夕方。
さやかが通ろうとしていた海へ向かう大通りは妙に広く見えた。
昼間なら車が途切れず走っている道だった。
バスも通るし自転車も多い。学校帰りの生徒や買い物帰りの人が歩道を行き交う。
けれどその時間帯だけはなぜか通りが空いていた。
さやかは歩道を歩きながら手に持った小さな袋を揺らした。
中身は差し入れに持っていった焼き菓子の空き袋だった。
恭介の練習を聞いてきた帰りだった。
今日も恭介はほとんど休まず弾いていた。
練習室の中で譜面台に向かい何度も同じ部分を繰り返す。
うまくいけばほんの少しだけ眉を緩める。
うまくいかなければすぐにもう一度弾く。
さやかが持っていった菓子には礼を言った。
ちゃんと食べた。
おいしいとも言った。
そしてそのすぐあとにまたヴァイオリンを構えた。
さやかはその姿を思い出して小さく笑った。
「ほんと変わんないな」
最近さやかは恭介の練習に付き合うことが増えていた。
付き合うといっても自分が何かできるわけではない。
飲み物を買っていく。
菓子を持っていく。
練習室の隅で黙って聞く。
たまにすごいと言う。
それだけだ。
それだけなのに行かずにはいられなかった。
恭介の音が好きだった。
恭介が何かに打ち込んでいる姿が好きだった。
そしてそこに自分が少しでも関われるならそれでいいと思っていた。
思っていた。
そのはずなのに最近は少しだけ足元が落ち着かない。
神崎に言われたことがまだ胸の中に残っている。
伝えること。
言えなかった後悔。
自分が美しいというありえないくらい真っ直ぐな言葉。
思い出すだけで顔が熱くなる。
「……ほんと。何なんだろあの人」
さやかは小さく呟いた。
その直後だった。
前方の信号の近くに人影が見えた。
姿勢がよくどこか場違いな雰囲気を持つきちんとした大人。
神崎だった。
さやかは足を止めた。
神崎もこちらに気づいたらしい。
信号は赤だった。車は一台も来ない。
それでも神崎は律儀に信号の手前で止まっていた。
さやかは思わず笑いそうになった。
信号の意味がないくらい車が通っていないのに神崎は渡らない。
その真面目さがあまりにも神崎らしい。
「神崎さん!」
「美樹さん」
いつものように丁寧に頭を下げる。
さやかも少しだけ頭を下げ返した。
何度か会っているのに神崎に挨拶されるとなぜかこちらも少しかしこまってしまう。
大人だからではない。
神崎がさやかに対しても大人に相対するように接するからだ。
気安く雑に明るく振る舞うことに慣れているさやかにとって。
それは今でも少し落ち着かなかった。
「こんなところで何してるんですか。
散歩ですか?また紅茶ですか?」
「今回は違います。
以前、茶葉を買いすぎたため杏子に止められていますから」
「ああ……杏子なら言いそう」
信号が青に変わる。
車は相変わらず来ない。
二人は並んで横断歩道を渡った。
海へ向かう大通りは少しずつ風が強くなる。
遠くに海の匂いがあった。
「美樹さんは上条さんの練習の帰りですか」
神崎が聞く。
さやかは少し驚いた。
「……私そんなわかりやすいですか」
「上条さんの話をするときは大変かわいらしい表情です」
「うわっ!もうっ!恥ずかしいこと言わないでくださいよ!」
さやかは顔を押さえつつも少しだけ顔を逸らした。
「……最近恭介の練習に行くことが多いんです。
差し入れ持って行ったり。ただ聞いてたり」
「上条さんの演奏は素晴らしいものですから。
ずっと練習をなさっているんでしょうね」
神崎は自然に言った。
さやかはすぐに顔を上げる。
「そうっ!」
声が少し大きくなった。
「本当にすごいんですよ。今日も同じところを何度も何度も練習しててこっちからしたらもう十分じゃんって思うのに本人は全然納得してなくて……で、ちょっとよくなると音が全然変わるんです。何が違うのか細かいことは私も全部わかるわけじゃないけどっ、でも違うんです」
「わかります」
「わかりますよね!恭介の音って何ていうか綺麗なだけじゃなくてちゃんと恭介がそこにいる感じがするんですよ。あ……ごめんなさい。な、なんか突っ走ったしゃべり方して……」
言ってからさやかは少し恥ずかしくなった。
幼馴染のことになると口数が普段よりもさらに多くなる。
気を付けていても一気に話してしまう。
だが神崎は笑わなかった。
「美樹さんはやはり素晴らしい人です」
さやかは笑顔のまま固まった。
「……はい?」
「素晴らしい人だと思います」
「な、何で恭介の演奏の話から私の話になるんですかっ!」
さやかは顔が熱くなるのを感じた。
まただ。
神崎はこうして突然こちらを褒める。
しかも真顔で。逃げ場のない言葉で。
「貴方は他者を見て素直に素晴らしいと言葉にできる。
すごいことです」
「っそんなもの!当たり前じゃないですか」
迷わず言った神崎に対してさやかは少しむきになった。
「恭介がすごいのは恭介がすごいってだけでしょ。
そこに私がどうとか関係ないです。
そもそもっ!誰かと自分を見比べる必要なんてないじゃないですか」
さやかは少し早口になる。
「その人のいいところはその人のいいところで。
恭介がすごいならすごいって言えばいいんです」
言い切った。
神崎はしばらく黙ってさやかの言葉を咀嚼するかのように考えを巡らせていた。
そして首を横に振った。
「違います。それは当たり前ではありません」
「……何でですか」
さやかは眉をひそめる。
神崎は海のほうへ続く道を見た。
夕方の大通りはまだ空いている。
車は遠くに一台見えるだけだった。
「大人になると。自分自身に対して期待することが難しくなります」
「期待……自分にですか?」
神崎の声はゆっくり淡々としていた。
確認するまでもない単なる事実を述べるように。
「目標を掲げる前から自分には無理だとわかってしまう。
努力しても届かないもの。最初から与えられていないもの。
もう取り返せないもの」
さやかは神崎の横顔を見る。
夕焼けの凪いだ海の色が瞳に移っていた。
「そんな自分を見ていると。
誰かを素直に褒めることは意外と難しくなります」
「でも神崎さんは褒めるじゃないですか。
恭介のことも杏子のこともマミさんやまどか……わ、私のことも」
さやかはすぐ言った。
最後は声が小さくなったが。
神崎はほんの少しだけ目を伏せた。
「私は誰かと戦う土俵に立てなかったので」
「土俵……どういう意味ですか?」
神崎はすぐには答えなかった。
言えることと言えないことがある。
自分の中の一番大事なところ。
誰かを愛する向き。
それを自分自身が長い間誰よりも否定してきたこと。
その否定は競争の前から自分を敗北の範囲に置いていた。
普通の人間のように恋をして選ばれて家庭を作って誰かの隣に堂々と立つ。
そういう場所に自分は最初から立てないと思っていた。
だから人と争う前に負けている。
負けているから褒められる。
自分が行けない場所にいる人を遠くから見上げることができる。
それは美徳ではない。
傷の形だ。
けれどさやかにそのまま言うべきではない。
「私の場合は……
誰かと同じ場所に立っている感覚がありませんでした」
神崎は言葉を選んだ。
「だから遠くから見ることができるのだと思います」
「……それ。よくわかんないです」
さやかは神崎を見る。
「でもっ!
自分がその人のことをいいと思ったなら褒めるのは当然です」
「当然にできる人は……あなたが思うほど多くありません」
神崎はまた言った。
「子どもは特に自分以外のことを強く否定することがあります」
「……何でそこで子どもになるんですか」
「自分の未来に希望を持っているからです」
神崎の声は静かだった。
「いつか勝てる。いつか届く。
そう思うからこそ今、負けている自分が許せない。
だから相手を否定することで自分を守ろうとすることがある」
さやかは眉を寄せた。
「それ、違います。子どもだって馬鹿じゃないです。
そんな子ばかりじゃない」
さやかははっきり言った。
その瞳の色は透明ではなくさやか自身の色を激しく乗せたものだった。
神崎はさやかの瞳を見つめ続ける。
さやかも負けるか挑むように見つめ続ける
やがて神崎はさやかが本気でそう思っていることを受け止めるとゆっくりと頷いた。
「……美樹さんの周囲に関してはそのとおりかもしれません」
「……え?あっさり認めるんですか。
今、私、結構強めに否定しましたよ」
さやかは拍子抜けした。
「あなたの周囲に関しては正しいと思いました。
私の意見も単なる経験則に過ぎません」
「経験則って……経験したことあるんですか」
さやかが聞くと神崎は少しだけ考えた。
自分自身の性的な認識のせいで神崎はそう感じざるを得ないことが多かったのだが。
それを直球でいうことは出来なかった。
少なくともこの真っすぐで、きれいな瞳と考え方を持つ美しい少女の前では。
だからある意味での真実を話した。
「私自身が、杏子に対して常に劣等感と尊敬を持っています」
さやかは思わず吹き出した。
「えっ、杏子に?神崎さんが?杏子に劣等感?うそだぁ」
「本当です」
さやかは笑いをこらえようとしたが無理だった。
「ごめんなさい。でも意外すぎて」
「よく意外と言われます。杏子にも以前言われました」
「ああ本人にも言ってるんだ。杏子は何て?」
「重いと」
さやかは笑った。
神崎もほんの少しだけ口元を緩めた。
「で、どんな劣等感なんですか」
さやかは興味を抑えきれずに聞いた。
「杏子はたとえ信じていたものに否定されたとしても。
それを超える思いを持っています。
……傷ついて。怒って。間違えて、それでも誰かのために動こうとする」
さやかの笑いが少しだけ止まる。
神崎の目が少し優しくなる。
「それは時に眩しく。時に私自身を惨めにさせます」
さやかは黙った。
神崎の笑い方があまりにも優しかったからだ。
劣等感。そう言った。
だがその顔はただの劣等感ではなかった。
尊敬。
親しさ。
心配。
それからもっと深い言葉にならないもの。
「神崎さん、からかってません?
神崎さん杏子のことめちゃくちゃ褒めるじゃないですか。
劣等感があるならふつうは褒められないんじゃないんですか。
さっきの神崎さんの理屈だと?」
さやかは少しだけ得意げに言った。
しかしどこか真剣な目つきをしていた。
神崎はさやかを見た。
「美樹さんは優しい子ですね」
「んなっ!?い、いや話をすり替えようとしないでくださいっ!」
さやかは顔を赤くしながら神崎をにらみつけた。
「すり替えてはいません。あなたは杏子のことを気遣っている」
さやかは黙った。
それが事実だったから。
神崎は続ける。
「私が杏子に対して劣等感故のみせかけの優しさを向けているだけなら。
あなたはたとえ杏子から悪く思われたとしても。
それを振り払おうとしたでしょう」
さやかは答えなかった。
でも否定もしなかった。
もし神崎が杏子を利用しているのなら。
もし神崎が真面目そうな顔で杏子を傷つけているのなら。
さやかはたぶん黙っていられない。
杏子に嫌われても。
余計なお世話だと言われても。
それでも言う。
「そういう人間はあなたが思うよりずっと少ない。
自分の行動が徒労に終わるかもしれない。
誰かに嫌われるかもしれない。
それでも自分が正しいと思うことをする」
神崎の声は静かだった。
「だから貴方はとても美しい」
さやかの顔が一気に熱くなった。
「またそれ!」
「本当のことです」
「だから!子どもだって友達のことなら何だってします!」
さやかは少し声を荒げた。
「はい。とても美しい行為と信念だと思います」
さやかは言葉に詰まった。
自分は神崎に反論したつもりだった。
子どもを一括りにするなと攻撃的に言ったつもりだった。
それなのに神崎はそれを肯定してしまう。
居心地が悪い。
まるで自分の怒りまで褒められているようだった。
さやかは視線を逸らす。
自分の正義感をまっすぐに褒められることなどないから居心地が悪かった。
「貴方の考え方は素晴らしい。
あなたが居心地悪くなる理由は何もありません」
その言葉にさやかは胸の奥がちくりとした。
「……わかったふうなこと言わないでください」
思わずそう言っていた。
神崎は真面目な顔になった。
「わかってはいません。
だから思いを伝えるために言葉を常に君に対して伝え続けます」
さやかは息を止めた。
君。
いつもは「美樹さん」と呼ぶ神崎がほんの少しだけさやかに対して近づく言葉を使った。
それに気づいた瞬間さやかはこれまでのことを思い出す。
美しいと言われたこと。
素晴らしいと言われたこと。
怖いのは当然だと言われたこと。
考えたことは消えないと言われたこと。
神崎はいつも言葉を置いていく。
重くて真っ直ぐで時々逃げ場がなくて。
でも誤魔化さない言葉。
「神崎さんには……私の気持ちなんてわからないと思います」
さやかは顔を赤くしたまま言った。
神崎はすぐに頷いた。
「だからこそ言葉を伝えています。気持ちを知りたいと」
さやかは力なく笑った。
「無理ですよ……ほんとに無理です」
さやかは少しだけ笑いそうになり。
すぐに顔を伏せた。
腹が立つ。恥ずかしい。
でも少しだけ泣きそうにもなる。
自分の気持ちはうまく説明できない。
恭介のこと。
幼馴染でいること。
差し入れを持っていくこと。
褒められたいわけじゃないけれど、気づいてほしいこと。
伝えたいのに壊したくないこと。
全部ぐちゃぐちゃだ。
神崎にわかるはずがない。
でも知りたいと言われると。
少しだけ言葉を探してしまう。
さやかは神崎に背を向けた。
海へ向かう道の先は少し暗くなり始めている。
「すごく時間かかると思いますよ」
小さく言った。
神崎は少し間を置いて答えた。
「一緒に頑張りましょう」
さやかは振り向かなかった。
顔が熱い。
何を。
どうやって。
そんなの神崎に関係ないはずなのに。
でも心強いと思ってしまった。
「……恭介とのやりとり。手伝ってくれるなら」
さやかはほとんど独り言のように言った。
神崎は静かに聞いていた。
「もしかしたら頼むかもしれません」
言ってしまった。
さやかはもう神崎の返事を待てなかった。
振り向かずに走り出す。
「美樹さん」
神崎の声が聞こえた。
さやかは手だけを上げる。
「今日は帰ります!あ、あと美しいとか……
う、嬉しいけど……恥ずかしいから言わないでっ!」
「努力します」
「せ、成功してよっ!」
「……努力します」
神崎の返事が聞こえた。
最後のほうは照れのあまり、一応年上の神崎に対して、友人に対する口調と同じようになってしまったが。
さやかは走りながら笑みを浮かべた。
泣きそうなのか笑いそうなのか。
自分でもよくわからなかった。
でも足は前に出ていた。
海へ向かう大通りを外れ住宅街のほうへ曲がる。
神崎の姿はすぐに見えなくなった。
*
神崎は一人で大通りに残った。
車はまだ少ない。
信号だけがまた赤に変わる。
さやかの背中はもう見えなかった。
神崎は少しだけ息を吐いた。
余計なことを言ったのかもしれない。
また杏子に知られたら怒られるだろう。
だが美樹さやかはあまりにもまっすぐだった。
上条恭介の演奏を自分のことのように喜ぶ。
杏子のことを嫌われる覚悟を持って気遣う。
自分の怒りを友人のためなら当然だと言い切る。
それは眩しい。
杏子とは違う眩しさだった。
神崎は海の方角を見た。
夕方の風が少し冷たい。
「杏子の周りは良い子しかいないな」
ぽつりと呟く。
言ってから少しだけ苦笑した。
その良い子たちがそれぞれ傷を持っていることも少しずつ見えてきている。
杏子。
巴マミ。
鹿目まどか。
美樹さやか。
そして上条恭介や鹿目知久のようにその周囲にいる人たち。
糸は少しずつ増えている。
絡まるのか結ばれるのか切れるのかはまだわからない。
神崎は赤信号の前で立ち止まった。
車は来ていない。
それでも青になるまで待った。
信号が変わる。
神崎はゆっくり歩き出した。
杏子に何を言うべきかはまだ決めていない。
ただ美樹さやかから「恭介とのやりとりを手伝ってほしい」と言われたことだけは胸の奥に残っていた。
それは軽い頼みではない。
きっととても重い。
神崎はその重さをどう扱うべきか考えながら夕方の道を歩いていった。
「さやか……最近いつも応援しに来てくれるな……
もしかして一緒に演奏したいのかな……さりげなく今度聞いてみようかな」