会談に使われたのは、港から少し離れた建物の一室だった。
窓が開けられ、外から風が入っている。
長机の上には、水差しと杯が並んでいた。
エーリヒは、手元の書類の位置を一度だけ直した。
隣では通訳が、用語をまとめた紙を確かめている。
レオンは壁際の席に座り、筆を用意した。
扉が開いたのは、約束した時刻の少し前だった。
「お待たせいたしました」
入ってきた日本人の一人が、丁寧に頭を下げる。
エーリヒも立ち上がった。
公国側の担当官を介して、互いの所属と役目が紹介される。
日本側は、現地で連絡業務に当たっている者たちだった。帝国との条約を、その場で決める権限は持っていない。
その点は、最初に明確にされた。
「承知しております」
エーリヒは答えた。
「本日は、我々の訪問の目的をお伝えし、今後のお話が可能かを伺えれば十分です」
通訳が言葉を渡す。
日本側の担当者が頷いた。
全員が着席する。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。
*
「我々は、アルディア大帝国より参りました」
エーリヒは用意した言葉を、少しゆっくりと口にした。
「貴国についての知らせが帝国に届き、まずは事情を確かめ、ご挨拶を申し上げるため、派遣されたものです」
通訳を待つ。
相手が聞き終えたところで、封書を取り出した。
「我が国の皇帝より、貴国の政府へ宛てた書簡をお預かりしております」
日本側の担当者が、姿勢を改めた。
「確かにお預かりし、責任を持って本国へ届けます」
受け渡しの手順が確認される。
受領の記録を作り、双方が内容を確かめた。
それが終わると、ようやく机の上の空気が少し緩んだ。
「帝国について、簡単にご説明してもよろしいでしょうか」
「お願いいたします」
エーリヒは持参した地図を広げた。
日本側の者たちが身を乗り出す。
大まかな位置。
主要な港。
周辺の国々との関係。
説明は、予想以上に時間を要した。
同じ海の名を使っているとは限らず、距離の単位も違う。
通訳が言い直し、レオンが換算のための数字を書き添えた。
「人口について、もう一度よろしいでしょうか」
日本側の担当者が尋ねた。
「およそ十四億です」
通訳が確認する。
日本人たちは短く言葉を交わし、紙に数字を書いた。
その紙を見せ、桁を確かめる。
エーリヒが頷くと、一人が静かに息を吸った。
驚かせる意図はなかったが、驚いたことは分かった。
*
次は日本側の説明だった。
国の形。
政府の仕組み。
周囲の海。
そして、元いた世界との往来が断たれたこと。
エーリヒは、途中で一度、筆記する手を止めた。
「国土とともに、という理解でよろしいのですか」
「はい。我々の認識では、そのようになります」
通訳が慎重に言葉を選ぶ。
日本側も、言い換えながら説明を続けた。
原因は分からない。
戻る方法も見つかっていない。
だから今は、この世界の国々との関係を築こうとしている。
エーリヒは相手の顔を見た。
途方もない話だった。
しかし、語っている者たちの口調は、噂を楽しむ船乗りのそれとは違っていた。
分かることと分からないことを、切り分けようとしている。
それは、自分たちが出発前にしていたことと似ていた。
「ご説明、ありがとうございます」
彼はそう言い、止めていた筆を動かした。
*
交易の話になると、やり取りは幾分具体的になった。
帝国側は、農産物、織物、鉱産物など、主な産物を挙げる。
日本側は、品質や数量、輸送に使える港について尋ねた。
ただし、その場で買い付けの約束をすることはなかった。
「まずは、品目の一覧を交換できればと思います」
日本側が言った。
「名称だけでは、同じ物を指しているか分からないものもありますので」
「見本のやり取りも必要ですな」
「はい。それから、重量や長さの単位についても」
エーリヒは、持参した見本のことを思い出した。
船に積む場所を巡って、船長と揉めた箱だった。
「そちらは、我々も用意しております」
少しだけ、声が明るくなった。
隣でレオンが、目を伏せて笑った。
*
会談は、昼を回ったところで一区切りとなった。
交換したのは、連絡先と、説明資料と、次の話し合いに向けた確認事項。
同盟も、条約も、まだない。
それでも、出発した時にはなかったものが、確かにできていた。
日本側の担当者が立ち上がる。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。突然の申し入れに応じていただき、感謝いたします」
別れ際、手が差し出された。
エーリヒは一瞬だけ視線を落とし、それから握り返した。
温かい、人の手だった。
*
宿舎へ戻ると、随員たちが一斉に息を吐いた。
「長かったですね」
レオンが言った。
「最初の会談としては、順調だった」
エーリヒは上着を脱ぎ、椅子に掛けた。
「では、報告書を」
「今からですか」
「今のうちに書かなければ、言葉の細部を忘れる」
レオンは諦めて紙を出した。
窓の外から、荷車の音が聞こえる。
港は今日も動いていた。
エーリヒは最初の一行を書いた。
――日本国との面会を実施。
その下で、筆が止まる。
伝えるべきことが多すぎた。
帆のない船についても、見慣れない道具についても、まだ十分に確かめていない。
だが、今日の報告には、まず書かなければならないことがあった。
彼は筆を進めた。
――先方は、我が国との継続的な対話に応じる意向を示した。
それを読んだレオンが、小さく頷く。
遠い帝都では、皇帝が彼らの報告を待っている。
三千年の歴史を持つ帝国と、異なる世界から来た日本。
二つの国の関係は、この日、ようやく最初の挨拶を終えた。
第一話から第十話では、帝国の日常、日本の出現に関する情報収集、そして最初の接触までを描きました。