杏子はポケットに手を突っ込み、少し前を歩いた。
神崎はその半歩後ろで、手土産の紙袋を持っている。
「そういえば大学はいいのかよ」
杏子は前を向いたまま言った。
「今日は講義はない」
「でも仕事あんだろ。講師って忙しいんじゃねぇの」
「社会人は皆多かれ少なかれ仕事に拘束されるものだ」
「じゃあなんでその社会人様はこんな時間に菓子持って恋の遠足してんだよ」
神崎は一瞬何を言っているのかわからないというように目線を杏子に向けた。
鹿目知久に惚れているのではなかったのか?
杏子はたじろいだ。
「すまない。詩的な表現だとはおもうが、恋の遠足ではないと思う」
「……違うのかよ」
「交流だ」
神崎はうっすらと苦笑しながら、ただ淡々と歩いた。
大学の講師。
神崎がそれになったと聞いたとき、杏子は最初、少し笑った。
似合いすぎていたからだ。
黒板の前に立って、淡々と説明する神崎。
学生に質問されても表情を変えず、必要な分だけ答える神崎。
レポートの締切を守らない学生に、怒鳴らず、ただ静かに追い詰める神崎。
想像できすぎて、逆に笑えた。
実際、神崎は忙しかった。
朝早くに出ていき、研究で帰りが遅くなることも多い。
それでも、夜には必ず帰ってきた。
どれほど遅くても。疲れていても。食事を作る時間がなくても。
玄関の鍵が回る音がして、神崎が帰ってくる。
ーーただいま
そう言う。
杏子はそのたびに、妙な気分になった。
別に待っていない。帰ってこなくても困らない。
そう思っている。思っているのに。
鍵の音が聞こえると、胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。
それが腹立たしかった。
「別に無理して帰ってこなくても、大学で泊まってくれていいんだけどな」
「無理はしていない」
「……あのさ」
杏子は歩幅を緩めた。
「無理しているようにみえるから、無理すんなって言ってんの」
神崎は少しだけ杏子を見た。
夕方の光が、その横顔を薄く照らしている。
「君がいる。だから帰る理由になる」
杏子は何も言えなくなった。
そういうことを、こいつは真顔で言う。
狙っていない。たぶん、本当にそのままの意味で言っている。
だから余計に質が悪い。
「……重いんだよいちいち」
杏子は足元の小石を蹴った。
「飯くらいは、自分でどうにかするしっ」
「君は菓子で済ませるだろう。君をきちんと育てる義務がある。
きちんとした食事は必要だ」
「説教くせぇ」
「君の父君から任されているのだから仕方がない」
その名前が出た瞬間、空気が少し変わった。
神崎はすぐに口を閉じた。杏子も何も言わなかった。
杏子の父は、生きている。
けれど、杏子はもう、あの教会には戻れない。
死んだわけではない。
家族が全員いなくなったわけでもない。
その分、かえって厄介だった。
声も、顔も、記憶の中に残っている。
けれど、自分にはもう手が届かない。
破門。そして絶縁。
その言葉を父の口から聞いたとき、杏子は最初、意味がわからなかった。
自分が何をしたかは、わかっていた。
父の話を聞かない人間の心を、願いでねじ曲げた。
父の言葉が届くように。父が報われるように。
それが間違いだったと知ったのは、ずっと後だった。
父は怒った。見たことがないほど怒った。
それは、杏子が夜遊びをしたときとも、妹と喧嘩したときとも違った。
失望と恐怖と悲しみが混ざった顔だった。
おまえは、人の心を踏みにじった。
そう言われた。
教えを伝えるために、人の心を操ったのか。
それは救いではない。それは祈りではない。
それは、魔女のすることだ。
魔女。
その言葉を、杏子はまだ覚えている。
そのとき、神崎はそこにいた。
*
教会の空気は、ひどく冷たかった。
説法台の前に、父が立っている。
杏子はその前で、拳を握っていた。
母は妹を抱きしめるようにして、奥に立っている。
神崎は、少し離れたところにいた。
いつものように口を挟まない。
父が話しているとき、神崎は決して遮らない。
それは敬意であり癖であり、神崎なりの信仰に似たものだった。
けれど、その日は違った。
「杏子。おまえのしたことは、救いではない」
父の声は低かった。
杏子は唇を噛んだ。
「でも、とうさんのために」
父の目が揺れた。ひきつった目つきは愛する娘に向けられていた。
「私のために、人の心を操ったのか」
「だって、誰も聞いてくれなかったじゃん!」
声が勝手に大きくなった。
「とうさんは正しいこと言ってた!
なのに、みんな離れて、誰もまともに聞こうとしなかった! だから——」
「だから、心を曲げたのか」
杏子は答えられなかった。
「それは救いではない。人を自分の望む形に押し込める行為だ」
父は言った。
今の現状が夢であってほしいとでもいうように、細い声音で。
「とうさんが報われてほしかっただけだ!」
教会に声が響いた。
父は、目を閉じた。
その仕草が、杏子にはひどく遠く見えた。
「杏子。おまえは、ここにいてはいけない……私のそばにいてほしくない」
その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
「おまえが近くにいれば、私にはわからなくなってしまう
……誰が本当に聞いてくれているのか」
父は静かに、震える声で言った。迷い子のように絶望しきった声音だった。
「私の教えの結果は……
全てお前の願いで作られた偽物だったのかもしれないのだろう?」
杏子は一歩踏み出した。離れた心に少しでも近づきたくて。
「とうさんの言葉は本物だろ!
あたしが何かしたからって、それが全部嘘になるわけねぇだろ!」
「……だが、私はそう思えない」
父の声は震えていた。抑えようとしても抑えられないような。そんな声音。
「私は、もう自分の言葉すら信じられない」
杏子は息ができなくなった。
怒鳴られるほうが、まだよかった。殴られたほうが、まだわかりやすかった。
けれど父は、崩れそうな声でそう言った。
自分のせいだ。
そう思った瞬間、足元が抜けたような気がした。
そのとき、神崎が動いた。
「先生」
静かで。透明な声だった。
父が顔を上げる。
「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「……神崎くん……今は」
「お願いします」
神崎は深く頭を下げた。
父はしばらく黙った。そして、かすかに頷いた。
神崎は頭を上げると、真っすぐに父を見た。
誰しもが誰しもに対して視線を背ける中、真っすぐに。
「杏子の行動は、確かに許されるものではありません」
杏子は泣きそうになった。
常に自分の味方でいてくれた神崎からも否定されるのか。
「神崎……あたしは……」
「わかっている」
神崎は杏子を一瞥しただけで、すぐ父に向き直った。
「ですが、彼女は先生の教えを貶めようとしたわけではありません。
彼女は、先生の言葉が正しく伝わることを願った」
「……そのために心を操ったのだよ」
神崎は否定しなかった。
あんたもなのか。
杏子の胸が詰まった。
是も非もない。神崎はそんな口調で続ける。
「けれど、彼女の根にあったものは、先生を貶める意図ではない。
先生の言葉を世界に届かせたいという願いでした」
「……だから許せと?」
神崎は静かに首を振った。
「許すかどうかを決められるのは、先生です」
「……では、何を言いたいのだい。君は」
杏子は神崎を見た。
神崎の横顔は、いつものように整っていた。
けれど、その指先はわずかに震えていた。
「正しい教えを伝えるために、彼女は間違った手段を取った。
そこに罪はある。ですが、彼女は先生を裏切ろうとしたのではありません」
神崎は一度、言葉を切った。
「むしろ、彼女は先生の言葉に身を捧げようとした」
「……神崎くん」
「聖女のように」
「……は?」
杏子は思わず声を上げた。
神崎は杏子への思いをそのまま綴るかのように、淡々と告げる。
「彼女は幼く、方法を誤りました。
しかし、先生の言葉を真実として信じ、そのために自分を差し出そうとした」
「ちょっと待てって。盛りすぎだろっ! 聖女はねぇだろ!」
母が困ったように杏子を見る。
妹は泣くのを忘れてぽかんとしている。
父も、さすがに一瞬だけ目を丸くした。
「私は、先生の教えを10年以上聞いてきました。
決して、操られてなどいません」
神崎の声は静かだった。
教会が静まり返った。その言葉だけが、はっきりと落ちた。
「先生の人柄に惚れ、先生の言葉を聞きたいと思った。
先生が語るたび、私は救われた。少なくとも、私にとって先生の言葉は、
杏子の願いで作られた偽物ではありません」
父の表情が、幼げに歪んだ。
信じられるものがまだあったのかと。
神崎は一歩も引かなかった。
その横顔を見て、杏子は初めて気づいた。
神崎は、本気で言っている。
父の人柄に惚れていたこと。
父の言葉を聞きたいと思っていたこと。
そして……杏子を聖女と。
本当にそう考えている。
あるいはそう飾りつけようとしている。
杏子のしたことを、少しでも父が受け止められる形に変えている。
父が壊れないように。父が自分の言葉を全部捨ててしまわないように。
杏子を守るためでもあり。父を守るためでもあり。
たぶん、一番は。杏子自身と父の仲が致命的になるのを防ぐため。
「私は、先生の教えについてきた者です。
そういう人間が。少なくとも、一人はここにいます」
神崎は言った。
父は黙っていた。
長い沈黙だった。
窓の外で、風が鳴っている。
古い教会の木枠が、小さく軋んだ。
杏子は息を殺していた。
母も、妹も、何も言わなかった。
やがて父は、椅子に腰を下ろした。
「……私は、何を信じればいいのか、わからなくなっている」
声がかすれていた。
父は杏子を見た。
その目に、絶望はまだあった。
けれど、さっきほどの断絶はなかった。
「おまえがここにいれば、私は何度でも疑うだろう。
誰が本当に聞いているのか。どこまでが私の言葉なのか。
どこからがおまえの願いによるものなのか」
父は顔を伏せた。
罪人のように頭を垂れて、断頭台に乗せられるかのように俯き、重々しい声で話す。
「だから、おまえは教会から出ていってほしい」
杏子の喉が鳴った。
嘘であってほしかった。
「……それ、家から出てけってこと?ど、どれくらい……?」
父は答えなかった。
答えられないのだと、杏子にもわかった。
それは期限つきの叱責ではない。
父が自分を守るために引いた線だった。
そして、その線の外側に、杏子は置かれた。
「私が引き取ります」
神崎が言った。杏子は顔を上げた。
父も神崎を見る。
「……神崎くん?」
「私が杏子を預かります」
「……君が?大学はどうするのだ。君の生活があるだろう」
「講師になりましたので問題ないです」
「そういうことではない。君自身の生活があるだろうという話だ」
「その生活に、彼女を入れます」
神崎は淡々と言った。
杏子は口を開けたまま固まった。
「いや、待て。なんであんたが決めてんだよ」
「君は帰る場所が必要だ」
「あ、あるしっ!」
「……君は、今、強がっている。強がれること自体はいい。
だが、一人にはできない」
「……う、うるせぇ!」
杏子の声が裏返った。
そのやり取りに、母が一瞬だけ泣き笑いのような顔をした。
妹はまだ不安そうに杏子を見ている。
父は神崎を見ていた。
「神崎くん……君は、なぜそこまでする」
神崎はすぐには答えなかった。
杏子も、神崎を見た。
その沈黙は短かったが、変に長く感じた。
「杏子は、先生の娘です……そして、私にとっても大切な人です」
杏子は息を止めた。顔が赤くなるのを止められない。
神崎が自分の父を好いているのは知っていたのでそこはあまり気にならなかった。
だが、自分に対する思いをこんなに率直に言われるとやはり恥ずかしい。
「私は、彼女を娘か、妹のように思っています
……先生の言葉を聞いて育ち、先生の家族である彼女を、私は他人とは思えません」
神崎の声は穏やかだった。
「言うならば、先生と私の子供のように」
教会の空気が止まった。
杏子は、数秒遅れて反応した。
「ちょ、おま、何言ってんだ!? 今、何て言った!?」
大声が礼拝堂に響いた。
神崎は杏子の怒鳴り声をやはり淡々と処理する。
「比喩だ。」
「比喩にしても最悪だろ!」
「それほど大事に思っているということだ」
「……っ馬鹿!!」
父は困った顔をしていた。
困惑すべきか、感動すべきか、理解に迷っている顔だった。
神崎は真剣だった。真剣すぎた。
だからこそ、父はその言葉を神崎の優しさだと受け取ったのだろう。
教えを聞いてくれた若者。自分を信じてくれた信者。
娘の罪を知りながら、なお引き取ろうとする者。
「……君は優しいな」
父が言った。神崎は目を伏せる。
「優しさではありません」
父は疲れたように微笑みながら、首を振った。
神崎の優しさを肯定するかのように。
「私には、今の杏子を近くに置くことができない。
だが、ひとりにすることもできない」
杏子は拳を握った。薄々何を言われるのかを分かっているから。
「と……親父」
父はまっすぐ杏子を見た。
せめてもの贖罪とばかりに。自分の罪を見つめるかのように。
「おまえを今も愛している。だが、今は一緒にいられない
……弱い父を責めるなら責めてくれ」
その言葉は、刃物よりも鈍かった。
鋭く刺さるのではなく、胸の奥をゆっくり押し潰す。
杏子は、泣きたくなかった。泣いたら負けだと思った。
誰に負けるのかは、わからなかった。
父は言った。
「杏子は……わがままだ。口も悪い。無茶をする。
……人に甘えるのが下手だ」
「承知しています」
「そして……寂しがりだ。それでも、か」
「彼女が嫌だと言っても私が必ず」
「……すまない」
目を伏せたままの父に。
母は妹を抱きしめたまま。
妹だけは、幼さゆえに、途中から寝入っていた。
残酷なまでに幸福に。
神崎が杏子を連れ出す。
重い蝶番の音が鳴り響き、教会の門は閉まった。
杏子は振り向かなかった。決して。
*
その夜、杏子は神崎の家に来た。
正確には、神崎の借りている部屋だった。
本棚が多く、紙の匂いがした。
机には大学の資料が積まれていて、部屋の隅には小さなキッチンがある。
「布団は用意する。私は今日はソファで寝る。
学校で慣れているからな」
「わかんねえけど大学の講師ってもっと金あんじゃねぇの?」
「一般的な社会人と同レベルだろう」
「じゃあ……あんまり金持ってないのか」
「君の中での社会人の定義について聞かせてほしいが……多くはない」
「……なんで引き取ったんだよ」
「必要だったからだ」
神崎はそれだけ言って、台所に立った。
簡単な食事を作る。手際はいい。
疲れているはずなのに、動きに無駄がない。
杏子は部屋の真ん中に立ったまま、どうすればいいかわからなかった。
ここにいていいのか。座っていいのか。
荷物を置いていいのか。わからないことだらけだった。
「そこに座るといい」
神崎が言った。
杏子は小さく息を吐いて、結局、机に体重をかけながら神崎の言葉を待った。
この家には仮初でいるだけ。お前の話を聞くつもりはない。
そういう意思表示だった。
神崎は少し困ったようにしたが、黙って受け入れた。
杏子にはそれがありがたかった。
怒りはある。悲しみもある。恥ずかしさもある。
でも一番大きいのは、空っぽになったような感じだった。
父に出ていけと言われた。母は止めなかった。妹は泣いていた。
神崎だけが、隣に立った。
それが救いだったことを、杏子はそのとき認められなかった。
認めたら、本当に自分が捨てられたみたいだったから。
「……あんたさ。なんで嘘ついたんだよ」
神崎の手が止まった。
「嘘とは」
「聖女とか、なんとか」
「少なくとも私にとってはそうだ」
杏子は顔を赤くした。何を言っているんだこの馬鹿は。
「昔、先生を好いていると君に認識されたとき。
君の見る目が変わると思った」
「なんでだよ」
杏子にとっては意味の分からない言葉だった。
神崎は神崎。
杏子にとってはそれだけだった。
もっとも一般的には隠したいことだろうと思ったので、誰にも言わなかったが。
神崎は珍しくはっきりとした笑顔を見せた。
仕方のないものを見るように。
杏子は訝し気にしたが、やがて神崎は話した。
「君は自身が魔法少女とやらだと話していたな。
願いを父君のために使ったのだな?」
「……あたしの独りよがりだったんだから……もういいだろ。
魔法少女も、もういいや。あたし、正義の味方とかじゃないし。
マミにも連絡する。めんどくせえからやり方変えて、使い魔とかは放っておいて……」
投げやりになっている杏子を、神崎はまっすぐ見た。
その瞳の色がどこまでも深くなっていた。
「杏子」
「……んだよ」
「座りなさい」
先ほどと同じような言葉だった。
しかし、杏子はびくりとした。
神崎にはそれだけの圧があった。杏子を思う重さがあった。
杏子がその気になれば、神崎をたやすく殺せてしまう力を持っている。
しかしそれを容易く超えるほど、神崎の言葉には不可思議な重さがあった。
「……はいはい」
軽口を言うことが精いっぱいだった。
「杏子。君は誰かのために願い、想い、それを当然のことだと考えている」
「だからそれはっ!」
杏子の投げやりな言葉を神崎はさえぎった。
「君がどれだけ君のことを否定したとしても、
君の姿勢は誰より気高く美しい」
錯綜する視線から逃れるように膝を抱えた。
杏子の耳は真っ赤だった。
「魔法少女になってまで、誰かの幸福のために行動した君のその在り様は、
私には聖女のように見えた」
「あ、あんたはっ! とうさ……親父が死なないようにしたかっただけだろ!!」
神崎は何も言わなかった。
「親父、自分の教えが全部嘘だったみたいな顔してた。
だから、あんたは助けるために言ったんだろ。
自分はちゃんと聞いてたって。けど……じゃあ、あたしは何なんだよっ!
あたしって、ほんと、バカみたいじゃん!」
神崎から守られたことはわかっていた。
だが、杏子は自分の覚悟も決意もすべて家族に否定されていた。
だから、やり場のない感情を神崎に向けていた。
神崎にも否定されることで何もかもをおしまいにしたかった。
神崎もそれがわかっていたから、何も答えずに黙ってその誹りを受けていた。
「だいたい、あんた、本当に親父の言葉で操られてなかったのかよ。
それもおかしいだろ!」
神崎は、杏子のことをまっすぐ見た。純粋な瞳だった。
何がと聞かれると困るが、杏子には純粋という概念そのものに見えた。
「君は聖女だ。例え君自身がそう思っていなかったとしても」
杏子のいろいろな発言に対する回答にはなっていなかった。
杏子は回答を求めていたわけではないからだ。
だから、神崎は答えた。自分自身が杏子をどのように見ているかを。
長い沈黙。
やがて、杏子は小さく言った。
「……その聖女ってやめろ」
結局、神崎は杏子が欲しい言葉はくれなかった。
神崎からも否定されていれば。
マミとの協力も何もかもを投げ出して、悪人ぶれたのに。
神崎はそれを許してくれなかった。
君はそんな人間ではない。
そういう風に本気で信じてくれている。
ほんと、重いやつ。
杏子は改めてそう思いながらも、我慢して受け入れてやった。
だが、次の言葉は許容できなかった。
「話を戻すが、私は、君の父君に恋をしていた」
「?! 戻ってねえだろ話つなげろよ!!
あと直球で言うのやめろ!! あたし今勘当されたばっかだぞ!!
気を使ってもいいんじゃねえの!!」
杏子は反射的に叫んだ。耳は深紅に染まっていた。
自身のことを本気で聖女と認識されていることに対する気恥ずかしさなのか、怒りからなのかは誰にもわからない。
「私は、あの人の人柄に惚れて話を聞いていた。
君の願いがあろうとなかろうと、それは変わらない」
杏子は黙った。
神崎の言葉はおかしかった。
父親に恋をしていたなんて、正直、知ってはいても聞きたくない。
けれど。
あのとき父を引き止めたのは、たぶん神崎のその気持ちだった。
杏子の願いではなく。父の教えそのものでもなく。
神崎が父を好きであるが故に。常に父の話を聞いていたこと。
それだけが、父にとって最後の綱になった。
「……なんかムカつく」
杏子は小さく言った。
言葉が詰まった。
ありがとう、と言いかけた。言えなかった。
それが自分と神崎の違いのようで、更に嫌な感じがした。
「……腹減った」
代わりにそう言った。
神崎は後ろの鍋に視線を向けた。
「夕食にしよう」
その夜の食事は、少し焦げた味がした。
杏子は文句を言いながら食べた。
神崎は申し訳なさそうに、しかしどこか安心したようにそれを見ていた。
マンションの階段を下りると、外はもう昼頃だった。
杏子はポケットに手を突っ込み、少し前を歩いた。
神崎はその半歩後ろで、手土産の紙袋を持っている。
「そういえば大学はいいのかよ」
杏子は前を向いたまま言った。
「今日は講義はない」
「でも仕事あんだろ。講師って忙しいんじゃねぇの」
「社会人は皆多かれ少なかれ仕事に拘束されるものだ」
「じゃあなんでその社会人様はこんな時間に菓子持って恋の遠足してんだよ」
神崎は一瞬何を言っているのかわからないというように目線を杏子に向けた。
鹿目知久に惚れているのではなかったのか?
杏子はたじろいだ。
「すまない。詩的な表現だとはおもうが、恋の遠足ではないと思う」
「……違うのかよ」
「交流だ」
神崎はうっすらと苦笑しながら、ただ淡々と歩いた。
大学の講師。
神崎がそれになったと聞いたとき、杏子は最初、少し笑った。
似合いすぎていたからだ。
黒板の前に立って、淡々と説明する神崎。
学生に質問されても表情を変えず、必要な分だけ答える神崎。
レポートの締切を守らない学生に、怒鳴らず、ただ静かに追い詰める神崎。
想像できすぎて、逆に笑えた。
実際、神崎は忙しかった。
朝早くに出ていき、研究で帰りが遅くなることも多い。
それでも、夜には必ず帰ってきた。
どれほど遅くても。疲れていても。食事を作る時間がなくても。
玄関の鍵が回る音がして、神崎が帰ってくる。
ーーただいま
そう言う。
杏子はそのたびに、妙な気分になった。
別に待っていない。帰ってこなくても困らない。
そう思っている。思っているのに。
鍵の音が聞こえると、胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。
それが腹立たしかった。
「別に無理して帰ってこなくても、大学で泊まってくれていいんだけどな」
「無理はしていない」
「……あのさ」
杏子は歩幅を緩めた。
「無理しているようにみえるから、無理すんなって言ってんの」
神崎は少しだけ杏子を見た。
夕方の光が、その横顔を薄く照らしている。
「君がいる。だから帰る理由になる」
杏子は何も言えなくなった。
そういうことを、こいつは真顔で言う。
狙っていない。たぶん、本当にそのままの意味で言っている。
だから余計に質が悪い。
「……重いんだよいちいち」
杏子は足元の小石を蹴った。
「飯くらいは、自分でどうにかするしっ」
「君は菓子で済ませるだろう。君をきちんと育てる義務がある。
きちんとした食事は必要だ」
「説教くせぇ」
「君の父君から任されているのだから仕方がない」
その名前が出た瞬間、空気が少し変わった。
神崎はすぐに口を閉じた。杏子も何も言わなかった。
杏子の父は、生きている。
けれど、杏子はもう、あの教会には戻れない。
死んだわけではない。
家族が全員いなくなったわけでもない。
その分、かえって厄介だった。
声も、顔も、記憶の中に残っている。
けれど、自分にはもう手が届かない。
破門。そして絶縁。
その言葉を父の口から聞いたとき、杏子は最初、意味がわからなかった。
自分が何をしたかは、わかっていた。
父の話を聞かない人間の心を、願いでねじ曲げた。
父の言葉が届くように。父が報われるように。
それが間違いだったと知ったのは、ずっと後だった。
父は怒った。見たことがないほど怒った。
それは、杏子が夜遊びをしたときとも、妹と喧嘩したときとも違った。
失望と恐怖と悲しみが混ざった顔だった。
おまえは、人の心を踏みにじった。
そう言われた。
教えを伝えるために、人の心を操ったのか。
それは救いではない。それは祈りではない。
それは、魔女のすることだ。
魔女。
その言葉を、杏子はまだ覚えている。
そのとき、神崎はそこにいた。
*
教会の空気は、ひどく冷たかった。
説法台の前に、父が立っている。
杏子はその前で、拳を握っていた。
母は妹を抱きしめるようにして、奥に立っている。
神崎は、少し離れたところにいた。
いつものように口を挟まない。
父が話しているとき、神崎は決して遮らない。
それは敬意であり癖であり、神崎なりの信仰に似たものだった。
けれど、その日は違った。
「杏子。おまえのしたことは、救いではない」
父の声は低かった。
杏子は唇を噛んだ。
「でも、とうさんのために」
父の目が揺れた。ひきつった目つきは愛する娘に向けられていた。
「私のために、人の心を操ったのか」
「だって、誰も聞いてくれなかったじゃん!」
声が勝手に大きくなった。
「とうさんは正しいこと言ってた!
なのに、みんな離れて、誰もまともに聞こうとしなかった! だから——」
「だから、心を曲げたのか」
杏子は答えられなかった。
「それは救いではない。人を自分の望む形に押し込める行為だ」
父は言った。
今の現状が夢であってほしいとでもいうように、細い声音で。
「とうさんが報われてほしかっただけだ!」
教会に声が響いた。
父は、目を閉じた。
その仕草が、杏子にはひどく遠く見えた。
「杏子。おまえは、ここにいてはいけない……私のそばにいてほしくない」
その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
「おまえが近くにいれば、私にはわからなくなってしまう
……誰が本当に聞いてくれているのか」
父は静かに、震える声で言った。迷い子のように絶望しきった声音だった。
「私の教えの結果は……
全てお前の願いで作られた偽物だったのかもしれないのだろう?」
杏子は一歩踏み出した。離れた心に少しでも近づきたくて。
「とうさんの言葉は本物だろ!
あたしが何かしたからって、それが全部嘘になるわけねぇだろ!」
「……だが、私はそう思えない」
父の声は震えていた。抑えようとしても抑えられないような。そんな声音。
「私は、もう自分の言葉すら信じられない」
杏子は息ができなくなった。
怒鳴られるほうが、まだよかった。殴られたほうが、まだわかりやすかった。
けれど父は、崩れそうな声でそう言った。
自分のせいだ。
そう思った瞬間、足元が抜けたような気がした。
そのとき、神崎が動いた。
「先生」
静かで。透明な声だった。
父が顔を上げる。
「一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「……神崎くん……今は」
「お願いします」
神崎は深く頭を下げた。
父はしばらく黙った。そして、かすかに頷いた。
神崎は頭を上げると、真っすぐに父を見た。
誰しもが誰しもに対して視線を背ける中、真っすぐに。
「杏子の行動は、確かに許されるものではありません」
杏子は泣きそうになった。
常に自分の味方でいてくれた神崎からも否定されるのか。
「神崎……あたしは……」
「わかっている」
神崎は杏子を一瞥しただけで、すぐ父に向き直った。
「ですが、彼女は先生の教えを貶めようとしたわけではありません。
彼女は、先生の言葉が正しく伝わることを願った」
「……そのために心を操ったのだよ」
神崎は否定しなかった。
あんたもなのか。
杏子の胸が詰まった。
是も非もない。神崎はそんな口調で続ける。
「けれど、彼女の根にあったものは、先生を貶める意図ではない。
先生の言葉を世界に届かせたいという願いでした」
「……だから許せと?」
神崎は静かに首を振った。
「許すかどうかを決められるのは、先生です」
「……では、何を言いたいのだい。君は」
杏子は神崎を見た。
神崎の横顔は、いつものように整っていた。
けれど、その指先はわずかに震えていた。
「正しい教えを伝えるために、彼女は間違った手段を取った。
そこに罪はある。ですが、彼女は先生を裏切ろうとしたのではありません」
神崎は一度、言葉を切った。
「むしろ、彼女は先生の言葉に身を捧げようとした」
「……神崎くん」
「聖女のように」
「……は?」
杏子は思わず声を上げた。
神崎は杏子への思いをそのまま綴るかのように、淡々と告げる。
「彼女は幼く、方法を誤りました。
しかし、先生の言葉を真実として信じ、そのために自分を差し出そうとした」
「ちょっと待てって。盛りすぎだろっ! 聖女はねぇだろ!」
母が困ったように杏子を見る。
妹は泣くのを忘れてぽかんとしている。
父も、さすがに一瞬だけ目を丸くした。
「私は、先生の教えを10年以上聞いてきました。
決して、操られてなどいません」
神崎の声は静かだった。
教会が静まり返った。その言葉だけが、はっきりと落ちた。
「先生の人柄に惚れ、先生の言葉を聞きたいと思った。
先生が語るたび、私は救われた。少なくとも、私にとって先生の言葉は、
杏子の願いで作られた偽物ではありません」
父の表情が、幼げに歪んだ。
信じられるものがまだあったのかと。
神崎は一歩も引かなかった。
その横顔を見て、杏子は初めて気づいた。
神崎は、本気で言っている。
父の人柄に惚れていたこと。
父の言葉を聞きたいと思っていたこと。
そして……杏子を聖女と。
本当にそう考えている。
あるいはそう飾りつけようとしている。
杏子のしたことを、少しでも父が受け止められる形に変えている。
父が壊れないように。父が自分の言葉を全部捨ててしまわないように。
杏子を守るためでもあり。父を守るためでもあり。
たぶん、一番は。杏子自身と父の仲が致命的になるのを防ぐため。
「私は、先生の教えについてきた者です。
そういう人間が。少なくとも、一人はここにいます」
神崎は言った。
父は黙っていた。
長い沈黙だった。
窓の外で、風が鳴っている。
古い教会の木枠が、小さく軋んだ。
杏子は息を殺していた。
母も、妹も、何も言わなかった。
やがて父は、椅子に腰を下ろした。
「……私は、何を信じればいいのか、わからなくなっている」
声がかすれていた。
父は杏子を見た。
その目に、絶望はまだあった。
けれど、さっきほどの断絶はなかった。
「おまえがここにいれば、私は何度でも疑うだろう。
誰が本当に聞いているのか。どこまでが私の言葉なのか。
どこからがおまえの願いによるものなのか」
父は顔を伏せた。
罪人のように頭を垂れて、断頭台に乗せられるかのように俯き、重々しい声で話す。
「だから、おまえは教会から出ていってほしい」
杏子の喉が鳴った。
嘘であってほしかった。
「……それ、家から出てけってこと?ど、どれくらい……?」
父は答えなかった。
答えられないのだと、杏子にもわかった。
それは期限つきの叱責ではない。父が自分を守るために引いた線だった。
そして、その線の外側に、杏子は置かれた。
「私が引き取ります」
神崎が言った。杏子は顔を上げた。
父も神崎を見る。
「……神崎くん?」
「私が杏子を預かります」
「……君が?大学はどうするのだ。君の生活があるだろう」
「講師になりましたので問題ないです」
「そういうことではない。君自身の生活があるだろうという話だ」
「その生活に、彼女を入れます」
神崎は淡々と言った。
杏子は口を開けたまま固まった。
「いや、待て。なんであんたが決めてんだよ」
「君は帰る場所が必要だ」
「あ、あるしっ!」
「……君は、今、強がっている。強がれること自体はいい。
だが、一人にはできない」
「……う、うるせぇ!」
杏子の声が裏返った。
そのやり取りに、母が一瞬だけ泣き笑いのような顔をした。
妹はまだ不安そうに杏子を見ている。
父は神崎を見ていた。
「神崎くん……君は、なぜそこまでする」
神崎はすぐには答えなかった。
杏子も、神崎を見た。
その沈黙は短かったが、変に長く感じた。
「杏子は、先生の娘です……そして、私にとっても大切な人です」
杏子は息を止めた。顔が赤くなるのを止められない。
神崎が自分の父を好いているのは知っていたのでそこはあまり気にならなかった。
だが、自分に対する思いをこんなに率直に言われるとやはり恥ずかしい。
「私は、彼女を娘か、妹のように思っています
……先生の言葉を聞いて育ち、先生の家族である彼女を、私は他人とは思えません」
神崎の声は穏やかだった。
「言うならば、先生と私の子供のように」
教会の空気が止まった。
杏子は、数秒遅れて反応した。
「ちょ、おま、何言ってんだ!? 今、何言った!?」
大声が礼拝堂に響いた。
神崎は杏子の怒鳴り声をやはり淡々と処理する。
「比喩だ。」
「比喩にしても最悪だろ!」
「それほど大事に思っているということだ」
「……っ馬鹿!!」
父は困った顔をしていた。
困惑すべきか、感動すべきか、理解に迷っている顔だった。
神崎は真剣だった。真剣すぎた。
だからこそ、父はその言葉を神崎の優しさだと受け取ったのだろう。
教えを聞いてくれた若者。自分を信じてくれた信者。
娘の罪を知りながら、なお引き取ろうとする者。
「……君は優しいな」
父が言った。神崎は目を伏せる。
「優しさではありません」
父は疲れたように微笑みながら、首を振った。
神崎の優しさを肯定するかのように。
「私には、今の杏子を近くに置くことができない。
だが、ひとりにすることもできない」
杏子は拳を握った。薄々何を言われるのかを分かっているから。
「と……親父」
父はまっすぐ杏子を見た。
せめてもの贖罪とばかりに。自分の罪を見つめるかのように。
「おまえを今も愛している。だが、今は一緒にいられない
……弱い父を責めるなら責めてくれ」
その言葉は、刃物よりも鈍かった。
鋭く刺さるのではなく、胸の奥をゆっくり押し潰す。
杏子は、泣きたくなかった。泣いたら負けだと思った。
誰に負けるのかは、わからなかった。
父は言った。
「杏子は……わがままだ。口も悪い。無茶をする。
……人に甘えるのが下手だ」
「承知しています」
「そして……寂しがりだ。それでも、か」
「彼女が嫌だと言っても私が必ず」
「……すまない」
目を伏せたままの父に。
母は妹を抱きしめたまま。
妹だけは、幼さゆえに、途中から寝入っていた。
残酷なまでに幸福に。
神崎が杏子を連れ出す。
重い蝶番の音が鳴り響き、教会の門は閉まった。
杏子は振り向かなかった。決して。
*
その夜、杏子は神崎の家に来た。
正確には、神崎の借りている部屋だった。
本棚が多く、紙の匂いがした。
机には大学の資料が積まれていて、部屋の隅には小さなキッチンがある。
「布団は用意する。私は今日はソファで寝る。
学校で慣れているからな」
「わかんねえけど大学の講師ってもっと金あんじゃねぇの?」
「一般的な社会人と同レベルだろう」
「じゃあ……あんまり金持ってないのか」
「君の中での社会人の定義について聞かせてほしいが……多くはない」
「……なんで引き取ったんだよ」
「必要だったからだ」
神崎はそれだけ言って、台所に立った。
簡単な食事を作る。手際はいい。
疲れているはずなのに、動きに無駄がない。
杏子は部屋の真ん中に立ったまま、どうすればいいかわからなかった。
ここにいていいのか。座っていいのか。
荷物を置いていいのか。わからないことだらけだった。
「そこに座るといい」
神崎が言った。
杏子は小さく息を吐いて、結局、机に体重をかけながら神崎の言葉を待った。
この家には仮初でいるだけ。お前の話を聞くつもりはない。
そういう意思表示だった。
神崎は少し困ったようにしたが、黙って受け入れた。
杏子にはそれがありがたかった。
怒りはある。悲しみもある。恥ずかしさもある。
でも一番大きいのは、空っぽになったような感じだった。
父に出ていけと言われた。母は止めなかった。妹は泣いていた。
神崎だけが、隣に立った。
それが救いだったことを、杏子はそのとき認められなかった。
認めたら、本当に自分が捨てられたみたいだったから。
「……あんたさ。なんで嘘ついたんだよ」
神崎の手が止まった。
「嘘とは」
「聖女とか、なんとか」
「少なくとも私にとってはそうだ」
杏子は顔を赤くした。何を言っているんだこの馬鹿は。
「昔、先生を好いていると君に認識されたとき。
君の見る目が変わると思った」
「なんでだよ」
杏子にとっては意味の分からない言葉だった。
神崎は神崎。杏子にとってはそれだけだった。
もっとも一般的には隠したいことだろうと思ったので、誰にも言わなかったが。
神崎は珍しくはっきりとした笑顔を見せた。
仕方のないものを見るように。
杏子は訝し気にしたが、やがて神崎は話した。
「君は自身が魔法少女とやらだと話していたな。
願いを父君のために使ったのだな?」
「……あたしの独りよがりだったんだから……もういいだろ。
魔法少女も、もういいや。あたし、正義の味方とかじゃないし。
マミにも連絡する。めんどくせえからやり方変えて、使い魔とかは放っておいて……」
投げやりになっている杏子を、神崎はまっすぐ見た。
その瞳の色がどこまでも深くなっていた。
「杏子」
「……んだよ」
「座りなさい」
先ほどと同じような言葉だった。
しかし、杏子はびくりとした。
神崎にはそれだけの圧があった。杏子を思う重さがあった。
杏子がその気になれば、神崎をたやすく殺せてしまう力を持っている。
しかしそれを容易く超えるほど、神崎の言葉には不可思議な重さがあった。
「……はいはい」
軽口を言うことが精いっぱいだった。
「杏子。君は誰かのために願い、想い、それを当然のことだと考えている」
「だからそれはっ!」
杏子の投げやりな言葉を神崎はさえぎった。
「君がどれだけ君のことを否定したとしても、
君の姿勢は誰より気高く美しい」
錯綜する視線から逃れるように膝を抱えた。少女の耳は真っ赤だった。
「魔法少女になってまで、誰かの幸福のために行動した君のその在り様は、
私には聖女のように見えた」
「あ、あんたはっ! とうさ……親父が死なないようにしたかっただけだろ!!」
神崎は何も言わなかった。
「親父、自分の教えが全部嘘だったみたいな顔してた。
だから、あんたは助けるために言ったんだろ。
自分はちゃんと聞いてたって。けど……じゃあ、あたしは何なんだよっ!
あたしって、ほんと、バカみたいじゃん!」
神崎から守られたことはわかっていた。
だが、杏子は自分の覚悟も決意もすべて家族に否定されていた。
だから、やり場のない感情を神崎に向けていた。
神崎にも否定されることで何もかもをおしまいにしたかった。
神崎もそれがわかっていたから、何も答えずに黙ってその誹りを受けていた。
「だいたい、あんた、本当に親父の言葉で操られてなかったのかよ。
それもおかしいだろ!」
神崎は、杏子のことをまっすぐ見た。純粋な瞳だった。
何がと聞かれると困るが、杏子には純粋という概念そのものに見えた。
「君は聖女だ。例え君自身がそう思っていなかったとしても」
杏子のいろいろな発言に対する回答にはなっていなかった。
杏子は回答を求めていたわけではないからだ。
だから、神崎は答えた。自分自身が杏子をどのように見ているかを。
長い沈黙。
やがて、杏子は小さく言った。
「……その聖女ってやめろ」
結局、神崎は杏子が欲しい言葉はくれなかった。
神崎からも否定されていれば。
マミとの協力も何もかもを投げ出して、悪人ぶれたのに。
神崎はそれを許してくれなかった。
君はそんな人間ではない。
そういう風に本気で信じてくれている。
ほんと、重いやつ。
杏子は改めてそう思いながらも、我慢して受け入れてやった。
だが、次の言葉は許容できなかった。
「話を戻すが、私は、君の父君に恋をしていた」
「?! 戻ってねえだろ話つなげろよ!!
あと直球で言うのやめろ!! あたし今勘当されたばっかだぞ!!
気を使ってもいいんじゃねえの!!」
杏子は反射的に叫んだ。耳は深紅に染まっていた。
自身のことを本気で聖女と認識されていることに対する気恥ずかしさなのか、怒りからなのかは誰にもわからない。
「私は、あの人の人柄に惚れて話を聞いていた。
君の願いがあろうとなかろうと、それは変わらない」
杏子は黙った。
神崎の言葉はおかしかった。
父親に恋をしていたなんて、正直、知ってはいても聞きたくない。
けれど。
あのとき父を引き止めたのは、たぶん神崎のその気持ちだった。
杏子の願いではなく。父の教えそのものでもなく。
神崎が父を好きであるが故に。常に父の話を聞いていたこと。
それだけが、父にとって最後の綱になった。
「……なんかムカつく」
杏子は小さく言った。
言葉が詰まった。
ありがとう、と言いかけた。言えなかった。
それが自分と神崎の違いのようで、更に嫌な感じがした。
「……腹減った」
代わりにそう言った。
神崎は後ろの鍋に視線を向けた。
「夕食にしよう」
その夜の食事は、少し焦げた味がした。
杏子は文句を言いながら食べた。
神崎は申し訳なさそうに、しかしどこか安心したようにそれを見ていた。