映像は一度だけ。貴明はそう決めて、すずらんの次の対戦相手の試合映像を再生した。画面の中では、赤いウェアを着たエウクランテ型がリングを大きく使っている。
左へ。右へ。前へ出たと思えば、すぐに離れる。
飛行能力を持つ型式ではあるが、当然ボクシングのリングに翼もブースターも持ち込めない。それでも動きは軽快だった。単純に素体の運動性能が高いだけではない。足の使い方が上手い。
「……速いですね」
横からすみれが言った。
「お前の相手も速いけどな」
「今はすずらんの方です」
当のすずらんは画面を見ていなかった。椅子に腰掛け、封印された競技用グローブを膝の上へ置くような姿勢で身体を休めている。
「マスター」
「うん」
「一つだけでいいです」
「分かってる」
貴明は映像を進める。一ラウンド。二ラウンド。
全部を細かく追うのではなく、相手の動きがよく分かるところだけを見る。リングを広く使い、正面には長く残らない。左右どちらにも動く。
ただ、その中に一つだけ違いがあった。
「これだな」
貴明が動画を止めた。
「決まりました?」
「ああ」
すずらんが顔を上げる。
「何です?」
「こいつ、右へ抜ける時だけ最初の一歩が大きい」
「右?」
「うん。左へ行く時は細かく二歩。右は最初の一歩で一気に距離を取ろうとする」
すずらんが少し考えた。
「追いつける?」
「追う必要ない」
「じゃあ?」
「右へ行く前に置く」
一瞬、すずらんの目つきが変わった。
「分かりました」
「それだけ」
「はい」
貴明は本当にそこで動画を閉じた。以前なら、ジャブの頻度や右ストレートを出すタイミング、ラウンドごとの移動方向まで説明していただろう。映像から拾えるものは今もいくらでもある。
けれど、すべては言わない。リングの中で相手を見るのは、すずらんだからだ。
◇
「第二リング、ベスト8決定戦。すずらん選手、入場準備をお願いします」
呼び出しが入った。先ほどの試合後の休息を経て、すずらんは競技役員による機体・装備の再検査を受け、封印も問題ないことを確認されている。次戦の出場許可は下りていた。
貴明が立つ。
「行こう」
「はい」
すみれが手を上げた。
「頑張ってください」
「行ってきます」
すずらんはいつも通り短く答えた。ただ、立ち上がったところで一度だけ左肩を回す。貴明はそれを見逃さなかった。
「左肩?」
「問題ありません」
「重い?」
「さっきよりは」
「それを問題あるって言うんじゃないの?」
「動かす分には問題ないです」
貴明はセコンド用端末で状態を確認した。左肩アクチュエータの負荷値は、朝より確実に上がっている。それでも競技安全基準には十分な余裕があり、左右の出力差も出ていない。
「分かった。でも変だったら言え」
「はい」
すずらんはリングへ向かった。
リングへ上がった相手は、予想通りよく動いた。
開始直後。
すずらんがジャブ。
触れる前に相手が離れる。
もう一発。
今度は逆方向。
「速いな」
貴明が呟く。
隣でコハクが頷いた。
「でも、すずらんさんも追ってません」
「うん」
以前なら、相手の動きを見ようとして止まっていたかもしれない。
今日は違う。
追わない。
けれど、待ちもしない。
ジャブを置く。
相手を動かす。
距離を変えさせる。
一分。
まだ大きな有効打はない。
相手が左へ。
細かく二歩。
すずらんは中央を取る。
次は右。
一歩目が大きい。
貴明は何も言わなかった。
すずらんも見ている。
相手が右へ抜ける、その前。
左。
進路へジャブを置く。
相手が止まった。
ほんの一瞬。
すずらんの右。
頬へ入る。
「よし」
貴明が短く言った。
すずらんは無理に追わない。
中央へ戻る。
相手の動きが少し変わった。
右へ抜けるたびに、わずかな迷いが出る。
「効いてますね」
コハクが言う。
「ああ」
貴明が効いていると感じたのは、拳のダメージだけではなかった。今まで自由に使っていた逃げ道の一つを意識させただけで、相手の選択肢は狭くなる。
三ラウンド目。
相手も修正してきた。右へ抜けるように見せて左へ動き、ジャブから急に前へ出る。すずらんも何発かもらった。ここまで勝ち残った相手に、一つの癖だけで最後まで通用するとは貴明も思っていなかった。
残り三十秒。
ポイントは、おそらく僅差。貴明にもどちらが取っているか断言できなかった。
相手がジャブ。
すずらんがガード。
相手は離れる。
右へ。
今度は一歩が小さい。
もう修正している。
「すずらん」
「はい」
短く返事が返る。
貴明も一言だけ送った。
「中央」
「了解」
すずらんは追うのをやめた。
リング中央へ戻る。
相手は残り時間を意識したのか、今度は自分から入ってきた。
ジャブ。
右。
すずらんが左へ外す。
左フック。
クリーン。
直後に終了音が鳴った。
「そこまで!」
両者が離れる。
そこで初めて、貴明は息を吐いた。
『判定――二対一』
一瞬、間が空いた。
『青コーナー、すずらん選手』
すずらんが小さく息を吐く。派手には喜ばない。ただ、グローブを一度だけ握った。
「ありがとうございました」
相手と拳を合わせ、リングを降りる。
「ベスト8」
貴明が言った。
「はい」
「最後よかった」
「中央?」
「それも」
「何です?」
「自分から来させたところ」
「マスターが言ったんですけど」
「実際にやったのはお前だろ」
すずらんは少しだけ笑った。
「そうですね」
◇
次はすみれのベスト8決定戦だ。貴明は約束通り、次の相手の試合映像をすみれと一試合だけ確認した。先ほどの試合からの休息と役員による再検査を終え、すみれも出場許可を受けている。グローブは朝の封印を維持したままだった。
よく動く。手数も多い。ただ、ハルのようにフットワークそのものを主軸にしているわけではない。動きながら、拳もかなり出してくる。
「どう思う?」
貴明が聞いた。
「忙しそうです」
「そこ?」
「私が、です」
「ああ」
「相手に合わせてたら、たぶんずっと後手になります」
貴明は少し驚いた。
「分かってるじゃん」
「ハルさんとずっと練習しましたから」
すみれは画面を見たまま言う。
「自分のテンポでやります」
「それがいい」
「あと何か?」
「一つだけ」
「はい」
「連打の最後、右で終わることが多い」
「その後?」
「一回止まる」
「分かりました」
すみれが立ち上がった。
「じゃあ行ってきます」
「うん」
すみれの試合は、最初から忙しかった。
相手が来る。
ジャブ。
右。
左。
離れる。
また来る。
すみれは最初、ガードで受けた。
返す。
そして、一度きれいな構えへ戻ろうとして――
相手がもう次に来た。
「すみれ、戻りすぎ」
「はい」
次。
ワンツー。
すみれが右。
今度は完全には戻らない。
そのまま横へ。
相手の返しが空を切る。
ジャブ。
「それ」
貴明の指示も短い。
すみれが続ける。
相手のテンポには付き合わない。
自分からジャブを置く。
ワンツー。
横へ。
相手が追う。
ガード。
また位置を変える。
派手な展開ではない。
それでも、少しずつすみれの距離になっていく。
二ラウンド目後半。
相手が四発の連打。
最後は右。
そこで止まった。
貴明が声を出すより早く、すみれが入る。
左。
右。
きれいなワンツー。
相手の姿勢が崩れた。
追わない。
半歩離れる。
「……今の」
貴明が呟く。
「見えてましたね」
コハクが言った。
「ああ」
相手が右で止まりやすいと伝えたのは貴明だ。けれど、その瞬間を選んで拳を出したのはすみれ自身だった。セコンドと選手の役割の違いを、貴明は以前よりはっきり意識するようになっていた。
判定は三対〇。
『赤コーナー、すみれ選手』
ベスト8進出。
「やりました」
リングを降りたすみれが、珍しく少し大きく笑った。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「最後の右の後――」
「分かりました」
「何も言ってないけど」
「そこ言いたいんですよね?」
「……はい」
「後で聞きます」
貴明は苦笑した。
◇
二人ともベスト8へ進んだ。ここから先は、トーナメント表に残る名前の顔ぶれが変わる。全国大会の常連やランキング上位経験者など、戦績や大会実績を見れば貴明にも覚えのある選手が増えていた。
「ここからですね」
コハクが言った。
「何が?」
すみれが尋ねる。
「本当に上の選手」
近くにいた高城もトーナメント表を見る。
「春季オープンでベスト8なら十分立派だ」
そこで少し間を置いた。
「でも、ここから先は『調子が良ければ勝てる』だけじゃ足りなくなってくる」
すずらんが自分の次の組み合わせを見る。
「次」
「強いぞ」
高城が答えた。
「二人とも」
先に行われるのは、すみれの準々決勝だった。次戦前の休息と競技役員による状態・装備の再検査を済ませ、封印を確認されたうえでリングへ向かう。
相手はフブキ型。派手さはなく、ガード、ジャブ、足運びを基本どおりに組み合わせ、必要以上に手を出さない。すみれに少し似た戦い方だったが、貴明には明確な違いが一つ見えていた。
「タイミングずらしてますね」
コハクが言った。
「うん」
貴明にも分かった。ジャブから右へつなぐ間隔が一定ではない。半拍で右を出したかと思えば、次は一拍半置いて打つ。ほんのわずかな違いだが、すみれはリズムを捉えようとするたび、そのタイミングをずらされていた。
第一ラウンドは僅差。
二ラウンド目。
少しずつ、すみれの反応が遅れ始めた。
相手のジャブ。
すみれが合わせてガード。
次の右を待つ。
来ない。
一瞬遅れて。
右。
「っ」
頬へ入る。
すみれがすぐに返す。
だが、相手はもうそこにいない。
「嫌な相手だな」
貴明が呟いた。
二ラウンド目が終わり、すみれがコーナーへ戻った。
「すみれ」
「はい」
「リズム読まなくていい」
「でも」
「相手、わざと変えてる」
すみれが少し黙る。
「……はい」
「来たものだけ処理する。自分のジャブ優先」
「分かりました」
すみれはCoolantを一口取った。貴明の頭には、まだいくつか言いたいことがあった。それでも、止める。
伝えるべきことは一つに絞った。
「右を待たない」
すみれが頷いた。
三ラウンド目。
すみれは修正した。
相手のリズムを追わない。
自分からジャブ。
横へ。
右。
またジャブ。
動きは明らかに良くなった。
クリーンヒットも増える。
それでも、相手は崩れない。
残り十秒。
すみれが前へ。
相手も応じる。
ジャブ。
右。
すみれの左。
相手の右。
ほぼ同時。
終了音。
「そこまで!」
すみれがゆっくり構えを下ろした。貴明には何となく分かった。大きな差ではない。それでも、おそらく足りない。
『判定、二対一』
会場音声が続く。
『青コーナー――』
相手の名前が呼ばれた。すみれが一瞬だけ目を伏せる。すぐに顔を上げた。
「ありがとうございました」
相手とグローブを合わせ、リングを降りてくる。
「お疲れ」
貴明が言った。
「はい」
「状態は?」
「大丈夫です」
コハクも端末を確認する。
「負荷も問題ありません」
すみれが小さく息を吐いた。
「……また同じところで貰いました」
「二ラウンド?」
「はい」
「でも、三ラウンド目は直せてた」
「直すのが遅かったです」
貴明は少し迷った。ここで励ますべきなのか。それとも、すみれが言う通り試合の話をするべきなのか。
先に口を開いたのは、すみれだった。
「あとで映像見ましょう」
「ああ」
「今日はちゃんと全部聞きますから」
「長くなるぞ」
「覚悟してます」
すみれは少しだけ、いつもの笑顔に戻った。その春季オープンは、ベスト8で終わった。役員による試合後の状態確認を受けても、グローブの封印はまだ維持されたままだった。
◇
それから約一時間後、すずらんの準々決勝が始まろうとしていた。試合間の休息と再検査を経て、機体と封印に問題がないことを確認され、次戦の出場許可も下りている。
相手はアーンヴァルMk.2。同系統のモデルだが、戦い方は違った。長い距離を保ち、ジャブを主体に、相手が踏み込めばすぐに下がる。正統派のアウトボクサーだった。
「嫌ですか?」
コハクが聞く。
「別に」
すずらんは答える。
「追いかけるの好きじゃないですけど」
「じゃあ追わなければいい」
貴明が言った。
「向こうも待つと思いますけど」
「なら中央取って待てばいい」
「試合動きませんよ」
「相手の方が先に困る」
すずらんが少し考えた。
「確かに」
「ポイント負けてないなら、無理して追う必要ない」
「分かりました」
静かな試合になった。
相手がジャブ。
すずらんもジャブ。
互いに距離を測る。
一ラウンド。
大きな差はない。
二ラウンド。
相手が少し手数を増やす。
それでも、すずらんは追わない。
ただ待つだけでもない。
相手が戻る場所へジャブを置く。
一発。
二発。
そこから右。
当たる。
相手が離れる。
すずらんはまた中央へ。
「根比べですね」
コハクが言う。
「すずらんはこういうの嫌いじゃない」
貴明が答えた。
「そうなんですか?」
「待つの得意だから」
ただし以前のように相手の動きを待つだけではない。自分からジャブで動かし、その反応を見ている。
三ラウンド目。
先に相手が焦れた。
前へ。
ワンツー。
すずらんが右へ外す。
左。
ボディ。
相手が止まった。
右ストレート。
きれいに入る。
『青コーナー、すずらん選手』
判定勝ち。ベスト4。貴明は少し強く息を吐いた。
「自己最高?」
リングを降りてきたすずらんへ聞く。
「春季オープンでは」
「大規模大会なら?」
「前のベスト8を超えました」
「じゃあ自己最高だな」
「はい」
すずらんは大きく表情を変えなかったが、口元がわずかに緩んでいた。貴明にはそれで十分だった。
「おめでとうございます」
すみれが迎えた。
「ありがとうございます」
「次ですね」
「はい」
「勝ってください」
「簡単に言いますね」
「私の分も」
すずらんが少し黙る。
「……頑張ります」
◇
すずらんの準決勝。組み合わせにある相手の名前を見て、高城が少し表情を変えた。
「この子か」
「知ってるんですか?」
貴明が聞く。
「知ってる。全国上位によくいる」
相手はストラーフMk.2型。ただしクロスロードのクロエとは別の選手だ。戦績は五十戦を超え、大規模大会での優勝経験もある。
現在のすずらんより、明確に格上だった。
「映像は?」
すずらんが聞く。
「ある」
「見ます?」
貴明は少し考えた。
「いや」
自分で答えてから、少しだけ意外に思う。
「見ないんですか?」
すみれも驚いた。
「今から一試合見てどうにかなる相手じゃない」
すずらんが貴明を見る。
「じゃあ?」
「今まで通り」
「それだけ?」
「それだけ」
少し間を置く。
「見る。ジャブ置く。相手に時間全部渡さない」
「……分かりました」
「あと」
貴明は端末で肩、脚、腰の蓄積負荷を確かめた。すべてまだ許容範囲にあるが、一日でこなした試合数を考えれば、疲労は確実に溜まっている。競技役員の再検査でも出場が認められており、封印状態にも問題はなかった。それでも、無理をさせていい理由にはならない。
「無理しない」
「準決勝ですよ」
「準決勝でも」
「……はい」
「安全停止より先に俺が止めることもあるから」
すずらんは一瞬だけ不満そうな顔をした。
「分かってます」
開始から十秒。
それだけで違いが分かった。
「速い」
コハクが呟く。
「うん」
速いだけではない。
判断が早い。
すずらんがジャブを置く。
相手はガード。
そのまま踏み込んで右。
すずらんが外す。
そこへ左ボディ。
避け切れない。
「っ」
すずらんが下がる。
相手は追わない。
一度止まった。
すずらんが見る。
その瞬間。
また来る。
「クロエより――」
貴明が言いかける。
「違いますね」
コハクが続けた。
クロエは圧力をかけ続け、相手から考える時間を奪う。だが、この選手はすずらんの狙いを見て、その一歩前に拳を置いてくる。似たモデルでも、戦い方は違っていた。
一ラウンドが終わり、すずらんがコーナーへ戻ってきた。
「どう?」
「嫌です」
珍しく即答だった。
「何しても一つ早いです」
「俺もそう見える」
「どうします?」
貴明には気になることがいくつもあった。ジャブ、右、ボディ、踏み込み、こちらの動きを見るタイミング。全部説明することもできる。けれど、今必要なのは一つだけだった。
「勝とうとしすぎなくていい」
すずらんが目を上げる。
「……どういう意味です?」
「一発で流れ変えようとしない」
「はい」
「まずジャブ一個当てるところから」
少し間を置く。
「それでいい」
すずらんが頷いた。
「分かりました」
二ラウンド目。
すずらんは変えた。
大きなカウンターを狙わない。
一発。
ジャブ。
外れる。
もう一発。
当たる。
相手が右。
ガード。
離れる。
またジャブ。
一つ。
一つ。
小さく積む。
相手の攻撃ももらう。
それでも、一ラウンド目よりはいい。
中盤。
相手が右。
すずらんが外へ。
左ジャブ。
クリーン。
「いい!」
貴明が思わず声を上げた。
すずらんが続ける。
右。
相手がガード。
左ボディ。
入る。
初めて、明確にすずらんが流れを取った。
数秒だけ。
それでも、確かに取った。
だが相手もすぐに戻す。
ジャブ。
踏み込み。
右。
すずらんのガードを叩く。
そこからボディ。
また距離を取らされる。
「強いな」
貴明は小さく言った。
三ラウンド目。
すずらんにも疲労が見え始めた。踏み込みが少し浅くなり、左肩の温度は上昇、脚部出力も開始時より落ちている。相手にも疲れは見えるが、それでも差は縮まり切らなかった。
「残り三十!」
場内表示。
すずらんが前へ出る。
ジャブ。
相手が外す。
右。
ガード。
すずらんは左へ。
ボディ。
入る。
もう一発。
その前に、相手の右。
先に当たった。
すずらんの姿勢が崩れる。
「すずらん!」
「大丈夫です」
即答。
貴明は端末を確認する。姿勢制御に異常はなく、状態表示も安全域だった。続行はできる。
残り十秒。
すずらんがもう一度入る。
ジャブ。
右。
相手も返す。
拳が交差する。
「そこまで!」
終了。
すずらんが構えを解いた。
その場で一度、小さく息を吐く。
『判定、三対〇』
結果は明確だった。相手選手の名前が呼ばれる。すずらんはしばらく前を向いていた。
それから相手へ向き直る。
「ありがとうございました」
グローブを合わせる。
「また」
相手が言った。
「はい」
短い返事だった。リングを降りると、貴明が待っている。
「お疲れ」
「……はい」
「状態見るぞ」
「大丈夫です」
「先に見る」
「はい」
貴明は端末とすずらん本人の状態を順に確認した。左肩の負荷は高く、脚部にも疲労が溜まっているが、損傷はなく、姿勢制御とセンサーにも異常はない。
「無損傷。疲労だけ」
「そうですか」
「今日はもう終わり」
「分かってます」
すずらんは少し俯いた。悔しいのだろう。貴明には分かる。
たぶん、頭の中ではもう試合をやり直している。どこで遅れたのか。どこなら返せたのか。
何を変えればよかったのか。自分も同じことをするから、よく分かった。
「すずらん」
「はい」
「今日は映像見ないぞ」
顔が上がった。
「……まだ何も言ってませんけど」
「見る顔してる」
「そんな顔あります?」
「ある」
「マスターもする顔ですよ」
「俺はいいんだよ」
「よくないと思います」
横からすみれが言った。
「私もそう思います」
「今は俺の話じゃない」
「逃げましたね」
それでも、すずらんの表情が少しだけ緩んだ。
◇
春季オープンの結果は、すずらんがベスト4、すみれがベスト8となった。
クロスロードへ移ってから最初の公式大会としては、十分すぎる結果だった。それでも三人には、勝った試合にも直したいところが残っている。
負けた試合ならなおさらだ。貴明は、そうやって次の課題を考えられること自体は悪くないと思った。
すべての試合を終えた後、公式スタッフが二人のグローブの封印を確認した。問題がないと認められ、解除の許可が下りる。
三人はクロスロードの待機区画へ戻った。封印を外せる状態になって、ようやく貴明が二人のグローブを外す番だった。
「座って」
貴明が言う。最初はすみれ。
「自分で外せますよ?」
「知ってる」
「スタッフさんでも」
「知ってるって」
貴明はすみれの左手を取り、封印済みのテープを端から丁寧に剥がしていった。一周、二周と外して手首の固定を解き、グローブを外す。
「痛いところは?」
「ないです」
「手首?」
「大丈夫」
「肘」
「平気です」
右も同じように外す。
「お疲れ」
「はい」
すみれは素手になった両手を何度か開いて閉じた。
「負けましたけど」
「うん」
「楽しかったです」
「ならいい」
「次は勝ちたいですけど」
「それも知ってる」
すみれが笑った。
次はすずらん。貴明の前へ座る。
「左から」
「はい」
貴明はすみれの時より時間をかけてテープを剥がした。今日の試合数が多く、左肩にも負荷が残っている。手首周りにも異常がないか、確かめながら外していく。
「痛くない?」
「重いだけです」
「帰ったらクレイドル直行」
「夕飯は?」
「その後」
「映像は?」
「明日」
「……はい」
少し不満そうだった。左のグローブを外す。続いて右。
最後のテープが外れると、すずらんが両手を開いた。
「お疲れ」
「はい」
数秒、黙る。
「マスター」
「何?」
「ベスト4でした」
「うん」
「前より上です」
「うん」
「でも」
「負けた」
「はい」
貴明は外したグローブをケースへしまった。
「じゃあ次は、その先だな」
すずらんがこちらを見る。
「簡単に言いますね」
「難しいって言ったら勝てる?」
「勝てません」
「なら同じだろ」
少し間があった。
「……そうですね」
「篠原君」
高城がやってきた。
「はい」
「二人とも、よくやった」
「ありがとうございます」
高城はまず、すずらんを見る。
「すずらん」
「はい」
「今日の準決勝」
すずらんが少し身構えた。
「明日までは考えるな」
「高城さんまで」
「明日になったら、いくらでも考えろ」
「……分かりました」
「すみれも」
「はい」
「三ラウンド目の修正、良かったぞ」
「でも遅かったです」
「それが分かったなら、次はもっと早く直せる」
「はい」
最後に、高城は貴明を見る。
「お前も」
「俺?」
「前よりセコンドらしくなってた」
「前っていつですか」
「ジム来た頃」
「試合見てないでしょう」
「普段見てれば分かる」
「そういうものですか」
「そういうもんだ」
高城は笑った。貴明にはまだ、セコンドとして何が正解なのか分からない。それでも、気づいたことを全部伝えようとしなくなったのは確かだ。少なくとも、その変化は自分でも感じていた。
◇
帰りの電車では、二人ともケースには入らず、神姫用乗車スペースに並んで座っていた。さすがに疲れているらしく、普段より動きが少なかった。
すみれは背もたれへ身体を預け、すずらんは窓の外を眺めている。貴明はその近くに立っていた。
「今日、飛んで帰るって言ったら止めます?」
すみれが聞いた。
「当たり前」
「冗談です」
「今のお前ら飛んだら、高城さんに怒られるぞ」
「コハクさんにも」
「俺にも」
すずらんが窓を見たまま言った。
「三人ですね」
「だから?」
「多いなと思って」
すみれが笑う。
「前はマスターだけでしたからね」
すずらんが少しだけ振り返った。貴明はすぐには答えなかった。地元にいた頃は、基本的に三人で練習し、映像を見て、必要な時だけ外のジムを利用していた。
それでも二人は強くなった。けれど、クロスロードに来てからは違う。コハクや高城、蓮に加え、クロエ、美咲、ハルもいる。
指導してくれる人も、練習に付き合ってくれる相手もいる。
自分たちでは気づけないところを見つけ、やりすぎた時には止めてくれる。そんな相手が増えた。
「悪くないだろ」
貴明が言った。
「何がです?」
「三人くらいに怒られるのも」
「マスターはもっと怒られた方がいいと思います」
すみれが即答する。
「同感です」
すずらんも続いた。
「何で俺の話になるんだよ」
二人が笑った。
◇
帰宅すると、貴明はまずすずらんとすみれをクレイドルへ入れ、状態を確認した。
損傷はないが蓄積疲労は残っており、明日は完全休養だ。
診断結果を最後まで確認した貴明は、デスクトップPCの電源へ手を伸ばした。
「マスター」
すみれの声。手が止まる。
「……試合映像じゃない」
「何するんです?」
「今日のファイルコピーだけ」
「本当に?」
「本当に」
今度はすずらん。
「コピーしたら?」
「消す」
「PCを?」
「落とすって意味」
「確認しますよ」
「信用ないな」
「今日のマスターにはありません」
「何で」
「私達に休めって言ったので」
貴明は少し考えた。自分だけ例外というのも、たしかにおかしい。
「……分かった」
PCを起動し、大会端末から今日の映像とログをコピーする。保存先のフォルダ名は、
『春季オープン』
その下に、
『すずらん』
『すみれ』
二つのフォルダを作った。ファイル転送が完了すると、貴明は一度だけフォルダを開きかけ、そこで手を止めた。
そのままフォルダを閉じ、PCをシャットダウンする。
「消しました?」
「落とした」
「よろしいです」
すみれが満足そうに言う。すずらんも目を閉じた。
「おやすみなさい、マスター」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
部屋が静かになった。すずらんのベスト4と、すみれのベスト8。
数字だけを見ればそれが今日の結果だ。だが、その数字に至るまでには地元を離れ、新しいジムへ通い始めてからの時間があった。
今までとは違う相手と練習し、違う教え方を受けてきた。
すずらんとすみれは少しずつ戦い方を変え、貴明もリングの外から何をすべきか学び始めた。その積み重ねが、クロスロードへ移って初めての公式大会の結果として残った。
同時に、まだ上がいることもはっきり分かった。貴明は電源の落ちたモニターを見る。
明日は休む。映像を見るのは、その次でいい。今は、今日戦った二人を休ませる。
自分も休む。競技を続けるためには、それも必要なのだと貴明は思った。