帝都カイザーヴァルトに、穏やかな朝が訪れていた。
大河の水面が朝日を反射し、石造りの建物が淡い光に包まれている。
港では船が動き始め、市場には商人たちが集まりつつあった。
アルディア大帝国の日常は、今日も変わらず続いている。
その一方で、皇宮の外務部門では新しい仕事が始まっていた。
「日本との協議に向けた次期使節団について、編成案がまとまりました」
会議室で、外務担当の高官が書類を広げた。
出席者の一人が尋ねる。
「前回と同じ規模ですか」
「今回は、やや専門性を重視した構成となります」
高官は頷いた。
「外交担当者に加え、商務、港湾、技術関係の人員を派遣する案です」
「軍の随員は?」
「航海の安全確保と必要な情報交換のため、最低限の担当者を同行させます」
「なるほど」
会議室では、使節団の目的が改めて確認された。
日本政府との正式な外交協議の開始。
交易に関する条件の整理。
輸送手段と港湾設備についての情報交換。
そして、継続的な連絡体制の構築。
いずれも、国家間の関係を築くうえで欠かせないものだった。
*
同じ頃。
エーリヒは自宅で朝食を取っていた。
机の上には、焼きたてのパンと温かなスープが並んでいる。
妻が向かい側に座り、静かに茶を注いでいた。
「今日は、早く帰れるの?」
妻が尋ねる。
「そのつもりだ」
「この前も、そう言っていたわね」
「……そうだったか」
「三日前よ」
エーリヒは苦笑した。
日本から帰国して以来、仕事は増える一方だった。
報告書の整理。
各部門からの問い合わせ。
使節団の聞き取り。
そして、日本との外交方針についての会議。
しばらくは落ち着く暇がない。
「今日は、本当に早く帰るよ」
「期待しないで待っているわ」
「それは信用されていないということか」
「経験よ」
妻は穏やかに笑った。
エーリヒも笑い、茶を口に運んだ。
*
その日の午前。
外務部門へ出勤したエーリヒは、上官に呼ばれた。
「入ってくれ」
「失礼いたします」
執務室には、すでに何人かの高官が集まっていた。
机の上には、見覚えのある海図が広げられている。
日本へ向かう航路だった。
「次の使節団についてだ」
上官が切り出す。
「はい」
「君に、もう一度任務を任せたいと考えている」
エーリヒは一瞬、言葉を失った。
予想していなかったわけではない。
だが、実際に告げられると、やはり驚きはあった。
「私でございますか」
「そうだ」
上官は頷いた。
「前回の任務で、君は日本側との最初の関係を築いた。相手の担当者にも、君のことは伝わっている」
「恐れ入ります」
「もちろん、今回も君一人にすべてを任せるつもりはない」
上官は書類を示した。
「商務と技術の担当者を加える。海軍も支援する予定だ」
エーリヒは資料に目を落とした。
確かに、前回よりも専門分野が広い。
初めて日本を訪れた時とは、任務の性格も変わっている。
「お返事は、いつまでに申し上げればよろしいでしょうか」
「すぐでなくてよい」
上官は穏やかに答えた。
「陛下からも、本人の意向を確かめるよう仰せつかっている」
エーリヒは顔を上げた。
「陛下が?」
「ああ。帰国して間もないことも、気にかけておられる」
その言葉に、エーリヒは少しだけ表情を和らげた。
考える時間が与えられたことは、ありがたかった。
*
昼過ぎ。
エーリヒは港務局を訪れた。
そこで、帳簿の整理をしていたレオンと顔を合わせる。
「おや、閣下」
「久しぶりだな」
「お久しぶりです。何か御用でしょうか」
「少し話がある」
エーリヒは近くの椅子へ腰を下ろした。
「また日本へ行くことになるかもしれん」
レオンの手が止まった。
「本当ですか」
「ああ。まだ正式に引き受けたわけではないが」
「そうですか……」
レオンは少し考えた。
「今回は、どのような任務になるのでしょう」
「より具体的な外交協議になるだろう。通商や港湾の担当者も同行する予定だ」
「なるほど」
「君は、どうしたい?」
突然の質問に、レオンは顔を上げた。
「私ですか?」
「また船に乗ることになったら、どうする」
レオンはしばらく黙っていた。
前回の航海を思い出す。
船酔い。
荒れた海。
慣れない外国の食事。
数え切れないほどの書類。
そして、初めて見た日本の船。
「……行きたいです」
やがて、レオンは答えた。
エーリヒが微笑む。
「そうか」
「はい。まだ、確かめたいことがたくさんあります」
「例えば?」
「港の設備です。それから、日本の荷役機械についても、もっと詳しく知りたいです」
レオンは少し身を乗り出した。
「もし可能なら、工房や工場のような場所も見てみたいと思っています」
「なるほどな」
「もちろん、先方の許可が必要ですが」
「その通りだ」
エーリヒは頷いた。
「では、君の希望も伝えておこう」
「ありがとうございます」
*
その夜。
エーリヒは、いつもより早く自宅へ帰った。
玄関で迎えた妻が、少し驚いた顔をする。
「あら、本当に早かったのね」
「約束したからな」
「珍しいこともあるものだわ」
エーリヒは苦笑した。
食卓につき、夕食が運ばれてくる。
しばらく他愛のない話をしたあと、彼は今日の出来事を伝えた。
「また、日本へ行く話が出ている」
妻の手が止まった。
「もう?」
「ああ」
「帰ってきたばかりなのに」
「そうだな」
エーリヒは頷いた。
「ただ、今回は前よりも重要な任務になるかもしれない」
妻は少し黙っていた。
それから、静かに尋ねた。
「あなたは、行きたいの?」
エーリヒは考えた。
遠い海。
未知の国。
そして、初めて出会った日本人たち。
彼らは、こちらの話に耳を傾けた。
分からないことは分からないと答え、互いに確認しながら会話を進めた。
その姿勢には、好感を覚えていた。
「……ああ」
エーリヒは答えた。
「もう一度、行ってみたい」
妻は、しばらく彼の顔を見ていた。
やがて、小さく笑う。
「そう言うと思った」
「反対しないのか」
「心配はするわ」
妻は答えた。
「でも、あなたが大事だと思っている仕事なのでしょう」
「ああ」
「だったら、きちんとやってきなさい」
エーリヒは、深く頷いた。
「ありがとう」
「ただし」
妻が指を立てた。
「今度は、靴下をもっと持っていきなさい」
エーリヒは思わず笑った。
「分かった」
*
数日後。
皇宮の執務室では、次期使節団の編成について最終的な確認が行われていた。
「エーリヒが任務を承諾いたしました」
外務担当の高官が報告する。
皇帝フリードリヒは頷いた。
「そうか」
「前回同行したレオンについても、港務局から再度派遣する方向で調整しております」
「よろしい」
皇帝は書類をめくった。
「今回は、前回よりも多くのことを確かめられるだろう」
「はい」
「ただし、急いで結果を出す必要はない」
フリードリヒは、静かに言った。
「国と国との関係は、一度の会談で決まるものではない」
「御意にございます」
「まずは、相手とよく話すことだ」
高官は深く一礼した。
*
その頃、日本でも、アルディア大帝国との次の協議に向けた検討が進められていた。
帝国からの正式な連絡を受けるための窓口。
資料の整理。
関係機関との調整。
通訳の確保。
そして、会談で確認すべき事項の選定。
どれも、目立つ仕事ではない。
だが、外交とはそうした仕事の積み重ねでもあった。
双方の政府は、まだ互いの国を十分に理解していない。
それでも、話し合いを続ける意思はあった。
*
帝都カイザーヴァルト。
夕暮れの大河を、一隻の商船がゆっくりと下っていく。
岸辺では荷役人夫たちが仕事を終え、遠くの街路には帰宅する人々の姿があった。
皇宮の高い窓から、その風景を眺める者がいた。
皇帝フリードリヒである。
彼の机の上には、日本との外交に関する新しい書類が置かれていた。
三千年続く帝国。
異なる世界から現れた日本。
その二つの国が、これからどのような関係を築くのか。
まだ、誰にも分からない。
だが、それを決めるのは、力の大きさだけではないだろう。
互いの国を知り、利害を確かめ、約束を積み重ねる。
その先に、初めて信頼が生まれる。
フリードリヒは書類を閉じた。
「さて、次はどのような話が聞けるだろうな」
窓の外では、帝都の灯りが少しずつ増えていた。
アルディア大帝国と日本国。
二つの国家を結ぶ、新たな航海が始まろうとしていた。
第二十話でした。日本との本格的な外交・通商協議に向けて、第二次使節団の編成が進み始めました。次話からは、より具体的な両国の交流を描いていきます。