その朝も、人々はいつもと同じ一日を迎えようとしていた。
帝都カイザーヴァルトの朝は、水の音とともに始まる。
大河を下ってきた平底船が、石造りの岸壁に船腹を寄せる。船頭が綱を投げ、荷役人夫がそれを受け取った。
「粉袋はこっちだ! 濡らすなよ、昨日の雨で板が滑る!」
怒鳴り声に、眠そうな返事が重なる。
川沿いの倉庫では、すでに役人が帳面を開いていた。麦、豆、油、塩漬け肉。積み下ろされる荷を確かめ、木札の番号と照らし合わせていく。
その脇を、空の籠を積んだ荷車が通り過ぎた。
御者台に座る少年は、焼きたてのパンを口にくわえている。
「食いながら手綱を持つな!」
「まだ馬、歩いてないだろ!」
「動いてからじゃ遅いんだよ!」
父親に頭を小突かれ、少年が頬を膨らませる。
河岸から坂を上れば、職人たちの街が広がっていた。
鍛冶場の煙突から薄い煙が立ち、染物屋は軒先に長い布を渡す。共同井戸には桶を抱えた女たちが集まり、昨夜生まれた子供の話で賑わっていた。
さらにその向こう。
幾重もの街路と運河を越えた先に、皇宮の屋根が朝日を受けて輝いている。
アルディア大帝国。
人口、およそ十四億。
大小の都市、農村、鉱山、牧草地、森林地帯を抱え、周囲の島々や小大陸にも広い勢力圏を持つ、古い帝国である。
その広大さを、帝都で暮らす者の多くは地図の上でしか知らなかった。
だが、毎朝河岸に届く穀物も、遠い海の向こうで採れた香辛料も、彼らの暮らしと帝国の広さを結びつけていた。
*
「南部の堤防工事についてでございます」
皇宮の執務室では、内務担当の官僚が書類を差し出していた。
窓際には、小さな花瓶が置かれている。
その前の机に向かう男は、書類を受け取ってから、添えられた地図に目を落とした。
五十代。
髪には白いものが交じり始めていたが、背筋は伸び、視線に衰えはない。
フリードリヒ・ヴォルフガング・フォン・アードラークローネ。
三千年続く王朝の権威を受け継ぐ、アルディア大帝国の皇帝だった。
「予定より遅れているな」
「資材の搬入に支障が出ております。地方庁では、追加の労役によって取り戻すとしておりますが」
「資材がないのに、人を増やすのか」
官僚が口を閉じる。
皇帝は地図の一点に指を置いた。
「この支流を使えない理由は」
「水深が浅く、大型の運搬船が入りません」
「小舟は」
「通行可能です。ただ、積み替えの費用が」
「堤防が間に合わなかった場合の損害と、比較したか」
「……こちらの資料にはございません」
「では、比較してから持ってきてくれ。工事を急ぐこと自体に異論はない」
声を荒らげることはなかった。
それでも官僚は、背中に浮かんだ汗を感じながら一礼する。
次の書類は、穀物の輸送費について。
その次は、港の修繕費。
地方官の交代。用水路を巡る村同士の争い。新しい織機を導入した工房からの融資申請。
大陸に影響を及ぼす国家の政務は、必ずしも華々しいものではない。
むしろ皇帝の机に積まれる書類の多くは、人々の暮らしの端にある問題だった。
「陛下。少しお休みを」
侍従の言葉に、フリードリヒはようやく顔を上げた。
「もうそんな時刻か」
「朝食から、相応のお時間が経っております」
「そなたの言う『相応』は、たいてい私への苦情だな」
「お察しいただけて幸いにございます」
皇帝は小さく笑い、椅子の背に身を預けた。
窓の外には、帝都の屋根が連なっている。
彼の目に入るのは、そのほんの一部でしかない。
「河岸の倉庫の件はどうなった」
「本日、港務局で協議が行われる予定です」
「結論が出たら知らせてくれ。冬の前に直せるものは直しておきたい」
「承知いたしました」
侍従が茶器を置く。
しばし、執務室に湯の注がれる音だけが響いた。
*
その頃、河岸では先ほどの少年が、空になった籠を抱えていた。
朝の配達は終わった。
父親は顔見知りの荷役人夫と話し込んでいる。
少年は石段に腰を下ろし、川の向こうを眺めた。
高い帆柱。
行き交う船。
見たこともない色の旗。
「なあ、父ちゃん」
「何だ」
「海の向こうって、まだ国があるのか」
「そりゃ、あるだろうよ」
「全部、帝国より遠いのか」
「お前の質問は、ときどき難しいな」
父親は顎を掻いてから、皇宮の方を見上げた。
「まあ、こっちが知らない国だってあるさ。世界は広いんだ」
少年は、なるほど、と頷いた。
その日の帝都は、何事もなく昼を迎えた。
役人は帳面を閉じ、パン屋は二度目の窯に火を入れ、皇帝の机には新しい書類が積まれていく。
この世界のどこにも存在しなかった国が現れるまで、あとわずか。
まだ、そのことを知る者はいなかった。
帝都の日常と皇帝の政務から、物語は始まります。