その日の夕方、杏子はマミに会った。
神崎に言われたからではない。
そう自分に言い聞かせながら。
場所は、昔よく使っていた公園だった。
自販機とベンチ。街灯。
少し先に、魔女の気配が出やすい路地がある。
マミは先に来ていた。
制服姿ではなく、落ち着いた私服。
髪はいつも通り整っていて、手には小さな紙袋を持っている。
「久しぶりね、佐倉さん」
柔らかい声。けれど、少しだけ距離があった。
「おう」
少しだけぎこちない。
以前なら、すぐに魔女の話をした。
あるいは、マミが紅茶を出して、杏子が文句を言った。
今日は、二人とも探している。
言葉や距離あるいは前への戻り方を。
「これ」
杏子は紙袋を差し出した。
マミが少し驚く。
「何かしら」
「クッキー」
「佐倉さんが作ったの?」
「違ぇよ。神崎が作ったやつ」
「……神崎さん?ありがとう。お礼を言わなくちゃ」
杏子はベンチに腰を下ろした。
マミは紙袋を受けとった後、少し迷い、隣ではなく、半人分ほど間を空けて座った。
沈黙。
遠くで子どもの声がして自転車のベルが鳴り、夕方の風が吹いてきた。
「最近、忙しいの?神崎さんのところで」
その声は穏やかだった。
責めているわけではないのが逆に刺さった。
「十時までに帰れってうるせぇんだよ」
「心配されているのね」
「……ああ」
「……そう」
その微笑みは透明で。綺麗な笑みだった。
「パトロール、一緒にできていなかったわね
……無理に誘っていいのかわからなくて。
佐倉さんには、帰らなければならない場所があるでしょう」
その言葉はとても静かで、杏子は何も返せなかった。
マミは空を見ている。
夕方の光が、金色の髪に少しだけ滲んでいた。
「それは、本当に、とても良いことだと思うの」
マミはそう言ったが、本当に、の部分が少しだけ苦しそうだった。
杏子は奥歯を噛んだ。
自分の寂しさを見せず、羨ましいと思っていることを、杏子に背負わせないように。
そういうことなのだとしたら。
腹が立った。
マミにではない。自分に。
自分はそもそもマミに気遣われるほどの人間ではない。
だってマミにまだ何も言えてない。
願いが思いを踏みにじったこと。
それでたやすく折れて、町を見捨てようとしたこと。
マミの前でどう振る舞えばいいのか。
何一つ、わからない。
「別に帰る場所があるからって、全部そっち優先ってわけじゃねぇよ」
杏子は乱暴に言った。
マミが杏子を見る。
声が少し硬くなる。
「パトロールくらいならできる。
十時までとか、そういう面倒な制限つくけど」
「神崎さんとの約束?大切にしたほうがいいわ」
杏子はマミを見られなかった。
言え。言わなくちゃ。
神崎の顔が何となく浮かんだ。
あいつなら、少なくとも絶対に言う。
周囲に馬鹿にされようが何をしようが。
あいつは自分の言葉を絶対に伝える。
「その約束をっ……マミと会わねぇ理由に、したくねぇっ!
もっとマミと会いたいっ!」
言ってしまった。
言葉は思ったより短くて、乱暴だった。
でも、出てしまった。
マミはすぐには答えなかった。
杏子は、胸の奥が急に不安になる。
重かったか。困らせたか。自分のわがままを押しつけたか。
言葉は吐いた後にはもう戻らない。だから誰もが自分のうちに入れ込んでおく。
杏子は目を伏せながらマミの反応を待った。
「……嬉しいわ」
マミが静かに言った。杏子は顔を上げる。
マミは笑っていたが、いつもの綺麗な笑みではない。
困ったようで。泣きそうで。
それでも、嬉しそうだった。
「でも、無理はしないで」
マミの笑いは、さっきより近かった。
けれど、少し距離は残っている。杏子はその距離を見た。
半人分。たぶん、今すぐ詰めるべきではない距離。
でも、放っておくとそのまま広がる距離。
杏子は言った。
「……明日。うち、来いよっ」
「明日……神崎さんのところ?」
「……今はそこにいるし。あいつが言ったんだよ。
呼べばいいって……あたしだって話したいっ」
言ってから、少しだけ悔しくなった。
神崎に言われたからではない。そう言いたかった。
でも、きっかけは確かに神崎だった。
「神崎さんが……それは、気を遣わせてしまったのかしら」
「明日は大学で一日作業するって。夜も帰らねぇってさ。
あいつ、大人が口出すと押しつけになるとか、めんどくせぇこと言ってた」
杏子はそう言いながら、少しだけ肩の力を抜いた。
会話はまだぎこちない。
けれど、完全には遠くない。
「っ話すことなんか!魔法少女以外の話とかよくわかんねえけどっ!
……でもマミと話したいんだ!」
昔のようには戻らないかもしれない。
でも、別の距離を探すことはできるのかもしれない。
たとえ、嫌われたとしても、何もしないでそのままなんて嫌だったから。
「……ありがとう。佐倉さんのお邪魔にならないなら行くわ」
夕方の空が少し暗くなる。
遠くで、かすかに魔女の気配が揺れた。まだ近くはない。
でも、二人にはわかる。マミがゆっくり立ち上がった。
「少しだけ、見て回る?
風見野に来るのは久々だから……案内。頼めるかしら」
「……へいへい。後輩遣いの荒い先輩だなあ。全く……」
杏子は言葉を詰まったようにしながらも笑った。
マミも笑った。
その間にある距離は、まだ完全には埋まっていない。
でも、さっきより少しだけ近かった。
*
その夜、杏子は十時前に帰った。
神崎は部屋で大学の資料を広げていた。
机の上には本が積まれ、紙には細かい字が並んでいる。
「おかえり」
杏子は靴を脱ぎながら、少しだけ黙った。
「……ただいま」
小さく返す。神崎はそれ以上何も言わなかった。
それがありがたくもあり、少し腹立たしくもある。
「マミに会った。明日、来るって。マミ、気ぃ遣ってたぞ」
杏子はテーブルの前に座った。
神崎は立ち上がり紅茶を淹れようとする。
その背中を見ながら、杏子はぽつりと言う。
「……マミ、ちょっと遠かった。でも、明日来るって」
「まずは一段階目だな」
「……話しても、どうなるかわかんねぇ。
嫌われるかもしれねぇ……なんかないのかよ。
講師ならアドバイスとか」
神崎は湯呑みを杏子に渡す。湯気がうすぼんやりと流れ出る。
「言葉は、万能ではない」
「あんたが言うと説得力あるな」
「言葉を伝えることで失敗しているからな」
「……そこは認めないであたしのこと励ませよ」
「言葉がなければ誤解は残る」
「……」
「全部を言う必要はない。完全に正しく言おうとする必要もない」
杏子は湯呑みに手を伸ばした。
熱いけれど、指先を離さなかった。
「君の言葉で言えばいい」
「それが難しいんだよ」
「だから、失敗してもいい」
杏子は黙った。
失敗してもいいと神崎は同じことを言う。
簡単に、それでも決して軽くはなく。
神崎がいない部屋にマミを呼ぶ。
それは、自分の場所を見せることだ。
自分が帰る場所と願った結果を。
そうして、自分の願いの結果をマミに伝えて。
マミはどう思うだろう。
杏子は怖かった。
「……逃げないから。あたし」
神崎は少しだけ口元を緩めた。
杏子は湯呑みを見つめた。
神崎は翌日の準備を始めた。
大学の資料を鞄に詰め、本を数冊入れて充電器を確認する。
鞄を閉じた。部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
この部屋に神崎はおらず、代わりにマミが来る。
そのことが、急に現実味を帯びた。
「……なあ。マミが来て。もし、何も話せなかったら」
杏子は湯呑みを置いた。
神崎は少しだけ考えた。
「それでも、来てもらったことには意味がある」
杏子は顔を伏せて小さく言った。
「マミに嫌われたくねぇ」
今度は、神崎はすぐに返事をしなかった。
その沈黙が、いつもより少し優しかった。
「嫌われることを怖がるのは、相手を大切に思っているからだ
……君は、巴さんを大切に思っている」
「……っ寝るっ」
「いつもと比べると早いな」
「……寝るったら寝る」
「そうか」
「……逃げねぇために寝る」
「……いい判断だ」
布団に潜り込む。
神崎はしばらく机に向かっていた。
紙をめくる音。ペンの音。湯を注ぐ音。
いつもの夜の音だが、明日はこの音がない。
代わりに、マミの声がするかもしれない。
紅茶の匂いがするかもしれない。
気まずい沈黙が落ちるかもしれない。
「杏子」
「……寝てる」
「寝ている人間は返事をしない」
「……寝言だよ」
「明日」
「……なんだよ」
「巴さんが来たら、クッキーを出すといい。
適度な糖分は気持ちを落ち着ける効果がある」
神崎は真面目な声音をしていた。
杏子は布団の中で、少しだけ口元を緩めた。
その顔を見られなくてよかったと思った。
「……ばか。明日、大学から変なタイミングで連絡すんなよ」
「しない」
「心配です、とか送ってくんなよ」
沈黙。
それから、神崎が静かに言った。
「うまくいくことを願っている」
杏子は目を閉じたまま、何も返さなかった。
願う、という言葉が少しだけ重かった。
父のために捧げた願い……魔法少女になった願い。
そして今、神崎が口にした、ただの願い。
全部違うはずなのに、どこかで響き合う。
「……勝手に願ってろ」
部屋の灯りはしばらく消えなかった。
杏子は暗くない天井を見上げながら、明日のことを考えた。
マミが来て、神崎はいない……自分は逃げない。
そう決めたはずなのに、胸の奥はまだ落ち着かない。
それでも、明日は来る。
そのとき何を言うのか。まだ、何も決まっていなかった。
巴マミは一人、部屋で眠ろうとしていた。
同じ魔法少女の仲間である杏子から久々に会いたいと連絡がきて、今日久しぶりに会った。
何度か、誘ってはいたのだがなかなか来てくれなかったため、うれしく思う自分がいる横で、ささやきかけてくる別の誰かがいる。
杏子の事情は知っている。
父から破門されたこと。父の弟子のような立場の神崎のところに住んでいること。
杏子は口は少し悪いけれども、とても良い子だ。
露悪的なことをいいながらも、先輩の自分の安全を気にして、常に先陣を切るとても優しい子。
今日も、自分ともっと話したいと言ってくれた。
彼女の中で、破門されたときに何かあったのかもしれない。
どこか、辛そうな言い方だった。
彼女の願いは、お父さんの話をみんなが聞いてくれるようになることだったはずだ。
杏子は破門の経緯を語りたがらないし、聞くつもりもない。
ただ。
願いの結果、マミは生きて、一人になり、杏子は破門されて、二人になった。
「……私、嫌な子だ」