未来を知りたい?星の廻りを見ればだいたい分かるでしょ。   作:タワマン太郎

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第二話

 

 

「やあ。皆さん、初めまして。僕は星道熾月と申します。以後、お見知りおきを——あるいは、見知らぬままお別れできますように」

 

目を覚まして最初に口にしたのは、そんな挨拶だった。

 

いや、正確には「目を覚ました」わけではない。僕の意識は微塵も途切れていなかったのだから、覚醒などという大仰な熟語を適用するのは語彙の無駄遣いというものだろう。

 

ただ、目を閉じていただけだ。まぶたという薄皮一枚を隔てて、世界と距離を置いていただけの話である。

 

気がつけば、僕は椅子に腰掛けさせられ、両腕を後ろ手に——極めて非人道的に、けれどどこか素人くさく——拘束され、薄暗い部屋の中央に鎮座させられていた。

 

周囲には怪しげな黒服の男たちが十数人。

壁には意味ありげで無意味そうな紋章が描かれ、床には幾何学的というよりは単に整理整頓が下手なだけの模様が刻まれている。天井から吊るされた照明は、いかにも「秘密の儀式に使用されます」と自己主張しているような、無駄に雰囲気だけを凝縮させた代物だった。

 

どうやら僕は、誘拐されたらしい。

 

いやはや、人生というものは一寸先が闇であり、二寸先はさらに暗闇だ。昨日までは「至って凡庸で平凡で平均的な高校生」として退屈な授業を受け、今日も今日とていつも通りに下校していたはずなのだが、帰り道の途中で見知らぬ紳士の方々に拉致誘拐連行されるとは。

 

実に奇妙で、実に滑稽で、実に——興味深い。

 

……ところで。

 

「ええと、すみません。ここはどちらでしょう? 住所的な意味でも、概念的な意味でも」

 

僕が尋ねると、目の前に立っていた男がぴくりと眉を動かした。動かしたというよりは、眉間にしわを刻印したと言うべきか。

 

年齢は四十代半ばといったところだろう。黒いローブ──あるいは黒い布切れ──を身にまとい、顔の半分を覆う仮面──あるいは単なるお面──を着用している。見るからに怪しい。仮に僕が白昼の路上でこの男とすれ違ったとしたら、コンタクトレンズを落としたフリをしてでも目を合わせない自信がある。

 

「……貴様、自分の置かれている『状況』が分かっているのか?」

 

「ええ、もちろん。椅子に固定され、自由を奪われ、アウェイな空間に置かれていることくらいは物理的に理解していますが」

 

「そういう意味ではない!」

 

おや。

どうやら僕は、相手の「質問の意図(サブテキスト)」を読み違えてしまったらしい。

 

「失礼しました。言葉のドッジボールになってしまいましたね。つまり僕は——『誘拐された』ということでよろしいでしょうか?」

 

「そうだ! 我々が貴様を連れ去ったのだ! 悪びれもせず!」

 

「なるほど。ご丁寧にありがとうございます」

 

僕は素直に——首関節が許す限りの角度で——頭を下げた。

 

いやあ、親切な方々だ。こちらが提示した問いに対して、わざわざ主語と述語を明確にした回答を返してくださるとは。

 

もっとも、自分を拉致した犯人に謝意を述べるというのも論理的には妙な話ではあるのだが、礼儀というものは相手の職業や素性によって掌を返すように使い分けるべきではない。少なくとも僕は、そういうポリシーで生きている。

 

「……ふざけているのか? 貴様」

 

「いえ、まったく。僕はいつだって大真面目ですよ。不真面目に生きるほど体力がないもので」

 

「ならば、その『余裕』はなんだ!」

 

「余裕……?」

 

僕は自分の胸の内に手を当てて——みようとしたが拘束されているので脳内イメージで——内心を確認してみた。

 

恐怖。検知されず。

焦燥。応答なし。

絶望。エラー、該当データが存在しません。

 

うん。特に感情の不具合はない。

 

「特別な理由はありませんが。強いて言えば——皆さんが僕に何を『要求』しているのかが不可視であるため、現状に対してどういう『感情』を抱くべきなのか判断しかねている、といったところでしょうか」

 

「……貴様」

 

男の肩が、小刻みに震えた。

 

おやおや。もしかして、彼の逆鱗──どこにあるのかは知らないが──に触れてしまったのだろうか。

 

これはいけない。初対面の相手に対して、必要以上の不快感を提示するのは僕の本意ではないのだが。

 

もっとも僕には、彼がなぜそこまで憤慨しているのか、その理由がさっぱり——それこそきれいさっぱり、磨き上げたガラスのように判らなかったのだけれど。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「よかろう。ならば、我々の『目的』を教授してやる」

 

仮面の男は、僕の前に劇的な一歩を踏み出した。まるで舞台俳優のようなオーバーアクションだ。

 

「我々は宵闇の黙示録(ダークネス・アポカリプス)! 世界の理(ルール)を覆し、新たなる秩序(システム)を打ち立てるために結成された秘密結社である!」

 

……おお。

 

秘密結社。

 

なんと甘美で、なんと陳腐で、なんと素晴らしい響きだろう。

 

世界の裏側で暗躍する謎の組織。常識の及ばぬ力を操る構成員。人知れず進行する壮大な計画。

 

なるほど、なるほど、なるほどね。

 

先ほどまでの「単なる変質者集団」という印象を謹んで訂正しよう。どうやら僕は、とんでもなく中二病的な——いや、本格的な方々に誘拐されてしまったらしい。

 

これは無事に帰宅できた暁には、彼女に話してみる価値がありそうだ。きっと「馬鹿じゃないの」の一言で一蹴されるのだろうけれど。

 

「我々は長年にわたり、世界各地に散らばる異能力者を集めてきた! 炎を操る者、重力を捻じ曲げる者、他者の精神に干渉する者……その力は千差万別!」

 

男が朗々と叫び、片手を天上へと掲げる。

 

すると、その背後に立っていた男の掌から、ボウッと青白い炎が生じた。手品にしては化学臭がしない。本物の「異能」というヤツか。

 

「そして、我々の膨大な調査と解析によって判明したのだ。貴様は——それらの異能力とは比較にならぬほどの『絶対権限』を有していると!」

 

「ほう」

 

「星道熾月! 貴様は『未来』を見通すことができるそうだな!」

 

「ええ、まあ。視えるか視えないかで言えば、まあ、鬱陶しいくらいには」

 

「その力さえあれば、我々はあらゆる戦いに勝利できる! 敵の作戦を事前に察知し、あらゆる計画の成功率を百パーセントに固定し、世界の支配者となることすら可能なのだ!」

 

男は両手を広げ、天井の無駄に雰囲気のある照明を仰いだ。

 

「ゆえに、貴様には我々の一員となってもらう! 拒否権という概念は存在しない! もし従わぬというのなら——」

 

その瞬間、僕の首筋にひやりとした金属の冷たさが押し当てられた。

 

いつの間に位置取りを変更したのか、隣に立っていた男がナイフを構えていたのだ。

 

「この場で『存在を抹消』してもらう」

 

ふむ。

つまり、僕を誘拐した目的は、僕の持つ『未来視』という能力の排他的利用。

その実現のために、僕という個人を脅迫・屈服させようとしているわけだ。

 

実にシンプルで、実に古典的で、実に解りやすい構図だ。

 

ただ——決定的なことがひとつだけ。

 

「少々、前提認識に『齟齬』があるようですね」

 

「……何?」

 

「僕の力を利用すればあらゆる戦いに勝利できる、というその因果関係の破綻についてです」

 

僕は首筋のナイフの刃立てなど意にも介さず、淡々と、まるで講義でも始めるかのように説明を開始した。

 

「未来というものは、決して単一の線描として限定されるわけではありません。星々の廻りが示す軌跡は無数に分岐する樹状図であり、それらは時に重なり、時に交差し、時に相互干渉によって打ち消し合う。したがって、『未来を知ること』と『未来を支配すること』は、本質的にまったく別のベクトルに位置するのです」

 

「……なにを、ごたごたと」

 

「たとえばの話です。あなたが明日、右足から靴を履くという未来を僕が知ったとしましょう。しかし、僕がその情報をあなたに開示した──あるいは隠蔽した──瞬間、あなたが左足から靴を履く確率パラメーターは変化する。つまり、『未来を知った』という事実そのものが、未来を変動させる最大のバグになり得るのですよ」

 

僕はそこで一度、言葉の息継ぎをした。

 

「要約しましょう。未来を知る能力とは、万能の勝利を約束する『確定チケット』ではない。せいぜい、選択肢のカードを一枚増やして思案を複雑化させる程度の、極めて使い勝手の悪い『参照権限』に過ぎないのです」

 

沈黙。

 

部屋の中が、妙に、不気味なくらい静まり返っていた。

 

おや。

思っていたよりも、皆さん真剣に僕のレクチャーに耳を傾けてくださっているらしい。

 

なるほど。秘密結社というのは、外見こそ奇抜で攻撃的だが、意外にも学習意欲と知的好奇心に溢れた方々の集まりなのかもしれない。学問の秋というやつか。

 

「……貴様」

 

仮面の男が、地底から響くような低い声で吐き捨てた。

 

「貴様、我々の思想を……我々の『組織力』を侮辱しているのか?」

 

「はい? いえ、純粋な理論値の話をしただけですが」

 

「未来を知ることが万能ではないだと!? 我々がそのような初歩的なパラドックスすら考慮していないとでも思ったか!」

 

「いえ、考慮していないように見えたので親切心から——」

 

「黙れ! 貴様はただ、我々に従えばいいのだ! 屁理屈(パラドックス)をこねくり回すな!」

 

おやおや。

 

これは困った。実に弱った。

 

僕としては、彼らの構造的な誤解を解き、無駄な投資を削減させようと思っただけなのだが。

 

どうやら、こちらの純粋な善意は、正確には伝わらなかったらしい。

言葉というメディアを通じたコミュニケーションというのは、いつの時代も実に、困難を極める。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「……それで、結局のところ」

 

僕はひとつ、どうしても気になって仕方がなかった『命題』を口にした。

 

「皆さんは、今日の『夕食』を何にするか決めていらっしゃるのでしょうか?」

 

「…………は?」

 

仮面の男の口から、劇的に間の抜けた音が漏れた。

 

「いえ、先ほどから皆さんの動態を観察していたのですが、どうにも食事の時間を考慮に入れている気配がない。現在の時刻は午後八時を脱過しています。人間社会の一般的なバイオリズムを基準とするなら、そろそろ夕食という燃料補給を完了していなければならない時間帯です」

 

「…………」

 

「それに、これほど大掛かりな非合法組織を運営・維持するとなると、構成員たちの健康管理(ヘルスケア)こそが最大のコストカッターでしょう。栄養バランスの偏りは集中力の低下を招き、ひいては意思決定の鈍化を引き起こす。特に、あなたがたのような異能力——つまり高負荷なエネルギー消費を伴う生体機能を行使する方々にとって、食生活の怠慢は致命傷になり得ますが?」

 

我ながら、実にロジカルでぐうの音も出ない指摘だと思う。

 

未来という不確定要素を利用して世界を征服しようというのであれば、まずは足元のビタミンC補給から始めるべきだ。

基礎代謝という土台が不安定なまま野望という巨大構造物を積み上げても、自重で崩壊するのが目に見えている。

 

「ちなみに僕の個人的な希望(願望)を述べさせていただけるなら、今日の夕食は焼き魚——そうですね、秋刀魚などが旬で望ましい。大根おろしを添えて、醤油を少々。ああ、味噌汁の存在も不可欠ですね。豆腐とわかめのシンプルな味噌汁が理想的だ」

 

「…………」

 

「ただ、タンパク質の絶対量を考慮するなら、焼き魚単体では心許ないかもしれない。だし巻き卵を追加するのが賢明でしょう。もっとも、調理のプロセスコストを削減するなら、納豆という選択肢でも十分に代用可能ですが」

 

「貴様ァァァァァァッ!!」

 

突如として、仮面の男が絶叫した。世界を揺るがさんばかりの咆哮。

 

ビリビリと空気の分子が振動し、天井の無駄に雰囲気のある照明が激しく揺れる。

 

おお、素晴らしい声量だ。

腹式呼吸が完璧にマスターされている。肺活量に関しては世界を征服できるかもしれない。

 

「ふざけるな! 我々が何のために貴様という『特異点』を連れ去ったと思っている! 世界の命運を左右する絶対的な力を手に入れるためだぞ! それを……それを、今日の夕食だと!?」

 

「ええ。夕食ですが。人間、食べなければ死にますよ?」

 

「我々の崇高なる大義を愚弄する気か!」

 

「いえ、むしろ心身の健康を損なっては崇高な目的も果たせないと、最大級の敬意を込めて言及しているのですが……」

 

「黙れ! もういい! こいつは駄目だ! 会話が成立しない!」

 

ああ。

ついに破綻の結論が下されてしまったらしい。

 

実に残念だ。

せっかく建設的で生産的なライフスタイル構築の議論ができると思っていたのに。

 

「貴様のような狂人に、我々の理想が理解できるはずもない! 未来視の力さえ奪い取れば、あとはどうとでもなる! そのためならば、どれほどの犠牲を払おうと構わん!」

 

「なるほど。では、やはり夕食は摂取せずに戦闘態勢に入るおつもりなのですね。消化不良の心配はありませんが、低血糖にはご注意を」

 

「もういい! こいつの口を物理的に塞げ!」

 

黒服の男たちが、一斉に動き出した。

 

青白い炎を纏う者が右手を掲げ、空間を歪ませる能力者が足元に魔法陣めいた光の幾何学を展開する。さらに僕の背後に立っていた男が、どこから取り出したのか巨大な金属鎖を現出させていた。

 

なるほど、なるほど。なるほどね。

 

どうやら、皆さん本当に「異能力者」という非日常の住人だったらしい。

 

いやあ、驚いた。驚愕だ。

これまで僕にとって、異能力だの魔法だの超能力だのという概念は、フィクションの書架の中にのみ収められた空想の記号だと思っていたのだが。

 

まさか、実在していたとは。

世界という構造体は、僕が思っている以上に奥行きが深くて無駄が多い。

 

……ところで。

 

「ひとつ、問わせてもらってもよろしいでしょうか?」

 

「まだ何か戯言を抜かす気か!」

 

「皆さん、先ほどから僕の能力を奪うとおっしゃっていますが、具体的にどういう『運用マニュアル』をお持ちなのですか?」

 

「……何?」

 

「いえ、未来視の情報を取得できたとして、その大量のデータ出力をどのように処理し、誰が判断し、どのように組織へ共有するのか。予知精度のブレや、観測行為そのものが引き起こす『未来のバグ』に対するリスクヘッジ策はあるのか。オペレーションを構築せずにハードウェアだけを手に入れたところで、宝の持ち腐れどころかシステムの暴走を招くだけだと思うのですが」

 

「貴様がァッ!! 組織論を語るなァッ!!」

 

本日何度目かの怒号が部屋をみっちりと満たす。

 

ふむ。

どうやら、今度こそ完璧に、徹底的に怒らせてしまったようだ。

 

いやはや、不徳の致すところ。申し訳ない。

僕としては、ベンチャー組織におけるリスクマネジメントの重要性を提言していただけなのだが。

 

もっとも、当事者たちがそれをノイズとして排除するのであれば、部外者である僕がこれ以上口を挟む筋合いのものでもないだろう。

 

……ああ、そうだ。

 

ここでひとつ、皆さんに謝罪──あるいはネタバレ──をしておかなければならない。

 

僕は未来を見通すことができる。

星々の廻りを観測し、その不可視の軌跡を読み解くことで、これから起こる事象の『結末』を知ることができる。

 

だが、それは決して、僕が未来を自由自在にコントロールできる神の如き権能を持っているという意味ではない。

 

そして——僕自身の未来についても、当然ながらあらかじめ『視えて』いる。

 

今夜、僕は誘拐される。

怪しげな秘密結社に連れ去られ、仮面の男たちに脅迫される。

そして、彼らのあまりにも杜撰な事業計画と、絶望的なまでに噛み合わない対話(コント)に付き合わされることになる。

 

……うん。

実に、予知通りだ。寸分たがわず当たっている。

 

ただし。

 

このあと、僕という存在がどういう『処理』を辿るのか。

そこについては——あえて語らずにおこう。

 

なぜなら——。

 

「そこまでよ、無能ども」

 

凛とした、けれどどこかすり切れたような声が、薄暗い部屋の空間を切り裂いたからだ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

その瞬間。

 

僕の背後に位置していた重厚な鉄製扉が、不可視の衝撃波によって派手に吹き飛んだ。

 

数百度の熱で炙られたようにひしゃげた金属扉が宙を舞い、壁へと激突して不快な重低音を響かせる。粉塵と煙が室内を侵食し、黒服の男たちが一斉に——まるで訓練された群衆のように——振り返った。

 

「な、何者だ!?」

 

「ここをどこだと心得る! 我々は宵闇の黙示録だぞ!」

 

そんなテンプレートな怒号を浴びせられても、乱入者は眉ひとつ動かさなかった。

 

夜風にさらりと揺れる、艶やかな長い黒髪。

月光をそのまま削り出したかのような、透明度の高い白い肌。

研ぎ澄まされた日本刀の刃そのものを思わせる、冷淡で苛烈な眼差し。

そして——その腰に差された、一振りの抜身に近い日本刀。

 

制服姿の、一人の少女だった。

 

ただし、その立ち姿が纏う質量は、普通の女子高校生が一生かかっても獲得できないレベルの「暴力の気配」に満ち満ちていた。

 

一歩、彼女が踏み出す。

 

それだけで、部屋の空気が物理的に冷やされた。

炎を操っていた男が呼吸を忘れ、空間を歪ませていた男が本能的な恐怖から後ずさる。先ほどまで威勢よく演説を打っていた仮面の男ですら、仮面の裏で絶句していた。

 

なるほど。

 

これはまた、随分と格好のいい、物語的な登場だ。

まるで昭和の時代小説か、あるいは現代の伝奇ヒーローものからそのまま実体化してきたかのようである。

 

「熾月」

 

少女が、僕の名を呼んだ。正確には、呆れと諦念を多分に含んだ音節で。

 

その声を聞いて、僕はようやく彼女の存在を認識した。

 

「ああ、幽蘭(ゆうらん)。お久しぶりです。およそ三時間ぶりですね」

 

「……お久しぶり、じゃないでしょうが」

 

少女——天璃幽蘭(てんりゆうらん)は、額に細い指を当て、深々と——地球の裏側に届くほどの——溜息を吐き出した。

 

「あなた、自分が『誘拐された』って自覚、一ミリでもあるの?」

 

「ええ、もちろん。先ほどからこちらの親切な仮面の方々に、懇切丁寧に講義を受けていたところです」

 

「なら、どうしてそんなにリラックスして座ってるのよ……!」

 

「皆さん、なかなかツッコミどころの多い、興味深い方々でしたから」

 

「そういう精神構造の問題を聞いてるんじゃないの!」

 

おや。

 

どうやら、我が幼馴染の機嫌は最悪のカテゴリーに分類されているらしい。

 

これはいけない。

幽蘭とは幼少期からの不腐の腐れ縁だが、彼女は昔から、僕の理屈っぽい言動に対して何かと容赦のない鉄拳を下す傾向がある。

 

もっとも僕としては、至極合理的で問題のない行動しか取っていないつもりなのだけれど。

 

「……貴様」

 

そのとき、仮面の男がようやくフリーズから復帰した。

 

「何者だ、貴様! 我が結社に不法侵入するなど……!」

 

幽蘭が、面倒くさそうにゆっくりと男へ視線をスライドさせた。

 

「私?」

 

彼女は腰の刀の鍔(つば)に、そっと親指をかけた。

 

「天璃幽蘭。そこの『歩く馬鹿(屁理屈)』の幼馴染よ」

 

「歩く屁理屈……?」

 

「あなた以外に誰がいるのよ、この状況で」

 

なるほど。

 

僕のことだったらしい。

まあ、否定するほどの自尊心も持ち合わせていない。僕は自分の能力や性格について、多少なりとも社会適合性が欠如している自覚はある。そういう意味では、彼女の毒舌にも一定の真実が含まれていると言わざるを得ない。

 

「ふざけるな! たかが女子高生ひとりで、我が組織の戦力に立ち向かえると思っているのか!」

 

「……そう」

 

幽蘭は、静かにまぶたを閉じた。

 

次の瞬間。

 

——キンッ。

 

高純度の金属が擦れ合う、小さく、けれど異様に響く音が部屋を支配した。

 

誰も、彼女が刀を抜いた瞬間を視認できなかった。未来を見通せる僕ですら、その「経過」をスキップして「結果」だけを観測したほどだ。

 

ただ、気がついたときには——。

 

炎を操っていた男の掌から、青白い炎が氷解するように消失していた。

空間を歪ませていた男の術式が、まるでバグが修正されたかのように霧散していた。

そして、僕の全身を厳重に縛り上げていた金属鎖が、切断面すら滑らかに音もなく床へと崩れ落ちていた。

 

一拍遅れて、異能力者(笑)の男たちが情けない悲鳴を上げる。

 

「な……っ!?」

 

「僕の『概念干渉』が……消えた!?」

 

「何をした、貴様ァッ!」

 

幽蘭は答えない。解説役を演じるつもりはサラサラないらしい。

 

ただ、抜き放たれた一振りの刀を片手に下げ、静かに歩みを進める。

 

一歩。

また一歩。

 

彼女の靴底が床を叩くたびに、黒服たちの顔面から血の気がサーッと引いていく。

仮面の男が、完全に腰を抜かしかけながら後ずさった。

 

「ま、待て! 貴様、自分が何を相手にしているのか分かっているのか! 我々は世界の理を覆すために——!」

 

「興味ないわね、まったく」

 

幽蘭は、氷のように冷ややかに切り捨てた。

 

「そんな地球規模の未来より──」

 

彼女の研ぎ澄まされた視線が、拘束から解放されて伸びをしている僕へと向けられる。

 

「熾月を返してもらうわ。私の夕食の準備があるのよ」

 

……うん。

 

実に頼もしく、実に恐ろしい。

 

僕は自由になった手首を擦りながら、心の底から感心していた。

なるほど。幼馴染(物理最強)というのは、こういうアクシデントの際に大変重宝するリソースなのだな。

 

「幽蘭」

 

「何よ」

 

「帰りに、どこかで外食していきませんか? 今日は絶対に焼き魚——具体的には秋刀魚の気分なのですが」

 

「…………」

 

幽蘭は、しばらく言葉を失った様子で僕を凝視した。

それから、本日何度目になるか分からない、限界突破の溜息を吐く。

 

「……帰ったら、朝まで説教だからね」

 

「おや。それは非常に困りました。睡眠負債が溜まってしまいます」

 

「困っているのは私の胃袋と神経よ!」

 

そう叫ぶ彼女の背後で、秘密結社【宵闇の黙示録】の構成員たちが、言葉を失った絶望の表情で崩れ落ちていた。

 

どうやら彼らは、この土壇場に至ってようやく理解したらしい。

 

自分たちが誘拐してきた『未来視』の青年が、どれほど会話の通じない異常者であったのかを。

 

そして、その青年を回収しにやってきた一本の刀を持つ少女が——。

自分たちの矮小な悪意など一瞬で切り刻んでしまう、次元の違う「怪物」であったということを。

 

……いやはや。

 

実に、実に愉快な秋の夜になりそうだ。

 

僕はそんなことを考えながら、不機嫌そうに刀を納める幼馴染の背中を眺めていた。

 

もちろん、帰りの夕食の献立について議論することを、僕はまだ一ミリたりとも諦めてはいない。

 

だって——未来はまだ、何ひとつ確定していないのだから。

 

——少なくとも、僕たちが今夜、秋刀魚を食べるかどうかの未来くらいは。

 

 

 

 

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