外食の帰り道の途中。
肉食系メインの店で、杏子は大いに喜んだ。
外食の時ぐらいは栄養面など気にしなくともよいのではないかとぼんやりと考えながら、二人で帰っていると、神崎の携帯が震えた。
短い振動。
連絡アプリのようだった。
杏子は横目で見る。
「大学か。この時間に?」
「学生からだな。珍しくはない」
「講師って大変だな」
「働けば誰しもがそうなる」
神崎は携帯をしまった。二人で黙って歩く。
吐き出された息が、ほんのわずかに白かった。
夜の空気は冷え始めている。
「戻ったら、温かいものでも飲もう」
神崎は少しだけ笑った。
その笑いに、杏子は胸の奥を掴まれたような気がした。
力が抜けたような、短い笑い。
昔から、たまにそういう顔をする。
本人は気づいていない。
たぶん、父に向けていたときもそうだった。
褒められたとき。頼まれたとき。必要とされたとき。
神崎は、自分が必要とされると少しだけ安心する。
それが痛々しい。
だから杏子は、わざと雑に言う。
「野菜スープとかじゃなくて肉系メインのやつな」
「君がまだ食べるなら作るが」
「……わるい。もうさすがに食えねえな」
マンションが見えてきた。
古い建物。
外階段の塗装は少し剥げていて、廊下の蛍光灯は頼りなく光っている。
神崎の家。
杏子はまだ、心の中でそう呼ぶ。
自分の家、とは呼べない。でも、帰る場所ではある。
それを認めるのは、少し癪だった。
*
部屋に戻ると、神崎はまず手を洗い、鞄を机の横に置いた。
大学から持ち帰った資料が、少しだけはみ出している。
神崎は上着を脱ぎ、台所に向かった。
杏子はテーブルの前に座り、頬杖をつく。
この部屋には、妙な規則があった。
夜に帰ったら、ただいまと言う。
神崎が帰るより先に杏子がいるときは、玄関の鍵を二重にする。
栄養バランスの取れた食事をする。食器はできるだけ早めに洗う。
魔女と戦っていなければ十時までには、なるたけ戻る。
最後の規則だけは、杏子にとって邪魔だった。
魔女は夜に頻繁に出る。人の心の隙間に入り込む。
生きる気力を削り、死へ引っ張る。
杏子はそれを知っている。神崎も、それを知っている。
最初に話したとき、神崎はしばらく黙っていた。
驚くでもなく。否定するでもなく。
ただ、杏子の言葉を一つずつ受け止めていた。
*
「魔法少女に魔女か」
神崎は、そう繰り返した。
「そ」
杏子はテーブルの上にソウルジェムを置いた。
赤い宝石が、部屋の灯りを受けて鈍く光る。
「これが魔法少女の証拠」
「触ってもいいか」
「大事なもんだから、できたらやめてくれ」
神崎はすぐに手を引いた。
「それで、夜に君は魔女というものを狩っているのか」
「夜だけじゃねぇけど、まあ多いな」
神崎の視線が悲し気になった。
杏子は視線を逸らした。
こういう雰囲気を出す神崎は、面倒くさい。
怒鳴らないぶん、逃げにくい。
「けがは治るよ。前も言ったろ。魔力使えば治るって」
神崎は黙った。沈黙が長かった。
杏子は居心地が悪くなり、ソウルジェムを拾い上げた。
「言っとくけど、止めても無駄だからな」
「分かっている。以前も聞いた」
「あんたが来ても足手まとい」
杏子は少しだけ目を細めた。意識的に突き放すような言い方をしていた。
「魔女の結界とやらに一般人が入れば、死ぬんだったか」
「よく覚えてるじゃん。ま、最悪。死ぬかな」
「……最悪でなければ」
「帰っても記憶が飛ぶことがある。
見たこととか、聞いたこととか、ぐちゃぐちゃになる。
魔女に引っ張られたやつは、普通に戻ってもおかしくなることもある」
「……そうか」
神崎は静かに頷いた。
「私はやはり行けないな」
「……相変わらず物分かりいいな」
「君の邪魔になると前も聞いた。だが」
神崎は言葉を続けようとして、一瞬沈黙した。
この男にしてはかなり珍しいことだ。
いつも、言葉をきちんと伝えようと心がけているのに。
「杏子」
どこか悲しそうに、しかしなにやら決意のある話し方だった。
「そんな行動を続けていれば、いつか君自身が倒れる」
「誰かがやんなきゃ死ぬやつがいる」
「それは避けようのない死だ」
その言葉は、あまりにも冷たかった。
杏子は、神崎を睨んだ。
「……今、なんつった」
「誰かが死んだとしても、それは仕方がないことだ」
「あんた、本気で言ってんのか」
「本気だ」
神崎はまっすぐ杏子を見た。
迷いのない視線だった。
吐き出した言葉に対して、本来ならば、迷いがあるべきはずなのに。
「君がすべてを背負う必要はない」
「誰かが死んでもいいってことかよっ!」
「君が死ぬよりはいい」
杏子は立ち上がった。椅子が音を立てる。
「ふざけんなっ!
じゃあ、あんたの好きな人が死んでも同じこと言えんのかよっ!」
神崎は、一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬。けれど、杏子にはわかった。
父のことを考えたのだ。今もまだ、父のことを。
神崎は静かに言った。
「別の愛する人を探すだけだ」
杏子は数秒固まった。
それから、叫んだ。
「色情魔が!!」
「その表現は正確ではない」
「うるせぇ!最低だろ今の!」
「君の問いに答えただけだ」
「答え方が最悪なんだよ!」
杏子は拳を握りしめた。
怒っていた。間違いなく怒っていた。
けれど、怒りの底に、別のものが混ざっているのもわかっていた。
多分、神崎は、あえて冷たいことを言っている。
誰かが死んでも仕方ない。別の愛する人を探すだけ。
そんなことを、本気で言える男ではない。
いや、本気ではある。本気で言っている。
けれどそれは、自分の心を守るための本気ではない。
杏子の心を守るための、冷たさだった。
誰かを助けられなかったとき。
杏子が自分を責めないように。
杏子が、全部自分のせいだと抱え込まないように。
そのために、自分が最低なやつになろうとしている。
そういうことを、この男は平気でする。
平気な顔で。本当は痛いくせに。
「……気色悪ぃ」
杏子は低く言った。
「私は、君に生きてほしい」
杏子は黙った。
不自然に露悪的になるくせに、自分に対して真っ直ぐに善意をぶつけてくる。
ほんとうに、こいつは。
「……重いやつ」
その夜、結論は出なかった。
ただ、十時までにはなるたけ戻るという約束だけができた。
*
現在。
鍋の中で、野菜が静かに煮えている。
神崎は台所に立ち、火加減を見ていた。
杏子はテーブルに肘をつき、ソウルジェムを指先で転がしている。
赤い光が、部屋の灯りの下で小さく揺れた。
「今日は行くのか」
神崎が言った。
「飯のあとでな」
「十時までに戻れるか」
「わかんねぇよ。魔女次第だろ」
「……無理はしないでほしい」
杏子はソウルジェムを握り込んだ。
「今日は使い魔の気配がある」
神崎の手が止まった。杏子は椅子の背にもたれた。
部屋が少し静かになった。鍋の中で、泡が一つ弾ける。
杏子は視線を逸らした。
「あたしは聖女とかじゃねぇ」
「いいや。君は聖女だ」
「やかましい。全部救う気なんかないんだから、
そういう存在じゃねえだろどう考えても」
「それは私がお願いしたからだ。君が罪に感じる必要はない」
鍋から湯気が上がる。
野菜の匂いが部屋に広がる。
「結局野菜まみれじゃねえかよ。肉ほとんどねえし。貧乏か?」
「十分だろう。身体を動かす前に、あまり食べ過ぎないほうがいい」
神崎は器を取り出した。杏子はその手元を見ていた。
手慣れてはいない。料理は菓子ほど上手くない。
けれど、丁寧だ。不器用な丁寧さ。
それを見ていると、胸の奥が落ち着かなくなる。
神崎の手が止まった。杏子はテーブルの上のソウルジェムを見つめたまま言った。
「……今のあたし、あんたにはどう見える?」
神崎は、すぐには答えなかった。
鍋の火を止める。器によそう。箸を出す。
その一つ一つの動作が、いつもと変わらずに見える。
「さっき言った通りだ。聖女」
「…………あんたやっぱ頭おかしいよ」
杏子は机に頭を伏せながらあきれたようにぼそぼそと話す。
神崎は器をテーブルに置いた。湯気が上がる。
それから、杏子の向かいに座った。
「守るべき人でもある」
神崎は言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「妹や娘のようだと思っている。大事な人だ」
杏子はなんと話していいかわからずに、自身の掌を見つめた。
指の先まで血液がどくんどくんと脈打っているのを感じた。
「君が先生の娘であることは、私にとって大きい。
否定はしない」
「……正直だな」
「嘘をついても君は看破するからな」
たしかに神崎のことはなんとなくわかる。
たまにつく不器用な嘘については必ずと言っていいほど見抜くことができる。
自分自身でも不思議なほどに。
だが、そういう信頼のされ方は困る。
「先生の代わりではなく、先生の娘というだけでもない」
「じゃあ、なんだよ」
声が少し掠れた。神崎は静かに答えた。
「帰ってくる人だ」
杏子は顔を上げた。
「私が帰る理由になる人で、食事を作る理由になる人で、
戻ってきてほしい人だ」
「……重い」
娘でも、妹でもなく。恋でも、信仰でもなく。
神崎は、また変な言い方をした。
聖女であり、帰ってくる人。
そんな言葉で、人を表すやつがいるか。
普通はいない。
でも神崎は自分が思ったことを愚直に伝えようとする。
相手が傷ついてしまうこと以外はたとえ自分が悪く見られようとも必ず。
そういう言い方しかできない。
神崎は少しだけ笑った。
杏子も、ほんのわずかに口元を緩めかけた。けれどすぐに引っ込める。
「……飯、食うぞ」
「ああ」
二人は箸を取った。温かい汁物は、焦げていなかった。
少し味が薄い。でも、食べられる。
「味薄い。病人食かよ」
「塩分を控えた。さっきも言ったろう。
夜に動くなら、重すぎないほうがいい」
「そういうとこだけ気が回るな」
「他にも回せるように努力しよう」
「いつもそういって成功してねえだろ。
努力じゃなくて成功しろ成功」
食事を終えると、神崎はすぐに食器を片づけた。
流しの水音が部屋に響く。
杏子は椅子に戻り、ソウルジェムを手に取った。
光はまだ濁っていない。今夜動くには十分だ。
「行くのか」
水を止めながら神崎が言った。
杏子は上着を取った。玄関へ向かう途中、神崎が声をかけた。
「杏子」
「なんだよ。早く言え」
「誰かが死んでも」
杏子の足が止まる。
「君のせいではない。
早く帰れと勝手な命令をする私のせいだ」
杏子は振り返った。
神崎は流しの前に立っていた。
袖をまくり、手にはまだ少し水滴がついている。
大学の講師。父の信者。
自分を引き取った男。
そして、毎晩帰ってくる男。
「あんたがそうやって勝手に背負おうとすると……
あたしが軽くなんねぇんだよ」
神崎は黙った。杏子は続けた。
「むしろ重くなる」
「……そうか」
神崎は少しだけ笑った。杏子も、少しだけ息を吐く。
重い空気が、ほんのわずかにほどけた。
夜の匂いがする。
「いってらっしゃい。気をつけて」
その一言は、妙に普通だった。
普通すぎて、杏子は少しだけ面食らった。
「……おう」
短く返して、外に出る。
ドアが閉まる直前、神崎の声が聞こえた。
「帰ったら、クッキーがある」
杏子は振り返った。
「なんでそんなもん作ったんだよ。もう信者の人もいないぞ」
「帰る理由になるかと思ってな」
杏子は数秒、何も言えなかった。それから、顔をしかめる。
「……餌付けかよ」
「帰ってきてくれる理由にしたかった。不快なら申し訳ない」
杏子は乱暴にドアを閉めた。
廊下に出ると、冷たい空気が頬に当たる。
待っていてくれる人で帰ってくる人。
言葉が、いちいち絡みつく。
「……あー、もう」
杏子は頭をかいた。
「ほんと、調子狂う」
*
夜の町へ出る。
魔女の気配は遠く、細く、湿った糸のように伸びていた。
杏子はそれを辿る。
路地を抜け、人気の少ない道へ入る。
街灯の明かりが届かない場所で、ソウルジェムが赤く光る。
結界の入り口が、壁の染みのように揺れていた。
使い魔の気配。まだ魔女ではない。
倒してもグリーフシードは出ない。
放っておけば、いつか魔女になる。
誰かを食って、育つ。
知っている誰かかもしれない。
神崎の学生かもしれない。
鹿目知久かもしれない。
神崎が言った言葉を思い出す。
誰かが死んでも仕方がない。君が死ぬよりはいい。
別の愛する人を探すだけだ。
「……色情魔が」
杏子は小さく呟いた。
けれど、その声に怒りはあまりなかった。
あれは嘘だ。嘘というより、盾だ。
神崎は自分の言葉で、自分を悪者にしている。
杏子が少しでも軽くなるように。
誰かを助けられなかった夜に、帰る場所を失わないように。
そういうところが、嫌いだ。
嫌いで。たぶん、嫌いになりきれない。
杏子は槍を出した。赤い穂先が、夜の闇を裂く。
「十時までに帰れ、か」
結界の入り口を見つめる。まだ時間はある。
倒すことはできる。魔力は減る。
得るものはない。でも、誰かは死なないかもしれない。
杏子は舌打ちした。
「……クッキー、ね。やすっちいな。ったく」
そんな理由で動く自分が、馬鹿みたいだった。
けれど、足はもう結界へ向いている。
中へ入る直前、携帯を取り出した。
短く文字を打つ。
『少し遅れるかも。外まで来んな』
送信。すぐに返事が来た。
『わかった。十時半まで待つ』
杏子は画面を睨んだ。
もう一通来る。
『それ以上は探す』
「わかってねぇ!」
杏子は思わず声を出した。誰もいない路地に、自分の声だけが響く。
その間抜けさに、少しだけ笑いそうになった。
笑わないように唇を噛む。
携帯をしまう。槍を握る。
結界の入り口が、ぐにゃりと歪む。
杏子は一歩踏み込んだ。
*
結界の中は、夜の町とはまるで違っていた。
細い廊下が、どこまでも続いている。
壁には無数の扉。
扉の隙間から、誰かの笑い声のようなものが漏れている。
床には紙が散らばっていた。
答案用紙。手紙。
請求書。祈りの言葉。
どれもぐちゃぐちゃに塗りつぶされている。
「趣味悪ぃな」
杏子は槍を肩に担ぐ。
使い魔の影が、天井を這っていた。
小さい。けれど数がいる。
一体、二体、三体。
赤い槍が走る。影が裂ける。紙が舞う。
魔女ではない。だから弱い。
けれど、嫌な感じがした。
人の後悔を食って育つ類の気配だ。放っておけば面倒になる。
杏子は舌打ちしながら、次々と使い魔を叩き潰した。
途中、扉の一つが開いた。中に、神崎の部屋が見えた気がした。
机に伏せて眠る神崎。その横で、冷めた夕食。
玄関のほうを気にするように、時々顔を上げる影。
「……」
杏子は槍を振った。扉ごと切り裂く。
「見せんな」
低く呟く。
別の扉が開く。
教会。父の背中。神崎が頭を下げている。
自分はその横で、何もできずに立っている。また切る。
「見せんなって言ってんだろ」
結界の中は、こちらの嫌なところを突いてくることが多い。
杏子は奥へ進んだ。
最後の使い魔は、礼拝堂のような広間にいた。
小さな黒い獣の形をしている。
背中から、紙の翼のようなものが生えていた。
それが鳴いた。人の声のように。神崎の声のように。
「帰る理由になる」
杏子の足が、一瞬止まった。その隙に、影が跳ぶ。
「っ!」
槍で受ける。腕に浅く傷が走った。
痛み。熱。杏子は歯を食いしばる。
「真似してんじゃねぇよ」
槍を振るう。使い魔が逃げる。
「それ、あいつの声だろ」
もう一撃。
「気色悪いけど」
影が裂ける。
「あいつのだ」
赤い光が広がった。使い魔は紙のように燃え、結界が崩れ始める。
散らばった答案用紙も、祈りの言葉も、黒い扉も、すべて夜の闇にほどけていく。
グリーフシードは落ちない。予想通りだ。
魔力は多分ほとんど減らなかったが。
「割に合わねぇ」
杏子は小さく呟いた。けれど、その声はどこか軽かった。
*
外に出ると、時間は十時二十分だった。
「……やべ」
杏子は携帯を取り出した。画面には神崎からのメッセージが三件。
『十時を過ぎた』
『無事か』
『十時半までは待つ』
その几帳面さに、杏子は呆れた。
返信を打つ。
『終わった。帰る。来んな』
すぐに既読がついた。
『わかった。玄関で待つ』
杏子は夜道を走った。
傷は浅い。魔力で塞げる。
でも、服の袖に少し血がついている。
隠せるか。隠せないか。
玄関で待たれたら、まず無理だ。
マンションの階段を上がる。
廊下の先に、神崎が立っていた。
本当に玄関の前で待っていた。
「おかえり」
「……ただいま」
神崎はほっとした顔をしていた。
ただ、本当に安心している。それが、いちばん困る。
「傷は……袖元か。確認するから出しなさい」
「浅いしもう治ってるっての」
「……杏子」
「過保護すぎっ」
「当たり前だろう」
部屋に入ると、神崎は救急箱を出した。
魔力で塞いだ傷に、消毒はほとんど意味がない。
それでも神崎は確認する。
「もう治ってるよっ!ほらっ」
「治りきってないだろうこれは」
「細けぇんだよあんたは……」
神崎は清潔な布で袖の血を拭いた。杏子は黙っていた。
こういうとき、神崎の手つきは慎重だ。
「使い魔とやらか」
「……ああ」
「……帰ってきてくれてほんとうにありがとう」
杏子は下を向いた。
腕の傷はもうほとんど消えている。
なのに、そこに神崎の視線が残っているような気がした。
「クッキー」
杏子はぼそりと言った。
手洗い後のクッキーは甘さは控えめで、少しだけ焦げていた。
「……焦げてんじゃねぇか」
「少しだ」
「こんなんであたしのことを釣ろうとしてたとか、
あたしのこと舐めてんのかっ?」
「すまない」
杏子は残りを口に放り込んだ。立ち上がる。神崎も立ち上がった。
その先を、神崎は少し迷った。杏子は視線を向けない。
「私は、君を待っている」
杏子は、視線を向けずに動かなかった。
神崎の部屋からは、甘い匂いがかすかに漂っている。
「……知ってる」
知っている。だから、困る。
だから、帰らなければならない。
そう思ったことを、杏子はまだ、自分の言葉として認めなかった。
杏子の穏やかな寝息が聞こえてくる寝室の扉をゆっくりと閉める。
できたら彼女にはこんな物騒で危ないことはしてほしくない。
しかし、もしも魔法少女としての活動をやめてしまったならば、彼女自身が自分のことを責めてしまう。
間違いない。
自分は彼女にとても酷なことを要求している。
聖女のように人柱になること。
それでも日常を謳歌してほしいこと。
彼女に伝えながら、なんという欺瞞なのだろうと冷徹に考えている自分がいる。
彼女のために何ができるのだろう。
考えながら、夜は更けていく。
「どうか……君が幸福であるように」