巴マミの授業参観から数日が経っていた。
その日の放課後。
杏子はいつもより少し早く神崎の家へ戻った。
学校の鞄を肩に引っかけたまま階段を上がる。
夕方の廊下にはよその家の夕飯の匂いがうっすら漂っていた。
油の匂いと味噌汁の匂いとどこかの家のテレビの音。
そういうものに混じって自分の帰る部屋の前まで来る。
鍵を出す前に内側から紙の擦れる音がした。
杏子は眉をひそめた。
神崎は今日はまだ大学にいる時間のはずだった。
鍵を回し、扉を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
返事はすぐにあった。
神崎はリビングの隅で鞄を広げていた。
机の上には書類と本がいくつか積まれ床には小さな旅行鞄が置かれている。
黒い上着が椅子の背にかけられ普段より少しだけ部屋が落ち着かない。
杏子は靴を脱ぎながら言った。
「早ぇな。大学は?サボりか」
「今日は早く戻った。出張の準備でな」
「出張?」
杏子は鞄を肩から下ろす。
神崎は畳んだシャツを旅行鞄に入れながら頷いた。
「明日から二日ほど外へ出る」
「ふうん」
杏子は何でもないように返した。
何でもない。
神崎が二日ほどいない。それだけのことだ。
……いつもあるものが明日から二日間は神崎なしでそこに残る。
「何しに行くんだよ」
「研究会のようなものだ。正確に説明すると長くなるが」
「じゃあいい」
杏子は鞄を床に置き制服の上着を脱いだ。
今日はこのあとマミと巡回の予定がある。
学校から帰り荷物を置いて少し腹に入れてから出るつもりだった。
その前に神崎が出張の準備をしている。
それだけで少しだけ調子が狂った。
「留守の間。戸締まりは必ず確認してほしい」
「あーはいはい。わかってるわかってる」
「窓もきちんと確認をして」
「わかってるって言ってんだろ」
杏子は少し強めに返した。
神崎はそれ以上言わなかった。
代わりに小さな紙を取り出して冷蔵庫に貼った。
緊急連絡先。出張先の宿泊場所。
大学の連絡先。ガスの元栓確認。
戸締まり。食事。
杏子は露骨に顔をしかめながら冷蔵庫の前でしばらくそれを眺めたあとため息をついた。
うるさい。細かい。母親か保護者か。
そう思う。
けれど剥がそうとは思わなかった。
今日はマミのところへ行く。
魔女の気配が濃いというほどではないが巡回はしておいたほうがいい。
その準備をしなければならない。
なのに杏子は水を飲み終えてもすぐには動かなかった。
神崎が本を鞄から出したり入れたりしているのをぼんやり見ていた。
その背中はいつも通りだった。
猫背になりかけては自分で姿勢を正す。
真面目で少し滑稽で生活感が薄いようで妙に生活じみている。
杏子はコップを置いた。
「神崎。父さんどうしてる」
声は自分でも少し意外なくらい平らだった。
神崎の手が止まる。
部屋の空気が少しだけ沈む。
杏子はコップの縁を指でなぞった。
こういう話をするとき自分の中から感情が抜けることがある。
怒るわけでも泣くわけでもない。
ただ淡々と聞く。
それが一番たちが悪いことは自分でもわかっていた。
「元気にしている。
少なくとも身体の調子は悪くないように見えた」
「ふうん……金は?食えてる?」
「懺悔を聞く形で教会の仕事は続いている。
十分な金額にはなっているようだ」
「説法じゃなくて?」
「今は……していないな」
「……そっか。ならよかった」
杏子は感情のない声で返した。
よかった。
本当にそう思っているのか自分でもよくわからない。
父が伝えたかったものが正しかったのか間違っていたのか。
それは杏子にはわからない。
父は今でも自分の言葉が誰かを動かすことを今でも恐れているから。
かわりに懺悔を聞いている。
「あたしが願った結果でさ。父さんの思い踏みにじったんじゃん」
神崎はすぐには答えなかった。
杏子はコップの底を見つめていた。
水滴がテーブルに小さく広がっている。
「どう思う」
自分から出ているとは思えないほど声は杏子の声は淡々としていた。
「自分の思いを無理やり他人に受け入れさせられるってさ。
神崎なら嫌だろ」
神崎は旅行鞄のファスナーから手を離した。
しばらく部屋には冷蔵庫の小さな音だけがあった。
「思いを願いとして叶えられたのだから。
悪いことではないと思う」
神崎はゆっくり言った。
杏子は少しだけ目を細めた。
「そうかよ」
「ただ……そこに至るまでの過程が抜けていた。
人が誰かの言葉を聞き、考え、迷い。それでも受け入れる。
その時間がなかった。」
杏子は乾いたように笑った。
「それを悪いって言うんだろ。
あたしは自分勝手な願いをしたってことだ」
「少なくとも君は他者を思って願いを口にした」
杏子は何も言わなかった。
他者を思って。家族を思って。
父を思って。教会を思って。
そうだった。
少なくともそのつもりだった。
それでも結果は違った。
「あんたさ……
親父のこと思って自分の思いは言わなかっただろ。
あたしや母さんや妹がいたから。
……親父の幸せ。壊さないために」
神崎の目がほんの少しだけ揺れた。
杏子はそれを見てしまう。
見たくなかったのに。
声は小さかった。けれど部屋の中では十分に届いた。
神崎の瞳は諦めた人間のそれにも見えた。
「ただ単に諦めただけだ。
それは献身ではない。勇気がなかっただけだ」
神崎は少しだけ視線を落とす。
杏子は黙って椅子に腰を下ろした。
マミとの巡回に行く準備をしなければならない。
それなのに身体が重い。
こういう話は時々、突然。
しなければならないと自責のように衝動に駆られる。
感情が荒れるわけではない。
むしろひどく静かになる。
自分が願ったこと。その結果誰かに迷惑をかけたこと。
父を壊しかけたこと。神崎を巻き込んだこと。
それらをまるで他人事のように口にする。
でも本当は他人事ではない。
責めてほしいのかもしれない。
お前のせいだと。間違っていたと。
そう言われたほうがまだ楽なのかもしれない。
だから杏子は逃げようとした。
「……杏子」
「もういいや。おしまい」
「杏子」
来た。
時折。
神崎は信じられないくらい圧を出す。
こんなときは自分が子供だから仕方ないんだとか必死に言い訳しながら返事をすることしかできない。
「座りなさい」
神崎は本当にきちんとしたことを話そうとするとき席に座らせる。
今日もそれだった。
「…………ぁ、ああ」
声が少し震えているのを自覚する。
その気になれば簡単にぶっ飛ばせる相手なのに圧に屈してしまう。
神崎はしばらく杏子を見つめていたが。
やがて杏子に向かって話す。
「君の願いは他者を思う誰よりも美しいものだった」
杏子は顔を上げなかった。
「私には決してできないことだ。
私は自分の思いを言葉にすることすらできなかった。
……だが君は誰かのために世界を変えようとした」
「……でも壊れちゃったじゃん」
「だが。その願いが間違っていたとは私は思わない」
神崎は否定しなかったが杏子の願いを変わらずに美しく思っているようだった。
褒められているのか慰められているのかわからない。
美しい。
そんな言葉は似合わない。
自分の願いが美しいなら、どうしてこんなに苦しいのか。
家族はなぜ離れたのか。
神崎はなぜ今も父のもとへ通うのか。
答えは出ない。
神崎は杏子の沈黙を急がせなかった。
ただそこにいた。
杏子の向かいの席に。
杏子の言葉を受け止めるように。
「杏子。君が必要だ」
杏子は顔を上げた。
「私には君が必要だ。
君がいることで私はここに戻れる」
「誤解を招く言い方すんな。
……またそういうこと言ってマミとかに怒られるぞ」
杏子は反射的に笑った。
少しだけ乾いた笑いだった。
「君が怒る。止める。茶葉を増やすなと言う。
焦げたクッキーを食べない。野菜は嫌がる」
神崎の声はいつの間にか圧のない普段通りの話し方になっていた。
「君がいなければ。
私は自分の未練だけを見続けていたかもしれない。
……だから私には君が必要だ」
杏子は何も言えなかった。
胸の奥の固いものに触れられた気がした。
責めてほしかったのかもしれない。
でも神崎は責めなかった。
その代わりに必要だと言った。それは逃げ場のない言葉だった。
「……重い」
杏子は小さく言った。
いつもの形に戻ると少しだけ息がしやすくなった。
杏子は立ち上がり自分の部屋へ向かった。
制服を着替え動きやすい服に替える。
ソウルジェムを確認する。
魔女狩りに行く。マミと合流する。夜を歩く。
そういういつもの行動が今は少しありがたかった。
部屋に戻ると神崎はようやく旅行鞄のファスナーを閉じていた。
杏子は玄関へ向かった。靴を履く。
扉に手をかける。
そのまま出ようとして少しだけ止まった。
言うべきことがある気がした。
言わなくてもいい気もした。
神崎は何も急かさない。
ただリビングの方からこちらを見ている。
杏子は扉を少しだけ開けた。
外の空気が入る。
「……神崎。さっきの……ぁりがと」
「ああ」
声はかなり小さかった。
神崎が聞き返さない程度には届いた。
それだけで十分だった。
神崎は静かに頷く。
杏子はにかりと笑った。
それから扉を開ける。
「行ってくる」
神崎はいつもの声で答えた。
「いってらっしゃい」
その言葉を背中に受けて杏子は廊下へ出た。
扉が閉まる。
夜の気配はまだ遠い。
マミのところへ行くには少し急いだほうがいい。
杏子は階段を下りながらさっきの会話を頭の奥へ押し込めた。
父のこと。願いのこと。
神崎の未練。必要だと言われたこと。
全部すぐに答えが出るものではない。
けれどひとつだけ残った。
いってらっしゃい。
その声が廊下を出てもまだ耳の奥にあった。
「ああ。そういえば。ソウルジェム。全然穢れねえな。後でマミにも聞いてみるか」