祈りの残響 ー佐倉杏子の幸福の定義ー   作:キルケル

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第2話 努力じゃなくて成功しろ

夕方。

台所で、神崎が珍しく落ち着かない様子で立っていた。

 

「……どの菓子が適切だろうか」

 

テーブルの上には、妙に整然と並べられた手土産候補。

焼き菓子。和菓子。

なぜか果物の詰め合わせ。

 

「……なにやってんだあんた」

 

杏子が壁にもたれていた。

 

「鹿目知久さんの家への訪問の準備だ」

「本気で行くか普通……まあ良いけどさ。相手をあんまりビビらせんなよ」

 

沈黙。

杏子の視線がテーブルに向く。

 

昔、教会にまだ杏子がいた頃から神崎は足繫く熱心に通う教徒だった。

 

幼い杏子は神崎の端正な顔立ちと、よく言えば思いをそのまま言葉にして伝える実直なふるまいが大人らしく見え、それ故の淡い想いを持っていた。

 

父親は杏子に対して、優しかったが、子供に対する対応であった。

 

一方で神崎は杏子が子供といえども、一人の対話をする相手として捉えていた。

そのうえで、杏子を否定することなく、常に目線を合わせて会話をしてくれた。

 

そんな神崎と会話をすることが杏子にとって週末の説法の時間の楽しみの一つであった。

 

神崎は常に自分の思いを言葉にして、相手に伝えようと努力をする。

 

たとえそれが自分自身のことを滑稽に見せるものであったとしても。

誰もが当たり前にして、言葉にすることを失笑するものであったとしても。

ただ実直に……ときには不器用に伝えようとする。

 

杏子は今でも神崎のそんなところは好きだった。

 

しかし、今回はまずいだろうと杏子は考えていた。

 

「つうか昨日の今日だぞ……」

「確認したい。この思いが何なのか。念のためな」

 

杏子は黙る。

 

(……変わってねぇな)

 

「……あーわかったよ。でも一人で行くな。あたしも行く。監視する」

「そうか。では同行を頼む」

「……自分で命令しといてあれだけど、許可、軽いな」

「君は私を認めてくれた人だ。信頼している」

 

沈黙。杏子の顔がうっすらと赤くなる。

 

実家を破門されてしまった自分を神崎はそれでも必要としてくれる。

 

改めて声に出されると、やはり嬉しい。決して口には出さないが。

 

「……ほんっと重いやつだな……行ってやるよ」

 

杏子は菓子を一つ取る。

 

「これにしとけ。あたしが食ってうまかったから間違いない」

「そうか。ならばそうしよう」

 

神崎は、杏子の言うことを吟味したうえで、それを肯定する癖があった。

 

神崎曰く、杏子だから信じている……とのことだった。

 

ふとした瞬間にその癖が浮かび出るのを見ると、杏子は何とも言えないくすぐったさが出てくるのであった。

 

昔から、そうだった。

 

この男は、どうでもいいことをどうでもよく扱えない。

 

菓子一つでも。返事一つでも。杏子が何気なく言った言葉でも。

 

妙に丁寧に受け取って、妙に真剣に考える。

 

それがやたらと重く感じられた。

重く感じられるはずなのに。

 

なぜか、それが嫌ではなかった。

 

神崎がこちらを見る。

 

「今、何か考えているようだったが」

「顔見ただけでわかるみたいに言うな」

 

軽口をお互いにかけながら出発に向けての準備をする。

神崎は手土産の箱を紙袋に入れ、折り目をぴしりと整えている。

 

その手つきを見ているうちに、また記憶が引っ張られた。

 

 

 

*

 

 

 

 

教会の奥にあった、小さな台所。

砂糖と小麦粉の匂い。

古いオーブンの、低く唸る音。

白いシャツの袖をまくった神崎の背中。

 

まだ、神崎が青年だった頃。

杏子が、今よりずっと小さかった頃。

あの場所には、いつも何か甘い匂いがあった。

 

「それ、なに作ってんの?」

 

幼い杏子は、椅子の上に膝立ちになって台所を覗き込んでいた。

 

「クッキーだ」

 

神崎は振り向かずに答える。

 

「また?好きだな、あんた」

「私が好きなのではない。皆が食べるから作る」

「ふーん」

 

杏子はつまらなそうに言いながらも、興味津々で天板を見つめていた。

丸く抜かれた生地が、規則正しく並んでいる。

 

子供の目にもわかるくらい、きっちりしていた。

 

「一個くれよ」

「まだ焼いていない。それに配布は説法の後だ。順番がある」

「ケチんぼ!」

 

そう言うと、神崎は手を止めた。

怒られると思って杏子は身構えたが、神崎はただ少し困ったような顔をしただけだった。

 

「ルールを気安く破ってはいけない。君にはそういった人間になってほしくない」

「……」

「君の父君、先生もそうおっしゃるだろう」

 

その言い方が妙に真面目で、杏子はきょとんとした。

 

「あの人の話を聞きに人は来る」

「神様じゃなくて?」

「少なくとも、私はそうだ」

 

神崎は粉のついた手を布巾で拭いた。

そして、少しだけ声を落とす。

 

「私は、先生の人柄に惚れている」

 

幼い杏子には、その言葉の意味がよくわからなかった。

 

「ほれてる?」

「……とても大切に思っている、ということだ」

 

杏子は曖昧に頷いた。

 

大人はときどき、よくわからないことを言う。

 

父もそうだったし、神崎もそうだった。

 

けれど、神崎は父のことを話すときだけ、いつも少し表情が違った。

 

声がやわらかくなる。目が、まっすぐになる。

普段はきちんと畳まれている何かが、少しだけほどける。

 

「あんた、とうさんのこと好きなの?」

「……好きだ」

 

諦観したような返事だった。

 

「なんでそんな疲れた言い方すんの?」

「……事実だからだ」

「変なの」

 

杏子は深く考えずに言った。

好きなら好きでよいのではないかと思ったからだ。

 

神崎は、杏子の様子を見ながら答えた。

 

「変でも構わない……本当のことだからだ」

「うん。だから変でもいいじゃん別に。あんたはあんた。ほんとのことなんだから」

 

そのときの杏子は、思ったことを思ったようにしか言った記憶はない。

 

だが、神崎が杏子の言葉を聞いて、珍しく声をあげながら笑っていたことをよく覚えている。

 

それ以後、神崎は杏子自身に対しても目を向けるようになっていた。

なにかとても尊いものを見るように。

 

 

 

*

 

 

 

「杏子」

 

別の日。

教会の隅にある机で、杏子は鉛筆を握っていた。

神崎はその向かいに座り、ノートを見ている。

 

「この計算、途中までは合っているが、最後が違う」

「細けぇな」

「最後が違えば当然答えも違う」

 

杏子は唇を尖らせた。

神崎は、怒らない。

父のように諭すこともしない。

ただ、杏子のノートに視線を落とし、必要なことだけを言う。

 

「ここで繰り上がりを忘れている。わかったか」

「……わかった。けど、めんどくせえ。もういいじゃん」

「君ならできる。もう一度」

 

その言い方には、慰めもおだてる響きもなかった。

当然のように言っていた。

 

君ならできる。

 

それは、子供に向ける甘い言葉ではなかった。

本当に、杏子に能力があると判断している声だった。

 

杏子は少しだけ目を伏せた。

 

「……できたら?ごほうびは?」

 

神崎は考え込んだ。真剣に。

 

「クッキーを一枚」

「少なすぎっ。もっと!」

「では……三枚」

「やった」

 

杏子はにやりと笑って、もう一度鉛筆を走らせた。

計算は、今度は合っていた。

 

「正解だ」

「だろ?」

「理解が早いな。そして君は出来がいい」

 

言い方が固くあまり子供に対するほめ方ではなかった。

その不器用さがおかしくて、杏子は笑った。

 

神崎は、杏子を小さな子供扱いしなかった。

もちろん、年齢相応に危ないことをすれば止める。

けれど、杏子の考えを、子供だからといって聞き流すことはなかった。

 

「なあ、なんで勉強しなきゃいけねぇの?」

「選べるものを増やすためだ……知らなければ、選べないだろう?」

「知らなくても自分がやりたいようになんて簡単にできるじゃん」

「たしかに生きることだけはできる。

 だが、誰かに決められた道を、自分で選んだと錯覚することがある」

「……よくわかんねぇよ」

「今はそれでいい……君ならば、必ず理解できる」

 

神崎はそう言った。

子供に対する言葉ではなかった。

ひとりの人間に対する言葉だった。

それが、杏子には少し誇らしかった。

 

 

 

*

 

 

 

運動会の日は、よく晴れていた。

校庭には砂埃が舞い、あちこちで親たちが敷物を広げている。

弁当箱の匂い。

カメラを構える大人たち。

走り回る子供たち。

 

杏子は、赤い鉢巻きを指でいじりながら、校庭の端に立っていた。

両親はいない。

父は教会を空けられなかった。

母も妹の世話と手伝いで来られなかった。

 

別に、いい。

そう思っていた。

思っていた、はずだった。

 

「杏子」

 

声がした。

振り向くと、神崎が立っていた。

いつもの白っぽいシャツではなく、少し動きやすそうな服装をしている。

手には水筒と、小さな包み。

 

「なんでいんの」

「君の父君……先生から運動会だと聞いた」

「とうさんが?」

「ああ。行けるなら見てきてほしいと」

 

杏子は一瞬、何も言えなかった。

 

「……ふーん」

「迷惑だったか」

「別に」

 

神崎はそれ以上は話さなかった。

ただ、校庭の隅に立ち、競技のたびに杏子を見ていた。

 

徒競走で杏子は一番だった。

綱引きでは、力いっぱい踏ん張った。

玉入れでは、思ったより入らなくて少しむっとした。

 

神崎は、派手に応援するタイプではなかった。

 

「行け、杏子!」

 

などとは言わない。

手を振るわけでもない。

 

けれど、杏子が走り終わって振り返ると、必ずそこにいた。

 

まっすぐ見ていた。

それだけで、十分だった。

 

「見てたか?一番だったぜ」

「ああ。さすがだ」

「もっと驚けよ」

「君の脚力が同年代と比べて抜きんでて速いことは知っていた」

 

杏子は照れ隠しに砂を蹴った。

 

昼休みになると、神崎は包みを開いた。

中には手作りの弁当が入っていた。

 

「うまそう! かあさんの得意料理だ」

「君のことを心配していた」

「気にしなくていいのにな」

 

杏子はそう言いながら、ひとつ口に入れた。

卵焼きは甘さは控えめで、それでもきちんと味が染みておいしい。

 

「……午後に保護者参加の競技あるらしいけどあんた運動できんの?」

「多少はな。君の頑張りを見た。私も努力しよう」

「ばかっ。こういうときは努力じゃなくて成功しろっ! 一位取れ!」

「……成功しよう」

 

杏子の笑顔で、少しからかい交じりの言葉に神崎は微笑しながら答えた。

 

神崎が参加したのは借り物競走だった。

純粋な脚力を競うものではなかったから、脚の速さはそこまで見られないはずだった。

 

だが、それでも分かるほどに異様に速かった。

 

走るフォームがきれいだった。

無駄がなく、迷いがない。

 

借り物の札を引くまでの時点で既にぶっちぎりの一位だった。

杏子はぽかんと口を開けた。

 

「……速すぎだろ」

 

神崎は一位で戻ってきた。

 

手に持っていた札には「赤いもの」と書かれていたらしく、走る途中にいた杏子の鉢巻きをあっという間に借り去っていた。

 

相当珍しく、少しだけいたずらげな笑顔で。

 

「成功したぞ」

「お、おう……いや、早すぎだろ」

「君から成功しろと言われたからな」

「ふ、ふーん……ま、当然だよな。あたしと約束したんだもんな」

 

神崎は何も言わなかった。

ただ、大切なものを見るように笑った。

 

それ以後、二人の間では、「成功しろ」というのが約束する際のフレーズになった。

 

 

 

*

 

 

 

妹に対して、杏子はいつも優しかった。

 

自分の菓子を半分に割る。

寒い日は上着を貸す。

妹が泣けば、ぶっきらぼうに頭を撫でる。

 

「泣くなよ。ほら、これやるから」

「お姉ちゃんのぶんは?」

「いいんだよ、あたしは」

 

そんな場面を、神崎はよく見ていた。

 

「杏子。君は優しいな」

 

杏子は露骨に顔をしかめた。

褒められてうれしかったのを隠すため。

 

「なんだよ急に。気持ち悪。普通だろ」

「妹を大切にしている。すばらしいことだ」

 

神崎は真顔だった。

 

「それは、君の父君の教育の良さでもあり、君自身の優しさでもある」

「……」

 

杏子は口を閉じた。

怒ればよかった。茶化せばよかった。

 

けれど、うまく言葉が出なかった。

 

「とうさんの教育って言っときゃ、とうさんに好かれると思ってんだろ」

 

ようやく出た言葉は、そんなものだった。

 

神崎は否定しなかった。

 

「それもある。私は、君の父上によく思われたい」

「ど、堂々と言うなよ! そのこと、隠したがってるくせに!」

「だが、それだけではない」

 

神崎は杏子を見た。

 

「君自身を、私は好ましく思っている」

「……」

「君は粗雑に見せているだけで、雑ではない。よく見て、よく考えている。

 自分以外の誰かの幸せのために、自然に手を差し伸べる」

「ゃ、やめろ……なんかむずむずする」

 

杏子は妹の手を引いて、神崎から顔を背けた。

耳が熱かった。

好きとか、嫌いとか。

憧れとか、照れとか。

そういう名前を、当時の杏子はまだうまく持っていなかった。

 

ただ、神崎に褒められると、胸の奥が少し変になった。

父に褒められるのとは違った。

母に撫でられるのとも違った。

友達にすごいと言われるのとも違った。

 

何か、くすぐったくて。

悔しくて。

でも、悪くなかった。

 

 

 

*

 

 

 

ある夜、杏子は友達の猫を探していた。

 

白い猫だった。

片目の上に黒い模様があって、よく教会の裏にも来ていた猫だ。

 

「ミケって名前なのに白いんだよ」

 

友達は泣きそうな顔でそう言った。

杏子はそれを放っておけなかった。

 

「探してやるよ」

「でも、もう暗いよ」

「猫の集会とかっていうし。夜なら見つかるだろ」

 

そう言って、杏子は町を歩き回った。

 

路地裏。空き地。神社の裏。川沿いの道。

時間がどんどん過ぎていく。

 

友達は親に見つかって途中で家に帰された。

 

それでも杏子は隠れて探し続けた。

猫は見つからなかった。

 

代わりに、神崎が杏子を見つけた。

 

「杏子」

 

街灯の下に立つ神崎の顔は、いつもより少し険しかった。

 

「……げ」

「杏子……この時間まで何をしていた」

「……猫、探してた。仕方ねぇだろ。いなくなって心配してるやつがいるんだから」

「……君の父君と母上も今、同じ状況だ」

 

杏子は言い返そうとして、できなかった。

神崎の声は怒っていたが、怒鳴りはしなかった。

 

「寒くはないか」

「べ、別に寒くなんかねえよ」

 

その直後に杏子はくしゃみをした。

 

神崎はため息をつきながら自分の上着を杏子にかけた。

杏子の頭を無言で撫でて。

それを杏子は黙って受け入れた。

 

「帰るぞ。明日、私も探す」

「でも、すぐ探してやらねえと」

「今は君が帰る時間だ……杏子」

 

名前を呼ばれて、杏子は黙った。

 

神崎の目は、責めているのではなかった。

ただ、話を聞いてほしいと訴えている目だった。

 

帰り道、杏子はずっと黙っていた。

 

教会に戻ると、父が待っていた。

 

母も、妹もいた。

母は泣きそうで、妹はもう泣いていた。

父は厳しい顔をしていた。

 

「杏子」

 

その声を聞いた瞬間、杏子は肩をすくめた。

怒られる。そう思った。

 

けれど、神崎が一歩前に出た。

 

「申し訳ありません」

 

深く頭を下げた。

 

「私が、もっと早く気づくべきでした」

「神崎くん……」

 

父が驚いたように言う。

 

「違うだろ」

 

杏子は思わず言った。

 

「あたしが勝手に……そ、そもそもなんであんたが謝んだよ」

「君を見つけるのが遅れた。そして、君の危惧に気づくことのできなかった私も悪い」

 

神崎は頭を上げなかった。

 

「申し訳ありませんでした」

 

父はしばらく神崎を見ていた。

それから、杏子を見た。

 

「杏子。人を助けたいと思うことは、素晴らしいことだ。

 だが、お前がいなくなればお前を大切に思う人が苦しむ。

 神崎くんにも、心配をかけた」

 

杏子は神崎を見た。神崎はまだ頭を下げていた。

 

「……ごめん」

 

小さく言った。

誰に向けたのか、自分でもよくわからなかった。

父に。母に。妹に。そして、神崎に。

神崎は、ようやく顔を上げた。

 

「猫は、明日探そう。一緒に」

「……うん」

 

その翌日、猫は近所の物置で見つかった。

杏子は友達に感謝され、神崎は猫に引っかかれた。

 

「痛くねぇの?」

「痛い」

「顔に出せよ」

「出している」

「出てねぇよ」

 

杏子は笑った。神崎も、少しだけ笑った。

 

 

 

*

 

 

 

「大丈夫か」

 

現在。

杏子は、気づけば手土産の箱をじっと見つめていた。

神崎の声がする。紙袋の持ち手を整えながら言葉が出る。

 

「昔から、君は考え込むと目が少し逸れる」

「観察すんな。はずいだろ」

「すまない」

 

そのやり取りが、また昔と同じで。

杏子は少しだけ胸が詰まった。

 

「……あんたさ。昔から、親父のことばっかだったよな」

 

神崎の手が止まった。

ほんの一瞬。本当に、わずかに。

 

「そう見えたか」

「見えたっていうか、そうだったろ」

「……私は、君の父君によく思われたかった。

 だから、教会を手伝い菓子を作った。君の勉強を見たり、運動会にも行った」

 

神崎は穏やかに話した。

その顔に開き直りはなく自虐もない。

ただ、痛みをきちんと抱えたまま、そこに立っている。

 

杏子はそれが少し腹立たしかった。

 

「でも……全部がそれだけだったわけじゃねぇだろ」

 

口が勝手に動いた。

神崎が杏子を見る。

 

「あんたさ、あたしのことも見ててくれただろ」

 

言った瞬間、胸の奥がざわついた。

言いすぎた気がした。

けれど、もう引っ込められない。

神崎は黙って杏子を見つめ、それに対して杏子は視線を逸らした。

 

「別に、だから何って話じゃねぇけど」

「当たり前だろう」

 

静かな声だった。

 

「君は、あの人の娘だった。だが、それだけではなかった」

 

神崎は少しだけ目を伏せた。

 

「君は君だ」

 

杏子は返事をしなかった。

 

茶化したり、重いと言えばよかった。

 

でも、できなかった。

 

神崎のその言葉が、あまりにもまっすぐで。

昔の自分が、どこかでそれを待っていたような気がして。

 

杏子はようやく声を出した。

 

「……じゃあ今はどうなんだよ」

 

神崎はすぐには答えなかった。

 

沈黙が落ちる。外で車の通る音がした。

紙袋の持ち手が、神崎の指先で小さく揺れる。

 

「君の保護者でありたいと思っている」

 

テーブルの上に置いた携帯が震えた。

短い振動音。

杏子はびくっとして、神崎は視線を落とした。

 

画面には、アプリの通知が出ている。

鹿目家までの経路。到着予定時刻。

 

現実が、ふいに割り込んできた。

 

「時間だな」

 

神崎が言う。

 

「……うん」

 

杏子の声は、自分で思ったよりも震えていた。

顔が真っ赤になっているのを自覚していた。

 

「私は少なくとも君を絶対に守りたいと考えている。

 君からすると鬱陶しいかもしれないが」

 

神崎は少しだけ口元を緩めた。

それが、また昔のようだった。

 

杏子は乱暴に上着を取る。

玄関へ向かいながら、背中越しに言った。

 

「帰り、なんか食って帰ろうぜ」

「ああ。外食が連続してしまうのは良くないが。良いだろう」

「やった! 絶対だからな」

 

杏子は靴を履きながら、ちらりと神崎を見た。

 

神崎は紙袋を持って、静かに立っている。

 

その姿が、教会の台所にいた頃と重なった。

菓子を持って。褒められたくて。

でも、それだけではない何かを抱えて。

 

杏子は唇を噛んだ。

 

「……あんたさ。もし、親父が——」

 

言いかけて、やめた。

神崎がこちらを見ながら待っている。

 

杏子はドアノブに手をかけたまま、視線を逸らした。

 

「……わりい。なんでもねぇ」

 

ドアを開けると、風が入ってきた。

少し冷たい。この家のいつもの匂いがした。

 

杏子は先に外へ出る。

 

背後で、神崎が静かに鍵を閉める音がした。

その音を聞きながら、杏子は胸の奥に残った言葉を飲み込んだ。

 

もし、親父が。あんたのことを、ただの信者じゃなくて。

ちゃんと見ていたら。

あんたは、今みたいにあたしのことを引き取らなかったんじゃないか。

そう聞きかけたことを、杏子はまだ認められなかった。

 

 

 

 

 

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