春季オープンまで、あと十日ほど。クロスロードでは大会に向けた調整が続いていた。
「今日はスパーリングなしですか?」
すずらんが聞く。
「なしです」
コハクが答えた。
「すずらんさんはミットとシャドー。すみれさんも、今日は動作確認を中心にしましょう」
「分かりました」
「昨日、結構動きましたからね」
すみれも素直に頷いた。貴明は神姫用リングの脇で、二人の練習予定を確かめていた。
ここ数日は実戦形式の練習が多かった。大会までまだ時間はあるものの、無理に練習量を増やす時期ではないというのが高城とコハクの方針だった。
「篠原さん」
「はい」
「今日は私が見ていますから、ずっとこちらにいなくても大丈夫ですよ」
コハクが言った。
「いいんですか?」
「もちろん。何かあれば呼びます」
「じゃあ、ちょっと別のところ見てきます」
「また何か調べるんですか?」
すみれが聞く。
「別に。ちょっと見て回るだけ」
「珍しいですね」
「そこまで?」
「マスター、来たら大体ずっとこっちにいますから」
言われてみれば、確かにそうだった。クロスロードには人間用のリングもある。これまでも練習風景を目にすることはあったが、貴明自身は神姫ボクシングの練習に付き添っているため、じっくり見たことはほとんどない。
「今日は向こうでも見てみるか」
貴明が人間用リングへ視線を向けた、その時だった。
パンッ!
乾いた打撃音に続いて、さらに二発。
パンッ、パンッ!
神姫用リングで聞くものよりも、ずっと大きな音だった。
「はい、もう一回!」
高城の声が聞こえる。
人間用リングでは、水野美咲がミット打ちをしていた。髪を後ろでまとめ、スポーツウェアにボクシングシューズ。両手にはグローブを着けている。
高城がミットを構えると、美咲が左ジャブを出した。
パンッ、とミットが鳴る。続いて右ストレート。
パンッ!
高城が一歩下がると、美咲も踏み込んだ。
「左、右!」
ワンツー。さらに左フック。
美咲は高城の動きに合わせて位置を変え、連続してミットを叩いた。貴明はリング脇で足を止めた。
神姫ボクシングと基本的な技術は同じだ。
左を出し、右を打つ。腰を回して拳を戻し、次の動作へつなげる。すずらんやすみれの練習でも何度も見てきた動きで、技術としては理解しているつもりだった。それでも、すぐ目の前で見ると印象が違った。
打撃音の大きさは、当然ながら神姫のグローブとは迫力が違う。それ以上に貴明の目を引いたのは、足元だった。
美咲が左ジャブを出す。
踏み込んだ足が床を捉え、わずかに身体が前へ移る。
右ストレート。
後ろ足が回り、腰と肩が続く。グローブがミットへ当たる。その直後、打った拳を引き戻しながら、足も次の位置へ動いていた。
何度も映像で追ってきた体重移動が、今はリングの上で、そのまま音と動きになっていた。
「右のあと!」
高城の声に、美咲が右ストレートを打ち込む。
パンッ!
その直後、高城が反対側のミットを軽く前へ出した。ぽすっ、と美咲のグローブに触れる。
「あっ」
「そこ」
「はい」
「今、足残ったろ」
「……残りました」
「もう一回」
美咲が構え直す。
左。右。
打った直後に横へ動く。今度は高城のミットを外した。
「そう。それ」
「はい!」
「じゃあ続けるぞ」
高城がミットを上げる。美咲の表情が引き締まった。貴明は、もう少し近くで見てみることにした。
しばらくすると、高城がこちらに気づいた。
「お、篠原」
「こんにちは」
「今日は神姫の方、いいのか?」
「コハクさんが見てくれてるので」
「そうか」
高城はミットを下げた。
「何か気になるか?」
「いえ、ちょっと見てただけです」
「そうか。じゃあ見てろ」
「はい」
貴明が頷く。美咲もこちらを向いた。
「あ、篠原君」
「こんにちは」
「珍しいね。こっち来るの」
「そんなに珍しい?」
「うん。いつも神姫の方にいるじゃん」
「それはそうだけど」
「今日は見学?」
「そう」
「ふーん」
美咲が少し笑った。
「じゃあ、あんまり変なところ見ないでよ」
「変なところ?」
「失敗したところとか」
「……今、結構失敗してなかった?」
「見てたんじゃん!」
「見てたから」
「もう」
美咲が苦笑する。高城も笑っていた。
「見られて困る練習するなよ」
「困りませんけど!」
「なら続きだ」
「はい!」
美咲が再び構える。高城はミットを左右に広げた。
「ワンツー、左!」
パン、パン、パンッ!
「もう一回!」
左、右。そして左フック。
「右!」
美咲が右ストレートを打つ。高城はすぐにミットの位置を変えた。
「次!」
美咲が横へ動こうとするが、少し遅れた。高城のミットが再び前へ出て、ぽすっ、と触れる。
「あーっ!」
「また残った」
「分かってます!」
「じゃあ直せ」
「簡単に言いますね!」
「簡単なことほど難しいんだよ」
美咲は少し悔しそうに眉を寄せた。
貴明は、その足元を見ていた。最初のワンツーはきれいだった。左も右も、十分に速い。問題はその後だ。
右を打ち切った時に、身体が一瞬だけ前へ残っている。完全に止まっているわけではない。けれど、次の足を出すまでに、ほんの少し間がある。
神姫の練習でも、似たような場面を見たことがあった。ただし、似ているのは動きの現れ方であって、原因まで同じとは限らない。
「……なるほど」
貴明が小さく呟いた。
「何か分かった?」
美咲が聞く。
「ああ、いや」
「何?」
「右を打ったあと、少し前に残ってる気がする」
「……うん」
美咲が頷いた。
「それ、今やってるところ」
「そうなんだ」
「そうなんだ、じゃないよ。見て分かったんでしょ?」
「何となくは」
「いいなあ」
「何が?」
「見るだけで分かって」
美咲はグローブを軽く合わせた。
「こっちは分かっててもできないのに」
貴明は少し返事に困った。
「……そういうもの?」
「そういうもの」
高城が横から言った。
「頭で分かるのと、身体が動くのは別だからな」
「はい」
「篠原は見る方が得意だろ」
「そうですね」
「じゃあ、美咲は動く方だ」
「……それはそうですけど」
美咲が少し不満そうな顔をする。
「私だって考えてますよ?」
「当たり前だろ」
高城は笑った。
「考えた通り動けないから練習してるんだ」
「はい」
「休憩終わり。もう一回」
「はい!」
◇
次のラウンドでは、練習内容が少し変わった。高城はミットを構えたまま、ゆっくりと位置を移動する。美咲もそれに合わせて動いた。
左ジャブ。右ストレート。
すぐに横へ。
高城が移動する。美咲も向きを変える。
「打ったところに残るな」
「はい!」
「拳だけ戻しても駄目だぞ」
「はい!」
「足も動かせ」
美咲が踏み込んだ。
左。右。
そのまま横へ動く。今度はスムーズだった。
「そう!」
高城が短く声をかけ、続けて右のミットを出す。美咲はジャブを当てて位置を変え、もう一度右を打った。
パンッ!
きれいな音が響く。貴明は思わず感心した。
先ほどまでの動きと、見た目には大きな違いがない。しかし、打った後の位置が違う。右ストレートを打つ瞬間には、すでに次に動く準備ができている。
いや、打つ動作と移動する動作が、最初から一続きになっている。
「……ああ」
貴明は思わず声を漏らした。
ちょうど神姫用リングで、コハクがすみれに説明していたことを思い出した。一度完成した構えへ戻るのではなく、次の動作へつなげる。考え方は似ている。
ただし、実際に動かしている身体は違う。筋肉と関節で動く美咲と、アクチュエータで身体を動かすすみれでは、力の出し方も反応も同じではない。しかし、ボクシングとして求められているものには共通点がある。
「そこまで!」
高城がミットを下げた。美咲も拳を下ろす。
「はぁ……っ」
大きく息を吐いた。額から汗が流れ、顎を伝って床へ落ちる。肩が上下していた。
「今のはよかったな」
高城が言う。
「ありがとうございます」
「ただ、後半ちょっと遅くなった」
「……はい」
「疲れた時ほど、打ち終わりを雑にするなよ」
「分かってます」
「分かってるなら次」
「えっ、まだ?」
「もう一ラウンドって言ったろ」
「あ、そうでした」
美咲が苦笑する。
「じゃあ少し休んでから」
「そうしろ」
高城がミットを外してリングを下りる間も、貴明は美咲の動きを思い返していた。前半はきれいにつながっていた足運びが、後半になると少しずつ遅れていた。それでも美咲は拳を出し続けていた。
普段、貴明が神姫ボクシングで確認する疲労とは、少し違う。神姫にも疲労はあり、内部温度の上昇や駆動系の負荷、出力の低下として表れる。貴明なら、それらを自分の神姫の状態情報から確かめられる。
しかし、人間の美咲について、貴明が同じような数値を画面で読むことはできない。息が上がり、汗が流れ、動きが鈍っていく。その様子と本人の言葉から疲労を確かめるしかないところに、貴明は興味を覚えた。
◇
「いやー、疲れた!」
休憩に入った美咲が、タオルで顔を拭きながらリングを降りてきた。
「お疲れさまです」
貴明が声をかける。
「ありがと。どうだった?」
「何が?」
「さっきの」
「ああ。後半、足が遅くなってた」
「……そこ?」
「あと、最初より打ち終わりがよくなったと思う」
「そっちは?」
「右を打ったあとの移動」
「でしょ!」
美咲が少し嬉しそうに笑った。
「最後の方、できてたよね?」
「うん。前半は」
「前半は?」
「後半また遅くなった」
「うっ」
美咲はタオルで顔を隠した。
「……容赦ないなあ」
「聞かれたから」
「まあ、そうなんだけど」
貴明は少し考えた。
「でも、あれだけ動いてからだし」
「そう。そこなんだよ」
美咲がタオルを下ろす。
「最初はいいんだけど、疲れてくるとどうしてもね」
「足が動かなくなる?」
「動かないわけじゃないよ。動かすのが遅くなる」
「違うの?」
「違う」
美咲は水を一口飲んでから続けた。
「例えば、右を打つでしょ?」
「うん」
「そのあと横へ動きたい。でも、打った瞬間に少し身体が前へ残っちゃうと、次の足が出しにくいの」
「体重が?」
「そうそう。そこで一回戻そうとすると遅れる」
「ああ」
「で、分かってるから最初は意識するんだけど」
「疲れてくると?」
「打つ方に集中しちゃう」
美咲が苦笑する。
「拳はちゃんと出るんだけど、足がついてこないんだよね」
貴明は美咲の説明を聞きながら、さっき目にした右ストレートを思い返した。後ろ足が回り、身体が前へ乗る。その後、横へ動こうとして生じたわずかな間。
「つまり、打ったあとに移動するんじゃなくて、打つ時から――」
「そう!」
美咲が頷く。
「次にどこへ動くか、もう決めておかないと」
「なるほど」
「でも、相手がいるから毎回同じ場所へ動けるわけじゃないし」
「そうだな」
「だから難しいんだよ」
美咲がもう一度水を飲む。貴明はしばらく考えてから聞いた。
「そういうのって、打ってる時に分かる?」
「何が?」
「今、うまく体重が乗ってるとか。次に動きにくいとか」
「分かる時もあるよ」
「へえ」
「でも、全部じゃない」
美咲は少し考えた。
「変なところに力が入ってるとか、足が踏ん張りすぎてるとか。そういうのは分かるかな」
「……なるほど」
「あと、打った時の感じ」
「感じ?」
「ちゃんと打てた時って、手だけで叩いた時と違うんだよ」
美咲が自分のグローブへ目を落とした。
「足から身体がつながって、拳までうまく力が伝わった時は、分かる」
「当たった音で?」
「音もあるけど、そこだけじゃないよ」
「そうなんだ」
「うん。身体全体の感じ」
貴明は少し黙った。
映像で確かめられることなら多い。打撃の速度も姿勢も拳の軌道も見ることができるし、自分の神姫なら内部状態も確認できる。けれど、美咲が話す感覚は、映像だけでは分からなかった。
美咲自身の身体で起きていることだからだ。
「……難しいな」
貴明が言う。
「そう?」
「見るだけじゃ分からない部分が結構ある」
「そりゃそうだよ」
美咲はあっさり答えた。
「だから練習するんじゃん」
「それは分かるけど」
「篠原君、見るのは得意なんでしょ?」
「まあ、好きではある」
「でも、自分で打ったことはないんだよね?」
「ない」
「じゃあ分かんないこともあるよ」
美咲は少し笑った。
「私だって、神姫の身体でパンチ打ったことないし」
「それはそうだな」
「ハルの練習見てても、全部は分からないよ」
「美咲でも?」
「うん」
貴明には意外だった。美咲は高校時代からボクシングを続けている。自分自身が競技者で、ハルのマスターでもある。貴明から見れば、人間と神姫の両方をよく知る側の人間だ。
「同じボクシングなんだから、参考にはなるよ」
美咲が続ける。
「でも、ハルがどう感じてるかは、本人に聞かないと分かんない」
「……そうだな」
「篠原君も、すずらんさん達に聞くでしょ?」
「聞く」
「それと一緒」
そう言って、美咲は笑った。
「美咲ー!」
神姫用スペースの方から声がした。ハルだった。練習着姿でこちらへ駆けてくる。
「終わった?」
「まだ。あと一ラウンド」
「そっか。じゃあ休憩中にちょっと見てくれる?」
「何を?」
「さっきコハクさんに言われたところ。ジャブのあとの足!」
「ああ、いいよ」
ハルは近くの神姫用練習マットへ移った。
「ちょっとやってみるね」
構えを取ると、軽く左ジャブを出した。続けて横へステップ。もう一度ジャブ。今度は反対側へ。動きそのものは滑らかだったが、最後の一歩だけ、少し大きくなっていた。
「……ああ、そこか」
美咲が言った。
「何?」
「最後、足が開きすぎてない?」
「うん。そこを注意されたんだよ」
ハルは足元を見た。
「動いてる時はいいんだけど、もう一回ジャブを打とうとすると、ちょっと遠いの」
「なるほどね」
美咲が少し考える。
「最初のジャブのあと、もう少し小さく動けない?」
「小さく?」
「うん。次のジャブを打てるくらいの位置で止まる感じ」
「それだと、ちょっと動きにくいかも」
「そう?」
「美咲の動きだとそうなのかもしれないけど、私の足だと、そこからもう一回動こうとすると止まっちゃうんだよね」
美咲はハルの足元を見直した。
「……ああ、そっか」
「うん」
「じゃあ、最初から小さくするんじゃなくて、最後の一歩だけ抑えてみたら?」
「最後だけ?」
「そう。今の動きはそのままで、打つ位置に入るところだけ」
「やってみる!」
ハルが再び構えた。左ジャブ、横へのステップ、もう一発。そして、最後の一歩。今度は先ほどより少しだけ足幅が狭くなった。
「あっ」
ハルが声を上げる。
「今の、ちょっといいかも!」
「そう?」
「うん。次のジャブが出しやすい!」
「じゃあ、それで何回かやってみたら?」
「そうする!」
ハルはもう一度動いてみせた。しかし、今度は途中で少し姿勢が崩れた。
「あれっ」
「あはは。毎回うまくいくわけじゃないね」
「むー。もう一回!」
「待って待って。続きはコハクさんにも見てもらいなよ」
「はーい」
ハルが構えを解く。
貴明は二人のやり取りを興味深く見ていた。美咲はハルの動きの問題点を見つけるのが早い。けれど、最初に提案した修正方法は、ハルには合わなかった。それをハルが自分の感覚で説明すると、美咲はすぐに別の方法を考えていた。
「……結構違うんだね」
貴明が言った。
「何が?」
美咲が振り返る。
「同じステップでも、人間と神姫だと」
「ああ、そうだね」
美咲は頷いた。
「私だったらこうする、っていうのはあるんだけど、それがハルにも合うとは限らないから」
「うん。美咲の動きは参考になるよ」
ハルも頷く。
「でも、私の身体でやるとちょっと違うんだよね」
「だから、ハルがどう感じたかも聞かないとね」
「そうそう!」
ハルが嬉しそうに笑った。美咲はそんなハルを見てから、水を一口飲んだ。
「それにしても、今日は結構動いたなあ」
「美咲もでしょ?」
「まあね」
「さっきからずっとミット打ってたじゃん」
「ちゃんと休憩してるって」
「本当?」
「本当」
ハルが美咲の顔をじっと見る。
「汗すごいよ」
「そりゃボクシングしてるからね」
「疲れてるでしょ」
「それは疲れてるよ」
「だったら、終わったらちゃんと休んでね」
「はいはい」
「はいは一回!」
「……はい」
貴明は思わず笑ってしまった。
「何?」
美咲がこちらを見る。
「いや、ハルさん、しっかりしてるなと思って」
「そうなんだよ」
美咲は少し肩をすくめた。
「普段は結構自由なんだけど、こういう時だけうるさいの」
「だって美咲、やり始めると止まんないんだもん」
「篠原君のところもそうじゃない?」
美咲が聞いた。
「え?」
「すみれさんとか」
「ああ……」
貴明は少し考えた。
「練習止められるのは、どっちかというと俺かな」
「そうなんだ?」
「昨日も、そろそろ帰れって言われた」
「何してたの?」
「映像見てた」
「……ああ」
美咲が納得したように頷く。
「篠原君らしいね」
「そう?」
「そうだと思う」
ハルも笑った。
「すみれさん、言ってたよ。マスターは画面見始めると長いって」
「……いつの間に」
「さっき!」
「そうか……」
貴明は少し複雑な気分になった。
その時、すみれとすずらんもこちらへやってきた。
「マスター、練習終わりました」
すみれが言う。
「お疲れ」
「何のお話ですか?」
「マスターが映像見始めると長いって話」
ハルが答える。
「ああ」
すみれはすぐに納得した。
「そうなんですよ」
「そこで納得しないでほしいんだけど」
「事実ですから」
すずらんまで静かに頷く。
「……三人とも」
貴明が言いかけたところで、美咲が笑い出した。
「あはは! 結構言われてるんだね」
「最近、特に」
「いいじゃん。ちゃんと見てもらってるってことだし」
「まあ、そうなのかな」
「そうだよ」
美咲はグローブを軽く合わせた。
「私もハルの練習見てるし。試合の映像も見るよ」
「そうなんだ」
「でも、ずっと見てるわけじゃないけど」
「……」
「そこは違うかもね」
美咲が悪戯っぽく笑う。貴明は何も言い返せなかった。
「水野、続きやるぞ」
高城の声が飛んだ。
「あ、はい!」
美咲が立ち上がる。
「じゃあ、最後の一ラウンドやってくる」
「頑張って」
貴明が言う。
「ありがと」
美咲はリングへ向かった。ハルもその背中を見送る。
「美咲、結構頑張るんですよ」
「うん。見てた」
「ちょっと頑張りすぎる時もあるけど」
「そうみたいだな」
「でも、今日はいい感じみたい」
ハルは嬉しそうだった。
貴明はもう一度リングへ目を向ける。美咲が構え、高城がミットを上げた。
「さっきの続きだ。右のあと、残るなよ」
「はい!」
「じゃあ行くぞ」
左ジャブ。右ストレート。横へ。
高城が動く。美咲も追う。
もう一度ワンツー。右を打った直後、足が横へ出た。
さっきより早い。
「そう!」
高城が声を上げる。
「次!」
美咲が踏み込む。
左。右。
今度は高城が前へ出た。ミットが美咲のガードへ近づく。
美咲は横へ動いて外す。そのまま左ジャブを返した。
パンッ!
いい音が響く。
「今の!」
美咲が声を上げた。
「ああ。今のはいい」
高城も頷く。
「もう一回!」
「はい!」
再び動き始める。先ほどまでとは、少し違う。打つことと、移動することがつながっている。
もちろん、毎回成功するわけではなかった。途中で一度、足が止まる。高城のミットが軽くガードへ触れた。
「あっ」
「今のは残った」
「はい!」
「次!」
美咲はすぐに構え直した。
左。右。横へ。
今度は外した。
その様子を、貴明はじっと見ていた。
「マスター」
すみれが声をかけた。
「何?」
「また何か見つけました?」
「うん」
「何ですか?」
「打ち終わりの足」
「足ですか?」
「右を打ったあと、止まってたのが少し減ってる」
すみれもリングを見る。
「……ああ」
「分かる?」
「はい。さっきより横への動きが早いですね」
「そう」
すみれは少し考えた。
「コハクさんに言われてることと似てますね」
「俺もそう思った」
「でも、人間は少し違いますね」
「うん」
「足の使い方とか、身体の傾きとか」
「そうだな」
すみれはしばらく美咲を見ていた。
「……それでも、参考になりますね」
「なる」
貴明が頷く。その横で、すずらんもじっとリングを見ていた。
「すずらんは?」
貴明が聞く。
「何ですか?」
「どう思う?」
「右を打ったあと、次の位置へ動くのが早くなりました」
「そうだな」
「でも、まだ時々止まります」
「うん」
「……疲れてるんでしょうか」
貴明は少し意外に思った。すずらんは普段、相手の動きを見る時には技術や距離の話をすることが多い。疲労に先に触れるのは、珍しい気がした。
「そうだろうな」
貴明が答える。
「結構長くやってるし」
「そうですね」
すずらんは美咲を見ていた。
「疲れても、同じ動きを続けるのは難しいんですね」
「人間も神姫も、そこは同じかもな」
「はい」
リングでは、美咲が最後のワンツーを打ち込んでいた。
パンッ!
パンッ!
高城がミットを下げる。
「そこまで!」
「ありがとうございました!」
美咲が大きく息を吐いた。肩が上下している。それでも、表情はどこか満足そうだった。
「最後の方はよかったな」
高城が言う。
「はい!」
「まだ全部じゃないぞ」
「分かってます」
「じゃあ次も続けろ」
「はい!」
美咲が笑った。
練習が終わると、美咲はリング脇のベンチへ腰を下ろした。
「お疲れ」
貴明が声をかける。
「ありがとー」
返事には少し力がなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫。疲れただけ」
「結構動いてたからな」
「うん。今日はよく動いた」
美咲が水を飲む。その肩にハルが飛び乗った。
「ほら、やっぱり疲れてる」
「だから疲れたって言ってるじゃん」
「帰ったらちゃんと休んでね」
「分かってるって」
美咲が笑いながら答える。貴明は、少し気になっていたことを聞いた。
「水野さん」
「ん?」
「今日の練習、最初からあの動きをやる予定だったの?」
「そうだよ」
「そうなんだ」
「この前から、ずっとそこやってるの」
「右のあと?」
「うん。試合でも同じことやっちゃって」
美咲が少しだけ顔をしかめた。
「打ったあと、その場に残ると相手に打たれやすいから」
「そうだな」
「だから直してる」
「なるほど」
貴明は頷いた。高城が口を出した。
「篠原」
「はい」
「神姫の方でも似たような練習してるだろ」
「はい」
「じゃあ分かるだろうけど、形を覚えたら終わりじゃないからな」
「……そうですね」
「実際に相手がいる時にできなきゃ意味がない」
貴明は、今のすみれの練習を思い浮かべた。きれいに構え、正しく打ち、姿勢を戻すことはできても、相手が動けばその間にも状況は変わる。
高城は続けた。
「それと、神姫の場合は身体の作りが違う。人間の動きをそのまま真似させるなよ」
「はい。そこは分かってます」
「ならいい」
高城は短く頷いた。そのままミットを片付けに向かう。美咲が小さく笑った。
「会長、結構細かいでしょ」
「うん」
「でも、分かりやすいんだよね」
「そうだな」
「ちゃんとできた時は、ちゃんとできたって言ってくれるし」
美咲は自分のグローブを見る。
「今日、最後の方ちょっとよくなったから」
「うん」
「次もできるようにしないと」
明るい言い方だったが、冗談ではないのも伝わってきた。美咲は自分の身体でリングに立ち、踏み込んで拳を打ち、疲労も引き受けながら上達しようとしている。貴明がすずらんやすみれの動きを見て分析するのとは、やはり違うのだろう。
「篠原君」
美咲が言った。
「はい?」
「今日、面白かった?」
「何が?」
「人間のボクシング」
「ああ」
貴明は少し考えてから頷いた。
「面白かった」
「本当?」
「うん」
「よかった」
美咲が笑う。
「神姫の方ばっかり見てるから、興味ないのかと思ってた」
「そんなことないよ」
「そうなの?」
「人間の試合も見るし。技術的には参考になるから」
「……やっぱりそっち?」
「そっちって?」
「参考になるから、ってところ」
「それ以外に?」
美咲は少し考えてから、肩をすくめた。
「いや、別にいいけど」
貴明は首を傾げる。
「何?」
「ううん」
美咲が笑った。
「篠原君らしいなって」
「……そう?」
「そう」
その肩で、ハルも頷いている。
「篠原さん、ボクシング好きだもんね」
「まあ、好きだけど」
「じゃあ、今度も見に来れば?」
美咲が言った。
「いいの?」
「いいよ。別に秘密の練習してるわけじゃないし」
「そっか」
「でも、あんまり失敗したところばっかり覚えないでよ」
「……それは無理かも」
「何で!」
「気になるから」
美咲は一瞬黙った。それから、呆れたように笑う。
「ほんと、そういう人なんだね」
「そういう人って」
「ボクシングのことになると、全部気になる人」
「……まあ、否定はしない」
「でしょ?」
ハルも笑っていた。
◇
ジムを出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。貴明は二人を連れて、駅へ向かって歩いていた。
「今日は珍しかったですね」
すみれが言う。
「何が?」
「マスターがずっと人間用リングを見てたことです」
「たまにはいいだろ」
「いいと思いますよ」
すみれが笑う。
「美咲さん、すごかったですね」
「ああ」
「人間のボクシング、ああやって近くで見ると迫力ありますね」
「そうだな」
貴明が頷く。
人間のボクシングは、大会映像や練習動画、技術解説などで何度も見てきた。神姫ボクシングの参考になる資料も集めている。それでもリングのすぐそばでは、打撃音や足音、汗、息遣いまで伝わってきた。画面越しでは分かりにくいものが、いくつもあった。
「マスター」
すずらんが声をかける。
「何?」
「何か気になることができました?」
「……そうだな」
貴明は少し考えた。
「右を打ったあとの足とか、色々」
「また映像見ます?」
「今日は撮ってない」
「あ、そうでしたね」
「だから次も見に行こうかなって」
「美咲さんの練習ですか?」
「うん」
すみれが少し笑った。
「気に入ったんですね」
「面白かったから」
「そうですか」
貴明は歩きながら、美咲が繰り返していた動きを思い出した。左ジャブから右ストレート、そこから横へのステップ。打ち終わった位置に残らず、次の場所へ動く。技術としては珍しいものではない。
神姫ボクシングでも使うし、すずらんやすみれも普段から練習している。けれど美咲は、疲れても、うまくいかなくても、自分の身体で何度も繰り返していた。
「……大変そうだったな」
貴明が呟く。
「美咲さんですか?」
すみれが聞く。
「ああ」
「でも、楽しそうでしたよ」
「そうだな」
「私も、ああいう練習好きです」
すみれが言った。
「うまくいかないところを、何度もやるのって」
「そう?」
「はい。できるようになると嬉しいですから」
貴明は頷いた。その気持ちなら分かる気がした。新しい装備の試験でもプログラムの修正でも、何度試してもうまくいかなかったものが、ようやく期待どおり動いた時は嬉しい。もちろん、ボクシングとは違う。
けれど、何かをできるようにしたいという気持ちは、少し似ているのかもしれない。
「マスター」
今度はすずらんが言った。
「何?」
「今日は、ずいぶん楽しそうでしたね」
「俺が?」
「はい」
「そうかな」
「そうですよ」
すみれも頷く。
「美咲さんに色々聞いてましたし」
「気になったから」
「知ってます」
「……」
二人が笑うので、貴明は少しだけ視線を逸らした。別に、自分がボクシングを始めたいと思ったわけではない。すずらんとすみれの練習を見るだけでも十分に面白いし、これまでもそうしてきた。
それでも、美咲が話していた身体の感覚は気になった。足から拳まで力が伝わることも、疲れてくると分かっていても動きが遅れることも、映像では見えず、ログにも残らない。本人にしか分からないものだ。
「……やっぱり面白いな」
貴明が小さく言った。
「何がです?」
「ボクシング」
すみれが笑う。
「今さらですか?」
「今さらだけど」
「ずっと好きだったじゃないですか」
「そうだな」
貴明も少し笑った。
人間と神姫では、同じボクシングの技術を使っても身体が違い、感じ方も変わる。その違いを知ることは、すずらんやすみれの練習にも役立つはずだ。
今度、美咲の練習を見る時は、もう少し足元をよく見てみよう。そして、できれば本人にも聞いてみたい。打つ時に、何を感じているのか。どうしてその動きを選んだのか。
そんなことを考えていると、隣から声がした。
「マスター」
「何?」
「明日は、私達の練習もちゃんと見てくださいね」
すみれだった。
「もちろん」
「美咲さんの方ばっかり行かないでくださいよ?」
「行かないよ」
「本当ですか?」
「本当」
すずらんが小さく笑う。
「でも、たまにはいいと思います」
「そう?」
「はい。マスター、楽しそうでしたから」
貴明は二人を見た。
「……まあ、たまにはな」
「たまには、ですね」
すみれが頷く。その向こうに駅の明かりが見えてきた。春季オープンまではあと少し。明日もクロスロードで、すずらんとすみれの調整が続く。
貴明はいつも通り二人の練習を見て、情報を集め、セコンドとしてできることを考えるつもりだった。その予定は変わらない。ただ、神姫用リングの向こう側にも、新しい楽しみが一つできた。
もう一つのリングで行われているボクシングを、次に来た時も少し覗いてみよう。貴明はそう考えながら、二人と一緒に駅の改札を通った。