美樹さやかはショーケースの前で腕を組んでいた。
ショーケースの中は思ったより種類が多かった。
苺のショートケーキ。チョコレートのケーキ。
チーズケーキ。季節の果物を使ったタルト。
小さな焼き菓子の詰め合わせ。
どれもきれいで、どれも恭介に合うような合わないような気がした。
「うーん」
さやかは唸る。
上条恭介は甘いものが嫌いではない。
けれどそもそも食べ物に夢中になるタイプでもない。
練習中に差し入れを持っていけばありがとうと言う。
きちんと礼は言う。少し食べる。
そして次の瞬間には譜面を見ている。
それが上条恭介だった。
さやかはその姿を思い浮かべて苦笑する。
幼馴染が来てるのに譜面ばっかり……
腹が立つし正直寂しい。
でもそういうところが恭介らしいとも思う。
「やっぱり小分けで食べやすいやつかな」
焼き菓子にしようか。
そんなことを考えていると店の扉が開いた。
小さなベルが鳴る。
さやかは何気なく振り向いた。
そして固まった。
黒っぽい上着に少し硬い姿勢。片手には紙袋。
もう片方の手にはメモらしきもの。
神崎だった。
前に演奏会で会ったときと同じように落ち着いた透明な眼の色と大人らしい雰囲気をしている。
その顔を見た瞬間さやかの頭の中にあの言葉が蘇った。
『あなた自身も美しいと思います』
さやかは一瞬で顔が熱くなった。
何で思い出すのか。
いや思い出すに決まっている。
大人の男の人にしかも真顔であんなことを言われたことなどなかった。
可愛いならある。
元気だねもある。
明るいねなら代名詞といってもいい。
さやかちゃんらしいね……がそれらの総称だ。
でも……美しい。
それは自分には似合わない言葉だと思っていた。
神崎はこちらに気づいた。
少しだけ目を開きそれから丁寧に頭を下げる。
「美樹さん。こんにちは。ご無沙汰しております」
「は、はい。こ、こんにちは?」
さやかは変な声を出した。
不審に思われるかと思ったが神崎はいつも通りだった。
「偶然ですね」
「そ、そうですね?」
会話が硬い。硬すぎる。
さやかは内心で頭を抱えた。
普段ならもっと軽く返せる。
たとえばこんなところで会うなんて奇遇ですねと笑いながら。
神崎さんも甘いもの買うんですか?杏子の命令ですか?とからかえる。
それなのに言葉がうまく出てこない。
神崎はさやかに対しても大人に向けるのと同じように礼儀正しく接している。
それがさやかにとってはすごい違和感だった。
さやかに対してそんなふうにかしこまる人間はあまりいない。
さやかはいつも気安い。
明るくて、軽くて。賑やかで。
多少雑に扱っても笑って返す。
けどやるときはやる……なんて言ってしまったら自惚れかもしれないが。
とにかく自分でもそういう役回りだと思っている。
平時において誰かが真剣に向き合うようなタイプではないし、改まった態度を取るようなのは嫌いだと思っていた。
だから神崎の真剣な丁寧さが落ち着かなかった。
……落ち着かないのに逃げたくなかった。
「美樹さんは上条さんへの差し入れですか」
「えっ……何でわかったんですか」
「前回の演奏会であなたが上条さんの演奏をとても喜んでいたので。
……人の努力を自分のことのように喜び、素直に応援する。
やはり美樹さんは優しい方です」
「ま、またそういう!」
さやかはまた変な声を出してしまう。
しかし、それを聞いても神崎は気にせずに納得したかのように頷いた。
……やりづらい。
さやかは顔を背けた。
「神崎さんってほんと真面目にそういうこと言いますよね」
「思いは言葉にするべきですから。
貴方にとってはよくない思いでしたでしょうか」
「……悪くはないんですけど」
さやかは言葉に詰まる。
嬉しくないわけではない。
でも真正面から言われると困る。
どう返せばいいのかわからない。
「慣れてないだけです……そういうふうにちゃんと扱われるの」
言ってからしまったと思った。
ちゃんと扱われる。
何だそれは。
まるで普段ちゃんと扱われていないみたいだ。
実際そういうわけではない。
まどかは優しいし、この前に改めて一緒に遊んだ杏子やマミだってすごくいい人達だ。
周りの人だってさやかを好いてくれている。
ただ、さやか自身が軽く振る舞うから相手も軽く返す。
……特に恭介は。
本当に単なる友人のように振る舞う。
さやか自身は女の子なのに。
神崎は少しだけ黙った。
その沈黙に責める響きはない。
ただ言葉を受け取っている沈黙だった。
さやかはショーケースへ視線を戻す。
「神崎さんは何買いに来たんですか」
「杏子への土産です。
授業参観のあとに杏子とここに来まして。
杏子が気に入ったのでまた買いに来ました」
「え……授業参観?杏子のに行ったんですか。
……聞いてないけど杏子は嫌がりそうですね」
「ええ。非常に嫌がりました。
恥ずかしいから言っていないのでしょう。
貴方達に愚痴を言うと思うので、その際はよろしくお願いします」
さやかは思わず笑った。
その光景が目に浮かぶ。
杏子が怒り、神崎が真面目に返す。
それでも神崎は行く。
杏子は結局怒りながら許す。
内心はどうなのかわからないけれども。
表面上はこの二人ならそうなるだろう。
「でも……何かいいですね」
さやかは言った。
何がいいのか自分でもうまく説明できない。
けれど授業参観に来る人がいる。
それを表面上は嫌がってそれでも来てもらえる。
そういう関係が少しだけ羨ましかった。
神崎はさやかのどこか諦観した瞳を黙って見つめた。
「美樹さん。もしお時間があれば少しお茶に付き合っていただけませんか」
そんな発言をした。
言葉を選んで発言したようだったが、それでもさやかは固まった。
「……え?」
「急で申し訳ありませんが」
「いや急っていうか」
さやかは目を瞬かせる。
普通なら軽く返せるはずだった。
何度か遊んだことのある杏子の保護者だ。
別に不安はない。
いいですよと笑う。
無理ならまた今度でと返す。
それだけだ。
でも今は軽くなかった。
この人に自分が真剣に言葉にしようとしたものを拒絶されるのが怖かった。
そう気づいてさやかは少しだけ息を止めた。
神崎はそんなさやかの様子を見ていた。
それからさやかが断りやすいように付け加える。
「無理にとは言いません。ご都合もあるでしょうから」
「あ、いえ……大丈夫です。お土産選んでただけなので」
さやかは慌てて首を振りながらも調子を取り戻すように笑った。
「もしかしてデートのお誘いのつもりですかぁ?」
冗談のつもりだった。
言えば神崎は否定すると思った。
違います。相談です。
またはそういう意味ではありませんと、真面目に訂正すると思った。
神崎は頷いた。
「そのとおりです。ですからここの支払いは気にしないでください」
さやかはまた固まった。
神崎と話していると固まってばかりな気がする。
神崎はそんなさやかを見て首を傾げる。
「言葉の意味として異性と時間を決めて会い、喫茶店等で紅茶を飲むなら」
「い、いやっ。そういう辞書的な話じゃなくて」
さやかは頭を抱えた。
この人本当に危ないのではないか。
いや危ないというか。言葉の使い方が危険物だ。
杏子が言っていた通りだ。
神崎はさやかの様子を見て考えたあと納得したように言った。
「杏子には内緒にしてください。
杏子の友人と2人で勝手に話したとしたら怒ると思うので」
「そりゃ怒るでしょ……どうなってるんですかこの状況」
さやかは呆れながらもなぜか笑ってしまった。
変な人だ。でも悪い人ではない。
それはもうだいぶわかってきていた。
*
店内の席に着くとさやかは改めて緊張した。
大人の男性と二人でお茶をする。
そんな経験はない。
家族や先生ならまだしも神崎はそのどちらでもない。
杏子の保護者のような人で、大人で、妙に顔立ちが整っていて言葉が重い。
しかも前に自分を美しいと言った。
さやかはメニューを見ながら何を話せばいいのかまるでわからなくなった。
聞きたいことはあったはずだ。
杏子のことや神崎自身のこと。そして、恭介のこと。
けれど、いざ向かい合うと全部がまとまらない。
神崎は紅茶を注文し、さやかにはケーキセットを勧めた。
さやかは少し迷った後に、おすすめされたケーキセットも頼んだ。
「美樹さん。
杏子は自分自身の意思に対して責任を持つ素晴らしい人間です」
紅茶のメニュー名をひとしきり確認すると神崎は話し始めた。
「……急に杏子の話ですね。しかも重いやつ」
「重かったでしょうか。気をつけます」
神崎は少しだけ目を伏せる。
さやかはまだ来ていないケーキ用のフォークを手に取った。
少し無作法だがなんとなく手遊びする。
「いやまあ、杏子がいいやつなのはわかりますけど。
この前のあとも何回か会ったし。
言葉はそっけないけど悪いやつじゃないなって」
「そうですか」
「ええ、まあ。急にいなくなることもあるし、
付き合いは正直あんまり良くないですけど……あ、悪口じゃないですよ?!」
言ってからさやかは少しだけ慌てた。
神崎は杏子の保護者だ。
いくらなんでもこの言い方は神崎に失礼かもしれない。
そう思っての言い訳だったが、さやか自身の言わんとすることは理解したのか、神崎は頷いた。
「杏子は私の手伝いで急に抜けることがあると思います。
あまり貴方たちと付き合うことができないことも多いでしょう。
申しわけありません」
「手伝い?神崎さんの手伝いしてるんですか杏子。何か……意外」
神崎の声は少しだけやわらかかった。
ほんとうに自分の大事な人を思う顔つき。
さやかはそれがなんだかとても嬉しくて、どこか羨ましかった。
「私がこういう話をしていることは杏子には内緒にしてください」
「えへへ。もちろんいいですよ。口止め料ケーキと紅茶の追加で!」
さやかは冗談を交えながらもすぐ頷いた。
そして納得した。
神崎は杏子のことを心配して自分と話そうとしているのだ。
杏子が急に抜けることがあっても悪く思わないでほしい。
杏子は良いやつなのだと伝えたい。
そういうことならわかる。
「神崎さん本当に保護者さんの鑑ですね。
つまり杏子のフォローがしたかったんですよね?」
「そうかもしれませんね」
さやかは笑った。
少しだけ緊張がほぐれた。
ケーキが運ばれてくる。紅茶も来る。
神崎はカップを手に取り香りを確かめた。
さやかは少しだけ警戒する。
「紅茶の感想……長くなります?」
「前回、杏子とここに来た際にもうここでは紅茶の話はするなと言われているので」
「ぶっ!あははっ。そんなに言われちゃいましたか!」
さやかはその光景を想像しながらケーキを一口食べた。
甘い。少しだけ落ち着く。
神崎も紅茶を一口飲みカップを置いた。
「美樹さん」
「はい?」
「あなたは美しい」
さやかは紅茶でむせた。
「っげほっ、ちょ、待っ!」
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫じゃないに決まってるでしょうが!」
さやかは慌ててナプキンを取る。
「何でまた急に!」
「先ほどの話の続きです」
「続きになるんですかそれ!?いや、なってないでしょ!」
さやかは顔が熱くなるのを感じた。
まただ。またこの人は真顔で言う。
美しい。しかも二人きりの席で。
これは口説かれているのか。
いや違う。神崎のことだからそういう意味ではない気がする。
でももしそういう意味だったら?
ロリコンなのかこの人。
さやかは内心でかなり混乱した。
ただそれと同時に胸の奥が妙にざわつく。
自信がなかった。
さやかは自認の中ではまどかのように可愛らしいわけではない。
マミのように綺麗でもない。
杏子のように強い存在感があるわけでもない。
自分は明るくて賑やかで、恭介に対してだけは……気安い幼馴染属性。
そう思っていた。
だから、容姿の整った大人の男性にそんな風に言われると……どう反応していいかわからなくなる。
そうだ。
神崎は多分だけど誰にでも気安くそういうことを言っているのではないか?
「神崎さん……それ誰にでも言ってません?
あたしっ!そんな安い口説き文句じゃ靡きませんよ!」
「言っていませんし、口説いたつもりもないです。
私の貴方に対する考えは広く一般的にも認識される見解だと思います」
「っ!な、何ですかその言い方……それにっ!そんなこと……ないです」
「いいえ。あなたの心のあり方はもちろんのこと。
容姿も当然そう思われているでしょう」
さやかは言葉を失った。
容姿も当然。
その言い方があまりにも迷いなくて。
嘘やお世辞のように聞こえなかった。
「……いや。言われたこと……ないですよ」
さやかはようやく声を出す。
「それはあなたが常に気安い雰囲気をまとっているからかもしれません」
神崎は静かに頷いた。
「あなたは明るく人との距離を近く保つ。
相手が気を遣いすぎないようにしている。
だから周囲の人はあなたの気高さや美しさ。
それらを改めて言葉にすることをためらうのだと思います」
さやかは俯いた。
フォークを握る指に力が入る。
気高さ。美しさ。
そんな言葉。
自分には似合わないと思っていた。
神崎は続ける。
「そしてあなた自身も。
自身の振る舞いに少し翻弄されているのかもしれません。
……もちろん明るく振る舞うことが悪いのではありませんが」
「……どういうことですか」
「自分自身の価値を低く見過ぎているということです」
さやかは何も言えなかった。
胸の奥に少しだけ痛いところがあった。
からかったり、笑いながらも何でもない顔で隣にいてくれる。
そんな気のおける友人……ただの。
恭介からは多分そう思われている。
本当はさやかにとっては何でもなくない。
でも……何でもない顔をする。
そのほうがそばにいられるから。
神崎はしばらく黙った。
紅茶の湯気が揺れる。
「私には好きだった人がいました」
神崎が静かに言った。
突然の告白にさやかはぎょっとしながら顔を上げた。
「え」
「日々その人に少しでもよく思われたいと思って行動していました。
その人の言葉を聞き、その人の役に立とうとしてその人のいる場所に通った」
神崎の声は淡々としていた。
けれどそこには確かに痛みがあった。
「それ……どうなったんですか」
さやかは小さく聞いた。
「思いを伝えることはできませんでした」
「……どうして」
「その人はすでに結婚していました」
さやかの頭の中では自然に一人の女性が思い浮かんだ。
神崎が恋をした人妻。
そう認識した。
神崎はさやかが誤った認識をしているであろうことを理解していたが訂正しなかった。
ゲイであることも相手が杏子の父であることも言わなかった。
……いや言えなかった。
「神崎さん、その……気持ち伝えなかったんですか」
「伝えられませんでした。
伝えることが相手の幸福を乱すと思ったからです」
「それは……つらくなかったんですか」
さやかは聞いていいかどうかわからなくなりつつも。
神崎がさやか自身のために言ってくれているのだと考え直し質問した。
神崎はすぐに答えた。
「今も痛みがなくなったわけではありません」
その声があまりに静かでさやかは胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
「だからこそ美樹さんには私の過去を伝えたいと思いました」
神崎はさやかを見ながら少しだけ姿勢を正した。
さやかは息を止めた。
「一般論として誰かを大切に思う気持ちを伝えることには。
……一般論として罪はないと思います」
「すごく一般論って強調しますね」
「杏子から勝手に私自身の経験で推測し、
具体的な推理まで披露するなと言われています」
「杏子ナイス」
さやかは思わず言った。
「しかし。あなたのような素晴らしい方が自分の思いを言葉にすることは、
決して悪いことではないと思います」
さやかはケーキの皿を見つめた。
いつだって言葉が出ないのだ。
恭介に伝える……好きだと。
幼馴染ではなく一人の女の子として見てほしいと。
考えただけで怖かった。
「でも……それで断られたらどうするんですか」
さやかは責めるように、不貞腐れるように言った。
神崎はすぐには答えなかった。
紅茶のカップを見つめ少しだけ目を伏せる。
「傷つくことは時に起こり得ます。
相手が応えられないこともある。
しかし何も言うことができなかったことで起きる後悔よりは。
ましなこともあると思います」
「……それでも怖いです」
「当然です。怖いものは怖いですから」
「ええと……そこ励ますところじゃないんですか」
さやかは俯いた顔を上げ、少し不満そうな顔をした。
神崎は頷いた。
「その怖さをないものにはできません」
さやかは少しだけ笑いそうになった。
変な人だ。
でも……神崎自身が変だと思われようとも、絶対に嘘はいわないし脚色もしないだろうことは理解できた。
神崎は続けた。
「ただ目の前にいる人間の体験談をあなたに聞いてもらっただけです」
「体験談……人妻に恋した大人の体験談ですかぁ」
「……はい。おおむね」
「おおむね?何か含みあるなあ。深追いしませんけど……」
「ありがとうございます」
さやかが言うと神崎は少しだけ黙った。
小さく息を吐く。
そうすれば少しだけ肩の力が抜ける。
もう、はじめの方のように神崎に対する苦手意識はなくなっていた。
少々肩肘はってしまいそうだが。
「しかし、もし美樹さんのような素晴らしい人間からの思いを断る人間がいるなら」
「……それ照れるんでやめてほしいなぁ」
「見る目がないか……単純に他に熱中していて余裕がないかのどちらかでしょう」
さやかはまた顔が熱くなった。
「……あんまり褒めるの止めてください。真顔で。……ほんと慣れない」
さやかは俯いた。
褒められることがないわけではない。
でもこういうふうに褒められることはなかった。
軽くない言葉で。冗談に逃げる隙を与えず。
自分の気持ちをちゃんとそこにあるものとして扱われること。
それがこんなにも落ち着かない。
そして……少しだけ勇気になる。
「……神崎さん。ありがとうございます」
小さく言った。
神崎は何も大げさに反応しなかった。
ただ静かに頷いた。
「聞いてくださってありがとうございます」
「多分……アドバイスだったんですよね?
だからありがとうございます」
さやかは神崎の言い回しの不器用さに笑った。
ケーキをもう一口食べる。
甘さがさっきより少しだけ違って感じた。
「で、その人妻さんには結局なにか伝えたんですか」
さやかは少しだけ調子を戻すように言った。
もちろんそれだけではない。
どこかで神崎が一区切りつけられるような思いを伝えていてほしかった。
そうでないと神崎自身があまりに可哀想だから。
神崎は紅茶のカップを置いた。
「いいえ。その人が幸せであるようにただ祈っています」
神崎は少しだけ窓の外を見た。
さやかは黙った。
その答えがさやかの予想していた通りに誠実で静かで痛々しかったからだ。
「……それでいいんですか」
「私はそうすることしかできませんでした。
できなかったことは今も残っています」
神崎は言いながらさやかを見る。
「だからあなたが何かを選ぶときに、私のようになる必要はない」
さやかはしばらく何も言えなかった。
この人は変だ。
危ないくらい言葉が真っ直ぐでたぶん色々間違えている。
でも嘘は少なかった。
少なくとも自分の痛みを笑い話にしない。
だから……信じてもいいように思えた。
*
店を出るころには夕方の光が少し傾いていた。
さやかは上条への焼き菓子の箱を手に持っている。
神崎は杏子への土産の箱を持っている。
二人で並ぶと少し奇妙な組み合わせだった。
「神崎さん。今日の話……二人だけの秘密ですね。
杏子に話したら壮絶に怒りそう」
さやかは笑った。
軽く言ったつもりだった。
でも声の奥に少しだけ本気が混じった。
神崎は少しだけ空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。
その横顔はさっきより少しだけ遠く見えた。
さやかは箱を抱え直した。
「私、恭介の練習場所に行きます。
今日何か言うかはわかんないですけど……でも少しだけ考えます」
神崎は静かに頭を下げた。
「それで十分だと思います」
「……本当に?何も進まなくても?」
「考えたことは消えません」
「まーた重い」
二人は少し笑った。
さやかは道の分かれ目で立ち止まる。
「じゃあ神崎さん。今日はありがとうございました…………あと」
さやかは少しだけ照れたように顔を逸らした。
「美しいって言われたの、まあ、嬉しかったです」
神崎は静かに頷いた。
「本当のことです」
「だからそういうの!」
さやかは笑った。
それから少しだけ手を振る。
「じゃあまた」
「はい。また」
さやかはケーキの箱を抱えて上条恭介の練習場所へ向かっていった。
その背中はいつも通り軽やかだった。
けれどほんの少しだけ歩幅が慎重にも見えた。
神崎はしばらくその背中を見ていた。
自分は余計なことを言ったのかもしれない。
杏子に知られたらかなり怒られるだろう。
美樹さやかの心に必要以上の波を立てたのかもしれない。
それでも。
何も言えなかった後悔を知っている人間として言わずにいられなかった。
神崎は小さく息を吐いた。
手元には杏子への土産がある。
甘いもの。たぶん文句を言いながら食べる。
そして今日のことを聞かれればどこまで言うべきか考えなければならない。
杏子には内緒。
美樹さやかとの約束。
神崎は空を見上げた。
夕方の色が少しだけ濃くなっている。
「……怒られるだろうな」
小さく呟く。
それでも帰る場所は決まっていた。
神崎は土産の箱を持ち直し。杏子の待つ部屋へ向かって歩き出した。
その途中で携帯が震えた。
杏子からだった。
『遅い。土産選ぶのに時間かかりすぎ』
神崎は画面を見て少しだけ口元を緩める。
返信を打つ。
『ケーキにした』
すぐに返事が来た。
『落とすなよ』
神崎は少しだけ足を止めた。
それから短く返した。
『気を付ける』
既読。少し間があって。
『なら早く帰れ』
神崎は画面をしばらく見つめてから携帯をしまい歩き出す。
美樹さやかの背中はもう見えない。
杏子のいる部屋まではまだ少しある。
言えなかった想い。言えるかもしれない想い。
それぞれの箱の中に入った甘いもの。
どれも軽くはない。
けれど今はまず帰る。
杏子にケーキを渡して。おそらく文句を言われて。
それから紅茶を淹れる。
焦げていない土産を持って帰ること。
それもまたくだらない日常の一つなのだと神崎は思った。