最初の数日、レオンには海の美しさを眺める余裕がなかった。
船が上がる。
胃が遅れて上がる。
船が下がる。
胃だけが、その場に残ろうとする。
「遠くを見ていろ」
水夫に言われ、その通りにした。
水平線は、思っていたよりも頼りなかった。
隣ではエーリヒが、黙って手すりを掴んでいる。
「大丈夫ですか」
「君こそ」
「大丈夫ではありません」
「……私もだ」
二人とも、それ以上は話さなかった。
*
中継の港に入る頃には、どうにか食事が取れるようになった。
陸に降りても、地面が揺れている気がする。
レオンは港の石段に座り、乾いたパンを少しずつ齧った。
船は水と食料を積み直している。
この国も帝国との交易で結びついており、港務官は使節団のために場所を空けてくれた。
だからといって、何でも無条件で手に入るわけではない。
水樽には代金を払い、傷んだ綱は現地の商人から買う。
レオンは、揺れる字で会計を記録した。
「日本の話ですか」
尋ねられた港務官は、顎を撫でた。
「ここでも耳にします。ただ、行った者はまだ戻っておりません」
「どなたか、向かわれたのですか」
「商人ですよ。珍しい品があると聞けば、動く者はおります」
その言葉に、エーリヒが身を乗り出した。
「いつ出港したか、分かりますか」
記録を調べてもらう。
船の名と、出発した日と、船主の名。
新しい情報は、それだけだった。
だが、噂に応じて実際に人が動いていることは確認できた。
*
次の航海では、風が悪かった。
空が低く垂れ、遠くの海面が白くなっていく。
夕方、マルタは帆を減らすよう命じた。
「予定の海域を外れますか」
エーリヒが尋ねる。
「少し南へ逃がします」
「何日ほど」
「海に聞いてください」
船長は空から目を離さなかった。
エーリヒは何か言いかけたが、口を閉じた。
その夜、船は大きく揺れた。
レオンは寝台の縁を握り、木箱を固定した縄が外れていないか、何度も目を向けた。
船体が軋む。
頭上を、走る足音が行き交う。
どれほど時間が経ったのか分からなくなった頃、扉が開いた。
水夫が一人、顔を出す。
「水が欲しい者はいるか」
レオンは頷こうとして、代わりに小さく手を上げた。
水夫は杯を渡し、もう一つをエーリヒに差し出した。
「大したことはない。よくある揺れだ」
そう言って去っていく。
扉が閉まったあと、エーリヒが呟いた。
「よくあるのか」
「……そうらしいです」
それが慰めになるのかどうか、二人には判断できなかった。
*
翌々日の朝、海は落ち着いた。
甲板に出ると、空が広かった。
昨日まであれほど近く感じた雲が、高い場所を流れている。
マルタは、破れた帆の一部を検分していた。
「遅れは取り戻せますか」
エーリヒは尋ねてから、言い直した。
「いや。まず、修理にはどれくらい必要ですか」
船長は彼を見た。
「昼までには終わります」
「では、その後の予定を教えてください」
「分かりました」
短い返事だったが、その声からは以前の棘が少し薄れていた。
*
やがて、クワ・トイネの港へ向かう船と行き会った。
互いに進路を確かめ、許される範囲で言葉を交わす。
日本の名を出すと、相手の船員たちは顔を見合わせた。
「ああ。あの国か」
その反応に、エーリヒの表情が変わった。
噂の国、ではなかった。
相手にとっては、すでに話題を共有できる相手なのだ。
「日本の者に会ったことが?」
「俺はない。だが、港じゃ知らん者は少ないだろう」
船員は海の先を指差した。
「着けば分かるさ。ここのところ、皆その話ばかりだ」
船が離れていく。
レオンは帳面を開いた。
日本。
その二文字の下に、初めて少し強い筆圧で線を引いた。
長い航海の末、使節団は日本を知る人々のいる海域へ近づいていきます。