武装神姫 ~うちの神姫たちとの日々~   作:IT.exe

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上位戦

 映像は一度だけ。貴明はそう決めて、すずらんの次の対戦相手の試合映像を再生した。画面の中では、赤いウェアを着たエウクランテ型がリングを大きく使っている。

 

 左へ。右へ。前へ出たと思えば、すぐに離れる。

 

 飛行能力を持つ型式ではあるが、当然ボクシングのリングに翼もブースターも持ち込めない。それでも動きは軽快だった。単純に素体の運動性能が高いだけではない。足の使い方が上手い。

 

「……速いですね」

 横からすみれが言った。

「お前の相手も速いけどな」

「今はすずらんの方です」

 

 当のすずらんは画面を見ていなかった。椅子に腰掛け、封印された競技用グローブを膝の上へ置くような姿勢で身体を休めている。

 

「マスター」

「うん」

「一つだけでいいです」

「分かってる」

 

 貴明は映像を進める。一ラウンド。二ラウンド。

 

 全部を細かく追うのではなく、相手の動きがよく分かるところだけを見る。リングを広く使い、正面には長く残らない。左右どちらにも動く。

 ただ、その中に一つだけ違いがあった。

 

「これだな」

 

 貴明が動画を止めた。

 

「決まりました?」

「ああ」

 

 すずらんが顔を上げる。

 

「何です?」

「こいつ、右へ抜ける時だけ最初の一歩が大きい」

「右?」

「うん。左へ行く時は細かく二歩。右は最初の一歩で一気に距離を取ろうとする」

 

 すずらんが少し考えた。

 

「追いつける?」

「追う必要ない」

「じゃあ?」

「右へ行く前に置く」

 

 一瞬、すずらんの目つきが変わった。

 

「分かりました」

「それだけ」

「はい」

 

 貴明は本当にそこで動画を閉じた。以前なら、ジャブの頻度や右ストレートを出すタイミング、ラウンドごとの移動方向まで説明していただろう。映像から拾えるものは今もいくらでもある。

 

 けれど、すべては言わない。リングの中で相手を見るのは、すずらんだからだ。

 

     ◇

 

「第二リング、ベスト8決定戦。すずらん選手、入場準備をお願いします」

 

 呼び出しが入った。先ほどの試合後の休息を経て、すずらんは競技役員による機体・装備の再検査を受け、封印も問題ないことを確認されている。次戦の出場許可は下りていた。

 

 貴明が立つ。

 

「行こう」

「はい」

 

 すみれが手を上げた。

 

「頑張ってください」

「行ってきます」

 

 すずらんはいつも通り短く答えた。ただ、立ち上がったところで一度だけ左肩を回す。貴明はそれを見逃さなかった。

 

「左肩?」

「問題ありません」

「重い?」

「さっきよりは」

「それを問題あるって言うんじゃないの?」

「動かす分には問題ないです」

 

 貴明はセコンド用端末で状態を確認した。左肩アクチュエータの負荷値は、朝より確実に上がっている。それでも競技安全基準には十分な余裕があり、左右の出力差も出ていない。

 

「分かった。でも変だったら言え」

「はい」

 

 すずらんはリングへ向かった。

 

 リングへ上がった相手は、予想通りよく動いた。

 

 開始直後。

 すずらんがジャブ。

 触れる前に相手が離れる。

 

 もう一発。

 

 今度は逆方向。

 

「速いな」

 貴明が呟く。

 

 隣でコハクが頷いた。

「でも、すずらんさんも追ってません」

「うん」

 

 以前なら、相手の動きを見ようとして止まっていたかもしれない。

 今日は違う。

 

 追わない。

 

 けれど、待ちもしない。

 ジャブを置く。

 相手を動かす。

 距離を変えさせる。

 

 一分。

 

 まだ大きな有効打はない。

 相手が左へ。

 細かく二歩。

 すずらんは中央を取る。

 

 次は右。

 一歩目が大きい。

 貴明は何も言わなかった。

 

 すずらんも見ている。

 相手が右へ抜ける、その前。

 左。

 進路へジャブを置く。

 

 相手が止まった。

 

 ほんの一瞬。

 

 すずらんの右。

 頬へ入る。

 

「よし」

 

 貴明が短く言った。

 

 すずらんは無理に追わない。

 

 中央へ戻る。

 

 相手の動きが少し変わった。

 右へ抜けるたびに、わずかな迷いが出る。

 

「効いてますね」

 コハクが言う。

「ああ」

 

 貴明が効いていると感じたのは、拳のダメージだけではなかった。今まで自由に使っていた逃げ道の一つを意識させただけで、相手の選択肢は狭くなる。

 

 三ラウンド目。

 

 相手も修正してきた。右へ抜けるように見せて左へ動き、ジャブから急に前へ出る。すずらんも何発かもらった。ここまで勝ち残った相手に、一つの癖だけで最後まで通用するとは貴明も思っていなかった。

 

 残り三十秒。

 

 ポイントは、おそらく僅差。貴明にもどちらが取っているか断言できなかった。

 相手がジャブ。

 すずらんがガード。

 相手は離れる。

 

 右へ。

 

 今度は一歩が小さい。

 もう修正している。

 

「すずらん」

「はい」

 

 短く返事が返る。

 

 貴明も一言だけ送った。

 

「中央」

「了解」

 

 すずらんは追うのをやめた。

 

 リング中央へ戻る。

 

 相手は残り時間を意識したのか、今度は自分から入ってきた。

 ジャブ。

 右。

 すずらんが左へ外す。

 

 左フック。

 

 クリーン。

 

 直後に終了音が鳴った。

 

「そこまで!」

 

 両者が離れる。

 

 そこで初めて、貴明は息を吐いた。

 

『判定――二対一』

 

 一瞬、間が空いた。

 

『青コーナー、すずらん選手』

 

 すずらんが小さく息を吐く。派手には喜ばない。ただ、グローブを一度だけ握った。

 

「ありがとうございました」

 

 相手と拳を合わせ、リングを降りる。

 

「ベスト8」

 貴明が言った。

「はい」

「最後よかった」

「中央?」

「それも」

「何です?」

「自分から来させたところ」

「マスターが言ったんですけど」

「実際にやったのはお前だろ」

 

 すずらんは少しだけ笑った。

 

「そうですね」

 

     ◇

 

 次はすみれのベスト8決定戦だ。貴明は約束通り、次の相手の試合映像をすみれと一試合だけ確認した。先ほどの試合からの休息と役員による再検査を終え、すみれも出場許可を受けている。グローブは朝の封印を維持したままだった。

 よく動く。手数も多い。ただ、ハルのようにフットワークそのものを主軸にしているわけではない。動きながら、拳もかなり出してくる。

 

「どう思う?」

 貴明が聞いた。

「忙しそうです」

「そこ?」

「私が、です」

「ああ」

「相手に合わせてたら、たぶんずっと後手になります」

 

 貴明は少し驚いた。

 

「分かってるじゃん」

「ハルさんとずっと練習しましたから」

 

 すみれは画面を見たまま言う。

 

「自分のテンポでやります」

「それがいい」

「あと何か?」

「一つだけ」

「はい」

「連打の最後、右で終わることが多い」

「その後?」

「一回止まる」

「分かりました」

 

 すみれが立ち上がった。

 

「じゃあ行ってきます」

「うん」

 

 すみれの試合は、最初から忙しかった。

 

 相手が来る。

 ジャブ。

 右。

 左。

 

 離れる。

 

 また来る。

 すみれは最初、ガードで受けた。

 返す。

 

 そして、一度きれいな構えへ戻ろうとして――

 

 相手がもう次に来た。

 

「すみれ、戻りすぎ」

「はい」

 

 次。

 

 ワンツー。

 すみれが右。

 

 今度は完全には戻らない。

 

 そのまま横へ。

 

 相手の返しが空を切る。

 ジャブ。

 

「それ」

 

 貴明の指示も短い。

 

 すみれが続ける。

 

 相手のテンポには付き合わない。

 自分からジャブを置く。

 ワンツー。

 

 横へ。

 

 相手が追う。

 ガード。

 また位置を変える。

 

 派手な展開ではない。

 

 それでも、少しずつすみれの距離になっていく。

 

 二ラウンド目後半。

 相手が四発の連打。

 最後は右。

 

 そこで止まった。

 

 貴明が声を出すより早く、すみれが入る。

 左。

 右。

 きれいなワンツー。

 

 相手の姿勢が崩れた。

 

 追わない。

 

 半歩離れる。

 

「……今の」

 貴明が呟く。

「見えてましたね」

 コハクが言った。

「ああ」

 

 相手が右で止まりやすいと伝えたのは貴明だ。けれど、その瞬間を選んで拳を出したのはすみれ自身だった。セコンドと選手の役割の違いを、貴明は以前よりはっきり意識するようになっていた。

 

 判定は三対〇。

 

『赤コーナー、すみれ選手』

 

 ベスト8進出。

 

「やりました」

 

 リングを降りたすみれが、珍しく少し大きく笑った。

 

「おめでとう」

「ありがとうございます」

「最後の右の後――」

「分かりました」

「何も言ってないけど」

「そこ言いたいんですよね?」

「……はい」

「後で聞きます」

 貴明は苦笑した。

 

     ◇

 

 二人ともベスト8へ進んだ。ここから先は、トーナメント表に残る名前の顔ぶれが変わる。全国大会の常連やランキング上位経験者など、戦績や大会実績を見れば貴明にも覚えのある選手が増えていた。

 

「ここからですね」

 コハクが言った。

「何が?」

 すみれが尋ねる。

「本当に上の選手」

 

 近くにいた高城もトーナメント表を見る。

 

「春季オープンでベスト8なら十分立派だ」

 

 そこで少し間を置いた。

 

「でも、ここから先は『調子が良ければ勝てる』だけじゃ足りなくなってくる」

 

 すずらんが自分の次の組み合わせを見る。

 

「次」

「強いぞ」

 高城が答えた。

「二人とも」

 

 先に行われるのは、すみれの準々決勝だった。次戦前の休息と競技役員による状態・装備の再検査を済ませ、封印を確認されたうえでリングへ向かう。

 相手はフブキ型。派手さはなく、ガード、ジャブ、足運びを基本どおりに組み合わせ、必要以上に手を出さない。すみれに少し似た戦い方だったが、貴明には明確な違いが一つ見えていた。

 

「タイミングずらしてますね」

 コハクが言った。

「うん」

 

 貴明にも分かった。ジャブから右へつなぐ間隔が一定ではない。半拍で右を出したかと思えば、次は一拍半置いて打つ。ほんのわずかな違いだが、すみれはリズムを捉えようとするたび、そのタイミングをずらされていた。

 

 第一ラウンドは僅差。

 

 二ラウンド目。

 少しずつ、すみれの反応が遅れ始めた。

 相手のジャブ。

 すみれが合わせてガード。

 

 次の右を待つ。

 来ない。

 

 一瞬遅れて。

 右。

 

「っ」

 

 頬へ入る。

 

 すみれがすぐに返す。

 

 だが、相手はもうそこにいない。

 

「嫌な相手だな」

 貴明が呟いた。

 

 二ラウンド目が終わり、すみれがコーナーへ戻った。

 

「すみれ」

「はい」

「リズム読まなくていい」

「でも」

「相手、わざと変えてる」

 

 すみれが少し黙る。

 

「……はい」

「来たものだけ処理する。自分のジャブ優先」

「分かりました」

 

 すみれはCoolantを一口取った。貴明の頭には、まだいくつか言いたいことがあった。それでも、止める。

 

 伝えるべきことは一つに絞った。

 

「右を待たない」

 すみれが頷いた。

 

 三ラウンド目。

 すみれは修正した。

 

 相手のリズムを追わない。

 自分からジャブ。

 横へ。

 右。

 

 またジャブ。

 動きは明らかに良くなった。

 クリーンヒットも増える。

 

 それでも、相手は崩れない。

 

 残り十秒。

 

 すみれが前へ。

 

 相手も応じる。

 ジャブ。

 右。

 すみれの左。

 

 相手の右。

 ほぼ同時。

 

 終了音。

 

「そこまで!」

 

 すみれがゆっくり構えを下ろした。貴明には何となく分かった。大きな差ではない。それでも、おそらく足りない。

 

『判定、二対一』

 

 会場音声が続く。

 

『青コーナー――』

 

 相手の名前が呼ばれた。すみれが一瞬だけ目を伏せる。すぐに顔を上げた。

 

「ありがとうございました」

 

 相手とグローブを合わせ、リングを降りてくる。

 

「お疲れ」

 貴明が言った。

「はい」

「状態は?」

「大丈夫です」

 

 コハクも端末を確認する。

 

「負荷も問題ありません」

 

 すみれが小さく息を吐いた。

 

「……また同じところで貰いました」

「二ラウンド?」

「はい」

「でも、三ラウンド目は直せてた」

「直すのが遅かったです」

 

 貴明は少し迷った。ここで励ますべきなのか。それとも、すみれが言う通り試合の話をするべきなのか。

 

 先に口を開いたのは、すみれだった。

 

「あとで映像見ましょう」

「ああ」

「今日はちゃんと全部聞きますから」

「長くなるぞ」

「覚悟してます」

 

 すみれは少しだけ、いつもの笑顔に戻った。その春季オープンは、ベスト8で終わった。役員による試合後の状態確認を受けても、グローブの封印はまだ維持されたままだった。

 

     ◇

 

 それから約一時間後、すずらんの準々決勝が始まろうとしていた。試合間の休息と再検査を経て、機体と封印に問題がないことを確認され、次戦の出場許可も下りている。

 相手はアーンヴァルMk.2。同系統のモデルだが、戦い方は違った。長い距離を保ち、ジャブを主体に、相手が踏み込めばすぐに下がる。正統派のアウトボクサーだった。

 

「嫌ですか?」

 コハクが聞く。

「別に」

 

 すずらんは答える。

 

「追いかけるの好きじゃないですけど」

「じゃあ追わなければいい」

 貴明が言った。

「向こうも待つと思いますけど」

「なら中央取って待てばいい」

「試合動きませんよ」

「相手の方が先に困る」

 

 すずらんが少し考えた。

 

「確かに」

「ポイント負けてないなら、無理して追う必要ない」

「分かりました」

 

 静かな試合になった。

 相手がジャブ。

 すずらんもジャブ。

 互いに距離を測る。

 

 一ラウンド。

 大きな差はない。

 

 二ラウンド。

 相手が少し手数を増やす。

 

 それでも、すずらんは追わない。

 

 ただ待つだけでもない。

 相手が戻る場所へジャブを置く。

 一発。

 

 二発。

 そこから右。

 当たる。

 相手が離れる。

 

 すずらんはまた中央へ。

 

「根比べですね」

 コハクが言う。

「すずらんはこういうの嫌いじゃない」

 貴明が答えた。

「そうなんですか?」

「待つの得意だから」

 

 ただし以前のように相手の動きを待つだけではない。自分からジャブで動かし、その反応を見ている。

 

 三ラウンド目。

 

 先に相手が焦れた。

 

 前へ。

 

 ワンツー。

 すずらんが右へ外す。

 左。

 ボディ。

 

 相手が止まった。

 

 右ストレート。

 きれいに入る。

 

『青コーナー、すずらん選手』

 

 判定勝ち。ベスト4。貴明は少し強く息を吐いた。

 

「自己最高?」

 

 リングを降りてきたすずらんへ聞く。

 

「春季オープンでは」

「大規模大会なら?」

「前のベスト8を超えました」

「じゃあ自己最高だな」

「はい」

 

 すずらんは大きく表情を変えなかったが、口元がわずかに緩んでいた。貴明にはそれで十分だった。

 

「おめでとうございます」

 

 すみれが迎えた。

 

「ありがとうございます」

「次ですね」

「はい」

「勝ってください」

「簡単に言いますね」

「私の分も」

 

 すずらんが少し黙る。

 

「……頑張ります」

 

     ◇

 

 すずらんの準決勝。組み合わせにある相手の名前を見て、高城が少し表情を変えた。

 

「この子か」

「知ってるんですか?」

 貴明が聞く。

「知ってる。全国上位によくいる」

 

 相手はストラーフMk.2型。ただしクロスロードのクロエとは別の選手だ。戦績は五十戦を超え、大規模大会での優勝経験もある。

 現在のすずらんより、明確に格上だった。

 

「映像は?」

 すずらんが聞く。

「ある」

「見ます?」

 

 貴明は少し考えた。

 

「いや」

 

 自分で答えてから、少しだけ意外に思う。

 

「見ないんですか?」

 

 すみれも驚いた。

 

「今から一試合見てどうにかなる相手じゃない」

 

 すずらんが貴明を見る。

 

「じゃあ?」

「今まで通り」

「それだけ?」

「それだけ」

 

 少し間を置く。

 

「見る。ジャブ置く。相手に時間全部渡さない」

「……分かりました」

「あと」

 

 貴明は端末で肩、脚、腰の蓄積負荷を確かめた。すべてまだ許容範囲にあるが、一日でこなした試合数を考えれば、疲労は確実に溜まっている。競技役員の再検査でも出場が認められており、封印状態にも問題はなかった。それでも、無理をさせていい理由にはならない。

 

「無理しない」

「準決勝ですよ」

「準決勝でも」

「……はい」

「安全停止より先に俺が止めることもあるから」

 

 すずらんは一瞬だけ不満そうな顔をした。

 

「分かってます」

 

 開始から十秒。

 

 それだけで違いが分かった。

 

「速い」

 コハクが呟く。

「うん」

 

 速いだけではない。

 

 判断が早い。

 すずらんがジャブを置く。

 相手はガード。

 そのまま踏み込んで右。

 

 すずらんが外す。

 そこへ左ボディ。

 避け切れない。

 

「っ」

 

 すずらんが下がる。

 相手は追わない。

 

 一度止まった。

 

 すずらんが見る。

 

 その瞬間。

 

 また来る。

 

「クロエより――」

 

 貴明が言いかける。

 

「違いますね」

 

 コハクが続けた。

 

 クロエは圧力をかけ続け、相手から考える時間を奪う。だが、この選手はすずらんの狙いを見て、その一歩前に拳を置いてくる。似たモデルでも、戦い方は違っていた。

 

 一ラウンドが終わり、すずらんがコーナーへ戻ってきた。

 

「どう?」

「嫌です」

 

 珍しく即答だった。

 

「何しても一つ早いです」

「俺もそう見える」

「どうします?」

 

 貴明には気になることがいくつもあった。ジャブ、右、ボディ、踏み込み、こちらの動きを見るタイミング。全部説明することもできる。けれど、今必要なのは一つだけだった。

 

「勝とうとしすぎなくていい」

 

 すずらんが目を上げる。

 

「……どういう意味です?」

「一発で流れ変えようとしない」

「はい」

「まずジャブ一個当てるところから」

 

 少し間を置く。

 

「それでいい」

 すずらんが頷いた。

「分かりました」

 

 二ラウンド目。

 すずらんは変えた。

 

 大きなカウンターを狙わない。

 

 一発。

 ジャブ。

 外れる。

 

 もう一発。

 当たる。

 相手が右。

 ガード。

 

 離れる。

 またジャブ。

 一つ。

 

 一つ。

 

 小さく積む。

 相手の攻撃ももらう。

 

 それでも、一ラウンド目よりはいい。

 中盤。

 相手が右。

 すずらんが外へ。

 

 左ジャブ。

 

 クリーン。

 

「いい!」

 

 貴明が思わず声を上げた。

 

 すずらんが続ける。

 右。

 相手がガード。

 左ボディ。

 

 入る。

 

 初めて、明確にすずらんが流れを取った。

 

 数秒だけ。

 

 それでも、確かに取った。

 

 だが相手もすぐに戻す。

 ジャブ。

 踏み込み。

 右。

 

 すずらんのガードを叩く。

 そこからボディ。

 また距離を取らされる。

 

「強いな」

 

 貴明は小さく言った。

 

 三ラウンド目。

 

 すずらんにも疲労が見え始めた。踏み込みが少し浅くなり、左肩の温度は上昇、脚部出力も開始時より落ちている。相手にも疲れは見えるが、それでも差は縮まり切らなかった。

 

「残り三十!」

 

 場内表示。

 

 すずらんが前へ出る。

 ジャブ。

 相手が外す。

 右。

 

 ガード。

 すずらんは左へ。

 ボディ。

 

 入る。

 

 もう一発。

 その前に、相手の右。

 

 先に当たった。

 

 すずらんの姿勢が崩れる。

 

「すずらん!」

「大丈夫です」

 

 即答。

 

 貴明は端末を確認する。姿勢制御に異常はなく、状態表示も安全域だった。続行はできる。

 

 残り十秒。

 

 すずらんがもう一度入る。

 ジャブ。

 右。

 相手も返す。

 

 拳が交差する。

 

「そこまで!」

 

 終了。

 

 すずらんが構えを解いた。

 

 その場で一度、小さく息を吐く。

 

『判定、三対〇』

 

 結果は明確だった。相手選手の名前が呼ばれる。すずらんはしばらく前を向いていた。

 

 それから相手へ向き直る。

 

「ありがとうございました」

 

 グローブを合わせる。

 

「また」

 相手が言った。

「はい」

 

 短い返事だった。リングを降りると、貴明が待っている。

 

「お疲れ」

「……はい」

「状態見るぞ」

「大丈夫です」

「先に見る」

「はい」

 

 貴明は端末とすずらん本人の状態を順に確認した。左肩の負荷は高く、脚部にも疲労が溜まっているが、損傷はなく、姿勢制御とセンサーにも異常はない。

 

「無損傷。疲労だけ」

「そうですか」

「今日はもう終わり」

「分かってます」

 

 すずらんは少し俯いた。悔しいのだろう。貴明には分かる。

 たぶん、頭の中ではもう試合をやり直している。どこで遅れたのか。どこなら返せたのか。

 何を変えればよかったのか。自分も同じことをするから、よく分かった。

 

「すずらん」

「はい」

「今日は映像見ないぞ」

 

 顔が上がった。

 

「……まだ何も言ってませんけど」

「見る顔してる」

「そんな顔あります?」

「ある」

「マスターもする顔ですよ」

「俺はいいんだよ」

「よくないと思います」

 横からすみれが言った。

「私もそう思います」

「今は俺の話じゃない」

「逃げましたね」

 

 それでも、すずらんの表情が少しだけ緩んだ。

 

     ◇

 

 春季オープンの結果は、すずらんがベスト4、すみれがベスト8となった。

 クロスロードへ移ってから最初の公式大会としては、十分すぎる結果だった。それでも三人には、勝った試合にも直したいところが残っている。

 負けた試合ならなおさらだ。貴明は、そうやって次の課題を考えられること自体は悪くないと思った。

 すべての試合を終えた後、公式スタッフが二人のグローブの封印を確認した。問題がないと認められ、解除の許可が下りる。

 

 三人はクロスロードの待機区画へ戻った。封印を外せる状態になって、ようやく貴明が二人のグローブを外す番だった。

 

「座って」

 

 貴明が言う。最初はすみれ。

 

「自分で外せますよ?」

「知ってる」

「スタッフさんでも」

「知ってるって」

 

 貴明はすみれの左手を取り、封印済みのテープを端から丁寧に剥がしていった。一周、二周と外して手首の固定を解き、グローブを外す。

 

「痛いところは?」

「ないです」

「手首?」

「大丈夫」

「肘」

「平気です」

 

 右も同じように外す。

 

「お疲れ」

「はい」

 

 すみれは素手になった両手を何度か開いて閉じた。

 

「負けましたけど」

「うん」

「楽しかったです」

「ならいい」

「次は勝ちたいですけど」

「それも知ってる」

 すみれが笑った。

 

 次はすずらん。貴明の前へ座る。

 

「左から」

「はい」

 

 貴明はすみれの時より時間をかけてテープを剥がした。今日の試合数が多く、左肩にも負荷が残っている。手首周りにも異常がないか、確かめながら外していく。

 

「痛くない?」

「重いだけです」

「帰ったらクレイドル直行」

「夕飯は?」

「その後」

「映像は?」

「明日」

「……はい」

 

 少し不満そうだった。左のグローブを外す。続いて右。

 最後のテープが外れると、すずらんが両手を開いた。

 

「お疲れ」

「はい」

 

 数秒、黙る。

 

「マスター」

「何?」

「ベスト4でした」

「うん」

「前より上です」

「うん」

「でも」

「負けた」

「はい」

 

 貴明は外したグローブをケースへしまった。

 

「じゃあ次は、その先だな」

 

 すずらんがこちらを見る。

 

「簡単に言いますね」

「難しいって言ったら勝てる?」

「勝てません」

「なら同じだろ」

 

 少し間があった。

 

「……そうですね」

「篠原君」

 

 高城がやってきた。

 

「はい」

「二人とも、よくやった」

「ありがとうございます」

 

 高城はまず、すずらんを見る。

 

「すずらん」

「はい」

「今日の準決勝」

 

 すずらんが少し身構えた。

 

「明日までは考えるな」

「高城さんまで」

「明日になったら、いくらでも考えろ」

「……分かりました」

「すみれも」

「はい」

「三ラウンド目の修正、良かったぞ」

「でも遅かったです」

「それが分かったなら、次はもっと早く直せる」

「はい」

 

 最後に、高城は貴明を見る。

 

「お前も」

「俺?」

「前よりセコンドらしくなってた」

「前っていつですか」

「ジム来た頃」

「試合見てないでしょう」

「普段見てれば分かる」

「そういうものですか」

「そういうもんだ」

 

 高城は笑った。貴明にはまだ、セコンドとして何が正解なのか分からない。それでも、気づいたことを全部伝えようとしなくなったのは確かだ。少なくとも、その変化は自分でも感じていた。

 

     ◇

 

 帰りの電車では、二人ともケースには入らず、神姫用乗車スペースに並んで座っていた。さすがに疲れているらしく、普段より動きが少なかった。

 すみれは背もたれへ身体を預け、すずらんは窓の外を眺めている。貴明はその近くに立っていた。

 

「今日、飛んで帰るって言ったら止めます?」

 すみれが聞いた。

「当たり前」

「冗談です」

「今のお前ら飛んだら、高城さんに怒られるぞ」

「コハクさんにも」

「俺にも」

 

 すずらんが窓を見たまま言った。

 

「三人ですね」

「だから?」

「多いなと思って」

 

 すみれが笑う。

 

「前はマスターだけでしたからね」

 

 すずらんが少しだけ振り返った。貴明はすぐには答えなかった。地元にいた頃は、基本的に三人で練習し、映像を見て、必要な時だけ外のジムを利用していた。

 それでも二人は強くなった。けれど、クロスロードに来てからは違う。コハクや高城、蓮に加え、クロエ、美咲、ハルもいる。

 指導してくれる人も、練習に付き合ってくれる相手もいる。

 自分たちでは気づけないところを見つけ、やりすぎた時には止めてくれる。そんな相手が増えた。

 

「悪くないだろ」

 貴明が言った。

「何がです?」

「三人くらいに怒られるのも」

「マスターはもっと怒られた方がいいと思います」

 

 すみれが即答する。

 

「同感です」

 

 すずらんも続いた。

 

「何で俺の話になるんだよ」

 二人が笑った。

 

     ◇

 

 帰宅すると、貴明はまずすずらんとすみれをクレイドルへ入れ、状態を確認した。

 損傷はないが蓄積疲労は残っており、明日は完全休養だ。

 診断結果を最後まで確認した貴明は、デスクトップPCの電源へ手を伸ばした。

 

「マスター」

 

 すみれの声。手が止まる。

 

「……試合映像じゃない」

「何するんです?」

「今日のファイルコピーだけ」

「本当に?」

「本当に」

 

 今度はすずらん。

 

「コピーしたら?」

「消す」

「PCを?」

「落とすって意味」

「確認しますよ」

「信用ないな」

「今日のマスターにはありません」

「何で」

「私達に休めって言ったので」

 

 貴明は少し考えた。自分だけ例外というのも、たしかにおかしい。

 

「……分かった」

 

 PCを起動し、大会端末から今日の映像とログをコピーする。保存先のフォルダ名は、

 

『春季オープン』

 

 その下に、

 

『すずらん』

『すみれ』

 

 二つのフォルダを作った。ファイル転送が完了すると、貴明は一度だけフォルダを開きかけ、そこで手を止めた。

 

 そのままフォルダを閉じ、PCをシャットダウンする。

 

「消しました?」

「落とした」

「よろしいです」

 

 すみれが満足そうに言う。すずらんも目を閉じた。

 

「おやすみなさい、マスター」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 

 部屋が静かになった。すずらんのベスト4と、すみれのベスト8。

 数字だけを見ればそれが今日の結果だ。だが、その数字に至るまでには地元を離れ、新しいジムへ通い始めてからの時間があった。

 今までとは違う相手と練習し、違う教え方を受けてきた。

 

 すずらんとすみれは少しずつ戦い方を変え、貴明もリングの外から何をすべきか学び始めた。その積み重ねが、クロスロードへ移って初めての公式大会の結果として残った。

 

 同時に、まだ上がいることもはっきり分かった。貴明は電源の落ちたモニターを見る。

 明日は休む。映像を見るのは、その次でいい。今は、今日戦った二人を休ませる。

 自分も休む。競技を続けるためには、それも必要なのだと貴明は思った。

 

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