春季オープンの前日。クロスロードの神姫用リングは、いつもより静かだった。大会へ向けた調整はほとんど終わり、今日は身体を動かして状態を確かめる程度にとどめる予定になっている。
「はい、そこまで」
コハクの声で、すずらんが構えを解く。
「もうですか?」
「もうです」
すずらんはリング脇の時計に目を向けた。まだ、普段なら練習を続けている時間だ。
「シャドー二ラウンド。ミット二ラウンド。動作確認だけ」
コハクは指を折りながら、今日済ませたメニューを確かめた。
「今日はそれで終わりです」
「バッグは?」
「なし」
「スパーは?」
「当然なしです」
少し離れたところにいたすみれも、練習が終わると聞いて意外そうな顔をした。
「私もですか?」
「二人ともです」
「まだ全然動けますけど」
「だから終わるんです」
コハクは真面目な顔で言った。
「明日、動けるように」
すみれはリングの方へ一度目を向けてから、頷いた。
「……はい」
一方、すずらんはコハクに目を向けたままだった。
「すずらんさん」
「何ですか?」
「今から練習して、急に上手くなると思います?」
「少しくらいは」
「なりません」
「言い切りますね」
「明日必要なのは、今日より一つ多く練習したことじゃありません。今日の疲労を残さないことです」
すずらんは数秒黙った。
「分かりました」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは『はい』でお願いします」
横ですみれが笑った。
その間、貴明は人間用リングに近いベンチで、昨日までの練習ログを見直していた。人間側では高城が使い終わったミットを片付けている。すずらんたちに練習を切り上げさせたばかりのところで、自分だけ端末を眺め続けているのも、少し妙な話ではあった。
「今日もログ見てんのか」
高城が声をかけた。
「昨日までの分です」
「前日に?」
「新しいことはやらないです。確認だけ」
「ならいい」
高城はミットを置くと、貴明の隣へ腰を下ろした。
「篠原君」
「はい」
「明日、試合中に考え過ぎるなよ」
貴明が顔を上げる。
「俺が?」
「お前が」
「戦うのは二人ですけど」
「だからだよ」
高城は神姫用リングへ目を向けた。
すずらんとすみれが、コハクの前でクールダウンをしている。
「マスター側が焦ると、選手にも伝わる」
「焦るつもりはないです」
「そう言う奴ほど、端末見始めると止まらない」
「……」
「心当たりある顔だな」
「ありますけど」
否定はできなかった。試合が始まれば相手の動きだけでなく、すずらんやすみれの状態、残り時間、それまでに出したパンチといった情報が次々に入ってくる。映像やログも加えれば、確認したいことは際限なく増えるだろう。
「試合中に拾える数字は多い。でも、全部使う必要はない」
少し前に蓮から教わったことと、ほとんど同じだった。貴明は苦笑する。
「最近そればっか言われます」
「じゃあ直せ」
「簡単に言いますね」
「簡単なことほど難しいんだよ」
高城は立ち上がった。
「あと、今日は早く帰れ」
「分かってます」
「夜中まで映像見るなよ」
「……」
「返事」
「はい」
さっきより少し強めに答えると、高城はそれでよしとしたようにミットを抱えて離れていった。
昼前には神姫側の練習も片付けも終わり、三人はジムを出ることになった。すずらんとすみれは飛行ユニットを装着せず、そのまま貴明のキャリーケースへ入る。
「今日は電車?」
すみれがケースの中から聞いた。
「明日試合なのに、飛んで帰る理由ないだろ」
「距離は大したことないですよ」
「姿勢制御使うだろ」
「使いますけど」
「なら休め」
すずらんが横から言う。
「マスター、今日は慎重ですね」
「いつも慎重だよ」
「そうでしょうか」
「少なくとも大会前は」
「それなら認めます」
貴明はケースを閉じて肩に掛け、駅へ向かった。クロスロードから駅までの道は、もう何度も通っている。今日もいつもと同じ道を歩いているのに、明日はここへ練習に来るのではなく、三人で試合会場へ向かうのだと思うと、見慣れた街並みが少し違って感じられた。
◇
帰宅すると、三人はまず明日の荷物を確認することにした。部屋の中央に競技用品や整備用品を並べ、すみれがリストを読み上げ、貴明が一つずつ指差して答えていく。
「競技ウェア」
「ある」
「予備ウェア」
「ある」
「公式戦用グローブ」
「二人分」
「予備グローブ」
「ある」
「Coolant」
「六本」
そこで、すみれの手が止まった。
「六本?」
「六本」
「多くないですか?」
「予備」
「二人で最大何試合する想定です?」
「何があるか分からないだろ」
「でも六本」
「使わなければ持って帰ればいい」
横からすずらんも箱を覗き込み、予備のテープに目を留めた。
「手首固定用の予備テープも三組あります」
「それも予備」
「交換部品は?」
「消耗しやすいところだけ」
貴明が用意した部品を、すみれがケースの中で確かめていく。
「肩部、肘、手首、足首……」
そこまで数えてから、貴明を見る。
「マスター」
「何?」
「これ、遠征ですか?」
「大会」
「県外遠征みたいな量ですけど」
「部品待ちで棄権するよりいいだろ」
「そこまで壊れる前に試合止まりますよ」
「軽度損傷なら、その場で直せるかもしれない」
「明日一日の大会ですよね?」
「……」
貴明が黙った。
すみれがじっと見てくる。
「持っていく量、減らしましょう」
「いや」
「減らしましょう」
「でも」
「減らします」
今度はすずらんが静かに言った。
「すみれに賛成です」
「お前まで」
「必要なものは持っていけばいいです。でも、全部は必要ないです」
「……分かった」
結局、持参する交換部品は半分ほどになった。
Coolantも減らされた。
貴明としては多少不安が残ったが、二人に言わせれば、使わない物を大量に抱えて歩く方が余計だったらしい。
◇
午後、すみれは自宅の神姫用リングの脇で、明日着用する競技ウェアをもう一度確認していた。スポーツブラに長めのボクシングショーツ、ボクシングシューズ。普段の練習着より少し鮮やかな、公式戦用の一式だ。
「ほつれなし。シューズも問題なし」
「昨日も見てなかった?」
貴明が聞く。
「昨日は昨日です」
「俺と同じことしてるじゃん」
「マスターほどではありません」
言い切られた。
少し離れたところでは、すずらんがクレイドルの横に座り、自分のグローブを眺めていた。
「すずらん」
「はい」
「何か気になる?」
「いえ」
「なら何見てるの?」
「別に」
そう答えても、すずらんはしばらくグローブを眺めたままだった。
貴明は彼女の様子を見てから、隣へ座った。
「緊張してる?」
「まだです」
「本当に?」
少し間があった。
「……少しは」
今度は素直に認めた。
「珍しいな」
「公式戦の前なら普通です」
「そうだけど」
「マスターは?」
「俺?」
「緊張してます?」
貴明もすぐには答えられず、少し考えた。
「まだ」
すずらんがこちらを見た。
「同じですね」
「そうだな」
二人とも少しだけ笑った。
夕方になり、三人が明日の予定を話しながら過ごしている間も、すみれは普段とほとんど変わらなかった。軽く身体を伸ばし、夕食を取り、クレイドルで状態を確認する。その合間にも、明日の試合の順番を気にしている。
「一試合目、何時でしたっけ?」
「十時二十分」
「すずらんが先?」
「抽選通りなら」
「私は十一時」
「そう」
「移動、余裕ありますね」
「会場内だからな」
すずらんも会話には加わっていたが、いつもより少し口数が少ない。貴明には、明日の相手やリングのこと、ここ数週間の練習を思い返しているように見えた。クロエとのスパーで苦労したことも、コハクから繰り返し言われたことも、今ならまだ確かめておきたいのかもしれない。
「すずらん」
「はい」
「映像見る?」
少し間があった。
「……一試合だけ」
「候補は?」
「昨日見た相手」
「分かった」
貴明がデスクトップPCを起動すると、すみれも後ろから画面を覗き込んだ。
「一試合だけですよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
昨日見た対戦相手の映像を開くと、画面の中で相手がジャブを出し、続けて右を打ってから左へ回った。貴明はその足運びを追う。
「ここ」
貴明が映像を止めた。
「右打った後、少し止まる」
「はい」
「でも追わなくていい。こっちからジャブ置いて、反応見れば――」
「分かってます」
「あと」
「マスター」
すみれが止めた。
「何?」
「一試合だけ」
「まだ一試合目だろ」
「そういう意味じゃありません」
すずらんが小さく笑った。
「マスター」
「何?」
「もう十分です」
「まだ途中だけど」
「分かりました」
「何が?」
「相手の癖も」
すずらんは少し間を置いた。
「マスターが気になってるところも」
「……ならいいけど」
貴明はもう一度画面を見る。確認しておきたいところはまだいくつかあったが、その全部を今夜見なければならない理由はない。二人はもう十分に準備してきたのだ。そう考えて動画を閉じると、すみれが満足そうに頷いた。
「今日は終わりです」
「お前が決めるの?」
「誰かが決めないと、マスター続けますよね」
「否定はしない」
◇
夜になると、すずらんとすみれはいつもより早めにクレイドルへ入った。通常より長めのメンテナンスモードを設定し、貴明は端末に表示される診断結果を順に確認する。アクチュエータや関節、センサー、姿勢制御、バッテリーの状態はいずれも問題なかった。
「マスター」
クレイドル内から、すみれの声がする。
「何?」
「まだ見てます?」
「確認だけ」
「さっきもしましたよ」
「寝る前の最終確認」
「神姫側は自動でやりますけど」
「分かってる」
隣のクレイドルから、今度はすずらんが言った。
「マスター」
「今度は何?」
「明日起きられます?」
「起きる」
「何時?」
「六時半」
「今何時です?」
貴明は時計を見る。
二十二時四十五分。
「まだ平気」
「PC消してください」
「もう少しだけ」
「何するんですか?」
「明日の会場までの経路確認」
「昨日しました」
「運行情報」
「明日の朝でいいです」
「天気」
「それも明日の朝で」
「……」
言うことがなくなった。
すみれが続ける。
「マスターも休むのが準備ですよ」
今日、何度似たようなことを言われただろう。コハクは二人に疲労を残すなと言い、高城は貴明に早く帰れと言った。家では映像の確認を切り上げさせられ、今度は自分が寝るよう言われている。
貴明は時計を見直してから、ようやく頷いた。
「分かった」
デスクトップPCをシャットダウンする。
「珍しいですね」
「何が?」
「一回で聞きました」
「明日試合だから」
「毎日そうしてほしいです」
「それは無理」
「即答ですね」
クレイドルの中で、すみれが笑った。
部屋の照明を落とすと、急に静かになった。引っ越したばかりの頃は段ボール箱でいっぱいだった部屋も、今ではかなり片付いている。机にはデスクトップPCとノートPCが並び、壁際には神姫用リングと二基のクレイドル、その周囲には練習や整備に使う道具が収まっていた。玄関近くに置いた明日の荷物を見れば、最初の日からそう長くは経っていなくても、ここでの生活がすっかり形になってきたことが分かる。
貴明も布団へ入る。
目を閉じてから、少し経った頃だった。
「マスター」
暗い部屋ですずらんの声がした。
「何?」
「明日」
「うん」
「勝ちたいです」
貴明は目を開け、暗い天井を見る。
「知ってる」
「そうですか」
「何年一緒にやってると思ってるんだ」
しばらく返事はなかった。
今度は貴明から聞く。
「すみれも?」
「もちろんです」
別のクレイドルから、すぐに返事があった。
「でも」
「でも?」
「明日負けても、また練習できます」
「縁起でもないこと言うなよ」
「すずらんが考えすぎてるからです」
「……考えてません」
「考えてます」
「そう見えます?」
「見えます」
貴明が笑った。
「じゃあ、とりあえず寝ろ」
「はい」
「おやすみなさい、マスター」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
それきり、部屋は静かになった。
明日はクロスロードへ移ってから初めての公式戦だ。新しいジムで身につけようとしてきたことが、実際の相手にどこまで通じるのか。それまで積み重ねてきたものを、三人はリングの外と中から確かめることになる。結果はまだ分からない。
貴明は目を閉じた。練習も分析も切り上げたし、荷物は揃っている。二人の状態にも問題はなかった。今夜はもう何もする必要はない。
明日になれば、すずらんとすみれはリングに上がる。貴明はその傍らで、二人を見守る。