混ざっているのにどこか浮いて見える。
年齢のせいだろうか。けれど変ではなかった。
きちんとした大人としてそこに立っていた。
杏子の胸が妙にざわついた。
本当に来た。
来やがった。
そう思うと同時に。
来てくれている。
そう思ってしまった。
神崎は杏子と目が合うと小さく頷いた。
それだけだった。
手を振るでもなく何か口の形で言うでもなく。
ただ頷く。
杏子は慌てて前を向いた。
顔が熱い。
隣の席の生徒が少しだけこちらを見る。
「ねえねえ佐倉さん。あの人?……かっこいいね」
「やかましい。授業始まるぞ」
杏子は小声で言った。
授業が始まった。
その日の授業は数学だった。
最悪だと杏子は思った。
神崎に教わっている科目だったからだ。
先生が黒板に問題を書く。
少し難しめの応用問題。
参観日だからか普段より見栄えのする問題を選んだのかもしれない。
杏子はノートに写しながら後ろの視線を意識しないようにした。
けれど神崎が見ている。
きっと見ている。
いつものように表情を変えずに。先生が杏子を指した。
「佐倉さん。この途中式続けてもらえる?」
杏子は一瞬だけ目を細めた。
なぜ今日に限って。
だがわからない問題ではなかった。
神崎が何度も似たような問題を出してきた。
どこでつまずくか確認し式の意味を説明し途中を飛ばすなとしつこく言ってきた。
杏子は立ち上がり黒板へ向かった。
チョークを持って式を書く。
途中で一度だけ止まりかけたが思い出す。
神崎の声。
『そこは結果だけを見ると間違える。何を置き換えたかを見る』
うるせぇと心の中で言いながら杏子は式を進めた。
答えを書くと満足したように先生が頷く。
「はい正解です。途中式もきれいですね」
教室に少しだけ感心した空気が流れた。
杏子は席に戻る。
後ろは見なかった。
見なくても神崎が頷いているような気がした。
それが恥ずかしくて……でも少しだけ嬉しかった。
授業中、神崎は何も言わなかった。
当然だが何も問題を起こさなかった。
保護者として後ろに立ち、杏子の授業を黙って見ていた。
チャイムが鳴り授業が終わる。
先生が軽く挨拶をして、保護者たちが少しずつ動き出す。
神崎は杏子のほうを一度だけ見た。
静かに頷き、教室を出ていった。
杏子はようやく息を吐いた。
何も起きなかった。
本当に何も起こさずに帰った。
それだけでなぜかものすごく疲れた。
「佐倉さん」
さっきの女子が近づいてくる。
「さっきの佐倉さんが言ってた保護者みたいな人?
すごくかっこいいねっ。
見た目すごく若いのにどっしりした雰囲気だったし……
なんか大学とかの教授みたい。雰囲気がすごかったもん」
杏子は少しだけ顔をしかめた。
「だいたい当たってる。大学で教えてる……すごくはねぇけど」
女子は感嘆の声をあげ、楽しそうに笑った。
「佐倉さん、今日このあと暇?」
「……悪い。用事ある」
「そっか」
その子は少しだけ残念そうにした。
杏子は鞄に荷物を詰める。
クラスメートとの付き合いが悪いことは自分でもわかっている。
誘われても断ることが多い。
放課後は神崎の家に帰り、魔女の気配をマミと会ってから探すことばかり。
普通に遊ぶ時間をあまり作ってこなかった。
それでもクラスの中で完全に孤立しているわけではない。
仲が悪いわけではない。
ただ自分からどこか一線を引いている。
杏子は鞄を肩にかけた。
「じゃあな」
「うんまた」
教室を出る。神崎はもう帰ったはずだ。
そう思っていた。
*
校門の前に神崎は立っていた。
杏子は足を止めた。
神崎は杏子に気づきこちらへ向き直る。
「終わったか。待っていたぞ」
「何でいるんだよ!帰ったんじゃねぇのかよ」
杏子は思わず声を上げた。
周囲の生徒がちらりと見る。
杏子は声を抑えた。
「君が嫌がると思ったから教室は出たぞ」
「いやっ!そこまで気遣いできるなら帰れよ!」
神崎は少しだけ目を伏せそれから言った。
「授業でなかなか難しい問題を解いていた。
あの問題は少し考えなければ詰まる。君はすらすら解けていた」
「……だ、だから何だよ」
「だからそれを祝して何か食べて帰ろうと思った」
杏子は黙った。心臓が変な音を立てた気がした。
褒められた。
それだけのことだった。
授業中に問題を解けたことを神崎が見ていて。
それを褒めて。何か食べようと言っている。
子どもみたいだ。いや子ども扱いだ。
そんなふうに思うべきなのに。
嬉しい。
杏子はその感情をすぐに押し込めた。
「……ここ校門前なんだけど。見られるだろ」
「見られる場所ではあるが、他に待ち合わせる場所が思いつかなかった。
教室前よりはいいと思ったのだが」
「冷静に言うな!ばかっ!早く行くぞ!」
杏子は神崎の袖を掴みかけて慌てて手を引っ込めた。
しかし遅かった。
「佐倉さん!」
後ろから声がした。さっきの女子だった。
杏子は固まる。神崎も振り向く。
女子は少し息を弾ませながら近づいてきた。
「あ、やっぱり。さっきの人」
杏子はどうしようもないことを悟った。
ある程度は紹介せざるを得まい。
神崎は自分の隣にいるのだから。
「……保護者」
杏子はぶっきらぼうに言った。
「みたいなやつ」
女子はぱっと顔を明るくした。
「こんにちは。佐倉さんのクラスメートの……遠野です」
神崎は丁寧に頭を下げる。
「遠野さん。杏子がいつもお世話になっています」
「やめろよっ!何言ってんだよ!お世話って!」
杏子が叫ぶ。
遠野は少し驚いたあと笑った。
「ええと……いえ、こちらこそ?」
杏子は居心地が悪くてたまらない。
普段クラスメート……遠野との付き合いは悪い。
それを神崎に見られている。
しかも神崎は今、保護者の顔をしている。
最悪だった。
神崎は遠野を見てそれから杏子を見る。
何かを察したようだった。その表情が少しだけ変わる。
杏子は嫌な予感がした。
「杏子は」
神崎が口を開く。
「普段私の仕事を手伝うことがあり、
あまりクラスメートと遊ぶ時間を取れないことがあります」
「ちょっと待てっ」
「私の都合で迷惑をかけている部分もあります」
「待てって言ってんだろうがっ!」
「ですが杏子はとても良い子なので」
「ばかっ!神崎!やめろっ!」
「よければ遊んであげてください」
沈黙。杏子は顔が熱くなるのを感じた。
遠野は目を丸くしていた。それから少し嬉しそうに笑った。
「えへへ。はいっ」
「返事すんな!」
杏子が叫ぶ。神崎は真面目な顔のままだ。
「お前に言われなくても自分でいつ遊ぶかどうかくらい決める!」
「私の仕事が忙しいために杏子には迷惑をかけています。
たまには羽を伸ばしてほしいと思っていますので。
その際はよろしくお願いします」
その言葉に杏子は少しだけ黙った。
神崎は不器用に嘘をついている。
杏子がクラスメートである遠野と遊ばない理由を神崎の仕事の手伝いにしている。
つまり自分のせいにしている。
本当は違う。
魔法少女として夜を駆けて、だからこそ杏子が引いている一線。
それらを説明できないから神崎は自分が悪いように言っている。
腹立たしい。
でもそれが思いやりなのだとわかってしまう。
杏子はしばらく黙り込んだ。
それからクラスメートの遠野を見る。
「……悪いな。あんまり付き合えなくて。今日はこのまま帰るけど」
遠野が目を瞬かせる。
杏子は視線を逸らした。
「……また気が向いたら」
言葉が続かない。遠野は嬉しそうに頷いた。
「うんっ!待ってる。ううんっ!誘う!えへへ。佐倉さんと近づけたっ」
「いや……あたしも適当に声かけるから……」
神崎は丁寧に頭を下げた。
遠野は手を振って校舎のほうへ戻っていく。
杏子はその背中をしばらく見ていた。
小さく息を吐く。
「……余計なことしやがって」
「迷惑だったかもしれないが、私が伝えるべきだと感じた言葉だ」
「だったかもじゃねぇよ……まったく」
神崎は少しだけ黙った。
校門の外に夕方の光が落ちている。
「杏子。君にとっての日常に彩りがあってほしい」
杏子は神崎を見た。
演奏会の日とは違う学校帰りの光だった。
「……また重いこと言う。あんたほんとに重いやつだよ」
神崎は静かに頷く。
「君が学校で誰かと話すこと。
誘われること。嫌なら断ること。気が向いたら行くこと。
そういうものが君の日常にあってほしい。それは私の単なるわがままだ」
杏子はすぐには答えなかった。
怒りたい。恥ずかしい。余計なお世話だと言いたい。
でも。
普段杏子自身が少し避けていたクラスメートの遠野が嬉しそうに頷いた顔が残っている。
神崎が自分の仕事のせいにした声が残っている。
数学の問題を褒められたこともまだ胸の奥に残っている。
言葉が出ない。しばらく黙り込む。
神崎は待っていた。いつものように。
杏子はようやく口を開いた。
「……どうせ良い雰囲気の喫茶店調べてきたんだろ」
神崎は少しだけ目を開いた。
嘘ではない目論見がばれたのが意外だったらしい。
ややぎくしゃくとしたように鞄から一枚の紙を出した。
「参観後に寄るつもりだった。
紅茶に合うスコーンがメインのカフェ。徒歩十二分」
「細かすぎだろ」
杏子は紙を奪うように受け取った。
小さな地図。店名。営業時間。おすすめのスコーン。
神崎らしい無駄に整ったメモだった。
「……今日はそこでたらふく食うぞ」
杏子は言った。神崎が少しだけ目を細める。
「夕食に差しさわりのない程度にだ」
「あたし頑張ったのに……祝ってくれないのか?」
「祝うに決まっているだろう」
「なら……お祝いなんだから祝われる側の気持ちに沿うのがいいんじゃねえの?」
「……なるほどな」
杏子は歩き出した。神崎が隣に並ぶ。
校門を離れていく。
後ろから部活の声や友人同士の笑い声が聞こえた。
また誘うと言ったクラスメート……遠野の顔が浮かぶ。
気が向いたら。
そのくらいならいつか返せるかもしれない。神崎は隣で静かに歩いている。
「つうかクラスメートの前で子ども扱いして、いい子とか言うな」
「君を対等に扱うことと君自身を子どもとして扱うことは、
並列できる事実だ」
「……ばーか」
カフェは学校から少し離れた通りにあるらしい。
くだらない予定。
帰る途中に挟まる小さな寄り道。
そういうものが少しずつ増えていく。
今日は少なくともスコーンを食べる。
たらふく。それだけは決まった。
「神崎。紅茶の感想長くすんなよ。マミがいないから多少はましだろうけど」
「努力する」
「成功しろ」
「成功したい」
「したいじゃねぇ。しろ」
「……君との会話次第だな」
神崎は静かに言った。
杏子は少しだけ口元を緩めた。
その顔は夕方の道でたぶん誰にも見られていなかった。