日本国召喚 〜文明圏外の超大国〜   作:1番道路

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海図の上の距離を進むには、風と波に付き合わなければならない。


第八話 東へ向かう船

 最初の数日、レオンには海の美しさを眺める余裕がなかった。

 

 船が上がる。

 

 胃が遅れて上がる。

 

 船が下がる。

 

 胃だけが、その場に残ろうとする。

 

「遠くを見ていろ」

 

 水夫に言われ、その通りにした。

 

 水平線は、思っていたよりも頼りなかった。

 

 隣ではエーリヒが、黙って手すりを掴んでいる。

 

「大丈夫ですか」

 

「君こそ」

 

「大丈夫ではありません」

 

「……私もだ」

 

 二人とも、それ以上は話さなかった。

 

     *

 

 中継の港に入る頃には、どうにか食事が取れるようになった。

 

 陸に降りても、地面が揺れている気がする。

 

 レオンは港の石段に座り、乾いたパンを少しずつ齧った。

 

 船は水と食料を積み直している。

 

 この国も帝国との交易で結びついており、港務官は使節団のために場所を空けてくれた。

 

 だからといって、何でも無条件で手に入るわけではない。

 

 水樽には代金を払い、傷んだ綱は現地の商人から買う。

 

 レオンは、揺れる字で会計を記録した。

 

「日本の話ですか」

 

 尋ねられた港務官は、顎を撫でた。

 

「ここでも耳にします。ただ、行った者はまだ戻っておりません」

 

「どなたか、向かわれたのですか」

 

「商人ですよ。珍しい品があると聞けば、動く者はおります」

 

 その言葉に、エーリヒが身を乗り出した。

 

「いつ出港したか、分かりますか」

 

 記録を調べてもらう。

 

 船の名と、出発した日と、船主の名。

 

 新しい情報は、それだけだった。

 

 だが、噂に応じて実際に人が動いていることは確認できた。

 

     *

 

 次の航海では、風が悪かった。

 

 空が低く垂れ、遠くの海面が白くなっていく。

 

 夕方、マルタは帆を減らすよう命じた。

 

「予定の海域を外れますか」

 

 エーリヒが尋ねる。

 

「少し南へ逃がします」

 

「何日ほど」

 

「海に聞いてください」

 

 船長は空から目を離さなかった。

 

 エーリヒは何か言いかけたが、口を閉じた。

 

 その夜、船は大きく揺れた。

 

 レオンは寝台の縁を握り、木箱を固定した縄が外れていないか、何度も目を向けた。

 

 船体が軋む。

 

 頭上を、走る足音が行き交う。

 

 どれほど時間が経ったのか分からなくなった頃、扉が開いた。

 

 水夫が一人、顔を出す。

 

「水が欲しい者はいるか」

 

 レオンは頷こうとして、代わりに小さく手を上げた。

 

 水夫は杯を渡し、もう一つをエーリヒに差し出した。

 

「大したことはない。よくある揺れだ」

 

 そう言って去っていく。

 

 扉が閉まったあと、エーリヒが呟いた。

 

「よくあるのか」

 

「……そうらしいです」

 

 それが慰めになるのかどうか、二人には判断できなかった。

 

     *

 

 翌々日の朝、海は落ち着いた。

 

 甲板に出ると、空が広かった。

 

 昨日まであれほど近く感じた雲が、高い場所を流れている。

 

 マルタは、破れた帆の一部を検分していた。

 

「遅れは取り戻せますか」

 

 エーリヒは尋ねてから、言い直した。

 

「いや。まず、修理にはどれくらい必要ですか」

 

 船長は彼を見た。

 

「昼までには終わります」

 

「では、その後の予定を教えてください」

 

「分かりました」

 

 短い返事だったが、その声からは以前の棘が少し薄れていた。

 

     *

 

 やがて、クワ・トイネの港へ向かう船と行き会った。

 

 互いに進路を確かめ、許される範囲で言葉を交わす。

 

 日本の名を出すと、相手の船員たちは顔を見合わせた。

 

「ああ。あの国か」

 

 その反応に、エーリヒの表情が変わった。

 

 噂の国、ではなかった。

 

 相手にとっては、すでに話題を共有できる相手なのだ。

 

「日本の者に会ったことが?」

 

「俺はない。だが、港じゃ知らん者は少ないだろう」

 

 船員は海の先を指差した。

 

「着けば分かるさ。ここのところ、皆その話ばかりだ」

 

 船が離れていく。

 

 レオンは帳面を開いた。

 

 日本。

 

 その二文字の下に、初めて少し強い筆圧で線を引いた。




長い航海の末、使節団は日本を知る人々のいる海域へ近づいていきます。
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