現在。
信号待ちで立ち止まりながら、杏子はその夜の焦げた匂いを思い出していた。
神崎の部屋。
硬い布団。積み上がった本。夜遅くに帰ってくる足音。
あれから、杏子は神崎の家にいる。
家、というにはまだ少し他人行儀な場所。
けれど、帰る場所ではある。
少なくとも、神崎はそう扱っている。
大学から帰ると、まず玄関で声をかける。
「ただいま」
杏子が返事をしなくても言う。
深夜に近い時間でも、必ず台所を覗く。杏子が食べた形跡を確認する。
パンの袋だけだと眉をひそめる。菓子だけだと説教が始まる。
あまりに忙しい日には、目の下に薄い影を作って帰ってくる。
それでも、杏子の顔を見るまでは眠ろうとしない。
「あんた、過労で死ぬぞ」
「死なない。私の肉体は一般的なそれと比べてかなり丈夫だ」
「運動会でありえないくらい速かったもんな」
「覚えていたのか」
「……まあ、多少は」
神崎は、そこで少し笑う。
その笑い方が昔より少し疲れていることに杏子は気づいている。
気づいているから、余計に腹が立つ。
「君が心配してくれていることは理解した」
「心配じゃねぇ。監視対象が倒れたら面倒なだけだ」
信号が青に変わる。二人は歩き出した。
鹿目家までは、もう遠くないらしい。
神崎の携帯がときどき震え、地図アプリが道を示している。
神崎が鹿目知久に会おうとしていることは、正直、気に入らない。
面倒くさい……けれど、それだけではない。
鹿目知久に向かう神崎の視線。
父に向けていた、あの痛々しいまっすぐさ。
相手に気づかれないほど静かで、けれど本人の中では燃えているような感情。
それをまた見るのが、少し怖い。
父は、神崎を信者として見ていた。優しい若者として見ていた。
杏子を託せる相手として見ていた。
でも、神崎が本当は何を差し出していたのか、たぶん最後まで知らなかった。
鹿目知久に対しても神崎は同じ思いを持っているのだろうか。
「……めんどくせぇな」
「私のことか」
「他に誰がいんだよ」
「すまない」
「謝るくらいならはじめからやるな」
神崎は少し黙った。
住宅街に、子供の声が聞こえる。
「私は」
神崎が言う。
「先生を探しているわけではない」
「ほんとかよ」
「鹿目さんは鹿目さんだ」
「なら、なんで会いたいんだよ」
「確認したい」
杏子は横目で睨んだ。
「なにをだよ」
「愛情ではないと考えている。
だが、まだ私自身この感情を理解できていないから間違えてしまうかもしれない」
「行動はいつも間違えてんだろ」
神崎は少しだけ困ったように笑った。
その顔を見ると、杏子は強く言えなくなる。昔からそうだ。
怒りたいのに。突き放したいのに。
この男は時々、あまりにも所在なげな顔をする。
教会で父の背中を見ていたときと同じ顔。
褒められて、嬉しいのに、どうしていいかわからない顔。
杏子はそれを知っている。知ってしまっている。
二人は角を曲がった。
地図アプリの表示では、目的地はすぐ近くだった。
杏子は足を止めた。
「……ここか?」
神崎も立ち止まり、画面を確認する。
紙袋の持ち手を整えた。
その動きがまた妙に丁寧で、杏子は少しだけ胃が痛くなった。
「なあ、最後に確認するぞ。頼むから変なこと口走んなよ。人柄に惚れたとかも駄目だぞ」
「それは駄目なのか」
「当たり前だろ!」
「では、何を切り出しにすればいい」
「普通に、先日はどうも、とかでいいだろ」
神崎はいつもそうだった。自身の思いを口にするように心がけている。
自分自身の同性に対する愛だけは常に胸の中に秘めていて。
だが時々その線引きがきちんとできず不気味に見えた。
杏子の父に対しても、結局思いは秘めたまま。
杏子だけを大事にしている。
自分の思いの結晶だとでもいうように。
前方の家の門が開いた。
柔らかな声がした。
「おや」
杏子と神崎は、同時に顔を上げた。
鹿目知久が、そこに立っていた。
昼と夕方のはざまの光の中で、彼は少し驚いた顔をしている。
けれど、すぐに穏やかに笑った。
「神崎さん、でしたよね」
神崎の背筋が、ほんのわずかに伸びた。
杏子はそれを見逃さなかった。
「……はい」
神崎は静かに答える。
「先日は、どうも」
そこまではよかった。
杏子は内心で小さく頷く。
できるじゃねぇか。普通にできるじゃねぇか。
だが神崎は、紙袋を差し出しながら続けた。
「突然の訪問、申し訳ありません。あなたの人柄について、もう少し確認したく——」
「待て待て待て待て!」
杏子は全力で割って入った。
「確認って何!?人柄を確認って何!?面接官か!」
鹿目知久は目を瞬かせる。
「ええと……」
神崎は真面目に杏子を見る。
「言葉を間違えた」
「馬鹿!今言わなくてもいい!つうか間違えすぎだろ!」
「では、あなたと交流したく」
「言い直して悪化してんだよ!」
杏子が叫ぶと、鹿目知久は困ったように笑った。
「あの、その子は、どなたでしょうか?」
その問いに、杏子は一瞬詰まった。
神崎も、すぐには答えなかった。
知り合い。保護者。居候先。
昔の教会の手伝い。父の信者。
どれも間違いではない。でも、どれも足りない。
杏子が答えるより先に、神崎が口を開いた。
「彼女は、私の大切な——」
「待て」
杏子は低い声で止めた。
神崎が黙る。
鹿目知久はますます困惑している。
けれど、不思議と嫌な顔はしていない。
かなりのお人よしなのだろう。
杏子は小さく息を吸った。
「……こいつの、家にいる」
ようやく、それだけ言った。
鹿目知久は少しだけ驚いたように眉を上げた。
「そうなのかい」
「事情があってな」
「なるほど」
なるほど、と言ったが、たぶん何もわかっていない。
それでいい。今この場でわかられても困る。
神崎は紙袋を差し出したまま、静かに立っている。
「これを」
「あ、ありがとうございます」
鹿目知久は受け取った。
「ご丁寧に。中へ……と言いたいところですが、
今ちょうど家族の夕食の支度の途中で」
「……いえ。お気になさらないでください」
神崎はすぐに頭を下げた。
一方で杏子はショックを受けている自分自身に驚いた。
家族がすでにいたのか。
神崎がなにかしらで報われてほしいと考えていた。
しかし、自分の父に続き、この人もすでに既婚者だったとは。
神崎は特に気にした様子もなく飄々と言葉を続ける。
「押しかけですので」
鹿目知久は笑った。
神崎のこの勢いに対して、気にした様子もなく笑うあたり、かなり懐が広いようだなと杏子はショックを引き摺りながらも観察する。
「でも、少しだけならお招きできますよ。
娘もいますからそちらのお子さんと話し相手になってくれると思います」
「十分です」
神崎の声が少しだけ柔らかくなる。
杏子はその変化に気づいて、胸の奥がざらついた。
娘という単語を聞くに、もう妻帯してから長いのだろう。
それであっても神崎は淡々と声音を変えずに話している。
「この間は、急に名前を聞かれて驚きました」
「申し訳ありません」
「いえ、不思議な方だなと思ったくらいで。
ご連絡で、そのうち話をしたいとは書いてありましたが、
行動がお早いですね。あはは」
「よく言われます」
「自覚あったのかよ」
杏子の突っ込みに、鹿目知久が小さく笑う。
相当不気味に見えたであろう神崎の行動と言動にも一切引いていない。
鹿目知久は相当の大物だと杏子はあたりをつけた。
「仲がいいんですね」
「……よくねぇし」
杏子は少し耳を赤くして答えた。
神崎は少し考えてから言う。
「大切に思っています」
「やめろよ!」
鹿目知久は穏やかに二人を見ていた。
「なんだか、家族みたいですね」
その言葉に、杏子の指先が止まった。
神崎も、わずかに目を伏せた。
鹿目知久はすぐに気づいたのか、少し慌てる。
「あ、すみません。変なことを言いましたか」
「いえ」
神崎が答える。
「保護者ですので」
杏子は横目で神崎を見た。
その顔は静かだった。けれど、奥にあるものが揺れている。
先生と私の子供のように。
昔の言葉が、杏子の中で蘇る。
神崎の、重くて、痛々しくて、たぶん本気だった言葉。
鹿目知久は何も知らない。
ただ、穏やかに「家族みたい」と言っただけだ。
「……家族ではねえよ」
杏子は小さく言った。
鹿目知久には聞こえなかったかもしれない。
だが、神崎には聞こえた。神崎は杏子を見た。
杏子は視線を逸らした。
「……帰るぞ。十分交流しただろ」
「まだ三分ほどだ」
「濃度が高すぎるんだよ」
鹿目知久はまた笑った。
「また、よかったらいらしてください」
そう言ってから、少し考えるように首を傾げた。
「今度はお茶くらいは。娘にも伝えておきましょう」
定型的な挨拶だったが、実際に真実として鹿目知久はまた、来訪してほしいと考えているようだった。
懐が広いというか、天然というべきか。
杏子は悩みながらも黙って頭を下げた。
「……失礼します」
「はい。また」
鹿目知久は穏やかに手を振った。
杏子は神崎の腕を引っ張るようにして歩き出す。
背中に、鹿目家の門が閉まる音がした。
しばらく二人は無言だった。
角を曲がり、鹿目家が見えなくなってから、杏子はようやく神崎の腕を離した。
「危なかったな……おいばか」
「今回は私は何もしていないが」
「怪しさしかなかっただろうが!」
神崎は少し考えた。
「お茶に誘われた」
「誘われてねぇ。社交辞令だ……
いや、まああれは本気かもしれないけどさ」
「では、真に受けてはいけないのか」
「少なくとも即答で日程詰めるな」
「努力しよう」
「成功しろよ頼むから」
杏子は疲れたように息を吐いた。
神崎は、どこか遠くを見るような目をしていた。
「……なぜここまで近づきたいと考えたのか、わからない」
小さく言った。
「あんたが言い出したことだろ……
既婚者だったな。まあ……どんまい」
「いや特に気にしてはいない。
どうやら私は単純に友人が欲しかっただけのようだ。
せっかくできた縁だからまた会いたい」
杏子は神崎を見た。神崎の顔は特に何も感じていないものにしかみえなかった。
実際にそうだったのだろう。
杏子はその表情に、胸の奥がまたざらつくのを感じた。
「……なあ。あんたさ」
鹿目知久を見て、父を思い出して。寂しさを感じたのだろうか。
杏子にはわからなかった。そして神崎にもそれはわかっていないようだった。
「いや……外食だぞ今日は。
金ないのに扶養が増えて大変だな」
杏子は自虐的に笑う。
神崎が杏子を見つめる。
杏子は何かさらに言葉をぶつけようとして、しかし、何も言えなくなった。
「君が大切だ」
「……っ」
「私の帰る理由であり、頑張る理由だ。
だから、そういう風に考える必要はない」
杏子は立ち止まった。
不意打ちで言うな。
顔をそらしながらそう考えた。
神崎も数歩先で足を止め、振り返る。
空の下で、彼の顔は半分だけ明るい。
杏子は何か言おうとした。
重い、そういう軽い言葉で返せばよかった。
けれど、喉の奥に引っかかったのは別の言葉だった。
あの日、父に言われた言葉。
神崎のおおげさな言葉。神崎が差し出した本当。
そして、今も毎晩帰ってくる理由。
「……あんた、ほんとに」
杏子は言いかけた。神崎は待っている。
昔と同じように。急かさず。子供扱いせず。
杏子が言葉を選ぶのを、ひとりの人間として待っている。
それが、ひどくずるかった。
「……いや」
杏子は視線を落とした。
「ほら、行くぞ」
「ああ」
神崎は頷いた。二人はまた歩き出す。
太陽の道を、並んでいないようで、並んで歩く。
杏子の胸の奥には、言いかけた言葉が残っていた。
あんた、ほんとに馬鹿だなあ。
なぜだか泣きそうになる杏子はそれに気づかないふりをした。
杏子がここぞとばかりに肉系をメインに注文をしているのを見て、神崎は明日からはやはり野菜をメインにした料理にしようと誓っていた。
今日、交友を深められた鹿目知久はなかなかの好人物だった。
そして、やはり自分の思いは今も自分の師に向けられていた。
改めて確認ができたので非常に有意義な一日だったといえる。
そういえば、鹿目知久は娘がいるようだった。
杏子は魔法少女として活動するために、自分の私生活を犠牲にしがちだ。
しかし一方で、自分という至らない保護者のためであっても時間を割くことを厭わない非常にやさしい子だ。
今度もまた鹿目知久の家に出向く際は杏子を連れていき、相手の娘さんと引き合わせよう。
この子には日常をもっと増やしてほしい。
「……あんた、何考えてんだ」
「鹿目さんの家に次回出向く日程を調整している」
「いや、早くねえか?!」