日本国召喚 〜文明圏外の超大国〜   作:1番道路

1 / 20
第三文明圏の外に、三千年の歴史を持つ帝国があった。

その朝も、人々はいつもと同じ一日を迎えようとしていた。


第一話 三千年の都

 帝都カイザーヴァルトの朝は、水の音とともに始まる。

 

 大河を下ってきた平底船が、石造りの岸壁に船腹を寄せる。船頭が綱を投げ、荷役人夫がそれを受け取った。

 

「粉袋はこっちだ! 濡らすなよ、昨日の雨で板が滑る!」

 

 怒鳴り声に、眠そうな返事が重なる。

 

 川沿いの倉庫では、すでに役人が帳面を開いていた。麦、豆、油、塩漬け肉。積み下ろされる荷を確かめ、木札の番号と照らし合わせていく。

 

 その脇を、空の籠を積んだ荷車が通り過ぎた。

 

 御者台に座る少年は、焼きたてのパンを口にくわえている。

 

「食いながら手綱を持つな!」

 

「まだ馬、歩いてないだろ!」

 

「動いてからじゃ遅いんだよ!」

 

 父親に頭を小突かれ、少年が頬を膨らませる。

 

 河岸から坂を上れば、職人たちの街が広がっていた。

 

 鍛冶場の煙突から薄い煙が立ち、染物屋は軒先に長い布を渡す。共同井戸には桶を抱えた女たちが集まり、昨夜生まれた子供の話で賑わっていた。

 

 さらにその向こう。

 

 幾重もの街路と運河を越えた先に、皇宮の屋根が朝日を受けて輝いている。

 

 アルディア大帝国。

 

 人口、およそ十四億。

 

 大小の都市、農村、鉱山、牧草地、森林地帯を抱え、周囲の島々や小大陸にも広い勢力圏を持つ、古い帝国である。

 

 その広大さを、帝都で暮らす者の多くは地図の上でしか知らなかった。

 

 だが、毎朝河岸に届く穀物も、遠い海の向こうで採れた香辛料も、彼らの暮らしと帝国の広さを結びつけていた。

 

     *

 

「南部の堤防工事についてでございます」

 

 皇宮の執務室では、内務担当の官僚が書類を差し出していた。

 

 窓際には、小さな花瓶が置かれている。

 

 その前の机に向かう男は、書類を受け取ってから、添えられた地図に目を落とした。

 

 五十代。

 

 髪には白いものが交じり始めていたが、背筋は伸び、視線に衰えはない。

 

 フリードリヒ・ヴォルフガング・フォン・アードラークローネ。

 

 三千年続く王朝の権威を受け継ぐ、アルディア大帝国の皇帝だった。

 

「予定より遅れているな」

 

「資材の搬入に支障が出ております。地方庁では、追加の労役によって取り戻すとしておりますが」

 

「資材がないのに、人を増やすのか」

 

 官僚が口を閉じる。

 

 皇帝は地図の一点に指を置いた。

 

「この支流を使えない理由は」

 

「水深が浅く、大型の運搬船が入りません」

 

「小舟は」

 

「通行可能です。ただ、積み替えの費用が」

 

「堤防が間に合わなかった場合の損害と、比較したか」

 

「……こちらの資料にはございません」

 

「では、比較してから持ってきてくれ。工事を急ぐこと自体に異論はない」

 

 声を荒らげることはなかった。

 

 それでも官僚は、背中に浮かんだ汗を感じながら一礼する。

 

 次の書類は、穀物の輸送費について。

 

 その次は、港の修繕費。

 

 地方官の交代。用水路を巡る村同士の争い。新しい織機を導入した工房からの融資申請。

 

 大陸に影響を及ぼす国家の政務は、必ずしも華々しいものではない。

 

 むしろ皇帝の机に積まれる書類の多くは、人々の暮らしの端にある問題だった。

 

「陛下。少しお休みを」

 

 侍従の言葉に、フリードリヒはようやく顔を上げた。

 

「もうそんな時刻か」

 

「朝食から、相応のお時間が経っております」

 

「そなたの言う『相応』は、たいてい私への苦情だな」

 

「お察しいただけて幸いにございます」

 

 皇帝は小さく笑い、椅子の背に身を預けた。

 

 窓の外には、帝都の屋根が連なっている。

 

 彼の目に入るのは、そのほんの一部でしかない。

 

「河岸の倉庫の件はどうなった」

 

「本日、港務局で協議が行われる予定です」

 

「結論が出たら知らせてくれ。冬の前に直せるものは直しておきたい」

 

「承知いたしました」

 

 侍従が茶器を置く。

 

 しばし、執務室に湯の注がれる音だけが響いた。

 

     *

 

 その頃、河岸では先ほどの少年が、空になった籠を抱えていた。

 

 朝の配達は終わった。

 

 父親は顔見知りの荷役人夫と話し込んでいる。

 

 少年は石段に腰を下ろし、川の向こうを眺めた。

 

 高い帆柱。

 

 行き交う船。

 

 見たこともない色の旗。

 

「なあ、父ちゃん」

 

「何だ」

 

「海の向こうって、まだ国があるのか」

 

「そりゃ、あるだろうよ」

 

「全部、帝国より遠いのか」

 

「お前の質問は、ときどき難しいな」

 

 父親は顎を掻いてから、皇宮の方を見上げた。

 

「まあ、こっちが知らない国だってあるさ。世界は広いんだ」

 

 少年は、なるほど、と頷いた。

 

 その日の帝都は、何事もなく昼を迎えた。

 

 役人は帳面を閉じ、パン屋は二度目の窯に火を入れ、皇帝の机には新しい書類が積まれていく。

 

 この世界のどこにも存在しなかった国が現れるまで、あとわずか。

 

 まだ、そのことを知る者はいなかった。




帝都の日常と皇帝の政務から、物語は始まります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。