その朝、風竜の訪問を告げられた皇宮の厩舎係は、まず中庭の洗濯物を取り込ませた。
次いで、庭師に声をかける。
「若木の支柱を確かめてくれ。今日は大きいのが来る」
「毎度、着地の場所は決まっているだろう」
「風まで同じ場所に収まるわけじゃない」
庭師は不承不承、縄を手に取った。
ほどなく、石敷きの広場を大きな影が横切った。
兵士たちが目を上げる。
巨大な翼がゆっくりと傾き、風竜が降りてきた。
地面に伏せる直前、翼が一度強く空気を押した。外套が翻り、広場の端に残っていた落ち葉が舞う。
厩舎係は庭師を見た。
庭師は、何も言わず支柱の縄を締め直した。
*
『あの木は、まだ小さいな』
皇帝の意識に、落ち着いた声が届いた。
フリードリヒは広場に出て、風竜を見上げる。
「昨年、植え替えたばかりだ」
『前にあった木は、もっと大きかった』
「そなたが幼い頃には、もうあったそうだな」
『幼いと言っても、お前の祖父が生まれる前だ』
「では、私には確かめようがない」
皇帝が笑う。
傍らの侍従は、二歩下がった場所で静かに待っていた。
訪れているのは、帝国と盟約を結ぶ風竜たちの一体だった。
帝国には風竜軍と呼ばれる独立戦力がある。
だが、それは人間が竜を所有するという意味ではない。
建国以来続く関わりの中で、互いの役割と約束を積み重ねてきた結果だった。
「西の営巣地に、測量の者が入ったと聞いた」
『入った。若い者が三人。怯えたので、そのまま帰した』
「怪我は」
『転んだ一人が、膝を擦っていた』
「それは申し訳ないことをした」
皇帝は、すでに調べさせていた内容を伝えた。
新しい道路の候補地を探していた地方の測量班が、古い地図を使っていた。避けるべき区域の記載が、写しの段階で欠けていたのである。
「道は南へ回す。周辺の村にも、理由を説明させる」
『南の斜面は、雨が続くと崩れる』
「そうなのか」
『去年も崩れた。人間の畑より奥だ』
フリードリヒは振り返った。
侍従がすでに書き留めている。
「工事担当に知らせてくれ。現地を見ずに線を引かせるな」
「承知いたしました」
風竜は首を下げ、皇帝の顔を覗き込んだ。
『また忙しそうだな』
「そなたも、私の仕事を一つ増やしたところだ」
『放っておけば、もっと増えた』
「違いない」
*
昼前には、軍の連絡官も加わった。
海軍からの航路報告と、周辺諸国の情勢についての説明が行われる。
パーパルディア皇国の名が出た時も、風竜は静かに聞いていた。
「現在のところ、風竜の出動を協議すべき兆候はございません」
連絡官の言葉に、皇帝は頷いた。
「通常の警備は予定通りに」
「はっ」
風竜が、ゆるやかに尾を動かす。
『海の船は、増えたな』
「交易が戻った。昨年、嵐で失った船を補えた商会もある」
『人間は、よくあれほど物を運ぶ』
「運ばなければ、暮らせない者が多いからな」
皇帝は広場の向こうを見た。
城壁の外には、帝都の屋根が見える。
あそこに暮らす者たちの食事は、今日も川を下ってきた。
鍛冶屋の鉄も、仕立屋の糸も、薬屋の乾燥した葉も、どこかから運ばれてくる。
風竜はしばらく同じ方角を眺めていた。
『我らも、水と餌場がなければ暮らせぬ。それと同じか』
「そう考えてくれてよい」
『ならば、道を通す者には、巣の場所も教えておけ。驚いて落ちる人間を見るのは、あまり楽しくない』
「必ず」
*
帰る前、風竜は厩舎の屋根に目を向けた。
『あの人間は、まだ働いているのか』
皇帝は視線を追った。
厩舎係が、大きな熊手を担いで歩いている。
「彼を知っているのか」
『以前、着地したあとに文句を言われた』
「何をした」
『干してあった藁を飛ばした』
皇帝が手招きすると、厩舎係は困り切った顔でやってきた。
「何か、不始末がございましたでしょうか」
「藁の件を覚えているそうだ」
男の顔が固まる。
その頭上に、声が届いた。
『今日は飛ばしていない』
「……はい。おかげさまで」
風竜は満足したように首を上げた。
少し離れた場所で、皇帝が肩を揺らしていた。
やがて翼が広がる。
広場に集まった人々が退き、巨体が空へ上がっていった。
遠ざかる姿を見送りながら、連絡官は胸元の記録帳を閉じる。
そこに記されているのは、道路の迂回と、古い地図の修正と、変わらぬ盟約の確認だった。
この日の風竜軍に、戦うべき敵はいなかった。
風竜は帝国建国以来の盟友であり、独立した意思を持つ特別戦力です。