午前六時二十八分。
目覚ましが鳴る二分前に、貴明は目を開けた。
「……」
しばらく天井を見てから、今日が何の日だったかを思い出す。
春季オープン。
布団から起き上がり、まず机の方を見た。デスクトップPCは昨夜きちんと落としてある。玄関脇には荷物とキャリーケースがまとめられ、二基のクレイドルはどちらも緑の状態表示を点灯させていた。
異常なし。少なくとも、表示の上では。
「おはようございます、マスター」
すみれの声がした。
「おはよう」
続いて隣のクレイドルからも声がする。
「おはようございます」
「状態は?」
貴明が聞く。
「問題ありません」
「私もです」
「肩」
「問題なし」
「脚」
「問題ありません」
「センサー」
「正常です」
すずらんが少し間を置いた。
「マスター」
「何?」
「朝からそれですか」
「確認」
「表示を見れば分かるでしょう」
「本人の感覚も聞いときたい」
「昨日も聞きました」
「昨日と今日で違うかもしれない」
すみれがクレイドルから出てきた。
「大会の日のマスター、いつもより面倒ですね」
「そう?」
「そうです」
すずらんも外へ出る。
「いつも通りです」
「どっちだよ」
「大会の日としては、いつも通りです」
「そういう意味か」
貴明は時計を確認した。
「飯食って、七時十五分に出る」
「はい」
「分かりました」
起床は予定より二分早かったが、出発までの段取りは変わらない。少なくとも、ここまでは予定通りだった。
◇
大会会場は、大型商業施設に併設されたイベントホールだった。普段利用しているゲームセンターよりもずっと大きい。人間用のスポーツ大会ならそれほど広い会場ではないのかもしれないが、十五センチ前後の神姫が競技するには十分すぎるほどだった。
中央には公式リングが六面。各リングの周囲には透明な防護壁があり、上部には照明や撮影用カメラ、各種センサーが取り付けられている。さらにその外側には観客席が広がり、選手待機区画、整備区画、公式技術員のブース、各ジムに割り当てられた簡易スペースが配置されていた。
「結構いますね」
キャリーケースから出たすみれが、会場を見回した。
「春季オープンだからな」
貴明は受付端末に参加証をかざす。二人分の登録情報が呼び出され、すずらんとすみれ、それぞれの名前、型式、所属ジムが順に表示された。二人とも出場するのはアドバンスドクラスだ。
所属欄には、クロスロード・ボクシングジムの文字。
「ちゃんとクロスロードになってます」
すみれが少し嬉しそうに言った。
「入会したんだから当たり前だろ」
「分かってますけど」
隣ではすずらんがトーナメント表を見上げている。
「私は第二リングですね」
「十時二十分」
「すみれは?」
「第三リング。十一時です」
「間に合うな」
貴明は二つの時刻を確かめた。
「すずらんの試合が終わってから移動しても十分余裕ある」
「マスター」
「何?」
「その前に検査です」
「分かってる」
すみれが笑った。
受付を済ませ、三人は公式検査の区画へ向かった。神姫ボクシングの公式検査は、人間のボクシングよりも確認する工程が多い。選手の身体だけでなく、競技中の動作を左右する各種装備も対象になる。まずは個体認証と競技ライセンス。その後、フレームや関節、アクチュエータ、出力制限、姿勢制御系が順に調べられ、禁止された追加装備がないかも確認された。
競技ウェアについては、硬質部品や引っ掛かる装飾、異常な重量物が仕込まれていないかを検査する。すずらんもすみれも、ここまでは問題なかった。
最後が公式戦用グローブだ。型式や設定、装着状態を確認したうえで、手首の固定と封印が行われる。
「すずらん選手、右手お願いします」
公式技術員の神姫が声を掛けた。
「はい」
すずらんが右手を差し出し、競技用グローブを装着する。固定状態を確認した後、手首の上から競技用テープが巻かれ、最後に封印のマーキングが施された。左手も同じ手順だ。隣では、すみれが同じ処置を受けていた。
「これで試合終了まで外さないでください」
「分かりました」
「装備故障の場合は自己判断で触らず、レフェリーへ申告してください」
「はい」
貴明は少し離れた場所から二人を見守った。グローブ自体は自宅でも何度も見ている。それでも、公式スタッフに固定されて封印が入ると、同じ装備が急に本番用のものに見えてくる。
「マスター」
すずらんが振り返った。
「どう?」
「いつも通り」
「そうですか」
「似合ってる」
「そこですか」
隣ですみれが笑った。
「マスター、こういう時だけ服とか装備よく見ますよね」
「こういう時だけって」
「自分の服は適当なのに」
「今それ言う?」
「今だからです」
競技装備の検査を終え、三人はクロスロードの待機スペースへ向かった。そこには高城とコハクがいて、美咲とハル、蓮とクロエのほかにも、何組かの選手とマスターが集まっていた。
「来たか」
高城が言った。
「はい」
「状態は?」
「二人とも問題なしです」
「本人達は?」
「問題ありません」
すずらんが答える。
「私も大丈夫です」
すみれも続いた。
「よし」
高城はそれ以上聞かなかった。
「今日は俺が全部見るわけじゃない。篠原君がチーフセコンド」
「分かってます」
「困ったらコハク使え」
「はい」
コハクが横で軽く手を上げた。
「リングサイドには私も入れます」
「お願いします」
「でも、最終判断はマスターですからね」
「分かってます」
すみれが、少し間を置いて小声で聞いた。
「ちょっと緊張してます?」
「誰が?」
「マスター」
「してない」
「声硬いですよ」
「気のせい」
今度はすずらんがこちらを見た。
「私よりしてません?」
「してないって」
「ならいいです」
それ以上は追及されず、貴明も何も言わなかった。緊張していないと言えば嘘になる。自分がリングに上がるわけではないが、新しいジムに移ってから最初の公式戦だ。練習方法も変わり、セコンドとして考えることも増えた。今日は、その成果を確かめる日になる。
◇
「第二リング、次戦。すずらん選手、入場準備をお願いします」
呼び出しが入ると、すずらんが立った。貴明も端末を手にして立ち上がる。
「行くか」
「はい」
すみれが手を振った。
「頑張ってください」
「行ってきます」
コハクも同行して第二リングへ向かう。リングサイドに着いた貴明はセコンド用端末を起動し、すずらんとの情報リンクを確認した。本人の視界や基本状態に加え、リングサイドと俯瞰の映像も切り替えられる。温度、出力、左右差、バッテリーなどをひと通り確認しても、異常や警告は出ていなかった。
対戦相手は別ジム所属のハウリン型。公式戦は二十戦前後で、前へ出続けるよりも素早い出入りによって距離を管理する選手だった。昨夜見た映像と、リングへ向かう今の足運びに大きな違いはなさそうだ。
「すずらん」
「はい」
「昨日の通りでいい」
「左回り」
「それも。でも――」
貴明はそこで言葉を止めた。蓮から教わったのは、知っていることを全部伝える必要はない、ということだった。
「最初はジャブだけでいい」
「分かりました」
すずらんがリングに上がり、反対側から相手も入った。中央でグローブを合わせると、レフェリーが距離を取った。
「第一ラウンド――始め!」
相手が先に軽くステップを踏み、左へ動いた。すずらんは追わずに相手の動きを捉える。
いや、見てからではない。
先にジャブ。
拳は外れたが、相手が反応して右へ動く。すずらんがもう一発出すと、今度はガードに触れた。
「……いい」
貴明が小さく呟く。
以前なら、すずらんは相手の動きを二度、三度見てから打っていた。今日は自分から拳を出して相手を動かし、その反応を見ている。
相手が踏み込み、左を出した。すずらんはそれを外してジャブを返す。軽く当たったところで、相手が距離を取った。
「追わなくていい」
貴明が短く伝える。すずらんは無理に追わず、中央付近を保った。
もう一度、相手が入ってくる。
右。
すずらんがガード。
相手はそのまま左へ流れた。昨夜の映像で確認した癖だ。貴明は口を開きかけたが、何も言わなかった。すずらんにも見えているはずだ。
ジャブを逃げる先へ置く。
相手が止まった。
右。
きれいに入った。観客席から小さな歓声が上がる。
「いいですね」
隣でコハクが言った。
「練習通りです」
貴明は頷いた。
第一ラウンドが終わると、すずらんは自陣コーナーへ戻った。リング内へ入ったコハクがグローブ表面を軽く拭き、Coolantを渡す。貴明は端末ですずらんの状態を確かめた。
「右肩正常。脚も問題なし」
「はい」
「相手、左に逃げるの分かってる?」
「はい」
「じゃあ一個だけ」
「何です?」
「二発目のジャブに反応が大きい」
すずらんが少し考えた。
「フェイント?」
「使えると思う」
「分かりました」
「それだけ」
すずらんが一瞬、貴明を見た。
「本当に短くなりましたね」
「蓮さんに言われたから」
「いいと思います」
「今それ言う?」
「今だからです」
開始十秒前。コハクがリングを降り、レフェリーが二ラウンド目を告げた。
「第二ラウンド!」
すずらんの最初のジャブを相手がガードする。二発目に見せた拳を、すずらんは途中で止めた。
相手が大きく反応した。
その瞬間、半歩入る。
右ストレート。
顎付近へクリーンヒット。相手の姿勢が崩れた。
「今」
貴明が言う。
すずらんが間合いを詰め、左ボディ、続けて右。相手がロープ際へ下がり、さらに打とうとしたところで、横へ抜けられた。
追わない。一度、中央へ戻る。
「いい」
貴明が言った。
相手は先ほどの右を警戒したのか、出入りが少し鈍くなった。その分、すずらんのジャブが増えていく。相手に当てるための一発、動かすための一発、距離を測るための一発。同じ左でも目的を変える練習が、リングの上で形になり始めていた。
三ラウンドを終え、試合は判定へ進んだ。大差ではないが、優勢だったのはすずらんの方だと貴明にも分かった。
『青コーナー、すずらん選手』
判定勝ち。
「ありがとうございました」
すずらんは対戦相手とグローブを合わせてから、リングを降りてきた。
「お疲れ」
「はい」
「右肩は?」
「問題ありません」
「脚」
「大丈夫です」
「相手の右、二ラウンド後半から――」
「マスター」
横からコハクが止めた。
「今やります?」
「……後で」
「そうしてください」
すずらんが少し笑った。
「成長しましたね」
「俺が?」
「少し」
「お前の試合だったんだけど」
「それもです」
貴明は端末をしまい、すずらんの状態をもう一度見た。次の試合へ進む前には競技役員の再検査がある。勝った勢いでそのまま次へ行けるわけではない。
◇
すずらんの試合から四十分後。今度は、第三リングですみれの出番だった。
「緊張してる?」
貴明が聞く。
「少し」
「昨日も言ってたな」
「試合直前なんだから増えますよ」
「動きは?」
「問題ないです」
「なら大丈夫」
「簡単ですね」
「今から技術が急に変わるわけじゃないだろ」
「高城さんみたいなこと言いますね」
「最近よく聞くから」
相手はアーンヴァル型。公式戦数はすみれより少ないが、自分から動いて展開を作るタイプらしい。待って合わせるというより、よく動いて攻撃の機会を探している。
「最初、相手に合わせすぎるな」
「はい」
「基本はいつも通り」
「戻りすぎない」
「それ」
すみれが頷いた。
「行ってきます」
開始の合図とともに、二人がジャブを出した。拳がほぼ同時に伸び、互いに少しずれて間合いを取り直す。
すみれが右を打つ。以前なら、そこで一度完成した構えへ戻ろうとしていただろう。しかし今日は、拳を引く途中ですでに左へ動いていた。相手の返しが空を切る。
「できてる」
貴明が言う。
すみれの次の動きが、少し軽くなったように見えた。
ジャブ。右。
そのまま横へ。
止まらない。
ハルとの練習で繰り返し、コハクから何度も言われたことだ。打つ、戻す、動く。それぞれを別々の動作にせず、次へつなげる。まだ完璧ではないが、最初の頃より滑らかになっていた。
相手が前へ出る。すみれはガードし、そのまま真っすぐ下がらず半歩横へ動いた。
左。
当たる。
派手ではない。だが、崩れない。
「すみれらしいですね」
コハクが言った。
「ですね」
貴明も頷いた。
試合は判定までもつれ込んだ。
『赤コーナー、すみれ選手』
勝利。リングを降りてきたすみれは、少し嬉しそうだった。
「どうでした?」
「良かった」
「それだけ?」
「右の後に止まらなくなってた」
「そこ見てたんですね」
「当然」
「あと?」
「左へ出た時――」
「マスター」
すみれが止めた。
「何?」
「長くなりそうです」
「試合終わったからいいだろ」
「次あります」
「……そうだった」
すみれが笑った。
「後でお願いします」
勝った直後でも、まだ大会は続いている。貴明は言いかけた分析を飲み込み、すみれを待機区画へ連れて戻った。
◇
昼のクロスロード待機区画では、すずらんとすみれが並んで休んでいた。公式戦用グローブは朝の封印を維持したままで、二人はCoolantを取り、軽い状態確認だけを済ませていた。完全にクレイドルへ入るほどではないが、少なくとも今は身体を動かす時間ではない。
初戦の後はそれぞれ競技役員の状態確認を受けており、次の試合へ進む前にも機体と装備の再検査、出場許可が必要になる。貴明は端末に残る状態表示を確認してから、ノートPCを開いた。
「マスター」
すずらんが声を掛ける。
「何?」
「何見てます?」
「次の相手」
「もう?」
「組み合わせ出たから」
「高城さんに怒られますよ」
「見るだけ」
「昨日も聞きました、その言い方」
すみれも画面を覗き込む。
「私のも?」
「ある」
「どれくらい見ました?」
「二試合ずつ」
「多いですね」
「二試合だけだぞ」
そこへ蓮がやってきた。
「篠原君」
「はい」
「次の試合まで何分?」
「すずらんが一時間十五分。すみれが一時間五十分」
「じゃあ」
蓮はノートPCの画面を閉じた。
「休ませたら?」
「……はい」
「素直だね」
「最近、同じこと色んな人に言われるので」
「いいジム入ったね」
貴明は反論せず、ノートPCをしまった。すずらんが小さく笑う。相手の映像はいくらでも見られるが、その間に二人が休まなければ意味がない。試合前日に教わったことを、また思い出させられた。
◇
午後になると、大会は少しずつ上位戦へ移っていった。初戦より経験豊富な選手が増え、ランキング上位を経験した神姫の姿も見られる。
すずらんの二戦目はストラーフ型が相手だった。競技役員による試合間の再検査を受け、封印と機体状態に問題がないことを確認されてから、すずらんは出場を許可された。
相手は前へ出る圧力が強い。クロエほどではないにせよ、以前のすずらんなら苦手にしていたタイプだ。
開始直後、相手が一気に距離を詰めてきた。
すずらんは下がらない。
先にジャブ。
相手がガードする。
もう一発。前進が一瞬止まる。
その隙に、すずらんは横へ抜けた。
貴明は何も言わなかった。すずらん自身が判断して動いている。
「クロエさんとの練習、効いてますね」
コハクが言った。
「ああ」
それでも相手は強かった。間合いを詰められ、ボディとフックを何発か受ける。端末に表示されたすずらんの左肩負荷が、少し上がった。
インターバルで、貴明は状態を確認する。
「肩、どう?」
「問題ありません」
「数字もまだ平気」
「なら続けます」
「無理はするな」
「してません」
「ならいい」
言葉はそれだけにした。すずらん自身も状況を把握している。
二ラウンド目も、三ラウンド目も僅差の攻防が続いた。相手は圧力を緩めず、すずらんも距離を作りながら返していく。
そして最後に、すずらんのカウンターが一発、明確に入った。
判定。
『青コーナー、すずらん選手』
勝利。
結果を聞いたすずらんが、ほんの一瞬だけ拳を握った。すぐに元へ戻したが、貴明には見えていた。
続いて行われたすみれの二戦目も、判定勝ちだった。すみれも試合前に競技役員による状態と封印の再検査を受け、出場許可を得ている。
派手なダウンも、大きな一発で流れを変える展開もなかった。それでも、相手に大きな有効打を許さない。ジャブとワンツー、移動とガードを組み合わせ、基本を崩さずに一つずつ積み重ねていった。
勝因を一言にまとめるのは難しい。だが、貴明にはすみれらしい勝ち方に見えた。
「二人とも次で上位ですね」
コハクが言った。
次はいずれも、ベスト8をかけた試合になる。
「どう?」
貴明が二人に尋ねる。
「まだ行けます」
すみれが答えた。
「問題ありません」
すずらんも続く。
「状態も問題なし」
貴明は端末の表示を確かめた。ただし、朝と同じ状態ではない。内部温度は上がり、関節や駆動系には試合を重ねた分の負荷が残っている。どれもまだ許容範囲内だが、疲労がなくなったわけではなかった。
ここから先は、朝より強い相手と、朝より疲れた状態で戦わなければならない。大会では珍しくないことなのだろうが、目の前の数値を見ると、改めてその重さが分かる。
更新されたトーナメント表を前に、貴明は次の組み合わせを確認した。
「すみれ」
「はい」
「次、結構速い相手」
「映像あります?」
「ある」
「一試合だけ見ます」
貴明は少し驚いた。
「見るの?」
「必要なら」
「すずらんは?」
「私は……」
すずらんは自分の対戦相手を確認した。
「見ません」
「いいの?」
「マスターが見てください」
「俺が?」
「必要なところだけ教えてください」
貴明は少し黙った。クロスロードでの練習、蓮から言われたこと、そして今日の二試合が頭に浮かぶ。集めた情報を全部伝える必要はない。今、選手が使えるものだけを選べばいい。
「……分かった」
すずらんが頷く。
「お願いします」
貴明は対戦映像を開き、一度だけ再生した。相手の入り方、距離の取り方、手数、攻撃への反応。気になるところはいくつもあるが、すべてをそのまま伝えるつもりはなかった。
何を言うかを選ぶ。同時に、何を言わないかも選ぶ。
春季オープンは、まだ終わらない。すずらんもすみれも、そして貴明も、新しいジムで学んだことが上位の相手にも通用するか、これから確かめることになる。