結界がほどける音。
最後の使い魔がマミのリボンに絡め取られたまま杏子の槍に貫かれる。
二人の周囲が夜の路地へ戻っていく。
残ったのは冷えた空気と薄暗い路地裏だけだった。
杏子は槍を消し肩を回した。
「終わりか」
「ええ」
マミは足元を一度確認してからリボンをほどいた。
その動きはいつもどおり丁寧だった。
乱れた髪を軽く整えソウルジェムの濁りを確かめる。
グリーフシードは出なかった。
杏子は舌打ちしかけてやめる。
「まあ犠牲者も出なかっただけ良しとするか」
「そうね。大きな被害が出る前に倒せたのだから、
良かったと思いましょう」
「誰も褒めねぇけどな」
マミは苦笑する。
言ってから杏子も少しだけ笑った。
誰も褒めない。それは今さら言うことでもなかった。
魔女を倒しても拍手はない。
結界に巻き込まれかけた誰かは自分が救われたことを知らない。
明日の朝街は何事もなかったように起きる。
その何事もなかった朝のために二人は夜を歩いている。
それでいいと言えばいい。
マミならきっとそう言う。
けれど戦い終わったあとに誰にも知られない成果を。
せめてマミと二人だけで確かめたいと思っている自分がいる。
杏子はそのことに気づいていた。
だから自嘲した。
自分はいつからこんなに面倒なことを考えるようになったのだろう。
以前なら。
倒した。終わった。次。
それだけだった。
今は違う。
終わったあとに隣に誰がいるかを気にしている。
マミが軽く息を吐く。
「今日は佐倉さんのほう……
風見野の巡回だったから明日は見滝原ね」
お互いのテリトリーを順番に回るようになってから夜の流れは少しずつ決まってきていた。
見滝原を回る日はマミの家が近い。
戦いで遅くなったときはマミの家に泊まることもあった。
夜遅くなったから。帰り道が危ないから。
神崎もそちらのほうが安全ならそうしなさいと言ったから。
けれど何度か泊まるうちに杏子はその夜の感触を覚えてしまった。
マミの部屋の紅茶の匂い。
きちんと並べられたカップ。
ベッドの端に座って、戦いのあととは思えないほど小さな声で話す時間。
魔法少女の夜を魔法少女である二人だけが覚えていること。
それは悪くなかった。
だから今日は少しだけ困る。
ここは杏子の側の町だった。
神崎の家には近い。
マミの家へ帰れない距離ではないがもう夜は深い。
それでもいつもの流れならここで別れる。
「私はこのあたりで」
マミが言った。
声はいつも通りだった。
でもほんの一瞬目元が陰った。
杏子はそれが見えてしまった。
マミはすぐに笑った。
柔らかく相手に気を遣わせない笑い方で。
「今日は遅くなってしまったもの。
神崎さんも心配しているでしょう?」
その言い方が少しだけ寂しかった。
神崎が杏子を心配する。
それをマミは知っている。
だからこそ杏子を引き止めない。
そういう気遣いが杏子には妙に嫌だった。
戦っている最中ならマミの横にいることに迷いはない。
銃声が響きリボンが走り槍が切り込む。
その時二人は同じ場所に立っている。
でも戦いが終わるとそれぞれの帰る場所へ戻る。
マミが一人で帰る。
その背中を見送る瞬間だけ杏子はどうしようもなく落ち着かなくなる。
「戦ってたんだから遅くなることくらいあるだろ。
それに終わったあとに連絡は入れたし。
あいつも心配しねえよ」
杏子は少し乱暴に言いながら携帯を出して見せる。
画面には神崎への短いメッセージが残っていた。
『終わった。無事。マミもいる』
神崎からの返信はすでに来ている。
『了解。気をつけて帰りなさい』
それだけだった。
いつものように十時を過ぎたことに触れるかと思ったが今日はそれがなかった。
たぶん戦っていたことを察したのだろう。
杏子は画面を閉じる。
「だから問題ねぇよ」
「でも神崎さんにまた気を遣わせてしまうわ。
……前に泊まったときもいろいろ準備してくださったでしょう」
マミは少しだけ視線を落とした。
杏子はそのときのことを思い出した。
マミが初めて神崎の部屋に泊まった夜。
あのあと神崎は妙な行動を取った。
物置同然だった倉庫を片づけ自分の寝る場所にしたのだ。
元々神崎の本は部屋中にあふれていた。
机の上にも床にも棚の前にも見える範囲のほとんどに紙がある。
杏子が来てからもそれは大きく変わらなかった。
けれどマミが泊まることがあるとわかってから神崎は少しずつ倉庫を改良し始めた。
古い段ボールを捨て簡易の机を置き細い布団を敷ける場所を作った。
本人は「作業部屋を兼ねる」と言っていたが杏子にはわかっていた。
マミがまた泊まるかもしれないからだ。
自分が部屋を空けられるように。杏子とマミが同じ部屋で休めるように。
ただし根本的な問題は何も解決していない。
書籍が多すぎる。
倉庫を自分の部屋にしたところで本が全部入りきるわけがない。
だから今も杏子の使っている部屋には本が残っている。
壁際に積まれ机の隅に押し込まれ寝る場所の近くにも平然とある。
杏子はそれを特に気にしていなかった。
神崎の本があるのは神崎の家なら当たり前だ。
邪魔なら蹴らない程度にずらせばいい。
読まないが別に憎いものでもない。
むしろ本の匂いがない部屋のほうが最近は落ち着かない気がしてしまう。
それが少し腹立たしい。
「気を遣わせるってほどでもねぇよ。
あいつもう倉庫を自分の部屋にしてるし。
マミが泊まるかもしれないからって」
杏子は言った。
言ってから少しだけ顔が熱くなる。
「いや……本人はそうは言ってねぇけど。
作業部屋とか言ってたけど」
マミは少し目を丸くした。
「それはやっぱり気を遣わせているのではないかしら」
「違ぇよ。あいつが勝手にやってるだけだ。
それに部屋は別だし」
言った瞬間、自分でも何を意識しているのかと思った。
神崎は男で変なやつだ。
それは事実だ。
でも神崎をそういう意味で疑う気はない。
疑われるのも少し嫌だった。
ただ、それを説明しようとすると妙に恥ずかしい。
「神崎は確かに男で変なやつだけど……
変なやつのいる家に泊まるの嫌か?」
言ってから少し後悔した。聞き方がずるい。
本当に聞きたいのはそんなことではない。
嫌じゃないなら来てほしい。
今日はもう少し一緒にいてほしい。
それだけなのに。
マミは杏子を静かに見た。
「神崎さんのことを疑っているわけではないわ。
……変わった人であることは否定できないけれど」
「……そこは否定してやれよ。その通りだけどさ」
マミも杏子も軽口をたたきながら笑った。
それでもまだ足は動かない。
「でも私が泊まることで、
神崎さんの負担になるかもしれないわ」
杏子は苛立った。
自分の友達のマミが自分の……まあ悪くないと思っているやつ……重くて不器用で説教が多くて野菜ばっかり食事で出してくる馬鹿へ遠慮している姿に。
そして何よりも……そんな小さいことに対して苛立ってしまっている、幼い自分に。
「……もういい。聞く。今」
杏子は携帯を取り出した。
マミが焦ったように目を見開き慌てる。
「さ、佐倉さん?」
杏子は神崎の名前を選び発信した。
コール音が一つ鳴る。
すぐに繋がった。
『杏子?何かあったのか』
神崎の声はいつもより少し早かった。
その焦りが耳に残る。
杏子は一瞬言葉を飲み込みそうになった。
神崎は心配していた。
自分が「終わった」と送ったあとも完全には気を抜いていなかったのだ。
それをわかってしまうと少しだけやりにくい。
だから杏子は余計に強い口調で言った。
「マミ泊める。以上」
『待ちなさい。君は無事なのか巴さんは』
杏子は電話を切り、電源も切った。
夜道に沈黙が落ちた。
マミは信じられないものを見るように杏子を見ていた。
「佐倉さん……今のはいくらなんでも神崎さんに失礼だわ」
杏子は携帯をしまう。
「この前、神崎は授業参観に無理やり来た……
子供が嫌がるのは特権で義務だって言ってた。
……ならさ。子供のわがままを聞くことも大人の義務だろ」
杏子は笑った。
神崎は怒るかもしれない。
怒らないとしても困った顔をするかもしれない。
それでももう電話は切った。
帰るしかない。
マミはまだ少し心配そうだったが杏子の隣を歩き始めた。
*
帰り道、杏子はほとんど喋らなかった。
マミも無理には話しかけなかった。
夜風が冷たい。
戦いのあとの熱が少しずつ身体から抜けていく。
神崎の部屋が近づくにつれて杏子の足取りは少しだけ重くなった。
怒ってはいないかもしれない。
でも怒っていないほうが厄介なこともある。
「佐倉さん……やっぱり私は帰るわ。
多分神崎さんも困っていると思うの」
建物が見えてきたところでマミが言った。
マミの声には所在なさがあった。
マミがここに来ることを神崎はどう受け取るのか。
杏子が強引に押し切ったことをどう思うのか。
マミは自分がその真ん中に立ってしまったことを気にしている。
杏子は鍵を取り出しながら少しだけ息を吐いた。
「大丈夫だって」
「佐倉さんも不安そうに見えるわ」
「……んなこたあねえし」
鍵を開け、扉を少しだけ押すと明かりが漏れた。
紙の匂い。紅茶の匂い。
それに混じって何か油っぽい温かい匂いがした。
杏子が眉をひそめるより先に神崎が玄関に出てきた。
「おかえり」
安堵した声だった。
杏子を見る顔も普段と比べると慈しむようなそれだった。
怒っているようには見えない。
でも笑ってもいない。
マミへ視線を移すと神崎の表情がほんの少しだけ緩んだ。
「巴さん。遅い時間ですがゆっくりしていってください」
その言い方は客を迎えるものだった。
穏やかでマミがきたことを素直に歓迎しているようだった。。
マミは肩の力を抜くように静かに頭を下げた。
「……お邪魔します。
夜分にもかかわらず申し訳ないです。
私のわがままで本当にごめんんさい」
「いえ。無事ならそれで良いのです」
杏子は少しだけ目を逸らした。
マミは杏子が無理やり連れてきたのに自身のせいにしようとしている。
杏子は先手を取ることにした。
「違う。マミはあたしが無理言って連れてきた。
……この前の授業参観であんたが言ってたこと。
あたしから言わせるとだ。子どもの可愛いわがままを聞くのも。
……大人の特権で義務なんじゃねえのか?」
少し挑むように言った。
神崎は一瞬だけ黙った。
それから静かに頷いた。
「当然だ」
杏子は拍子抜けした。マミも少し目を丸くする。
「……当然なのかよ。そこもうちょっと困るとこじゃねぇの」
「困ってはいる。だが君が巴さんを連れて帰ること自体に、
困っているのではない」
神崎は一歩玄関の脇へ下がった。二人が入れるように。
「君たちの不断の努力のおかげで、
私が今日もここにいることは理解している」
その言葉で玄関の空気が少し変わった。
子どもとしてではなく町を守る魔法少女に対する尊敬と感謝。
それらを神崎は示していた。
マミはうつむく。
頬が火照っていた。
誰かから自分の頑張りをほめられる。
誰からも見られことのない頑張りを。
それは想像していたよりもずっとうれしいことだった。
「私は結界の中で何が起きているのか、
何と戦っているのかも断片でしかわからない。
……だが君たちが戦っているからこそ、
私は今日紅茶を淹れていられるのだとは思っている。
……だから、これは私のわがままだ」
神崎は二人を見た。
杏子は少し身構えた。
説教か。約束か。電話を切るなという話か。
しかし、神崎は声を荒げなかった。
「心配だから帰るときはきちんと帰る連絡をしてほしい」
「……電話しただろ」
杏子は反射的に言った。
「内容は『マミ泊める』だけだったな。
……二人が無事なのか巴さんに何かあったのか。
君が怪我をしているのか確認する前に切れた」
杏子は言葉に詰まった。
自分のわがままを通しただけのつもりだったが神崎は相当心配していたらしい。
マミは頬を赤くしたまま俯いている。
「特に巴さんの声を聞く前に切れたので。
何かあったのではないかと思いました」
神崎はマミへ向き直る。
マミの頬の赤みはそのまま蒼白になり、すぐに頭を下げる。
「申し訳ないです……
まさかそこまでご心配をかけているとは思いませんでした。
……本当にごめんなさい」
「巴さんを責めているのではありません。
それに杏子が間違った判断をするとは思っていません。
……ただ私にはわからない」
神崎の声は低かった。
魔法少女としての二人。子どもとしての二人。
神崎にとってそれは並列して見るものだった。
町を守る二人はそのまま神崎にとっては心配な子ども二人だった。
「君たちの夜は私には見えない。
だからせめて帰るときに無事だと聞きたい。
……面倒をかけて申し訳ありません。
もしよければ、不出来な大人のくだらないわがままを聞いてほしい」
そう言って頭を下げた。
杏子は靴を脱ぐ動作すら忘れていた。
玄関の小さな明かりの下で神崎の背中が少し丸く見える。
怒っているのではない。
ただ、心配している。
そのことがまっすぐに突き刺さる。
杏子は唇を噛んだ。
声は杏子自身にも聞こえるか聞こえないかというほど小さかった。
「……ごめんなさい……電話切ったのは悪かった……
次からちゃんと言う……言います」
「すまない……いやありがとう」
いつもながらやけに心に響く重い言葉が出て少しだけ呼吸が戻る。
マミも隣で頭を下げた。
「私も次からはきちんと連絡します。
神崎さんが心配するのは当然ですから」
「ありがとうございます」
神崎はそう言ってまた少し頭を下げた。
マミは不謹慎だが笑ってしまった。
誰かに心配してもらうことができる。
そんな日常が自分にも残っていたこと。
それがおかしくて。
ようやく玄関の空気が少しだけほどけた。
「明日は休みでしょう。のんびりしていってください」
マミはまだ遠慮がちだったが神崎の声は穏やかだった。
杏子は靴を脱ぎマミも続く。
廊下を抜けて部屋へ向かう。
そこで杏子は立ち止まった。
テーブルの上にピザの箱があった。
一枚ではない。明らかに複数枚ある。
紙皿。サラダ。なぜかコーラ。
神崎は普段通りの顔で自分の湯呑をテーブルの端に置いていた。
「……何これ」
「ピザだ」
「見りゃわかる」
マミも困惑した顔でテーブルを見ている。
「神崎さんこれは」
「友人をもてなす際にはピザだと聞きました」
杏子はゆっくりとマミを見た。
「そうなのか?違うよな……多分?」
「ど、どうかしら……
でもこの時間にピザは間違いなく太ると思うわ」
マミは少しだけ考えた。
杏子は神崎を見る。
神崎は普段通りの透明な目つきで、なんら問題のない様子で頷き言った。
「そのとおりなので私は普段通り夕食を済ませました。
二人は子供だからそういうことは気にせず食べなさい」
「自分は食わねぇのかよ!無茶苦茶だろ!」
マミが口元を押さえ笑いをこらえた。
神崎は怒っていない。
いや怒っていないように見える。
けれど夜中のピザが本当に善意だけで出てきたのかわずかに判断がつかない。
杏子はピザの箱を見下ろした。
チーズの匂いが強い。
戦いのあとで腹は減っている。
認めたくないがかなりうまそうだった。
「……もしかして怒ってる?」
杏子が言う。神崎は首を傾げた。
「怒ってはいない。友人をもてなす際にはピザだと見た」
「その情報源を言え」
「映画」
「映画かよ!何の映画だよ!
絶対その映画でピザ食ってんのデブばっかだろ!」
マミがとうとう笑った。
「映画の中では友人を迎えるときにピザを食べていたのですか?」
「はい。少し偏った知識かもしれませんが。ご賞味ください」
「ああもうっ……食うけどさあ!先に聞けよこういうの」
杏子は雑に手を洗いテーブルについた。
マミも少し迷ったあと座る。
神崎は紙皿を二人の前に置いた。
杏子は文句を言いながらピザを一切れ取った。
まだ温かい。チーズが伸びる。
マミも小さめの一切れを取った。
杏子も続けて口に入れる。
うまい。
それが少し腹立たしい。
「……うまい。うまいけどなんか納得いかねえ」
「おいしいです……でも明日は少し動きます」
「そうですね。夜半の過食は太りますから。
それがよいでしょう」
神崎が二人の湯呑にコーラを入れ直しながら頷く。
カロリーの暴力に晒されながらも手が勝手に過食に走る。
杏子もマミも。
神崎はそれを横目に自分の紅茶を飲んでいる。
「おいっ!あんたはコーラじゃないのかよっ!」
「私はピザは食べないからな。
君たちはコーラを飲みなさい」
湯呑のコーラはぱちりぱちりと炭酸がはじけている。
「……それも友人が来た時の作法か?」
「いや。宅配のおすすめに記載されていた」
「……いや美味いけどさぁ!なんかやっぱりあんた変だよ!」
マミは肩を震わせる。
さっきまでの心配や気まずさが少しずつテーブルの上で溶けていく。
ピザの匂いとコーラの炭酸のはじける音。
紅茶の湯気。
神崎の妙なもてなし方がそこに薄い布をかける。
杏子はピザをもう一口かじった。
「神崎。次からピザは昼にしろ。夜は重い。
……だいたいあんた普段あたしの健康だどうだと、
野菜ばっかすすめてくるじゃねえかよ」
「友人をもてなす際には」
「……もういい」
「……でも嬉しいです」
マミが杏子よりも速いペースで一切れ食べ終えて話す。
杏子がマミを見る。
「この時間のピザが?」
「それも少し……でも一番うれしいのは。
帰ってきたらこうして迎えられることが」
マミは紙皿を見つめた。
その言葉で少しだけ静かになる。
神崎も杏子もすぐには返さなかった。
マミはやわらかく笑った。
「少し不思議で嬉しいです」
杏子は視線を逸らした。
マミがそういうことを言うとき、いつも少しだけ胸の奥が痛む。
マミには帰る場所がないわけではない。
家もある。生活もある。
でも戦いのあとに帰ったかどうかを待っている人の気配はたぶんない。
それを杏子は知ってしまった。
知ってしまったから放っておけない。
「だったら次からマミも来いよ」
杏子はピザを見ながら言う。
マミが目を開く。
神崎も杏子を見る。
「来るなら来るって。
無事なら無事って……声聞けば安心するんだろ神崎?」
言ってから杏子は少しだけ顔が熱くなった。
自分が言うことではない気がした。
でも言ってしまった。神崎は静かに頷いた。
「巴さんからも連絡をいただければ安心します」
「……はい」
マミは少しだけ頬を染めた。
*
ピザの箱が半分ほど空いたころ杏子はようやく落ち着いてきた。
戦いの疲れは残っている。
だが腹が満たされると身体の緊張は少し解けた。
マミも最初の遠慮はだいぶ薄れていた。
それでもピザを取る手つきは上品だった。
「つうかマミがコーラ飲んでるの……凄い違和感あるな。
なんかキャラじゃない」
「そうかしら。ピザなら普通だと思うけれど」
神崎がサラダの皿を杏子の前に寄せた。
「杏子。これも食べなさい。
さすがにピザだけしか食べないのはよくない。
野菜も必要だ」
「夜中にピザ頼んだやつが言うな」
マミが笑いながら自分もサラダを取った。
「佐倉さん食べましょう」
「マミまで……」
杏子も渋々サラダを取る。神崎は満足そうに頷いた。
夜は少しずつ深くなる。
誰にも褒められない成果。
さっきまでそう思っていた。
でも今は少し違う。
褒められはしない。
戦いの内容を細かく語るわけでもない。
神崎は結界の中を知らない。
それでも……魔法少女としての自分たちの夜を知っている人がいて。
その人は少なくとも二人に感謝して死ぬほど心配してくれている。
「そういえば……神崎さん前より少し片づいていますね」
マミが部屋を見回すと、たしかに杏子の言う通りだった。
本は相変わらず多い。
壁際にも机の横にも床の隅にもある。
ただ確かに少しだけ場所ができていた。
神崎はカップを置く。
「倉庫を少し改良しました。
現在は私の作業部屋兼寝室にしています」
「さっき言ったろ。マミが泊まったあとに倉庫片づけたんだよ。
あんたが次に来た時のためにって」
「……杏子」
「いいだろ。事実なんだから言ったって」
神崎は少しだけ目を伏せる。
「巴さんがまた泊まる可能性があると思いました。
その際に私がこの部屋にいるのは不自然なので」
「元から不自然まみれだろこの家」
杏子が苦笑する。
マミは少しだけ頬を染めた。
「私のためにそこまで……」
「作業環境の改善も兼ねています」
「そういう言い方しないで普段通り気持ち伝えろよ。
気を遣いましたって」
杏子が普段の意趣返しとばかりに言う。
神崎としてはマミに余計な気遣いをさせたくなかったから言わなかった。
しかしマミはそこまで自分のために気を使ってくれていること自体が心に来たらしく、瞳を潤ませている。
「……あの。本当に……ありがとうございます」
「いえ。ただ書籍が多すぎてすべては移動できていません」
「それな。でもまあ気にしたってしゃあないじゃん。
寝る前にどかせばいいだけだし」
マミはそのやり取りを少し眩しそうに見ていた。
杏子はピザの箱を閉じかけてまだ一切れ残っていることに気づいた。
「マミ食う?」
「佐倉さんが食べていいわ」
「……もしかして太るの気にしてるのか?」
「……そんなことないわよ?」
二人は顔を見合わせ笑った。
食べ終えたあと三人で片づけをした。
ピザの箱をまとめ、湯呑を流しへ運び、サラダの残りを神崎が保存容器に入れる。
その動きが妙に生活じみていて魔女と戦った夜の続きとは思えない。
けれど間違いなく続きだった。
神崎は部屋の奥へ行き布団を運んできた。
マミが立ち上がる。
「ごめんなさい。手伝います」
「マミは客だろ。いいよ適当にやるから」
「でも泊めていただくのだもの。
それに佐倉さんも手伝うでしょう?」
「……やるよ」
三人で布団を敷く。まず本を動かすところから始まった。
壁際の山を少しだけずらし机の横の箱を押して。
床に置かれた資料を神崎が慎重に持ち上げる。
マミは本の束を両手で持って少し困ったように笑った。
「神崎さんこの本は?」
「その山は倒れやすいのでこちらに」
「全部倒れやすそうだけどな」
「この山は比較的安定している」
「比較的って言うな。崩れた時のことで不安になる」
杏子は言いながら布団を広げる。マミが端を持つ。
二人で布団を敷くと狭い部屋にようやく泊まる場所ができた。
神崎はそれを見て静かに頷いた。
「これで良いだろう」
「あんたは倉庫で寝るのか……ちゃんと寝ろよ」
「作業を少ししてからな」
「良いから寝ろ」
「神崎さんも今日はご心労でお疲れでしたでしょうから。
休まれたほうがいいのでは」
「……そうですね」
「マミの言うことは聞くのかよ。なんだよ……ばーか」
「君の言うことも聞いているつもりだが」
「聞いてねぇから言ってんだよ」
「君が本気で言うことは一番に信頼している」
「……ばーか」
神崎は布団の位置をもう一度確認してから扉のほうへ向かった。
「では私は向こうにいます。巴さんおやすみなさい」
「おやすみなさい神崎さん」
「杏子もおやすみ」
「……はいはい。おやすみ」
神崎は頷き倉庫へ向かった。
扉が閉まる音がする。
杏子とマミだけが布団の敷かれた部屋に残る。
紙の匂い。少しだけ残ったピザの匂い。
紅茶の匂い。夜の戦いの疲れ。
それらが混ざっている。
マミは布団の端に座った。
「佐倉さん。あのね……来てよかったわ」
「……そりゃ良かった」
杏子も布団の端に座る。マミは少しだけ目を伏せた。
「帰ってきて心配されて怒られるかと思ったら。
……ピザがあって」
「神崎怒ってないって言ってたけどさ。
もしかしたら怒ってたかもな。
夜中に太るものを食わせる罰」
マミはくすっと笑った。杏子は布団の端を指でつまむ。
「心配したって言われると……面倒だよな。
怒ってくれたほうが反発しやすい」
「……その心配が少し嬉しいと思ってしまったわ」
マミの声は静かだった。
杏子は顔を逸らした。
「……うん」
マミはそれ以上は言わなかった。
ただ同じ部屋にいる。
杏子はその沈黙を嫌だと思わなかった。
結界の中で背中を預ける沈黙とは違う。
戦いのあと疲れた身体を置く沈黙。
「次からごちゃごちゃ言わずに来いよな」
「ええ……でも佐倉さんも次はちゃんと連絡しないとだめよ」
杏子は返事をしなかった。
次。
また泊まること。また帰ってくること。
また神崎が変なもてなしをすること。
マミはもうこらえきれずに小さく笑った。
泣きそうになりながら。
杏子も少しだけ笑いそうになった。
泣きそうになりながら。
夜はまだ終わらない。
けれど戦いは終わっている。
今日はもう魔女の気配はない。
杏子は布団に寝転がる。天井が見える。
端にはまだ動かしきれなかった本の影がある。
「佐倉さん……ありがとう」
「……マミが帰るとき寂しそうな顔するから嫌だっただけだ」
「……見えていたのね」
「……友達だろ」
杏子は布団を顔のほうへ引き上げた。
マミの声は柔らかかった。
「佐倉さんも少し寂しそうな顔をすることがあるわ」
「……してねぇし」
マミの笑いは泣きそうではなかった。
でもどこか痛みを知っている笑いだった。
「次からは……ちゃんと相談しましょう」
杏子は目を閉じた。
相談。
苦手な言葉だった。
勝手に決めて勝手に動くほうが楽だ。
けれどさっき神崎に頭を下げられたばかりだった。
帰る連絡。大人のくだらないわがまま。マミの声。
全部まだ耳に残っている。
「……気が向いたらな」
杏子は小さく言った。
マミは忍び笑いをする
夜は更けていく。
杏子は布団の中で少しだけ目を開けた。
次がある。
隣でマミが静かに息をしている……神崎もいる。
少しだけ目を閉じると、安らぎがじんわりと身に沁みた。
翌日。
マミは帰宅した。
体重計に乗ってダイエットを誓った。