新しい報告が届くまで、エーリヒは手元の資料を何度も読み返した。
答えは増えなかった。
代わりに、確かめなければならないことが増えていく。
日本はどこにあるのか。
どれほどの広さなのか。
誰が国を治め、何を求めているのか。
周辺の国々は、日本をどう扱っているのか。
そして何より、本当に交渉可能な国家なのか。
「姿を見たという者が、まだ少なすぎます」
会議の席で、エーリヒは言った。
「船の大きさについても、証言が揃いません。比較に使っている船が、人によって違いますので」
海軍の担当官が頷く。
「船種も分からん。商船と軍艦を一緒にしている可能性がある」
「速さはどうです」
「それこそ、実際に測らなければ何とも。海流に乗った船を見て、倍の速さだと騒ぐ者もいる」
否定する材料も、肯定する材料も足りなかった。
ただ一つ、少しずつ確かな形を取り始めていることがある。
日本は、クワ・トイネ公国と接触しているらしい。
そこには、帝国側からも辿れる交易の経路があった。
*
皇宮に呼ばれたエーリヒは、初めての拝謁ではなかったにもかかわらず、扉の前で息を整えた。
部屋に入ると、皇帝は海図を広げていた。
「君が、報告をまとめている者か」
「はい。エーリヒと申します」
「座ってくれ」
勧められた椅子に腰を下ろす。
皇帝は報告書を持ち上げた。
「不明と書かれた箇所が多いな」
「申し訳ございません」
「いや。何が不明なのかは、よく分かった」
フリードリヒは海図に視線を戻した。
「確かめるには、人を送る必要があるということだな」
「はい。まず、クワ・トイネ公国に照会するのが適当と考えます。日本と接触していることが確認できれば、紹介を願うこともできます」
「いきなり日本へ船を向ける案も、出ていたそうだが」
「航路も受け入れの手順も、分かっておりません。到着してから、こちらの意図を疑われる恐れがございます」
「何隻を考えている」
「使節を乗せる船と、航海を支えるための船を中心に。過大な艦隊は必要ないと考えます」
皇帝は、海軍の担当官に目を向けた。
担当官も同意を示す。
「航路上の補給を整えれば、小規模で参れます。ただし、武装は必要です」
「それは当然だ。船を危険に晒すつもりはない」
フリードリヒはエーリヒを見た。
「君は行けるか」
一瞬、返事が遅れた。
予想していなかったわけではない。
それでも、自分の名が任務と結びついた途端、遠い海が急に現実の距離になった。
「承ります」
「よろしい。まずは、無事に帰って報告してくれ」
*
帰りの廊下で、エーリヒは海軍の担当官に声をかけられた。
「顔が硬いぞ」
「もとからです」
「それなら、船酔いをした時も分かりにくくてよいな」
「私は船酔いなど」
「乗ったことは?」
「……川船なら」
担当官が笑った。
エーリヒは、先ほどよりも深く息を吐く。
「準備することが多そうです」
「まず荷物を減らせ。役人は、紙なら軽いと思って何でも持ち込む」
「必要な資料です」
「その必要な資料が、樽一つ分の水と場所を奪い合うんだ」
言い返そうとして、エーリヒは口を閉じた。
確かに、自分には分かっていないことが多い。
*
その晩、彼は自宅の食卓で任務を伝えた。
妻はしばらく黙ってから、尋ねた。
「どこまで行くの」
「まずはクワ・トイネへ」
「その先は?」
「先方の返答次第だ」
妻は頷き、冷め始めた皿を台所へ運んだ。
戻ってきた時には、厚手の靴下を持っていた。
「夜の船は寒いでしょう」
「まだ季節は」
「海のこと、あなたもよく知らないのでしょう」
エーリヒは反論できなかった。
靴下を受け取り、膝の上に置く。
机の上では、未知の国へ至る道は細い線だった。
その線を、自分の足で進むことになる。
ようやく、その実感が湧いてきた。
帝国は慎重な情報収集を経て、使節の派遣を決めます。