翌朝の食卓、デザートの場には少しだけ焦げたクッキーが並んでいた。
杏子はだらけた格好で椅子に座ったまま顔を顰めながら話す。
「なんで焦げんだよ」
「焼く時間を調整した結果だ」
「変わってねえだろうが結果が。成功しろ成功を」
神崎は少しだけ考えて、皿の上のクッキーを一枚取り上げた。
「これは比較的焦げていない」
「焦げてるやつの中でマシってだけだろ」
「では、失敗か」
「……食えなくはねぇ」
「成功に近い失敗か」
「なんだよその分類」
杏子は文句を言いながらも、クッキーを一枚取ってから、躊躇せずに口に入れる。
甘さは控えめで、端が少し苦い。
「……まあ、前よりはまし」
「進歩だな」
「自分で言うな」
神崎は曖昧に頷き、湯呑みに茶を注いだ。
この家では紅茶を愛飲している。
杏子もそれ自体は悪くないと考えていた。
しかし、何故か容器は湯吞みだった。
実用性を考えて湯呑らしいのだが、紅茶とクッキーに対して見た目があっていない。
杏子は特にそういったことは気にしないが、なんとなく神崎っぽくてたまに笑いそうになってしまう。
二人で紅茶とクッキーを交互に口に放り込む。
杏子はこういう無言の時間が割と好きだった。
しかし、神崎は唐突に会話を入れてくる。
「巴さん……巴マミさんとは最近会っているのか」
杏子はクッキーを喉に詰まらせかけた。
「……なんでマミが出てくんだよ」
「君とまどかさんが話しているのを見た。
君が、誰かと話すときの顔を久しぶりに見た気がしたからだ」
杏子は湯呑みを掴み、紅茶を一気飲みようとした……が、熱過ぎて吹き出しそうになったた。舌が少しひりつく。
「……前みたいには会ってない」
「私が、夜には帰ってくるように言ったからだな」
杏子は顔をしかめた。
「すぐ自分のせいにすんなって言っただろ」
「……杏子。私の言ったことなのだから、当然私が原因だ」
神崎はいつものように答えた。
けれど、その目は少しだけ真面目すぎた。
「実際、影響はあるだろう。
夜遅くまで、彼女とパトロールをすることができない……
それで、会うことができなくなった」
「……そうだよ」
杏子は乱暴に言った。
「でも、それだけじゃねぇ」
神崎は黙っている。
「あたし、親父のことで……
魔法少女として町を守るとか下らねえって思っちゃったんだ」
「…………」
「もちろん、今も守ろうとしてるさ。
けどあの時、あたしの願いが否定されて、
あたし自身の願いが親父の思いを踏みにじってて。
前みたいに……マミと一緒に戦うのがなんか怖いんだ。
こんな思いを持っちまったやつがあいつと一緒にいていいのかなって」
神崎は湯呑の紅茶を一口飲んでからためらいなく伝えた。
「君も魔法少女で聖女だ」
「ぶっ!?だあああっ!やかましいっ!
あんた今のあたしとの会話でよくそんなこと言えんな!?
あたし、町の人たちを見殺しにしようとしてたんだぞっ!」
なんら疑いを持たない神崎の視線に口先で噛みつきながらも杏子は考える。
巴マミ。
その名前を聞くだけで、胸の奥に少しざらつくものがある。
出会ったはじめは、もっと簡単だった。
合流して。夜を一緒に駆けた。たまに怒られ、躊躇せずに言い返す。
そして結局、一緒に戦う。
それでよかった。けれど今は違う。
杏子には帰る場所がある。十時までに戻れと言うやつがいる。
帰れば、焦げたクッキーと好みのうるさい紅茶と、うるさい確認が待っている。
マミには、それがない。そのことに気づいてから、少しだけ会いづらくなった。
そして何よりも、自分の願いが誰かを傷つけていたこと。
それであっさりと町を守ることを放棄しようとしていた自分自身。
そんな自分がマミと一緒に戦いたいなんて。
そう思うと、連絡を打つ指が止まる。
――――佐倉さん?
記憶の中で、マミの声がする。
少し距離を置いた、丁寧な声。
昔からの呼び方にそこに少しだけ別の響きが混ざってるように感じてしまう。
踏み込みたいのに、踏み込めないような。
踏み込んではいけないと、自分に言い聞かせているような。
*
最初にマミと出会った夜、杏子は自分が強くなったと思っていた。
願いを叶えて力を得た。
槍を振れば使い魔は散り、体は軽くて夜の空気は自分のものみたいだった。
父のために。
家族のために。
正しい言葉のために。
そう思えば、怖いものなどない気がした。
けれど、初めて本物の魔女と向き合ったとき、その自信は簡単にひび割れた。
結界の中は、教会に少し似ていた。
長椅子。歪んだ説法台。天井からぶら下がる、文字の読めない聖句。
そこにいる魔女は、祈るような形をしていた。
祈っているのに、こちらを食おうとしている。
杏子は槍を構えた。
「……上等だ」
声は出たし足も動いたのに……されども魔女の動きは速かった。
床がねじれ、視界が傾く。長椅子だったものが牙になり、杏子の足元を裂いた。
踏み込みや回避と槍による突撃。
そのどれもが少しずつ遅れた。
魔女の影が、杏子の背後から伸びる。
振り向くより早く、銃声が響いた。
黄色い光が、影を撃ち抜く。
「危ないところだったわね」
声がした。
杏子は振り返る。
金色の髪と戦いにそぐわぬ落ち着いた瞳。
こちらより少し年上に見える少女が、リボンから銃を作り出していた。
「誰だよ」
杏子は息を切らしながら言った。
「巴マミ」
少女は微笑む。
「あなたも魔法少女ね」
「……見りゃわかるだろ」
「ええ。でも、一目ではわからないこともあるわ」
「…何が」
「あなたが、まだ一人で魔女を相手にするには危なっかしいってこと」
「……うるせぇ」
杏子は槍を握り直した。
マミは怒りもせず笑いもせず、ただ言葉を伝えた。
「一緒に倒しましょう?」
「……命令すんなし」
「あら。そんなつもりはなかったんだけれども。お願いよ?」
「……そういう風には聞こえねえ」
「じゃあ」
マミは一瞬だけ考えた。
「手伝ってくれる?」
杏子は口を曲げた。
「最初からそう言えよ」
その夜、二人で魔女を倒した。
マミは強かった。
射線を考慮した銃を出す速さ。
リボンという扱いの難しそうな手段に対する臨機応変な使い方。
なによりも、魔女の動きを先読みする経験に裏打ちされた目。
どれも杏子にはないものだった。
それが悔しくて、同時に眩しかった。
戦いが終わったあと、マミはグリーフシードを差し出した。
「使って。あなた、かなり魔力を使ったでしょう」
「あんたも使っただろ」
杏子は受け取らなかった。
実際に穢れは出ていなかったから。
マミは少しだけ目を丸くしてから嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今回は半分ずつね」
「半分ってなんだよ」
「気持ちの問題」
杏子はそのとき、変なやつだと思った。
けれど、嫌ではなかった。
それから、マミは戦い方を教えるようになった。
「真正面から突っ込むだけでは、読まれるわ」
「読まれる前に刺せばいいだろ」
「それで刺せなかったら?」
「もう一回刺す」
「あなたらしいけれど、危ないわね……佐倉さん?」
名前を呼ばれる。
少し丁寧な距離だが、決して離れているわけではない。
「あなたは勘がいい。だからこそ、勘だけに頼らないほうがいいわ」
「褒めてんのか説教してんのかどっちだよ」
「両方……っていったらどうする?」
「……うるせえ」
「ごめんなさい。
でも先輩だから聞いてほしい……って言ったら聞いてくれないかしら?」
マミはそう言って、紅茶を一口飲んだ。
魔女を倒したあと、公園のベンチで缶ジュースではなくティーカップで紅茶を出されたときは、本気で意味がわからなかった。
「そのティーカップどっから出したんだよ」
「落ち着くから飲みたくて出したの。ほら。一緒に飲みましょう?」
「いや……答えになってないだろ」
そう言いながら、杏子はカップを受け取った。
熱くて、少し苦かった。
けれど、夜の冷えた空気の中では悪くなかった。
マミは色々と教えてくれた。
戦い方だけではなく、魔女の気配の読み方や結界の入り口の違和感に、使い魔を追うかどうかの判断。
そして、時々厳しかった。
「今日は深追いしすぎ。倒せたことと、危なくなかったことは違うわ」
「説教くせえなあ……神崎みてえ」
「……神崎?」
「あ、いや……こっちの話」
その頃、神崎はまだ杏子が魔法少女であることを知らなかった。
知らないはずだった。
けれど、気づいてはいた。
*
「最近、夜にいないことが多いな。杏子」
ある晩、教会の裏で神崎が言った。
杏子は肩を跳ねさせた。
「……なんだよ、急に。散歩だよ。悪いかよ」
「危ないことをしているのではないかと気になっている」
神崎の声は、いつも通り静かだった。
怒鳴りなど決してしないし詰め寄りもしない。
ただ、妙に逃げにくい。
杏子は顔を背けた。
「し、してねぇし?」
「怪我が増えているようだが。服も不自然な痛みがあるようだ」
「……転んだ。最近なんかよく転ぶんだよ」
「何度もか。君は運動神経がいいのだからありえないだろう」
神崎は黙った。
嘘をついた時の沈黙が気まずい。
嘘をついているのは杏子だ。
それはわかっているが、言えるわけがない。
魔法少女になった。
父のために願った。
夜に魔女を倒している。
そんなことを言ったら、神崎はどうするだろう。
父に言うかもしれないし、止めるかもしれない。
自分もついていくと言うかもしれない。
それは困る。
神崎は、結界に入れば足手まといになる。
その頃の杏子はまだ詳しく説明できなかったが、少なくとも神崎を連れて行っていい場所ではないことはわかっていた。
「……君が意味もなく嘘をつかないことは理解している」
神崎が言った。杏子は顔を上げる。
「は?つ、ついてねえけど?」
「理由があるのだろう。君が何を隠しているのか、私にはわからない。
だが、君が自分の身を粗末にしている気がする」
「してねぇしっ!」
「……ならいい。当たらないほうがいい勘だ」
そのときの杏子は、ひきつりながらも鼻で笑って終わらせた。
けれど、その夜からしばらく、神崎の視線が背中に残るようになった。
*
神崎が本当に知ったのは、杏子とマミが師弟らしくなってしばらくしてからだった。
神崎の仕事帰り。
大学の資料作りが長引き、夜が深くなっていた。
鞄を肩にかけ、駅から教会へ向かう道を歩いていた。
商店街の灯りは半分消え、路地裏には薄い闇が溜まっている。
その闇の奥で、赤い光が走り、神崎は足を止めた。
火事ではなく、車のライトでもない。
見てはいけないものが、そこにある。
そうわかっても、足は動いた。
路地の奥で、空間が歪んで、ありもしない廊下が覗いている。
その向こうで、赤い槍が動いた。
杏子と、その隣に巴マミがいた。
マミのリボンが宙を走り、銃が生まれ、火を噴く。
杏子が前へ出て、マミが後ろを支える。
杏子が無理に踏み込みすぎると、マミがリボンで引き戻す。
「引っ張んな!いけただろ!」
「今のは危なかったわ。先輩の言うことは聞いておくものよ」
「決めつけんな!つうか先輩ヅラそろそろやめろっ!」
声は遠く、歪んで聞こえた。
神崎は路地の入口で立ち尽くした。
理解できないけれど、杏子が危険な場所にいることだけはわかる。
近づこうとして、一歩で止まった。
足が進まなかった。
空間の歪みが、神崎を拒んでいるようだった。
自分が入れば、杏子の邪魔になる。
理由はわからないのに、それだけは確かだった。
やがて、光が消えて、結界のようなものがほどけて路地裏はただの夜に戻る。
杏子は槍を消し、肩で息をしていた。
マミは周囲を見回し、神崎に気づいた。
杏子も、少し遅れて振り向く。
目が合った。
「……げ」
杏子はそう言った。
神崎は何も言わなかった。
「あのっ、いや、これは」
杏子が言い訳を探す。
神崎は静かに言った。
「転んだのか。何度も」
「……い、嫌味かよ……」
「確認だ」
杏子は顔をしかめた。
マミが一歩前に出る。
「こんばんは」
落ち着いた声だった。
けれど、少しだけ警戒しているのがわかった。
「巴マミです。佐倉さんと同じ、魔法少女です」
「…………神崎恒一です」
神崎は丁寧に頭を下げた。
「杏子の……杏子を大切に思っている人間の一人です」
「……重いからやめろよそういうの」
杏子が小声で言う。
マミは二人を見比べて、それから少しだけ表情を緩める。
「佐倉さんから、紅茶のときにお名前だけは」
神崎は杏子を見た。
「……紅茶?」
「そこ拾うな……マミの趣味で飲まされてんだよ」
マミが小さく笑った。
その笑いで、張りつめていた空気が少しだけ緩む。
けれど、神崎の顔は変わらなかった。
「危険なことではないと、君は言った。嘘だったのか」
神崎は杏子の腕を見た。
「怪我は」
「……ちょっとだけだ。気になんねえし。つかもう治ったしっ!」
「佐倉さん」
マミが静かに言う。
「見せたほうがいいわ」
杏子は渋々、袖を少しめくった。浅い傷があった。
神崎の表情が、ほんのわずかに固くなる。
「命に関わるものではありません。
私がそういった攻撃からは守りましたから」
神崎はマミを見る。
事実を確認するためだけの、色眼鏡のない透明な視線だった。
「あなたが、杏子を守ってくださったのですか」
マミは少しだけ目を瞬かせた。
「守る、というより、一緒に戦っています」
「……杏子は、あなたを信じているのですね」
マミは杏子を見る。
杏子は顔を背けた。
背中を預けて戦うようになって、それなりに経っていた。
一緒に街を守るために戦って、マミが夜遅くまでほぼ毎日パトロールをしていることを知って。
杏子は密かにマミに憧れるようになっていた。
「……まあ」
小さな声だったが、マミはそれを聞いて、嬉しそうにした。
けれど、すぐに表情を整える。
「私も、佐倉さんを信じています」
神崎は長く黙った。
視線を杏子に注ぎ込む。
杏子は逃げたら負けだと言わんばかりに睨みつける。
やがて、頷いた。
「わかりました」
「え、理解早くねえか?わかったのかよ」
杏子が言う。
「私は、君が信じている人を信じる」
「いや……重いんだよ。あんたはほんとに」
「当然だ。軽いはずがない」
マミは二人の関係性に困惑しながらも笑った。
「神崎さん。魔法少女の戦いは、
普通の人が入っていいものではありません」
「魔法少女とやらは存じ上げませんが……
私は足手まといになりますか」
神崎の問いは早かった。マミは言いづらそうにだが、はっきりと告げた。
「……はい」
杏子は挑むように視線をはっきりと神崎に向けながら言い切った。
「絶対に入んな。迷惑だから」
杏子に対して神崎もまた視線をはっきりと向ける。
杏子は挑むように。神崎は透明な視線で。
やがて、神崎はあっさりといった。
「わかった」
マミはかなり驚いた。
まだ、何の説明もしていないのに、神崎が杏子の一言だけで納得したからだ。
「納得されるのですね」
「私が行けば、杏子の邪魔になる……それは避けたいので」
その言葉に、マミは神崎を見直すような目をした。
大人の男性。
普通なら、子供である自分たちを一方的に止める立場。
けれど神崎は、止めたい気持ちを飲み込んで、まず自分が邪魔になるかどうかを考えた。
それは、マミにとって少し意外だった。
「神崎さん。私は、佐倉さんより少し先に魔法少女になりました」
「……はい」
「だから、教えられることは教えます。危ないときは止めます。それに」
言葉を一瞬留めて、マミは杏子を見つめた。
同士として、お互いに背中を預ける者同士。
マミはやがて神崎に対してはっきりと宣言した。
「大人の人から見れば、私たちは子供かもしれません。
でも、魔法少女としては、自分で戦うと決めた者です」
「……ええ」
「守られるだけの子どもとして扱われるのは、違うと思うんです」
神崎はしばらく黙った。
きちんとした対話を行うべき相手として扱え。
マミはそう言っていた。
自分の責任で、自分の命を賭けて誰かを守る。
それを誰かに一方的に決めつけられたくなかったから。
「私には、魔法少女という存在はよくわかりませんが、
危険な存在と戦うのですね」
「……はい」
「大人としてあなたたちを守りたいと思う……
しかし、それは足手まといになる」
神崎は本気で困っていた。
対話を行うというのは普段から神崎は誰に対してでも行っているので問題なかった。
だが、それとは別に、子どもは子どもとして、今この瞬間を楽しく生きていてほしかった。
しかし、それを話すには、自分には少女たちを止める権利がない。
杏子は少しだけ口元を緩める。
「専門外か?」
「……ああ。全くの専門外だな。困ったことに」
マミが少しだけさみしそうに笑った。
「考えてくださるだけで、十分です。
何も考えずに止められるより、ずっといいです」
その表情を、杏子は見ていた。
マミは強いしきれいに戦う。
先輩であることを主張されるとちょっと反発したくなるけど……絶対に言わないけど師匠だし、頼れる人でもある。
けれど、そのとき初めて、マミ自身は大人に頼ることに慣れていないのだと、杏子は少しだけ感じた。
この時は考えていた。
マミと一緒に街を守り続けると。
縄張りだとかなんとか、自分たちには関係ない。
ただ、みんなを守りたいから、二人で頑張るんだと。
そして。
杏子の願いが露見して。
父が壊れかけて、神崎の家に住むようになって。
杏子はマミと会うことができなくなった。
ともに街を守る魔法少女だったはずなのに、自分自身が守る対象を壊してしまった。
マミはどんなにつらくとも、きれいに頑張っているのに。
自分はこんなにも脆かった。
どんな顔をすればいいのか杏子にはもうわからなかった。
*
現在。
食卓の上で、湯呑みの紅茶は少し冷めていた。
杏子はしばらく黙っていた。
神崎も、急かさない。
外は朝の光で明るく、魔女の気配はない。
大学の資料が、神崎の鞄から少しはみ出している。
「マミはさ」
杏子は言った。
「昔から、ちゃんとしてた。
一人でもやれるやつだったし、すげえやつだった」
「ああ」
「……でもさ」
そこで言葉が止まる。
一人でやれることと、一人でいたいことは違う。
それを言葉にするのが、妙に怖かった。
「あたしはなんなんだ。助けてもらって。
それでヒーロー気取って……そんで、失敗して。
もういいやって一回ぶん投げそうになった……
そんなやつがマミと一緒にいられるかよ」
杏子は湯呑みを見つめた。
神崎は静かに待っている。
「連絡だけ、返してるけど……もう会わす顔がねえ」
言ってから、胸が痛んだ。
一緒に街を守るんだって、口になんか出さなくとも分かり合ってるつもりだった。
マミは実際にそう考えていたはずだ。
だが、自分自身は?
口に出していないからいいのか?
そんなはずはなかった。
杏子の中では、マミを裏切ってしまったも同然だった。
「君は、巴さんとどうしたい。会いたくないのか」
「……会いてえよっ。
けど……もう魔法少女としてマミとは話せねえよ」
思ったより早く、言葉が出たことに、杏子は自分で驚いた。
神崎は表情を変えない。
言葉が詰まる。奥歯を噛んだ。
「あいつを裏切っちまったし……嫌われたくねぇ」
声が小さくなっていたことに自分で言って、腹が立った。
嫌われたくない。
そんなことを言う自分が、ひどく弱く見えた。
神崎はじっと杏子の事を見つめている。
だから余計に、弱さがそのまま残る。
「巴さんを家に呼べばいい」
神崎が言った直後、杏子は一瞬理解できずに顔を上げた。
「魔法少女として話すことができないのならば、君自身で話せばいい」
「……簡単に言うな。マミをここに呼ぶって、何話せばいいんだよ」
「何を話せばいいかわからないことを、ここで話せばいい」
その言い方が少し硬くて、杏子は顔をしかめた。
神崎は静かに首を振った。
特別なことなど何もないとでもいうように。
「魔法少女とは関係のない、佐倉杏子として、君の言葉で話しなさい」
自分の言葉というのは非常に難しい。
神崎自身も言葉にしろと常日頃から言いながら、それを実行できているかどうかわからない時もある。
だから、一瞬だけ自身の言動を確かめた後、やはり自分自身の意見を言うことにした。
「誤魔化すのではなく、きちんと自分の意見を言うほうがいい」
「……意見って何だよ」
「巴さんと仲良くしたいこと。一度すべてを放棄しようとしたこと。
それでも会いたいこと」
「ばかっ……やめろ」
杏子は低く言った。
「そういうふうに、全部言葉にすんな」
「言葉にしなければ伝わらないこともある」
「あんた、それで失敗したことないって言いきれるのかよっ!」
「……失敗した自覚はあるからこそ、それでも言うべきときがあるとわかる」
神崎は黙った。
杏子は少しだけ息を荒くしていた。
怒っている。
けれど、神崎に対してだけではない。
言われたことが、あまりにも核心に近かった。
マミと仲良くしたいが……自分の汚いところを見せたくない。
わがままで困らせたくないし、嫌われたくない。
全部、言葉にされたことがなによりも腹立たしかった。
「……呼んだとして」
杏子は視線を逸らしたまま言った。
「あんたはどうすんだよ」
「明日は一日、大学で作業をする。夜は帰らない」
「……は?なんでそうなるんだよっ!?」
「二人で話すほうがいい」
「いやいやいや!」
杏子は立ち上がった。
「急に何言ってんだよ。あんたの家だろ!」
「君の帰る場所でもある。私がいると、巴さんは大人に気を遣う」
神崎は少しだけ目を伏せる。
「大人が子ども同士の仲を取り持つことはできない。
子ども同士の関係は、子ども同士で結ぶべきだ」
杏子の眉がぴくりと動いた。
「……子どもって言うな。そういう論理、当て込むなよ」
「……すまない。その通りだ。
たしかに君を子どもという言葉でまとめるのは、よくなかったな」
神崎はすぐに認めたが、それもまた杏子を苛立たせる。
「君は君だ。巴さんも巴さんだ」
「……」
「ただ、私は年長者として、言葉を与えすぎることがある。
私が何か言えば、それは助言の形をした押しつけになるかもしれない」
「自覚……あるなら直せよ」
「努力している」
「成功しろ」
「……成功したい」
自分自身が杏子の足かせになってしまっていることが酷く愚かに見えて。
神崎の声は、少しだけ苦かった。
「私は少なくとも今、君と巴さんの間に入るべきではない」
神崎自身は杏子が悪しきことをしたとは全く考えていない。
杏子はあくまでも子どもだ。
使い魔や魔女が跋扈しようと、それを止める義務はない。
だが、この幼い聖女はそれを止めることは当然であり、一瞬でも放棄してしまおうとしていた自分自身を今、強く嫌悪していた。
自分にできることは寄り添い、場所を提供することだけだと神崎は考えていた。
「もし、うまくいかなかったら……
そのときは、私と君でもう一度考えよう」
「……簡単に言うな」
「失敗して終わりではない」
杏子は何も言えなかった。
神崎が自分自身に言い聞かせている言葉のようにも聞こえた。
父とのことや教会とのこと。
そして残った杏子とのこと。
神崎は、終わったものと終わっていないものの間で、いつも立ち尽くしている。
その神崎が、今、杏子に言っている。
失敗しても、終わりにしなくていい。
そんな言葉を、信じていいのかどうかわからなかった。
「……マミが嫌ってきたりしたら」
「嫌われることは、関係が壊れることと同じではない。
君が関係を続けようとすれば」
杏子は黙った。
神崎は、少しだけ声をやわらげた。
「杏子。君は巴さんを好いている。巴さんも、君を好いている」
「なんでわかんだよ……そんなに会ったことないだろ」
「君という存在を、私は知っているからだ」
好いている。
神崎の口から出ると、その言葉は妙に重い。
恋だの愛だのを、やたらと真剣に扱う男だからかもしれない。
マミを好いている。
それは、たぶん本当だ。
先輩としては勿論のこと師匠としても友人としても。
どれでもあるようで、どれか一つではない。
マミにも、そう思われているのだろうか。
それを知りたいが、同時に知るのが怖い。
「……あんたさ。なんで、迷わねぇの」
「迷って考えたから迷わないことにしている」
杏子の父とのこと。神崎自身は杏子の父への思いを結局、秘めたままだった。
迷いに迷って。迷惑になることがわかっていたから。
それでも迷って。決めた。
だから、ほかのことには迷わないことにしたのだと杏子は勝手に推測している。
「君は考えながら逃げることがある……逃げるなと言いたいわけではない。
逃げる必要があるときもある」
杏子は言葉に詰まった。神崎は視線を逸らさない。
「だが、巴さんから逃げたいわけではないのだろう」
杏子は拳を握った。逃げたいわけではない。
会って話したい。
……でも、怖い。
言葉にすると、それだけだった。
「……明日」
杏子は小さく言った。
「本当に帰ってこねぇのか。大学に泊まんのか」
「ああ。どのみち生徒のレポートを見なければならない。
研究室で作業する」
杏子は神崎の嘘をなぜだか簡単に見抜くことができる。
たしかに夜遅くなることはあるが、今のは絶対に嘘だとわかった。
「……寝ろよ。絶対に。ちゃんと寝ろっ!」
「努力する」
「……ばかっ!成功しろっ!」
「成功する」
いつものやり取り。
けれど、いつもより少しだけ空気が違った。
神崎が一晩いない。
それは、杏子とマミのためだと言う。
大人が間に入るべきではないと言う。
でも、それだけではない気がした。
神崎もまた、少し距離を取ろうとしている。
杏子が誰かと向き合うために。
自分が待つ人でありすぎないように。
そんなことを考えているのだとしたら、腹が立つ。
勝手に気を回すな。
そう言いたい。
でも、言えば神崎は謝る。
そして、たぶんまた同じことをする。
「……マミが来るかわかんねぇだろ……断られたら」
「誘ってみなければわからないだろう。断られたらそのとき一緒に考えよう」
「……一緒に、とかそういう言い方やめろ……なんつうか、ずるい」
神崎は少しだけ目を瞬かせた。
杏子は椅子に座り直した。
もう朝食は冷めていた。
クッキーの端の苦みだけが、口の中に残っている。