体育館の床はよく磨かれていた。
蛍光灯の白い光が板張りの床に細く反射している。
バスケットボールが弾む音があちこちで重なっていた。
杏子はドリブルの音を聞きながら走った。
ボールが手に吸いつく。足が勝手に次の場所を選ぶ。
相手の動きがほんの少し遅れて見える。
当たり前だが魔法は使っていない。
ソウルジェムも反応していないし身体を強化している感覚もない。
けれど魔法少女になる前から自分がどれくらい動けたのか杏子にはもうよくわからなかった。
元から運動は嫌いではなかった。
走るのも跳ぶのも身体を動かすのも好きだった。
だが今のこの動きが元からのものなのか魔法少女になった身体の名残なのかはわからない。
わからないならそれでもいい。
動ける。楽しい。
それで十分だった。
「佐倉さん!」
味方からパスが飛んでくる。
杏子はそれを受け取りそのまま一歩で相手を抜いた。
「ちょっ!速っ!」
誰かが叫ぶ。
杏子はリングの下まで入り込み軽く跳ぶ。
ボールはほとんど音もなくネットを抜けた。
笛が鳴る。
「はい試合終了!」
教師の声が響いた。杏子は軽く息を吐きコートの端へ戻ろうとした。
そのとき近くで別のボールが跳ねて見学をしている女子……-遠野に当たりそうになった。
「あっ」
杏子は反射で動いた。
手を伸ばし相手の腕を掴む。
もう片方の手で肩を支える。
遠野の身体が杏子の胸元に近づく寸前で止まった。
「っと」
杏子は眉をひそめる。
「大丈夫か?」
遠野は数秒動かなかった。
それからゆっくり顔を上げる。
「……う、うん」
声が少し上ずっていた。頬が赤い。
「ありがとう佐倉さん」
「気にすんな」
杏子は手を離す。
遠野は慌てて体勢を整えた。
落ちたボールを拾おうとしてまた少し慌てる。
杏子は先にボールを拾ってから試合中のチームに軽く投げ渡す。
チームの女子たちは申し訳なさそうにお礼を言ってきた。
一息ついて見学していた遠野に声をかける。
「ほら。ぼさっとしてんなよ」
「ぁ……うん」
遠野は以前から杏子に声をかけることが多かったが先日の授業参観以降は、毎日杏子に声をかけるようになっていた。
一方で積極的なタイプのわりに体が弱いのか、体育の授業の時はいつも見学をしている。
接点が最近やたらと多く杏子も気にかけていたため、今回無事にボールがぶつかる前に遠野を守ることができたわけであった。
物おじせずにクラスの中では誰とでも普通に話せるタイプ。
だから壁を作っている自分に声をかけてこなくとも……と杏子は今でも思っていた。
しかし、それでも遠野は杏子に対して毎日楽しそうに声をかけてくる。
しつこすぎるわけではない。
踏み込みすぎるわけでもない。
ただ顔を合わせれば声をかけてくる。
「次。チーム替えみたいだね」
遠野が言う。
周りの生徒たちが水を飲んだりタオルで汗を拭いたりしている。
杏子は壁際に寄りかかり、軽く息を整えた。
魔女と戦った翌日ほどではない。ただの体育の授業だ。
身体は軽い。
遠野は隣に立ったまま、ちらちらと杏子を見ていた。
「何だよ」
「あ、いや……佐倉さん今日すごく機嫌いい?」
遠野は少しだけ迷ったようにボールを抱え直した。
杏子は目を瞬かせた。
「……機嫌?」
「いや違ったらごめん。
何かいつもより楽しそうっていうか」
杏子は少しだけ黙った。
そんなに顔に出ていたのか。
自覚はあまりなかった。
体育が楽しいからかもしれない。
バスケで動けるからかもしれない。
いや。たぶん違う。
杏子は口元が少し緩みそうになるのを押さえた。
「……そうかもな」
遠野の目が少し丸くなる。
「え。認めるんだ」
「認めたら悪いか」
「いやちょっと意外だっただけ。
……で、何で?いいことあったの?」
遠野は少し身を乗り出した。
杏子は体育館の天井を見上げる。
「いいことっていうか。
……普段、面倒くさいやつに仕返しできた」
「仕返し?どんな?
聞きたい聞きたいっ!」
「お前。前から思ってたけど案外しつこいよな」
「えへへ。佐倉さん相手なんだからいいかなって。
佐倉さん面倒見いいし!」
「何だそれ……つうかそもそも面倒見とか良くねえし」
杏子は呆れたように笑った。
遠野がそれを見てまた目を丸くする。
たぶん杏子が学校でこうして笑うのは珍しいのだろう。
遠野はそういう変化を見逃さない。
杏子と仲良くなりたいからよく見ている。
「……まあ。あれだよ。面倒な奴を友達の授業参観に行かせた」
「授業参観?面倒な奴って誰さ」
杏子は少し声を落としながら何でもないように言ったが遠野はそれに対してどういうことだとたまげていた。
「あーまあ。お前も見たことあるよ。
あたしの授業参観に来てたバカ」
「ああ。あのかっこいい人」
「……はぁ」
「えぇ……かっこよかったじゃん。ちょっと変わってたけど」
遠野は笑った。
「で、その人に今度は友達の授業参観に行けって言ったの?
何で?」
「普段から子供の嫌がることをするのも大人の義務だとか言ってるから」
「あははっ!すごい理屈だね。
でも友達の授業参観ってその人は保護者じゃないんじゃない?」
「友人だって言い張ればいいだろ」
「いや理屈になってないような……」
「いいんだよ。細かいことは」
杏子は顔を逸らした。
遠野は楽しそうに笑っている。
体育館の中央では次の試合のチーム分けが進んでいた。
教師が名前を呼んでいる。
その声を聞きながら杏子は昨夜のことを思い出した。
*
夕食のあと神崎は机に向かっていた。
紅茶のカップが横にあり紙の束が広がっている。
最近は倉庫を作業部屋にしているはずなのに結局この部屋にも書類を持ち込んでいる。
杏子はそれを横目で見ながら携帯を操作していた。
マミからの連絡。
授業参観があるという話だった。
正確にはマミが言い出したのではない。
何気ない会話の中で学校行事の話になった。
先日の授業参観の話をしていたらマミも近いうちにあると少しだけ言った。
その言い方が妙に控えめだった。
来る人がいるのかと聞くのは野暮だった。
聞かなくても何となくわかった。
マミは一人で立てる。
立ててしまう。
だからこそ誰も来てくれないことを何でもないように処理してしまう。
杏子はそれが少し嫌だった。
自分の授業参観に神崎が来たとき恥ずかしかった。
最悪だった。
校門前でクラスメートに見られて良い子だの何だの言われて本当に消えたくなった。
でも。来ている。
後ろに立っている。
自分の途中式を見て頷いている。
それは思ったよりも胸の中に残った。
だからマミにもそういうものがあればいいと思った。
もちろん本人が嫌がる可能性は高い。
杏子なら嫌がる。
マミもきっと困る。
でも困ることと本当に嫌なことは違う。
そういう理屈は神崎がよく使う。
だから今回はその理屈を神崎に返してやることにした。
「神崎ぃ。マミの学校授業参観あるってさ。
当然。行くよな?」
神崎のペンが止まり少しだけ考え込んだ。
杏子はその様子を見て内心で笑いそうになる。
予想通りだ。
神崎はすぐに行くとは言わない。
行くべきかどうかを考える。
杏子の授業参観とは違う。杏子は神崎と一緒に暮らしている。
保護者だと神崎は言い切っているし杏子もまあ……都合のいいときだけは認めてやってもいいと考えている。
だがマミは違う。
友人だ。大切な友人ではある。しかし保護者ではない。
その線を神崎はかなり気にするはずだ。
「巴さんが拒絶しないのであれば。
……それが彼女の助けになるのであれば。
……行きたいとは思う。だが授業参観は一般的に子供が恥ずかしがる」
「なら何であたしのとき来たんだよ」
「杏子の場合、私には行く義務もあった」
「その義務、誰が決めたんだよ。あんたが勝手に決めただけだろ?」
神崎はあっさり頷く。
実際にあれは自分自身の倫理に基づく勝手極まりない我が儘だったと神崎は考えている。
だから杏子に許諾をもらった。
無理やりだったが。
杏子は少しだけ目を細めた。
「じゃあマミにも勝手にしろよ」
「杏子と巴さんでは立場が違う。それは違う」
神崎は真面目な顔だった。
「ばか。友達なんだろ。なら行けよ」
「友人だからこそ嫌がることをするべきではない」
「嫌がられても必要ならやるのが友人なんじゃねぇの」
神崎は目を見開いて黙った。
杏子は神崎の反応に驚いた。
杏子の言った言葉が思ったより神崎に刺さったようだった。
「あんたさ。あたしには言ってたじゃん。
嫌がることも子供の義務だとか。行くのは大人の義務だとか。
ならさ……マミが嫌がったとしても?
マミのためになるなら行動するべきだろ」
半分はからかいだった。
神崎の倫理的にあまりないことをやらせて神崎自身の行動を神崎自身に困惑させることで溜飲を下げたい。
そしてマミに少しだけ困ってほしい。
そのあとできっと笑いあえる気がする。
でも半分は本気だった。
マミは一人でいることをひどく恐れている。
だから少し強引な誰かが必要なのではないか。
神崎のように変で不器用で、でも真面目に頭を下げる大人が。
杏子はそこまで言葉にしなかった。
ただ机の横に立って神崎を見た。
「巴さんが迷惑に思うかもしれない」
「思うかもな」
「杏子のように怒るかもしれない」
「怒るかもな」
「それでも行くべきだと思うか」
「あったりまえだろ。余計なおせっかいはお前の得意分野なんだから」
杏子は即答した。
神崎は口元に手をやり考え込むように少しだけ目を伏せた。
「私は君の言うことを信じる癖がある。
昔からそうだが……君がそれがよいと言うなら信じてみよう」
「……重いやつだなあ。相変わらず」
神崎は本当にそういうところがある。
杏子の言葉を妙に信じる。
それは昔からだった。
猫を探すときも勉強を見るときも父のことで杏子が何かを言ったときも。
神崎は杏子の言葉をただ子供のわがままとして扱わない。
冗談交じりに言ったことまで真面目に受け取ってしまうことがある。
それが面倒で少し怖い。
だから杏子はなるべく真摯に返さなければならなくなる。
信頼されるというのは案外面倒だ。
「行くなら変なことすんなよ」
杏子はむしろ前振りの様にわざと軽く言った。
神崎は真面目に考え込んだ。
絶対やらかすだろうな。
杏子は少し笑いそうになった。
神崎は何かをメモし始めた。
「何書いてんだよ」
「当日の確認事項。準備をきちんとしておかねば」
「もう行く気かよ」
杏子は口元を押さえた。
からかい半分だった。
でも神崎はもう動き始めている。
その愚直さに呆れつつも笑いが堪えきれず。
同時に少しだけ安心する。
マミのために本当に誰かが動く。
それが神崎ならたぶん失敗もする。
変なことも言う。
マミを恥ずかしがらせるかもしれない。
それでも悪いことにはならない気がした。
「マミに嫌がられたらあたしのせいにすんなよ」
「行くと決めるのは私だ。だから責任は私が持つ」
杏子は黙った。そういうところがずるい。
「勝手にしろ。あとマミには先に連絡しろよ」
「もちろん」
「当日いきなり後ろに立ってたらたぶん、銃出るぞ」
「銃?」
「比喩だよ」
神崎は真剣に頷いた。
杏子はそれを見て今度こそ普通に笑った。
*
「佐倉さん?何笑ってんのさ」
遠野の声で杏子は体育館へ戻ってきた。
「……笑ってねぇし」
遠野は嬉しそうだった。
杏子は落ちていたボールを手元で軽く転がす。
「で、その仕返しって成功したの?」
「まだ途中。今日なんだよ授業参観」
遠野は目を輝かせた。
「じゃあ今ごろ、その人は友達の学校にいるの?」
「たぶんな」
「すごいねえ。
よくわかんないけどそういう大人ってなかなかいないでしょ」
「変なやつだからな」
「でも優しいんじゃない?」
「……まあ」
杏子は少しだけ視線を逸らした。
遠野は笑った。
教師の笛が鳴った。
「はい次のチーム!」
遠野は杏子を見て目を輝かせる。
「佐倉さん、次も勝ってね?」
「あたりまえだろ」
「……ふつうに言い切るのかっこいいなぁ」
「負けるかもなんて思って勝負するやついねえだろ」
「……さっきみたいなことあったらまた助けてくれる?」
「よけろ」
「……そうだけどさ」
遠野は照れたように笑った。
杏子はその顔を見て反応に困った。
遠野は杏子に近づこうとしている。
その距離の詰め方はマミや、まどかとも違う。
学校の友達……っぽい何か。
でも悪くはない。
「行くか」
杏子が言うと遠野は頷いた。
試合が再開する。
杏子はまたコートを走った。
体育館の中でボールの音が跳ねる。
誰かの声がする。汗の匂いがする。普通の学校の時間。
マミが一人でいることを放っておきたくなかった。
それを認めるのはまだ少し恥ずかしい。
心の中の恥ずかしさを体に当てて杏子は勢いよくシュートを打った。
ボールはリングに当たり跳ねてネットを通った。
「佐倉さんナイス!」
遠野が反対側から声を上げる。
杏子は軽く手を上げただけで返した。
*
同じころ神崎は校門の前に立っていた。
手には学校から送られてきた参観案内の写し。
鞄の中には念のための筆記用具。
服装は杏子の授業参観のときと同じくきちんと整えている。
しかし杏子の学校の前に立ったときとは少し違った。
自分はここにいてよいのか。
その問いがずっと残っている。
巴マミは自分の子ではない。親戚でもない。保護者でもない。
友人であると考えている。
だからこそここにいる。
受付の前で神崎は一度立ち止まった。
巴さんが困るのではないか。
そう思う。
だが杏子は言った。
嫌がられても友人のためになるなら行動するべきだと。
杏子は冗談交じりだった。からかってもいた。
しかし彼女の言葉には巴マミへの真剣な思いがあった。
神崎はそれを信じることにした。
受付の教員が顔を上げる。
「ご来校の方ですか」
「はい。授業参観に」
神崎は案内を出した。
言ってから少しだけ声が硬くなる。
教員は名簿を確認した。
「ご親族の方ですか?」
神崎は一瞬だけ迷った。
親族ではない。保護者でもない。
では何か。
友人。
しかし中学生の授業参観に大人の友人が来るというのはどうなのか。
神崎は息を整えた。
「友人です。本人には事前に連絡しています」
教員が少しだけ瞬きをする。
連絡を入れたのは事実だった。
昨夜、マミに短い連絡を入れた。
『授業参観に伺ってもよろしいでしょうか』
しばらく返事はなかった。
その沈黙だけで神崎は何度も謝る文面を考えた。
やがて返ってきたのは短い言葉だった。
『少し恥ずかしいですが、来てくださるなら嬉しいです』
その文章を神崎は何度か読み返した。
だからここにいる。
受付の教員は少し不思議そうにしたが名簿に何かを書き込み来校者用の札を渡した。
「ではこちらをつけてください」
「ありがとうございます」
神崎は丁寧に頭を下げた。
校舎の廊下は杏子の学校とは少し違う匂いがした。
ワックス。紙。掲示物。誰かの話し声。
生徒たちの気配が廊下の奥から流れてくる。
神崎は案内に従って教室へ向かった。
*
マミの教室の後ろには数人の保護者が立っていた。
神崎はできるだけ目立たない位置を選んだ。
授業は国語だった。
教科書の文章を読み登場人物の心情について考える内容らしい。
マミは前のほうの席にいた。
姿勢がきれいだった。
ノートを取る手つきも視線の動きも丁寧だった。
先生に指名されると少しだけ考えてから落ち着いた声で答える。
神崎は頷きそうになって耐えた。
杏子に言われたからだ。
頷きすぎるな。なんかあんたすげえ目立つから。
しかし頷きたくなる。
巴さんは立派だ。
そう思った瞬間、神崎は自分の表情を少し引き締めた。
マミがほんの一瞬こちらを見た。
目が合う。
マミはすぐに前を向いた。
耳が少し赤いように見えた。
神崎は頷かなかった。頷かなかったが心の中ではかなり頷いていた。
授業は続く。
教室の中でマミは普通の生徒として座っている。
魔法少女としての姿ではない。銃もリボンもない。戦いの気配もない。
それでも神崎にはわかる気がした。
彼女はここでも少しだけ一人で立っている。
周囲と馴染んでいないわけではない。
会話もあるのだろう。先生からも信頼されているように見える。
けれどどこか静かに距離がある。
杏子にも似ている。違う形で。
神崎は胸の奥が少し痛くなるのを感じた。
来てよかったのかどうかはまだわからない。
けれど少なくとも彼女がここで過ごしている姿を見ることはできた。
それは友人として知っておきたいことだった。
先生がまた問いを投げる。マミが手を挙げる。
神崎は今度も頷かなかった。
成功している。たぶん。
*
杏子は午後の授業中。
少しだけ集中を欠いていた。
黒板の文字は見えている。先生の声も聞こえている。
だが頭のどこかで神崎とマミの授業参観のことを考えている。
神崎はマミの学校で何をしているのか。
さすがに先生に質問してはいないだろう。
でもあいつ目立つからな。マミを見て頷きすぎていないだろうな。
受付で友人ですと真顔で言っていないだろうな。
あんなもの親類だと言えばばれないに決まっているのだからそういっているだろうか。
いやあいつのことだから……
そこまで考えて杏子は固まった。
言ってそうだ。かなり言ってそうだ。
杏子は机に肘をつき口元を押さえた。
いけない。
笑ってはいけないのに笑いが出てしまいそうだった。
「佐倉さん眠い?次当たるよ?」
隣の席から遠野が小声で聞く。
「違う」
「考えごと?」
「……まあ」
遠野は笑いをこらえて前を向いた。
杏子はようやく笑いを収めると小さく息を吐く。
学校の友人。魔法少女の友人。
変な大人の友人。
最近やたらと友人という言葉が増えた。
それは悪くない。悪くないが落ち着かない。
誰かと関わるとその分だけ気になることが増える。
マミの寂しさ。遠野の視線。神崎の行動。
まどかやさやかのこと。
増えていく。それを面倒だと思う。
でも全部を切り捨てたいとは思わない。
杏子は黒板を見た。
次にあてられる問題の公式の説明だった。
神崎に教わったところだな……と思いながらノートを取った。
*
授業が終わるとマミはすぐには立ち上がれなかった。
神崎が教室の後ろにいる。
それだけで背中が少し熱い。
来てくださるなら嬉しいです。
自分でそう送った。それは本心だった。
けれど実際に神崎が後ろに立っていると思った以上に恥ずかしかった。
父兄でもない。親族でもない。
友人。
そう言える相手が授業参観に来ている。
それは奇妙で少し恥ずかしくて。
とても嬉しかった。
マミはノートを閉じゆっくり振り向いた。
神崎は後ろで静かに立っていた。
目が合う。
神崎は今度は頷いた。
さっきまで我慢していたのだろう。
それがわかってしまいマミは少し笑いそうになる。
周囲の生徒や保護者が動き始める。
神崎はすぐに近づいてこなかった。
マミがどう動くかを待っているようだった。
それが神崎らしく少し不器用だった。
マミは席を立つ。一歩教室の後ろへ向かう。
神崎はまだ静かに立っている。
その姿が少しだけ頼もしく少しだけおかしかった。
マミは神崎のほうへ歩いた。
「神崎さん。来てくださってありがとうございます」
神崎は丁寧に頭を下げた。
「伺えてよかったです」
「頷くのを我慢していましたね」
神崎は一瞬黙った。
「杏子に言われたので。深々と頷きすぎるなと」
マミは口元を押さえて我慢しようと思ったが抑えきれずに笑ってしまった。
神崎も少しだけ口元を緩める。
教室の外では保護者たちが廊下を歩いている。
授業参観はまだ完全には終わっていない。
けれどマミにはその一瞬だけ教室のざわめきが少し遠く感じられた。
友人が来てくれた。
そう思うだけで胸の奥の寂しさが消えないのに別の温度がそこに重なる。
「杏子にあとで報告してもよろしいですか。
巴さんは立派でしたと」
「……それは少し恥ずかしいです。
佐倉さんには私から話します」
マミは頬を赤くした。
神崎の顔は海辺の公園で別れたときと同じだった。
不器用で真面目で少し痛々しいくらい率直な大人の顔。
マミはその顔を見て思った。
頼ってもいい人が少しずつ増えている。
それはまだ怖いけれどでも嬉しい。
チャイムが鳴った。次の時間を告げる音。
神崎は少しだけ廊下のほうを見る。
「では。私は邪魔にならないように。また後で」
神崎は頭を下げ廊下へ出ていく。
マミはその背中を見送った。
そして携帯を取り出す。
杏子に送るかどうか少しだけ迷うがやがて画面を開く。
短く打った。
『神崎さん来てくれたわ』
送信。
すぐに既読はつかなかった。
杏子は授業中かもしれない。
マミは携帯をしまおうとして少しだけ笑った。
きっと佐倉さんはからかってくる。
少しだけ嬉しそうに。
そう思うと次に会うのが少し楽しみになった。
廊下の向こうで神崎が受付の場所を確認して少し迷っているのが見えた。
マミは小さく息を吐く。
「……本当に変わった方」
そう呟いた声は誰にも聞こえなかった。
けれどその言葉の中にはもう困惑だけではない温度が混じっていた。
「そういえばマミさんのところに、もしかしたら神崎さん来てないかな」
「ああ……たしかに行ってるかも。杏子から言われてとか」
「……? さやかちゃん神崎さんの話になると、
少し話ずらそうにするよね」
「いやぁ……あの人なんか言葉が重くて。
……照れるというか」
「あはは。でも確かに不思議なくらい雰囲気があるよね神崎さん」
「だよねっ。この前もさあ……」