祈りの残響 ー佐倉杏子の幸福の定義ー   作:キルケル

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第9話 逃げねえし

翌朝、神崎は本当に早く出ていった。

 

まだ空が白み始めたばかりの時間だった。

台所では湯を沸かす音と紙を折る音がしていた。

 

杏子は布団の中で目だけを開けていた。

起きていることは、たぶん神崎にばれている。

けれど声はかけてこなかった。

 

珍しい。

いつもなら、

 

「起きているのか」

 

と聞いてくる。

それに杏子が、

 

「寝てる」

 

と返す。

そして神崎が、

 

「寝ている人間は返事をしない」

 

と言う。

 

その流れまで含めて、もう部屋の朝の一部になっていた。

 

けれど今日は、神崎は何も言わなかった。

杏子は布団の中で、少しだけ眉をひそめる。

 

気を遣われている。

それが少しだけ腹立たしかった。

 

杏子は布団を少しだけ下げた。

机の上に、小さな紙が置かれているのが見える。

 

「それ何」

「メモだ。今日の注意事項。最低限にしておいた」

 

神崎はためらいなくメモを差し出した。

杏子は受け取って読む。

 

一 巴さんが来たら茶を出す。

二 クッキーは右の缶。比較的焦げていない。

三 無理に話そうとしなくていい。

四 困ったら湯を沸かす。(体を動かして落ち着きを保つため)

五 なるたけ逃げない。ただし、逃げても可。

 

杏子は黙ってメモを見た。

それから、神崎を見た。

 

「五番さぁ……逃げたりなんかしねえよ。

 つうか、これじゃあどっちでもいいように見えるし」

「気持ちが重要だ。話そうとして駄目でもいい。

 ただ、はじめからあきらめてはいけない」

 

杏子はメモを机に投げた。

神崎は杏子自身の逃げ道を与えてくれている。

ただ杏子からすると逃げる前提のメモ書きは少しいらっとした。

……逃げねえし。

 

「杏子」

 

神崎の笑いは、いつもより小さかった。

杏子はそれを見て布団から起き上がる。

神崎は鞄を肩にかけて玄関へ向かい振り返った。

 

「君の言葉で話しなさい」

 

杏子は顔をしかめた。

 

「朝から説教すんな」

 

神崎は少しだけ目を伏せた。

 

「うまくいかなくても、終わりではない。

 帰ったら、一緒に話をしよう」

「……変なタイミングで連絡すんなよ。心配です、とか送んなよ」

「送らないように努力しよう」

「成功しろ」

「……成功する」

 

神崎はそう言って靴を履いた。

 

「行ってくる」

 

今日は、少しだけ間を置いて言った。

 

「……行ってら」

 

神崎の手がドアノブの上で止まった。

振り返りかけたので杏子はすぐに睨む。

神崎は小さく頷き外へ出た。

 

ドアが閉まり鍵の音がする。

いつもの音なのに今日は少し違って聞こえた。

部屋に神崎の気配だけが残る。

 

本や紙に焦げたクッキーと少し薄い茶。

そして、机に置かれた余計なメモ。

 

杏子はしばらく座っていた。

それからメモをもう一度手に取る。

 

五 なるたけ逃げない。ただし、逃げても可。

 

「……うるせぇ」

 

小さく呟いて、メモを畳んだ。

 

 

 

*

 

 

 

マミが来たのは、午後の少し遅い時間だった。

呼び鈴が鳴った瞬間、杏子は思わず立ち上がった。

それから自分がかなりの勢いで立ち上がったことに腹を立てる。

 

落ち着け。別に敵が来たわけじゃない。

魔女でもない。マミだ。

そう思って、玄関へ向かう。

 

ドアを開けるとマミが立っていた。

落ち着いた私服に、きちんと整えられた髪。

 

「こんにちは、佐倉さん」

「……おう」

 

杏子は少しだけ視線を逸らした。

 

「入れよ」

「お邪魔します」

 

マミは丁寧に頭を下げて靴を脱いだ。

その動作まできれいで杏子は少しだけむずむずする。

 

「かしこまんなって」

「そう見える?」

 

マミは小さく笑った。

けれど、やはり少しだけ距離がある。

昨日の公園よりは近い。

でも、昔のように軽く踏み込んでくる感じではない。

 

部屋へ案内するとマミは目を見開いた。

 

「……はじめて入るけどすごいわね。本が多い」

 

部屋の壁際には本棚が並んでいる。

入りきらなかった本が床に積まれている。

机には大学の資料があり紙束がいくつも重なっている。

 

神崎の部屋は生活するための場所というより、本と紙の隙間に人間が住んでいるような場所だった。

 

マミはゆっくり部屋を見回す。

 

「古書店みたいね。

 紙の匂いがして、どこを見ても誰かの考えた跡があるわ……

 神崎さんは本が好きなのね」

「……まあ、好きっつーか溜め込んでるな」

「佐倉さんは置いてある本を読んだりしているのかしら?」

「たまにな。寝る前に読むとよく寝れる」

 

杏子はテーブルの前に座った。

マミも少し迷ってから、向かいに座る。

 

「茶、出す。期待すんなよ。あたし、紅茶とか詳しくねぇから」

「ありがとう。紅茶なら何でも嬉しいわ」

「そういうこと言うやつほど、実際に出すと厳しいんだよ」

「あら。なら、厳しくしないようにするわ」

「努力じゃなくて成功しろ」

 

言ってから、杏子は少し止まった。

 

神崎との言い回しがつい出てしまった。

最悪だ。

 

マミは気づいたように、口元を押さえて笑った。

 

「神崎さんの……よく言っていたものね」

「……うるせえよ」

 

杏子は台所に立った。

 

湯を沸かす。神崎のメモの四番を思い出す。

 

困ったら湯を沸かす。

 

本当に沸かしている自分に腹が立った。

でも、少し落ち着いた。

 

湯呑を二つ出す。

それでも、マミは文句を言わないだろう。

 

杏子は紅茶を注ぎ、湯呑をテーブルに置いた。

 

「ほら。薄味かもしれねえけど文句言うなよな」

「いえ。そこはいいのだけれど……ティーカップじゃないのね」

「それな。湯呑ってなんだよって話だよな」

 

マミは湯呑を両手で包むように持った。

湯気が、二人の間に立つ。

 

しばらく、どちらも何も言わなかった。

 

マミは部屋を見ている。

杏子はマミを見ていないふりをしている。

 

気まずい。

 

わかっていた。

わかっていたが、実際に気まずい。

 

湯を沸かして体を動かしたところでなにも落ち着きはしない。

気まずさだって消えない。

 

「神崎さんは、本当に大学なのね」

 

先に口を開いたのはマミだった。

 

「気を遣わせてしまったかしら」

「気ぃ遣ったのはあいつが勝手にやったことだろ」

 

杏子は湯呑に口をつけた。

熱い。味は薄い。

 

神崎の淹れる茶に似てきている気がして、少し嫌だった。

 

「ここに、住んでいるのね」

 

マミが言った。杏子の手が止まる。

 

「……まあな」

「前に聞いたときは、詳しく聞かなかったけれど」

 

マミは湯呑を置いた。

 

「家のこと、聞いてもいい?」

 

杏子は少し黙った。

 

聞かれたくない。

でも、今日話すべきことは、たぶんそこに触れずには進まない。

 

五 なるたけ逃げない。ただし、逃げても可。

 

神崎のメモが、机の隅に畳んで置いてある。

杏子は内心で舌打ちした。

 

「……別に、大した話じゃねぇよ」

 

そう前置きしてから、言葉を探す。

 

「願いが、親父にバレたって前にいっただろ」

 

マミは静かに杏子を見る。

 

透明な、是も非もない目の色だった。

 

「魔法少女だってことは、その前から少しバレてた。

 でも、願いの中身までは言ってなかった」

「……お父さんのために願ったこと?」

「ああ」

 

杏子は湯呑みを見つめる。

 

「親父の説法を、みんなが聞くようにした。

 ちゃんと届くようにした。そう願った」

「……」

「でも、それってさ」

 

声が少し詰まる。

 

「人の心を、無理やりそっちに向けたってことだろ」

 

マミは何も言わなかった。

 

その沈黙が、責めていないことはわかる。

けれど、杏子は自分で自分を責める声を止められなかった。

 

「親父は、それが駄目だった」

「……そう」

「自分の教えを、誰かが自分の意思で聞いてくれてるのか、

 あたしの願いで聞かされてるのか、わからなくなった」

 

杏子は少し笑おうとした……できなかった。

 

「まあ、そりゃそうだよな……親父、怒ったよ。めちゃくちゃ怒った」

 

父の顔が浮かぶ。

怒り。失望。恐怖。

 

自分の言葉を失った人の顔。

 

「魔女みたいなことをしたって言われた」

 

マミの指が、湯呑の縁で止まる。

その反応を見て、杏子は少しだけ目を伏せた。

 

「間違ってはねぇよ。

 人の心をいじったんだから、魔女みたいなもんだろ。

 それで……それで、破門されて、神崎のところに引き取られて、

 今も惰性で魔法少女続けてる」

 

二人の間に沈黙のカーテンがひかれるているようだった。

二人の視線が交わらないように。

 

マミは杏子の願いの結果を知った。だから次に聞きたい……聞くべきことを聞いた。

 

「佐倉さん。貴方自身が今、私に何かを伝えたいのよね……教えてくれるかしら」

 

マミがゆっくり言った。思考する時間を与えるかのように。

 

マミはさすがだな……と杏子は考えた。

杏子が悩んで、マミに話そうと考えていたことを容易く把握する。

 

いよいよ逃げられなくなる。

自分の短慮な思いが、浅はかでマミと一緒に行動するのにはふさわしくない自分の思考を伝えなくては。

 

「…………」

「佐倉さん?」

 

願いによって父の思いを踏みにじったこと。

 

父から突き放されたことで、自分の思いでやっていたはずなのに、全てを放棄しようとしたこと。

 

町を守らなくともいいのではないかという思い。

 

自分だけが良ければそれでいいと思ってしまったこと。

 

これを伝えてもマミは、それでもそばにいてくれるだろうか。

 

ーーー嫌われることを怖がるのは、相手を大切に思っているからだ。君は、巴さんを大切に思っている

 

「あたし……親父に破門されて、もう魔女狩りとかどうでもいい、

 ほかの人たちが殺されたってどうでもいい、そういう風に思っちゃったんだ」

 

マミは驚いたふうに杏子を凝視している。

 

当然だ。

マミは杏子と違って、本物のヒーローなのだから。

 

杏子がそう考えたこと自体がマミにとって許せないかもしれないし、嫌われるかもしれない。

……それでも良い。嫌われたって、あたしにとって、マミは大切だから。

自分の思いをちゃんと伝えなきゃ。

 

「マミ。あたしは……あんたのそばにいていい奴じゃないかもしれない

 ……でもっ!それでもそばにいたいんだ!」

 

杏子は言い切った。

 

マミから失望されたような目線を向けられているかもしれない。

 

あるいは仲間ですらないというような色のない思いをぶつけられるかもしれない。

 

それでも良い。また、一から始めればいいと思ったから。

 

「佐倉さん」

 

少しだけ、湿っぽい声音だった。

 

それがマミの声だと認識するのに少しだけ時間がかかった。

 

目を向けようとした瞬間、杏子の視界がふさがれた。

暖かくてやわらかい。

 

マミだった。

 

「ごめんなさい……あなたの気持ち、あなたの願い。

 わかった気持ちでいたのに、全然わかってあげられてなかった。

 私、ダメな先輩だったね」

 

抱きしめられていた。

許してもらえたのか。本当だろうか。

 

自分の勘違いではないだろうか。

杏子は震え声で聞いた。

 

「あ、あたし、守ること……放棄しようとしたぞ」

「私がその分頑張るわ」

「人が死んだってもういいやって思ったぞ!

 あんたが多分一番嫌うことを考えたぞ!」

「それでも……あなたの傍にいたいの」

 

杏子の思いが決壊した。

 

澱みのように奥深くに溜まっていたものがなくなるのを感じた。

 

神崎のところに来てからも、魔女や使い魔を倒していた。

でも、それは惰性でやっているものだった。

 

マミと違って、信念や思いによるものではなかった。

 

父を踏みにじって、壊れるぎりぎりを……神崎がつないでくれたから。

 

つないでもらった何かを飛び越えてしまったら、たぶん自分はもうどうしようもなくなっていたと思う。

 

だから、戦っていただけだ。

綺麗なところなんて何もない。

 

それでもマミはそばにいてくれるといった。

 

もう、何も怖くない。

 

杏子は幼子のようにマミの胸元で泣きじゃくった。

マミもまた、静かに涙した。

 

 

 

*

 

 

 

 

沈黙がまた、降りていた。

先ほどよりも沈鬱さはない。

 

だが、かなり痛さはあるかもしれない。

 

二人ともに、顔は赤かった。

特に杏子は真っ赤だった。

 

「マミ……あのさ」

「ええ。後輩のことだもの。わかってるわ」

 

二人だけの内緒にしてほしい。

 

そういった意図を組んでマミはうなずいた。

杏子は容易く思いを読まれたことに余計に顔を赤くした。

 

「絶対に言うなよ!」

「わかってるわ。佐倉さんの気持ちは」

 

理解されていること自体はうれしいが、それはそれで腹が立つ。

 

理不尽な自分自身の感情に、杏子は顔をそむけてマミにばれないようにした。

もっとも、丸わかりだったが。

 

マミときちんと向き合うことができた。

 

不本意なことに神崎のおかげで。

 

杏子はなんとなく、なんとなくマミに対して、神崎の話をした。

 

「……神崎がいなかったら、親父は自殺でもしてたかもしれねぇし、

 あたしは本当に魔女だけしか相手にしなくなってたかもしれねえ」

 

今の杏子はそういった環境にはないし、魔女以外も一応倒していた。

 

だからこれはもしもの話だ。

でも、どこかであり得た話だ。

 

杏子は懺悔のようにマミに伝えた。

仲間で、先輩で……友達に隠し事はなるたけ、したくなかったから。

 

「あいつ、変なこと言ったんだよ」

「変なこと?」

「聖女だって」

 

マミは一瞬、理解が追いつかないような顔をした。

 

「……聖女?佐倉さんを?」

「……笑うとこだぞ」

 

杏子は頭をかいた。

聖女というのは自分の目の前にいるマミのようなやつのことをいうのだと杏子は考えていた。

 

「親父に向かってさ。杏子は聖女みたいなもんで、

 親父の新しい教義を広めるために現れたんだ、とか何とか」

 

杏子はテーブルに肘をつく。

 

マミはなにも言わずにただ、黙って杏子の話の続きを待った。

疑問も懐疑もなく。

 

「親父は、完全には信じてなかったと思う。

 そりゃそうだろ。自分の娘が聖女ですって言われて、

 はいそうですかってなるほうが怖ぇよ」

 

マミは少しだけ口元を緩めた。

けれど、すぐに真面目な顔に戻る。

 

「でも、神崎さんの言葉で」

「まあ色々あったけど……一応、止まった」

 

杏子は頷いた。

 

その色々の中には……神崎に迷惑をかけたことも多々ある。

けれど神崎はそれを杏子が詫びようとすると、ひどく悲しそうな顔をするので、何も言わないようにしている。

 

「親父は、自分の教えが全部偽物だったんじゃないかって思ってた。

 でも神崎は、自分はちゃんと聞いてたって言った。

 あたしの願いじゃなく、自分の意思で聞いてたって」

「それは……でも、そうすると、どうして……

 神崎さんには願いが通じてなかったのかしら」

 

杏子は言葉に詰まった。

そこに関しては杏子もいまだにわかっていないことだった。

 

だが、理由は分からなくとも、神崎が父を愛していたこと。恋していたこと。

 

それは影の理由であり、決して伝えられなかったものだったが。

 

今までの行動で、父は神崎を信じたのだ。

 

どこまでマミに話していいのか。

 

……少なくとも杏子からは話せない。

神崎のことでもある。父のことでもある。

そして、杏子自身がまだうまく扱えない話でもある。

 

だから、言葉を変える。

 

「あいつ、親父と仲良かったんだよ。信者の一人としてだけどな」

 

言ってから、少しだけ胸が痛んだ。

神崎にとって父は、それ以上だった。

でも父にとって神崎は、熱心な信者の一人。ただそれだけだった。

 

「だから、神崎が言ったことは、親父に少し届いた。

 それで、親父は自分の教えを全部捨てるのはやめた。たぶんな」

 

杏子はカップの中を見た。薄い茶色の水面に、自分の顔がぼんやり映っている。

 

「でも、あたしの近くにいると、

 誰が本当に自分の話を聞いてるのかわからなくなるって」

 

声が少し落ちた。

 

「だから、勘当、破門されて……

 神崎が預かるって言った。親父と仲良かったから」

 

マミは杏子を見ていた。

その視線が優しすぎて、杏子は少しだけ居心地が悪くなる。

 

「何だよ」

「神崎さんと佐倉さんは、とても仲が良いのね」

 

杏子は即座に顔をしかめた。

 

「違ぇよ。神崎と親父が仲良いんだよ」

 

言ってから、自分の言い方が妙だと気づいた。

マミが少し首を傾げる。

 

「でも、神崎さんは佐倉さんを預かっているのでしょう」

「それは、親父と仲良かったからだって」

「本当にそれだけ?」

「それだけ……じゃねぇかもしれねぇけど」

 

声が曖昧になる。

 

神崎が父を好いていたことは言えない。

ゲイであることも、勝手には言えない。

 

父への恋が、杏子を引き取る理由の一部だったことも、言えない。

言えないものが多すぎる。

 

結果として、言い方が変になる。

 

「別に、あいつがあたしを大事にしてるとか、そういうんじゃなくてだな」

「そういうのじゃなくて?」

「いや、大事にしてないわけじゃねぇけど……

 でも、そういう意味じゃなくて」

「そういう意味?」

「だから、その」

 

杏子は頭を抱えた。

 

「……くそ、ツンデレみてぇな言い方になってる」

 

マミは少し目を丸くした。それから、口元を押さえた。

 

「笑うな」

「でも、佐倉さん。今のは、少しツンデレだったわ」

 

杏子はテーブルを軽く叩いた。

 

「違うんだよ!

 事情がデリケートすぎて言えねぇだけなんだよ!」

 

 

マミは、少しからかいが過ぎたと反省したかのように、笑うのをやめ、表情をやわらげる。

 

「なら、聞かないわ。話せることだけでいいのよ」

 

その言葉に、杏子は少し黙った。

 

まどかも似たようなことを言った。聞きすぎない。

話せるところからでいい。

 

待つのがうまいやつが多すぎる。

 

杏子は小さく息を吐く。

 

「……悪いな」

 

少しだけ、空気が緩む。

けれど、マミの視線は部屋の中を一度巡った。

 

本棚。机。畳まれた布団。台所。クッキーの缶。

 

この部屋に、杏子がいること。帰ってくる場所として使っていること。

神崎がそれを整えていること。

 

マミはそれを見ている。

 

その目が、ほんのわずかに揺れた。杏子は見逃さなかった。

見逃せなかった。

 

「……羨ましいか」

 

言ってしまった瞬間、しまったと思った。

マミの指が、湯呑の縁で止まる。

 

沈黙。

 

杏子はすぐに言葉を足そうとした。

 

「いや、今のは……」

「羨ましいわ」

 

マミが静かに言った。湯飲みの紅茶を見ながら。

 

杏子は黙ってマミを見ている。

その表情は、いつものように整っている。

 

けれど、声は少しだけ細かった。

 

「帰る場所があることも、待ってくれる人がいることも

 ……羨ましいと思う。ごめんなさい。隠そうとしていたわ

 ……佐倉さんに気を遣わせたくなかったの」

 

言葉は静かだった。責める響きはない。

 

でも、杏子の胸には刺さった。

 

マミはすぐに顔を上げ、小さく息を吐いた。

 

「私、少し嫉妬していたのかもしれない」

 

その言葉は、とても小さかった。杏子は、すぐには返せなかった。

 

巴マミが、嫉妬。

 

それは、似合わないようで。でも、とても人間らしくて。

マミが、少し近くに来た気がした。

 

「帰る場所があるのは、いいことよ。

 本当に……でも、それを見て、少しだけ寂しくなったの。

 そういう自分を、見せたくなかったの……先輩なのにね」

 

マミは苦笑する。

今度の笑いは、隠すためではなく、自分を少し困ったように見る笑いだった。

 

「……先輩でも、寂しいくらいあるだろ」

 

杏子は言った。マミが顔を上げる。

杏子は手を伸ばし、クッキーの缶を引き寄せた。

 

神崎が選別したらしい。比較的焦げていないものが上に並んでいる。

 

比較的、という言葉がぴったりだった。

 

杏子は一枚取り、口に入れる。

ほんのり苦い。昔は、もっとひどかった。

 

はじめは苦いどころではない。炭だった。

 

昔、神崎が教材を見ないで初めて一人で焼いたクッキーは、端どころか全体が黒かった。

それを見た杏子は腹を抱えて笑い、神崎は真面目に失敗の原因をノートに書いた。

 

「温度か」

「いや、全部だろこれ。あんた不器用だなあ」

「難しいな」

 

それから、神崎は何度も焼いた。

 

焦げる。少しましになる。

また焦げる。形が崩れる。

砂糖の量を間違える。焼き時間を短くしすぎて生っぽくなる。

 

失敗ばかりだった。

でも、少しずつ食べられるようになった。

 

大きな奇跡ではない。一度の成功でもない。

 

毎日、少しずつ。

温度を調べ、メモを取り、また焼いた。

 

気づけば、クッキーは炭ではなくなっていた。

ほんのり苦い、食べられるものになっていた。

 

杏子は口の中の苦みを噛みしめる。

 

何かを変えるのに必要なのは、たぶん大きな出来事だけではない。

願いのような、一瞬で世界を変えるものだけではない。

 

焦がして、直して、また焦がして。

それでも続けること。

 

神崎のクッキーみたいな、馬鹿みたいに地味な積み重ね。

 

それでしか変わらないものも、あるのかもしれない。

 

「……マミ」

「何?」

 

マミはまだ湯呑を持っていた。

杏子はクッキーの缶を見たまま言う。

 

「あたしさ。夜遅くまでは、たぶん付き合えねぇ。十時とか、十一時とか、神崎がうるせぇし」

「……ええ」

 

言葉が少し詰まった。

杏子はクッキーをもう一枚取った。食べるわけではない。

ただ、指先に持つ。

 

「マミみたいなヒーローにはなれないけど……また、一緒に戦いたい」

 

マミの目が静かに杏子を見る。

杏子はその視線を受け止められず、クッキーを睨んだ。

 

「魔法少女として、前みたいに、

 夜通しってわけにはいかねぇけど。でも、あたしは」

 

声が硬くなる。けれどきちんと言うために。

少し遅れて、付け足した。

 

「マミと一緒に……戦いたいんだ」

 

楽しかった。心強かった。

寂しかった。会いたかった。

いろんな感情があった。

 

でも、その全部を言うのがひどく難しい。

だから、今言える言葉だけを出した。

 

「私も……また、佐倉さんと一緒に戦いたい」

 

マミが言った。声は少しだけ笑っていた。

杏子は顔を上げる。

 

「佐倉さんには帰る場所がある。

 だから、私が引き止めてはいけないって……

 でも、引き止めたいと思ってしまう自分もいて」

 

マミは目を伏せ、カップを置いた。その手は、少しだけ震えていた。

 

「それを見せたら、佐倉さんを困らせると思った」

 

マミは黙った。

杏子はクッキーを割る。少し硬い音がした。

 

部屋の中に、神崎のいない沈黙が落ちる。

いつもなら、紙をめくる音や、ペンの音がする。

今日はない。

 

その代わりに、マミの息遣いがある。

カップの湯気がある。クッキーの苦みがある。

 

神崎が用意した場所で、神崎のいない時間が流れている。

それは少し変で、少し落ち着かなかった。

 

外は少しずつ夕方に近づいている。

 

「佐倉さん。今日、来てよかったわ」

 

マミが言った。

杏子は返事に困った。

 

「……ああ。あたし、はじめはすごい緊張したけどな」

「あら、私もよ。……でも、佐倉さんが、呼んでくれたから」

 

マミはやわらかく微笑む。

今度の笑みは、隠すためではなかった。

 

「ありがとう」

 

杏子はクッキーの缶を押しやった。夕日の反射が缶を照らして赤くしている。

杏子の顔は反射していないのに赤くなっていた。

 

「食えよ。焦げてても文句言うな」

「改善点は言ってもいい?」

「神崎に直接言え」

 

マミはクッキーを一枚取った。口に入れる。

少しだけ黙る。

 

「……少し苦いわね。でも、食べられるわ。努力の味ね」

 

杏子もマミもいつの間にか笑みを浮かべていた。

その笑いは、昨日より自然だった。

今度は、さっきより少しまっすぐ言えた。

 

「魔法少女として」

 

マミは杏子を見た。

 

「ええ」

 

すぐには笑わなかった。言葉を受け取るように、少しだけ間を置いた。

 

「一緒に戦いましょう、佐倉さん……ただし、無理はしないこと」

 

その返事に、杏子は少しだけ息を吐いてから吹き出した。

先輩風だけはいつまでも吹かせたいらしい。

 

「……流石に昔ほど弱くねえよ」

「そうね。でも先輩だから心配になるの」

 

二人で笑いあう。

そのとき、携帯が震えた。

杏子は反射的に画面を見る。神崎からではない。

 

まどかからだった。

 

『神崎さん、またうちに来るみたい。良ければ今度あそぼう?』

 

杏子はしばらく画面を見つめた。

マミは覗き込まない。ただ、杏子の様子を見ている。

 

「神崎さん?」

「違う……あーなんつうか。一般人。

 神崎の絡みで知り合った。鹿目まどかっていうやつ」

「鹿目まどかさん?」

 

マミの声は穏やかだった。

 

でも、杏子は一瞬だけ、そこにまた小さな影を見た気がした。

帰る場所。待つ人。連絡をくれる人。

 

自分の周りに増えていく糸を、マミは見ている。

杏子は携帯を伏せた。

 

「後で返す……今日はマミと話したい」

 

言ってから、杏子は自分の言葉に少しだけ驚いた。

マミも、少しだけ目を見開いた。

そして、静かに微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

杏子は顔を背けた。

部屋の中の空気が、少しだけ変わっていた。

 

神崎はいない。

でも、神崎が空けた場所に、マミがいる。

 

そしてその空間は杏子が逃げなかったからできたもの。

 

解決していないものだっていくらでもある。

父のことも、願いのことも、神崎のことも、全部まだこの部屋のどこかに残っている。

 

それでも。

クッキーは炭ではなくなった。少し苦いが、食べられる。

 

なら、関係だって。少しずつなら。

そこまで考えて、杏子は首を振った。

考えすぎると、神崎みたいになる。

 

外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。

 

遠くで、かすかに魔女の気配が揺れた。

マミが先に気づいた。杏子もすぐに顔を上げる。

 

「……行く?」

 

マミが聞く。杏子は時計を見る。まだ時間はある。

十時までには、十分に戻れる。

 

「当然っしょ」

 

神崎はいない。でも、約束はある。

そして今は、隣にマミがいる。

 

「終わったら、戻ってこいよ」

 

杏子は立ち上がりながらマミを見ると少しだけ目を見開いていた。

 

「クッキー、まだ残ってるし。紅茶も、まあ、薄いけどある」

 

杏子は視線を逸らす。

 

「だから、その」

 

言葉が続かない。

 

一緒に帰ろう。一緒に戻ろう。

あたしの帰る場所に、少しだけいてくれ。

 

どれも言えない。

 

マミは静かに待っている。

杏子は奥歯を噛んだ。

 

 

 

「……来たけりゃ来い」

 

結局、そんな言い方になった。

マミはしばらく黙っていた。それから、少しだけ笑う。

 

「ええ。ぜひ」

 

その声は、さっきよりも近かった。

杏子は何も返さなかった。返せなかった。

神崎のいない部屋で。

神崎の残したクッキーの匂いの中で。

 

二人は、夜へ出る準備をした。

玄関の前で、杏子はふと机の上のメモを見る。

 

五 なるたけ逃げない。ただし、逃げても可。

 

杏子は誇らしげに笑った。

 

「……やってやったぞ」

 

ドアを開ける。夕方の風が入ってくる。

杏子は先に外へ出た。その後ろに、マミが続く。

帰る場所から、二人で夜へ向かう。そして、帰ってくるかもしれない場所へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神崎は大学で一人研究室で作業をしていた。

 

杏子は巴さんと仲良くできているだろうか。

性格的にあの優しい子であれば、何ら問題ないと考えている。

 

だが、それでも心配なものは心配だ。

 

机に置いてある写真立てには在りし日の佐倉家が写っていた。

 

まだ、杏子が教会で曇りない笑顔で、ときにはいたずら気な笑顔で過ごしていた頃。

 

思えば、あの頃は平和だった。

あの時はまだ、自分も助教で正式な講師ではなかった。

 

言葉が「重い」と言われるようになったのはいつからだったか。

 

やはり、講師という役職に就くことで、同じ言葉でも受け取り手の感じ方が異なるようになったのだろうか。

 

まあ、それは受け取り手の感じ方なので自分自身にはどうにもできない。

自分ができることは、言葉にして、思いを伝えるだけだ。

 

「杏子が今日も一日、元気で、何事もなく過ごせるように」

 

写真立ての佐倉家の人たちは在りし日の笑顔をみんな浮かべていた。

 

 

 

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