クワ・トイネ公国の港町に、夕暮れが訪れていた。
宿舎の窓から見える街路には、仕事を終えた人々が行き交っている。
遠くでは荷車の車輪が石畳を叩き、港の方からは船乗りたちの歌声が聞こえてきた。
そんな穏やかな風景とは対照的に、アルディア大帝国使節団の宿舎は、まだ仕事を終えていなかった。
「……これで、七枚目です」
若い書記官レオンが、机の上に紙を重ねた。
「まだ終わらんぞ」
向かい側に座るエーリヒが、別の書類を広げながら答える。
「分かっております。しかし、これほど多くなるとは思いませんでした」
「私もだ」
エーリヒは苦笑した。
今回の会談は、あくまで最初の挨拶にすぎない。
それなのに、書き記すべき情報は驚くほど多かった。
日本という国家の存在。
その統治制度。
周辺諸国との関係。
交易に関する意向。
そして何より、国家そのものが異なる世界から現れたという、常識では理解し難い説明。
「こちらの世界に来る以前、日本はどれほどの国々と交易していたのでしょうか」
レオンが尋ねた。
「相当な数だろうな」
「そう判断される理由は?」
「言葉の端々に、外国との取引に慣れている様子があった。船舶の入港条件、通関、商品の規格、支払いの方法……こちらが尋ねる前に確認された事項も多い」
エーリヒは筆先を止めた。
「特に興味深いのは、あの国が自国の不利益になる可能性まで、最初から考えていることだ」
「不利益、ですか」
「交易は互いに利益を得るためのものだが、必ずしも最初から双方の条件が一致するわけではない。日本側は、それを当然のこととして話していた」
レオンは頷いた。
帝国もまた、多数の属国、保護国、友好国と交易を行っている。
そこでは互いの商人が利益を追求し、政府が港湾使用料や関税を定め、必要に応じて紛争を調停する。
その営み自体は、日本と大きく変わらないらしい。
「では、交渉は進めやすそうですね」
「そうとも限らん。慣れている相手というのは、こちらの曖昧な説明を見逃してくれない相手でもある」
「なるほど」
「それに、我々はまだ日本のことをほとんど知らない」
エーリヒは机の端に置かれた紙を手に取った。
そこには日本側から説明された輸送手段について、簡単な覚え書きが残されている。
燃料を使い、風に頼らず航行する船。
竜でも鳥でもない、空を飛ぶ機械。
遠距離の相手と、ほとんど時間を置かずに会話できる通信手段。
いずれも、その仕組みについて十分な説明を受けたわけではない。
「この部分をどう報告すべきか……」
エーリヒが呟いた。
「そのまま書けばよろしいのでは?」
「書くことはできる。問題は、読み手が理解できるかどうかだ」
レオンはしばらく考えた。
「では、我々が実際に見たものと、日本側から聞いたものを分けましょう」
エーリヒが顔を上げる。
「続けてくれ」
「我々は、まだ日本の船が航行するところを詳しく観察しておりません。空を飛ぶ機械も同様です。聞いた話と確認できた事実を同じように記せば、誤解が生じます」
「……その通りだな」
エーリヒは書類の一枚を引き寄せた。
「項目を分けよう。直接確認した事項、先方の説明による事項、第三者の証言、そして推測だ」
「はい」
「君も慣れてきたな」
「毎日、閣下に書類を直されていますので」
「それは私への苦情か?」
「いえ。感謝しております」
レオンが真面目な顔で答える。
エーリヒは笑って、再び筆を走らせた。
*
翌朝。
使節団はクワ・トイネ公国の担当官を通じ、日本側へ追加の照会を行った。
求めたのは、正式な交渉ではない。
先日の会談で理解できなかった事項について、説明を補ってもらうためだった。
日本側からは、快く応じるとの返答があった。
「ただし、こちらの方でも確認が必要な事柄がございます」
公国の担当官が言う。
「それは当然でしょう」
エーリヒは頷いた。
「我々も、持参していない資料については帝都へ問い合わせねばなりません」
「それでは、双方とも同じですな」
担当官は少し安心したように笑った。
その日の午後には、次の打ち合わせの日程が決まった。
使節団の滞在は、当初の予定よりも長くなりそうだった。
*
一方、遠いアルディア大帝国。
帝都カイザーヴァルトの皇宮では、いつものように政務が行われていた。
「東方へ派遣した使節団について、途中の寄港地から報告が届いております」
外務部門の高官が、一通の書類を差し出した。
皇帝フリードリヒは、それを受け取った。
「無事に通過したのだな」
「はい。現時点で重大な問題は報告されておりません」
「それは何よりだ」
皇帝は報告書を机に置いた。
使節団が最終目的地に到着したという知らせは、まだ届いていない。
海を越えた連絡には時間がかかる。
たとえ皇帝であっても、その距離を消すことはできなかった。
「日本という国が本当に存在するのであれば、いずれ詳しい報告が来るだろう」
「陛下は、日本をどのような国とお考えでしょうか」
高官が尋ねた。
フリードリヒは少し考えた。
「まだ分からぬ」
意外なほど簡潔な答えだった。
「ただ、ひとつ言えることはある」
「何でございましょう」
「我々が知らなかったという理由だけで、相手を小さく見積もるべきではない」
皇帝は窓の外へ目を向けた。
帝都の街並みは、今日も変わらず広がっている。
三千年の歴史を持つ大帝国。
世界でも指折りの人口と国力を備え、数多くの国々から敬意を集める国家。
その皇帝は、遠くに現れた未知の国について、まだ何も決めつけていなかった。
「報告を待とう。急ぐ理由はあっても、慌てる理由はない」
「御意にございます」
高官が一礼する。
新しい国との関係は、まだ始まったばかりだった。
そしてその始まりを伝える報告書が、今まさに遠い海の向こうで書き上げられようとしていた。
第十一話でした。使節団による情報整理と、皇帝フリードリヒの慎重な外交姿勢を描きました。